『僕の野球人生』第20回 岡俊希副将
『僕の野球人生』第20回
“野球の神様って存在するのだろうか”。
野球に携わってきた人なら一度は考えたことがあるのではないでしょうか。神様は、僕や僕たちの思いの丈を汲み取って、微笑みかけてくれることがあるとかないとか。そんな気まぐれな神様ですが、僕は存在すると信じています。
幼少期に公園で父さんや母さんとキャッチボールをしたのが一番昔の野球の思い出であり、僕の野球人生のスタートです。小学生のころも、友達と放課後に野球をしたりサッカーをしたりして遊んでいましたが、もっぱら僕が熱中したのは空手でした。そんな空手も、道場は小学部までしかなく、卒業と同時にやめることになりました。
“野球でもいいな、サッカーでもいいな”中学生になってからそんな風に考えていた僕に、「俺と野球しようぜ。お前は絶対野球をやった方がいい。」と言ってくれたクラスメイトがいました。彼にとっては些細な会話の一部だったのかもしれませんが、僕の心を揺さぶるには十分すぎる言葉でした。こうして野球部に入った僕でしたが、中学3年間は小学校のころから野球をやってきたうまいやつらとの差を埋めるため、それだけの時間だったように思います。それだけと言いつつも、努力すればするほどうまくなっていく感覚とその喜びを知ることができた期間でもありました。
高校では、岡野(慶應義塾大学/R2卒)らレベルの高い同期がそろっていて、チームとして勝つことの面白さを味わうことができました。また、2年生の頃に牧村監督に東大野球部を勧められ、初めて東大野球部の存在を認識しました。最後の夏の大会で準決勝まで勝ち進んだ時には、もしかしたら甲子園に行けるかもなんて思いましたが、惜しくも九国大付に敗れてしまいました。甲子園目前で負けたことが非常に悔しく、この頃から甲子園で活躍するような野球エリートにリベンジするための舞台として、東京六大学ほど素晴らしいものはないと考えるようになりました。また、東大野球部に入ったら高校史上初だということも僕にとって重要なモチベーションになりました。
野球漬けの高校生活を送っていたため現役で受かるはずもなく、一浪の末東大野球部に入ることになりました。当時の4年生の代には楠田さんや宮台さん、山田さん、田口さん(H30卒)など錚々たるプレイヤーがいて、やっていけるか不安だというよりかは、この環境で野球ができることにワクワクしていました。そして、だれよりも早くリーグ戦で戦うんだという想いを胸にがむしゃらに楽しく練習に励みました。その一方で、あの4年生たちの実力をもってしてもリーグ戦で勝てないのかという驚きと不安みたいなものを感じていました。
秋季リーグ戦で初めてのベンチ入りを果たした僕は、野球人生史上一番バッティングの調子が良く、開幕の立教戦で代打として初めて出場することができました。バッターボックスから見る神宮の風景、応援部による迫力ある応援、自分の名前と出身高校のアナウンス、打たなきゃ坊主だという緊迫感、ありとあらゆる刺激は今でも鮮明に覚えています。そして、低めのボールゾーンから浮き上がってくるかのような伸びのある球がアウトローにバチンと決まったときに、僕はこの球を打ちに来たんだ、この球を打って勝利をつかみ取るんだ、と心が高鳴りました。そんな興奮冷めやらぬ中、大きな転機が訪れます。開幕カードで結果を残した僕は、次のカードの慶應戦で先頭バッターの代打を任されることになったのです。蛇足ですが、野球を始めて以来外野しか守ったことのない僕が、神宮のスコアボードに一番ショートとして載ったのは一生の記念です(笑)。そんなことはさておき、そのような起用がどのような意味を持つかはだれの目にも明らかでした。“1回表で先頭ランナーを出すこと”これだけです。そして先頭代打なんて聞いたこともない策に打って出た首脳陣の、連敗の流れを変えたいという思いは僕自身ひしひしと感じていました。シートノックにも入らずベンチ前でひたすらバットを振り続け、迎えた1回表。打席に入るころには不思議と緊張が消え、視界がはっきりしていたのを覚えています。何球粘ったか忘れましたが、最後に捕らえた打球がサードを強襲し(記録はエラーだが納得はしていないです) 一塁セーフになったときは何とも表現しがたい達成感がありました。すぐに代走が送られこれだけの出番でしたが、チームが初回の先制に成功し、最終的に5対2で勝利できたことは最高に嬉しかったです。神宮で勝利することの尊さとそれに自分が貢献できることの喜びを初めて知りました。その後、法政戦で連勝し勝ち点を取ったときの神宮球場の雰囲気や先輩方の感極まった姿を目の当たりにして、一勝以上に一勝ち点というのがどれほどすごいことなのかをいうことを身をもって実感しましたが、当時の僕は馬鹿野郎だったので、自分が出ていない試合で勝ち点を取るなんて惜しいなあとか思ってしまっていました。リーグ戦の全日程が終わると、来年こそは自分が出て勝ち点を取るんだ、そんな意気込みを持って冬練に入りました。
代が変わると、クリーンアップを務めていた先輩方がごっそりと抜けたこともあり、長打力を求めて肉体改造に取り組みました。その結果、体重は7、8キロ増え、打球の飛距離もアップし、クリーンアップとして2年生のリーグ戦を迎えることになりました。初めは主力として試合に出場できることそのものが嬉しく、あまりプレッシャーを感じることなく、のびのびとプレーできていたように思います。肉体改造の成果としてホームランも一本ですが打つことができ、レギュラーとしてシーズンを乗り切ったことに一定の安堵と次シーズンへの期待を抱いた2年春でした。
2年秋は開幕戦で3ランを含む4打点を記録するなど、なかなかに良いスタートを切ることができ、やっとチームに貢献できるようになってきたぞと押せ押せでプレーをしていました。バットも振れていましたし、この調子でやっていけば勝利も見えてくると信じていました。ところが人生はそうもうまくいかないようで、3カード目ごろからボールが見えなくなり、バットも振れなくなり、打席に入ることすらも怖くなっている自分がいました。特に明治2回戦で4三振してしまった日は、応援してくれているチームメイトに到底顔向けできるような状況ではなく、ベンチに戻るのが苦痛で仕方ありませんでした。どうせまた打てないんだろうな、自分は何のために試合に出ているのだろうか、春から我慢して使ってもらっていたのに期待に応えられないどうしようもない野郎だ、そんなことばかりが頭の中を支配するようになっていました。そしてなによりも、自分が出ているせいで試合に出れなかった先輩方への申し訳なさが、自分が出ているせいで試合に勝てなかった申し訳なさが津波のように押し寄せ、最終的には出ても迷惑をかけるだけだから、お願いだからスタメン発表で名前を呼ばないでくれとまで塞ぎこんでしまうようになりました。そんな状態で活躍できるはずもなく、後半は一本もヒットを打つことなく、チームとしても一勝もできませんでした。自分のふがいなさに心底呆れたシーズンになりました。
実力不足は明らかだったので、冬は垣野元打撃コーチ指導の下、ひたすら打撃練習に取り組みました。練習の成果は春のオープン戦などでしっかりと現れており、今度こそチームに貢献できると意気込んで3年春のリーグ戦を迎えました。ところが開幕戦で無安打に終わると、突然去年の秋の記憶がフラッシュバックしてきて、自分が出ていると試合に負けてしまうんだというメンタルに陥ってしまいました。いくら球場で練習して自信をつけても、いざ神宮の打席に入ると委縮してしまう。いつの間にか憧れだった神宮の打席は、開けてはいけないパンドラの箱のようになっていました。そして気づいたころには、また一勝もできずに1年が終わりました。
自分たちの代になってからは、抜きんでた選手がいない中でどうやって勝利を掴むのかをひたすらに考えてきました。コロナに苛まれ十分に練習できない期間もありましたが、形式はどうであれ無事にリーグ戦ができたのは本当に良かったです。開幕戦では慶應をあと一歩まで追い詰め、法政にも競った試合をし、個人としてもチームとしてもいけるぞと思っていました。しかしその矢先、送球時に右肘からブチっと嫌な音が聞こえ力が入らなくなりました。診断は右肘の靱帯断裂でした。家族やチームメイトには気丈に振る舞っていましたが、もう終わったかも、というのが正直な感想でした。ずっとへこんでいてもしょうがないので、それからは午前中練習に出ずに寮でこもって分析をしたり、Bの練習を見てアドバイスをしたりしました。こうして普段の居場所ではなく一歩引いた視点で野球部を見る機会を得たことで改めて気づいたことがあります。それは、分析などリーグ戦でサポートしてくれている部員のありがたさと、リーグ戦に出ている選手は必死に練習している部員を代表して戦っているということ、そしてマネージャーや学生コーチを含め、誰もがチームとして勝つためにできることに懸命に取り組んでいるということです。そんなの当たり前だろうと思われるかもしれませんが、手前味噌かもしれませんが、ここまで愚直で真摯にやれているチームはなかなかないと思います。
今季も残り2試合となってしまいましたが、立教戦で引き分けに持ち込み勝利ポイントをゲットすることはできました。ただ、やはり勝ちでなければ意味がない、勝利に向かって一丸となっている部員みんながみんな報われるには勝ちしかないんだ、というのは疑いようのない事実だと思います。それに神宮での勝利を知らない代を作るわけにもいきません。
ここまで野球人生を振り返ってきましたが、特に大学野球は辛いことがほとんどだったと感じます。それでも今まで野球を続けてきたのは、野球が大好きだったからにほかならないですし、いつかは絶対に勝利を手にするんだという固い信念を持ち続けているからです。
もちろん自分の力だけでここまでの野球人生が送れたわけではありません。多くの人の支えあってこその僕の野球人生です。
野球の技術から人としての在り方までご指導してくださった指導者の方々。
いつもどんなときも熱い応援で僕たちに勇気を与えてくれた応援部のみんな。
何連敗しようとも神宮まで足を運んで応援してくださる方々。
下級生の僕を温かく見守ってくださった先輩方。
頼りなかったかもしれない僕たちについてきてくれた頼もしい後輩たち。
神宮で勝つためにどうしたらよいかを真剣に語り合った最高の同期。
僕の野球人生に関わってくださったすべての方々のおかげで、ここまで野球をやってくることができました。ありがとうございました。
そして、父さん、母さんへ。
父さんは、“現役で行ける大学に行けばいいのに”と思っていたはずですが、野球をするために浪人してまで東大へ行くなんて、普通じゃありえない選択をさせてくれました。野球を始めて以来、父さんがしてくれるアドバイスに耳を傾けることはほとんどなかったような気がしますが、少し素直になったのか、最近はちゃんと参考にしています(笑)。
母さんは、いつも僕の味方で、やりたいことは何でも尊重してくれる存在でした。部活や受験などサポートが大変なことも多々あっただろうけど、どんなときでも僕の背中をやさしく押してくれました。
2人がいなければ、こんな最高の舞台で最高の経験をすることができていたはずもありません。本当にありがとう。
幸いにも僕の右肘は治り、選手として神宮球場に戻ってくることができました。これほど早く完治するなんて奇跡的らしいのですが、ひょっとして、野球の神様が僕に「まだやるべきことが残ってるだろう?」とでも言っているのでしょうか。
そんな野球の神様の投げかけに、僕はこう答えます。
「必ず勝って役目を果たします。」と。
もう神宮の打席は怖くなんかありません。僕には僕にできることをやるだけなので。
最高の同期と頼もしい後輩がいるこのチームで、何としてでも勝利を掴むため、腕がちぎれようと足がもげようと全身全霊で戦い抜きます。
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次回は10/29(木)、玉村主務を予定しております。
お楽しみに!