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『僕の野球人生』第3回 小宗創投手

『僕の野球人生』第3回

小宗 創 投手(4年/私立武蔵)

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「後悔残すな、思い出残せ。」
一時期コーチをやってくださった松岡弘さんの言葉である。今の自分の野球観、ひいては人生観となっている。
思い返せば自分の野球人生は東大野球部と共にあった。時系列順に紐解いていくこととしよう。

小学校:元々関西に住んでいてその時はサッカークラブに所属していた。小学校4年生の時に横浜に引っ越してきて、野球を始めることとなった。
そこで入団したのが横浜キッズという少年野球チームである。日曜の朝7時から9時半ぐらいまでという練習時間であり、公式戦もウインターリーグと呼ばれる冬に行われる数試合だけであった。しかしこの環境が自分にとっては適していたのであろう。試合に出る喜びや、勝利した時の嬉しさというものを子供心ながら感じていた。
ついに出会ったのが今もチームメイトである、田中啓資(投手/4年)である。6年生の頭に他のチームからやってきた啓資は、とてもいいピッチャーでいきなりエースとなるのである。先発が啓資、抑えが自分という試合もあり、同じ中学受験組ということもあり、自然と仲良くなっていった。小学校卒業の時期にまた東大野球部で会おうという約束をした覚えがある。

中学校:下級生の頃からまあまあ試合には出ていたが、結果は残せず 同期は最初は16人

高校:なぜか高校野球部に参加した時には同期が6人にまで減っていた。
自分の高校は監督やコーチを基本的に学生や社会人のOBが務めるという流れがあり、1年生の時のコーチ、2年生の時の監督、3年生の時の助監督が東大野球部出身の方であった。このようなこともあり、東大に入り、野球部に入部するということを意識し始めたのである。
2年生の夏大会で西東京大会ベスト16にまで勝ち進み、来年こそは神宮でプレーするという目標を建てた。(当時東京都は大体ベスト8にまで進めば神宮が会場となるものであった。)
自分の代の助監督に就任した芦田さん(H27卒)に野球というものそしてピッチャーというものについて教えてもらった。自分の恩師は本当に芦田さんである。芦田さんに連れていかれた、2016年の社会人対抗戦や、勧められて参加した高校生練習会。芦田さんには東大野球部も刷り込まれていたのかもしれない。
しかし東大野球部を本当の意味で目指すきっかけとなったのは、3年生の最後の夏大会で初戦コールド負けを喫したことである。5月頃に肩を痛め満足に投げられない中で迎えた試合で惨敗となり「これで野球をやりきったと言えるのか」と思ったことは鮮明に憶えている。
そんな中で目指すことにした東京大学。現役では届かず、浪人を決めた時に、更に東大野球部に入らなければいけない理由が出来た。というのも中高6年間野球を共にしてきた菅沼が応援部に入ったのである。また吹奏楽部として、応援してくれていた井上も同じく応援部に入り、2人から『野球部に入った小宗を応援するのを楽しみにしている』という言葉を掛けられ、これは頑張らなくてはと発奮したのと同時に、大学入っても野球継続を強制された瞬間であった。

浪人時:東大に入るのは野球部に入るためと考えていた自分にとって当時の東大野球部(2017年秋)の躍進はとても興奮した。また前年の高校生練習会でキャッチボールをした者と予備校で再会し、近くのバッティングセンターに通ったりするなど気力は十分であった。ちなみに馬場(内野手/4年)と森末(内野手/4年)も同じ予備校であったが、一度も話したことは無かった。馬場に至っては前後の席であったのにである。

大学:神宮に立つという目標を叶えるために入部し、割と早い方でその目標自体は達成することが出来た。啓資とも無事再開。高校からの怪我が残りつつも、1年生の秋の最終カード、法政戦で投げたことは今でも覚えている。
本当に自分が神宮のマウンドに立っているのかというふわふわとした地に足がつかないような中で当時の最強打線であった法政大学相手に投げて、なんとか最少失点で切り抜けることが出来たのはいい思い出である。旧青ユニで投げられたのも嬉しかった。ここから自分の東大野球部での明るい未来が始まるのだと当時は思っていた。

しかしもちろんそんなに現実は甘くなかった。おそらくいつまでもネタにされることであろう2年春の先発。怪我をしていてオープン戦で一度も投げないまま早稲田戦での先発。また輝かしいリーグ戦記録を作る主な要因となった慶應戦での登板。当然結果がついてくることはなく、春のリーグ戦を終えることとなる。あ、カナダ遠征はとても楽しかったです。

この時に臨時コーチ出来てくださっていた松岡弘さんに冒頭の言葉をかけてもらった。これによって、迷うぐらいならとりあえずやってみるという精神が自分の中に根付いた。
また松岡さんにサイドにしてみたら?とアドバイスをもらい、それ以来自分が本来目指していたチェン・ウェイン(現阪神タイガース)のような本格派ではなく、宮西(現北海道日本ハムファイターズ)や高梨(早稲田大学/H27卒/現読売巨人軍)といった変則左腕へと変貌を遂げた。といっても何か特別なことをしたわけではなくもともと適性があったようで、ただ横から投げただけである。

実は投げていて一番苦しかったのが3年生の時である。秋のリーグ戦の途中から相手とではなく自分との戦いになっていた。全力で腕を振れないが試合で投げなければならない、自分のせいで負けたと感じる試合がいくつもあり、試合が終わったあと、自室に戻ってきて涙を流したこともあった。

結局勝つことはできずに、1つ上の代を送り出すこととなってしまい、本当に悲しかった。そしてこの時チームは56連敗を喫していたのである。自分が見ていた2017年以来一度も勝っていないという中で、本当に自分たちの代で連敗を止めることが出来るのかという不安もありながら翌年を迎えることとなった。

コロナとかなんやかんやで一瞬ですぎていったオフシーズン。春のオープン戦で割と順調に調整を重ねていたが最後のオープン戦で絶望的なこととなる。先発をしたのだが、1イニングも投げ切ることが出来ずに5連続死球を与えて降板したのである。
今となっては笑い話だが、当時は本当にもう野球をやめようかと思ったし、もう引退かとも考えていた。その2週間後の早稲田戦で自己ベストのピッチングをするという、神様もよくわからないさいころの振り方をするものだ。

結局春の最終戦で勝つことが出来てチームとしては本当に良かった。しかし1プレーヤーとしては本当に悔しかった。ベンチに入っていながらただ応援することしかできない最終戦。ブルペン小屋のベンチに腰掛けてどれだけ悔しかったか、柳川(投手/4年)も一緒の気持ちだったのではないかと勝手に推測している。

1年生から同じクラスで同時期に試合に出始めた奥野(投手/4年)が勝利投手となり、ほんとうに格好良かったし羨ましかった。秋こそは絶対に勝利投手になってやると誓った。

そして迎える秋のリーグ戦。この文章が世に出る頃には初戦の慶應戦は終わっているのだろう。結果がどうなるかはわからないが、各人が自分の役割を果たせば勝てるはずだ。秋は1勝では足りない。各大学から1勝ずつ挙げてやる。そして通算防御率を1桁前半に乗せてやる。

とまあここまで時系列順に語ってきたのですがだいぶ長くなりました。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
大学でも部活を続けるという選択を許してくれた金食い虫の息子を持つ両親には本当に感謝しています。また小中高大での指導者の方にはいろいろお世話になりました。
高校の野球部同期ともう1人の高校同期は俺が試合に出るたびに反応してくれて、また何度も神宮に足を運んできてくれてありがとう。できるなら菅沼が主将の時に勝ちたかったけど残念。
応援部同期のみんな。恐らく皆が思っているより、応援というのは力になっています。内野席でも外野席でもいつでも応援してくれている姿を見るだけで頑張ろうって思えます。あと1シーズンですが応援よろしくお願いします!
最後絶対いい思い出で野球人生を終えてやる。

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次回は9/21(火)、田中啓資投手を予定しております。
お楽しみに!