『僕の野球人生』第21回 玉村直也主務
『僕の野球人生』第21回
「東大野球部はあんなに弱いのにどうして六大学に入ってるの?」
小学3年生にとっては至極真っ当で、とても純粋な疑問だったと思います。そして同様に、きっと世間の多くの人が抱いている疑問かもしれません。
小学3年生になってクラス替えがありました。初めてのクラス替えでした。新しいクラスでは少年野球チームに入っている友達が多く、放課後は野球をして遊ぶことが多くなりました。それまでドッヂボールや紙飛行機で遊んでばかりだった僕は、父親にねだってグローブを買ってもらいました。これが野球との出会いでした。
そしてその秋、父親と母親と初めて神宮球場に六大学の試合を見に来ました。早稲田大学の応援席で紺碧の空の応援を聞いたのを覚えています。自分も一緒に早稲田の応援をしました。相手は東大だったと思います。結果は早稲田の圧勝でした。帰り道、父親にこう尋ねました。「東大野球部はあんなに弱いのにどうして六大学に入ってるの?」曖昧なものばかりな小学生の記憶の中で、なぜかとても鮮明に覚えています。きっと野球の神様は本当にいて、こうやって口に出した瞬間から、引退を控えた今この瞬間までずっと、僕のことを導いてきてくれたのかもしれません。
その後、祖父の影響で阪神ファンになり、小学生の間は毎日のように新聞でプロ野球の結果をチェックしていました。少年野球チームに入ろうかとも思いましたが、なんとなく勇気が出ず結局入らないままでした。
中学校に入学して、念願の野球部に入ることにしました。遊びでしか野球をやったことがない僕は当然のように下手くそでした。同期の人数も多く、途中までは練習に真面目に取り組むこともできませんでした。それでも中学3年生になって、監督やキャプテンのおかげで本気で野球に取り組めました。最後の夏の大会、結局ベンチには入れませんでしたが、ベンチ入りできなかった同期と対戦相手の偵察や分析に熱中したのは良い思い出です。
中学生のうちは高校で野球を続けるつもりはありませんでしたが、中学の最後で本気で野球と向き合えたこともあり、結局高校でも野球部に入りました。高校では練習にも懸命に取り組みましたが、やはり下手くそなままでした。それでも大会ごとに相手チームの分析をすることで、少しでもチームの役に立てているような感覚が好きでした。今思えばみんなからありがとうと言われることがやりがいだったような気がします。野球は高校までで終わりにするつもりでした。高校野球を引退してからは、東大を目指して勉強を始めました。同期のみんなのように東大野球部に入りたくて東大を目指したというようなかっこいい話ではありません。頑張って勉強しましたが現役では不合格となりました。
負けず嫌いな性格なので当然のように浪人を選びました。浪人中、高校同期2人が大学でも野球を続けることを決めました。もう1人の同期も京大野球部を目指して浪人していました。そうした姿を見ているうちに、自分ももう一度本気で野球がしたい、東大野球部に入って勝ちたいと思うようになりました。自分は野球は下手だけれど、マネージャーとしてだったら、なんとかチームに貢献できるのではないかと思っていました。そして運良く合格することができました。
いざ入部すると、当時のマネージャーは主務の黒田さん(H30卒)をはじめ本当に優秀な先輩方ばかりで、自分が数年後こうした先輩方に追いつけるようには到底思えず、不安になりました。それでも自分の名前が入った名刺を頂いたとき、ずっと探し求めていた自分の居場所がついに見つかったような気がして、東大に合格したとき以上の高揚感を覚えました。
そして1年生の秋、法政大学戦で15年ぶりの勝ち点を獲得しました。そこにはまだ何も成し遂げていないのに喜んでいる自分がいました。正直に言えば、この場に居合わせることができて幸運だとさえ思っていました。今、あの時の自分がとてつもなく恥ずかしくて、そして本当に嫌いです。心のどこかで、残りの4年間のうちにきっとまた何回かは勝てるんだろうと思っている自分もいました。考えが甘すぎるにもほどがありました。
4年生の先輩方が引退し冬になりました。新入生向けのリーフレットを作り直すことになり、自分は喜入さん(H29卒)に原稿を依頼しました。「人生の礎になる学生生活の集大成を東大野球部で送ってみませんか。私は生まれ変わっても、ここで野球をしたいと心から思っています。」と締めくくられる素晴らしい原稿でした。東大野球部はやはり最高の環境で、自分も引退するときにはきっとこういう気持ちになれるのだろうと思いました。
しかしそんな淡い期待とは裏腹に、2年生はとにかく辛い日々でした。仕事もそれなりに任せてもらえるようになりましたが、ミスが多く中川さん(H31卒)や柳田さん(R2卒)にはたくさんご迷惑をおかけしました。選手として周りと同じ練習をやりながら分析を頑張った高校時代とは異なり、自分が仕事をしていても特別感謝されることが無いように感じました。そして、自分の要領の悪さや未熟さから目を背け、「マネージャーの仕事は、できないと困らせたり怒られることもあるけれど、できても別に褒められることはない。できて当たり前のことだから」という言葉を恨みました。それと同時に、もし自分が入部しなければ、もっとマネージャーに向いている他の誰かが選手からマネージャーに選ばれて、より円滑に仕事をこなしてくれていたのではないかとも思いました。本当に苦しい日々でした。
生まれ変わっても東大野球部のマネージャーをやりたいとは到底思えませんでした。
そんな自分に仕事のやり方を一から教えてくださったのは浜田前監督でした。何よりも教えていただいたのは「愛」を持って仕事をすることの大切さでした。相手のことを思いやって仕事をする、たったこれだけのことのように思えますが、見える世界が180度変わりました。
そしてようやく、自分がどうして東大野球部にマネージャーとして入部したのか思い出すことができました。自分は東大野球部の一員として勝ちたいから入部したのです。誰かに感謝されたり、褒められたりしたくてマネージャーをしているわけではない。チームのため、選手のために仕事をしているようで、結局は自分のために仕事をしているのです。
昨年の10月末に最上級生、そして主務になってからは本当に怒涛の日々でした。入部以来初めての監督交代を経て、井手監督、大久保助監督の新体制となりました。浜田前監督、中西前助監督、1つ上の先輩方がチームを去り、部の中でチームのことを1番わかっているのは自分だという自負を持って仕事に取り組んできました。春の沖縄合宿、福岡・鹿児島合宿から春季オープン戦へ、自分が組んだスケジュールをもとにチームが動いていく、大きな組織を動かす楽しさを味わえた瞬間でもありました。そしてオープン戦では良い雰囲気の中、例年以上に勝利を掴むことができ、皆それなりに手応えを感じていたのではないかと思います。しかしその日は突然訪れました。3月26日、新型コロナウイルスの影響で大学から活動停止を言い渡されました。
井手監督は部員の意見を本当に尊重してくださいます。コロナ禍での対応も、部長や監督と相談しながら、幹部の4年生で何度も何度も話し合いました。未曾有の事態に自分たちが下した決断は本当に正しいのか、不安になる日々でした。自分たちの決断にチーム内で不満が出ることもありました。それでも前を向くしかありませんでした。100人を超える組織を束ねることの難しさを身をもって実感した期間でした。
たくさんの方々のご協力があり、他大学からはかなり遅れましたが7月20日にようやく活動再開となり、8月に行われた春季リーグ戦にもなんとか間に合うことができました。
しかし春季リーグ戦で5戦全敗、秋季リーグ戦はここまで7敗1分と勝利を掴むことができていません。2017年秋からの連敗は54まで伸びました。
「あれだけ連敗してどんな気持ちなんだろう」とか、「勉強の片手間に野球してるだけだから特に悔しいなんて思っているはずもない」だとか色々なことを言われます。偉そうに言うことでもないですが、毎回毎回、ちゃんと本気で悔しいです。負け慣れてなんていないです。とにかく勝ちたい。ただひたすらにそう思います。この気持ちをあえて表現するのであれば、罪を犯してでも、人を殺めてでも勝ちたい。実際にそんなことはあり得ないですが、それでもこんな表現をしないと書き表せないぐらいの感情です。
東大野球部が六大学野球に在籍している理由。
六大学野球の伝統であったり、歴史的な意義であったり、学問的な役割であったり、高尚な理由が謳われます。でもどれも自分にとっては的外れな気がするのです。僕がこの4年間の大学野球人生で、自分なりに導き出した答えは、自分たちのため。それ以上でもそれ以下でもないと思います。他の誰でもない自分たち東大野球部員自身のために、東大野球部は六大学野球という過酷な舞台で闘っているのです。でもそれには結果を出すしかありません。他大学相手に勝利して、勝ち点を取って、順位争いをして、優勝して、そうしてやっと認めてもらう以外に道はないのです。
繰り返しになりますが、自分は東大野球部で勝つためにマネージャーとして入部しました。東大野球部の一員として勝つこと、これが今自分が生きる中で最大で、そして唯一の目指すべきところです。だからマネージャーをするということは、果たすべき使命のための手段でしかないのです。マネージャーをしていると、ありがたいことに多くの方からお褒めの言葉をいただきます。「チームのために偉いね」であったり、「自己犠牲の精神が素晴らしい」であったり、「社会に出て役に立つよ」であったり、様々です。褒めていただけることは本当に嬉しいのですが、でも自分の場合、実はどれも違うのです。自分は東大野球部の一員として、ただただ勝ちたいだけなのです。それが偶然マネージャーという1つのポジションであったに過ぎません。
それでもこのマネージャーという役割をやらせていただけたからこそ見えた、素晴らしい景色がいくつもありました。神宮球場でたった2時間半のリーグ戦をするのに、どれだけたくさんの人が関わり、時間と労力をかけて準備しているのか、どれだけたくさんの人が応援し、自分たちのプレーに一喜一憂しているのか。そして選手たちは、どれだけたくさんの練習を積み重ね、どれだけたくさんの想いを背負いながらプレーしているのか。リーグ戦という華やかな舞台に限らず、東大球場での日々の練習も、他大学とのオープン戦も、一誠寮での生活も、その全てはたくさんの方の支えや想いがあってこそ成り立っています。マネージャーという役割を通して、高校生の頃の自分には到底思いもよらないほど、とてつもなく大きく広がる世界を知ることができました。
ここまで支えてくださった全ての方々に感謝の気持ちを伝えさせてください。この思いは直接伝えたいのでこの場では一言だけ。本当に本当に本当にありがとうございました。
野球の楽しさ、厳しさを教えてくださった中高大全ての指導者の方々。励ましの言葉をくれる中高野球部や同級生のみんな。心強い支援をしてくださるOBの皆さま。いつも声援を送ってくださるファンの皆さま。どんな時も最強の味方でいてくれる応援部のみんな。たくさんご迷惑をおかけした先輩方。こんな自分にもついてきてくれる後輩たち。大好きな六大学のマネージャーのみんな。そして最後に、いつも支えてくれた両親に向けて。ここに書いた以外にも本当にたくさんの方々のお世話になりました。引退したら一人一人に感謝の気持ちを直接伝えさせてください。
それから野球の神様がこの文章を読んでいるのであれば。あの時の小学3年生は自分なりに答えを見つけ出しました。そして今は、何度生まれ変わってでも東大野球部のマネージャーをやりたいと心から言い切れます。最終カード、少しだけ力を貸してください。
最後に同期のみんなへ。みんながここまでどれだけ努力してきたか、僕は誰よりも知っています。打たれた試合の後にブルペンで投げ込む姿も、暗くなるまで東大球場でバッティング練習をする姿も、午後の自主練の時間にひたすらノックを受ける姿も、朝全体練習が始まる前にバント練習をする姿も、夜遅くにジムに出かけていく姿も、冬のきついランメに取り組む姿も、毎晩欠かさずストレッチをする姿も、絶望と思われた怪我から復帰して再びスタメンに返り咲く姿も、大雨の中の試合から戻ってすぐにティーを始める姿も、寮のロビーで対戦相手の動画を食い入るように見つめる姿も、自主練習の送迎のために慣れない運転に取り組む姿も、選手起用を監督と一緒に考える姿も、同期の選手にひたすらトスを上げる姿も、ボールボーイをしながらベンチと一緒に大声で喜ぶ姿も、分析資料をまとめる姿も、帳簿の金額を合わせるために必死に原因を探す姿も、どれもこれも全部全部近くで見てきました。
これだけやり切ったからこそ、僕は最後に何が何でも結果を残したい。みんなのこの努力を、負けたときの慰めや逃げ道なんかにしたくない。
だから最終カード、絶対に勝とう。他でもない自分たちのために。
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次回は10/30(金)、笠原主将を予定しております。
お楽しみに!