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『僕の野球人生』第16回 須川隼学生コーチ

『僕の野球人生』第16回

須川 隼 学生コーチ(4年/富山)

須川(加工済)

10メートル先から飛んでくる緩いボールを打ち返すと、ボテボテのゴロが転がり、父の横を抜けて行く。父は駆け出した少年の様子を伺いながらボールをゆっくりと追いかける。ボールを拾う前にダイヤモンドを一周すると、ランニングホームランとなり、1点入る。そのささやかな喜びは少年の小さな心を満たすには十分で、調子に乗った少年は野球に対して甘い憧れを抱いた。

小学2年生になって入団した新庄ジャイアンツは、その名の通りジャイアンツのユニフォームをまとった常勝チームで、勝ちにこだわる方針だったため、ボテボテのゴロしか打てない少年が試合に出るには工夫が必要だった。ランナーなしは四球狙い、ランナー1塁は送りバント、ランナー2塁はセーフティバント、ランナー3塁はスクイズといった具合である。当初の甘い憧れはどこかに行ってしまって、チームとして勝つ喜びだけが少年をねぎらってくれた。

中学生になると、先輩の誘いもあって硬式のクラブチーム、富山ヤングに入った。そこでの野球は非常に自由で、サインすらなかった。のびのびやれたことに加えて、体が大きくなってできるプレーが増えたこともあり、ヤングでの野球は本当に楽しかった。この時期がなかったらとっくに野球をやめていたのではないかと思うほどである。また県内複数の中学校から集まってきた人と交流できたことも大きかった。その中には、富山高校に一緒に行こうと誘ってくれた友人もいて、いろいろな意味で人生を大きく変えた時期であった。

高校では、硬式に慣れていたアドバンテージもあって、早い時期から継続的に練習試合に出してもらえた。けれどその機会を生かすことはできなかった。チャンスの場面では、力んでしまってバットが出てこなくなり凡退するのが常だった。1年夏、2年夏は、20〜22人のメンバー候補には入ったものの夏の大会のメンバー18人の中に僕の名前はなかった。県営球場まで応援にきてくれた同級生と応援席で顔を合わせるのが恥ずかしくて仕方なかったことを覚えている。このままでは終われないと迎えた3年夏は、代打要員としてベンチ入りすることができた。1回戦、2回戦とチームは勝ち進んだものの、僕はずっとベンチにいただけだった。3回戦、2点ビハインドの8回に僕の最初で最後の出番が回ってきた。高鳴る鼓動を感じながら打席に入ったのも束の間、あっけなくサードゴロに打ち取られてしまい、チームもそのまま負けてしまった。僕の野球人生もこれで終わりだと思った。ただ、緊張感のある場面で打席に立った時のなんとも言えない感覚だけが心の隅に留まっていた。

夏の大会を経て微かに残る野球への未練は、野球から離れて受験勉強をしているうちにどんどん肥大化して、「東大に入ってもう一度競技野球をする」という目標に姿を変えた。その目標のために1年余分に受験生をすることになる。

実家には、祖父が建てた手作りの車庫がある。野球を本格的にやり始めてから、この車庫はどんどん進化していった。いつでもティーができるようにネットが張り巡らされ、いつでもトレーニングができるように木製の懸垂棒が取り付けられた。床にはペンキでバッターボックスが描いてあって、その左打席に入って素振りをするのが浪人期の気分転換だった。

集中力の切れた僕は、暖房の効いた勉強部屋から出て、バットを片手に車庫へ向かう。

富山の冬は寒い。玄関を出た途端、凍てつく空気が火照った体を急激に冷やし、吹く風が体に染み入ってくる。簡単な体操を済ませてから、BGMをかける。

「東大 不死鳥の如く」

スマートフォンから流れてくる応援歌は、神宮の熱気を運んできて、オイルヒーターのように周りの空間をじわじわと温める。受験に対する不安が溶け始める。

目をつぶって、脳内で応援歌を書き換える。

「かっせ、かっせ、すがわ、かっせ、かっせ、すがわ」

リーグ戦、チャンスで打席が回ってきた僕は応援歌を背に受けながらピッチャーと対峙する。妄想を完成させてから、スイングを始める。心地よくバットを振っているとどんどん不安が溶けていく。希望と熱気で溶けていく。溶け切ってから勉強部屋に戻る。

長い冬が終わって、春になった。

幸運にも東大入試を突破した僕は妄想を現実にできるチャンスを得た。

自分が下手であることは十分に承知しているつもりだったが、東大野球部に入って先輩や同期を見渡したとき、想像以上に神宮の舞台は遠いなと感じた。漫然と練習しているだけでは、その舞台には到達できないと悟った。そこで、バッテイングだけには拘って、代打で戦力になることを4年間の目標に定めた。下級生の頃は、入部当時に感じた距離が狭まるどころか、どんどん広がっているようにさえ感じるほど、自分が取り組んでいることに手ごたえがなかった。ようやく手ごたえらしきものをつかんだのは、3年の春で、その頃数試合だけA戦にも出場させてもらった。でも高校時代と一緒で、結局最終的なベンチ入りメンバーには残れなかった。その後は新しく入ってきた1年生が台頭してきたこともあり、練習試合に出ることも少なくなった。やる気が消えかけていた僕は投げやりに「もう学生コーチになろうかな」と田中(学生コーチ/4年)にこぼしたことがある。そのばかみたいな愚痴に対して、「少しでもチャンスがあって、それを活かそうという気持ちがあるうちは自分から選手をやめるべきではない」と真摯な返事をくれた。田中の一言で再び選手として頑張る気持ちを取り戻すことができた僕だったが、約10ヶ月後には、学生コーチになることを決断することになる。

学生コーチになると決めた夜、両親に電話をかけた。

「選手をやめることにした、今までありがとう」

たったこれだけの文を読み上げる間に涙が溢れ出てきて、電話を切った後も涙は止まらなかった。翌朝、目がさめると心が軽くなっていることに気がついた。ああ、僕の選手としての野球人生は終わったのだ、あとは淡々と学生コーチの仕事をこなすだけだ。その日々には、今までのような心の動きはないだろう。

野球で味わった悔しさも不安ももどかしさも嬉しさも全部、耽美な記憶として消化してしまったから、これからはそれらの感情を生々しく感じることはないと思っていた。

立教2回戦の後、東大球場の4年部屋に行くまでは。

早川(内野手/4年)に「今から前ティーがしたい、トスをあげてくれ」と頼まれたので球場に行くと、4年部屋には早川の他にも数人同期がいました。みんな悔しさが滲み出た顔をしていました。どうプレーすべきだったのか、どうすれば勝てるのかについて意見をぶつけ合っていました。

正直に言うと、僕はその話に入り込んで行くことができませんでした。みんなが発する言葉の質量に僕は耐えきれず押しつぶされそうになり、僕がかろうじて発した言葉は部屋の中を漂うだけで、誰の耳にも届いていないように感じてしまいました。

そうなって初めて、悔しさがわからない悔しさに気づかされました。

確かに、野球人生の中でたくさん悔しい思いをしました。けれど、応援歌が鳴り響く神宮で、球場中の人々の目線を浴びながら、打席に立って、三振してしまう、みたいなことに対する悔しさは全くわからないままでした。またそれが惜しいことであるとようやく気がつきました。野球に関する感情は全て処理したつもりでいたのに、今更どうしようもない悔しさが湧き上がってきました。

ただ、幸せなことが一つあります。それは今現在、僕の周りには悔しさがわかる人、そして悔しさを乗り越えんとする人がたくさんいるということです。残された時間は短いですが、その人たちの挑戦を最後までサポートしたいと思います。

ここまで読んでくださった方、冗長な駄文におつきあいいただきありがとうございました。
最後になりますが、両親をはじめ、僕の野球人生を支えてくれた方々、本当にありがとうございました。

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次回は10/25(日)、田中学生コーチを予定しております。

お楽しみに!