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『僕の野球人生』第20回 山﨑康寛外野手

『僕の野球人生』第20回

山﨑 康寛 外野手(4年/岡山朝日)

山﨑①

山﨑②

「人間万事塞翁が馬」という言葉がありますが、大学に入る前の自分にとって、東大野球部での毎日がこんなにも厳しいものだということはまったく予想のできないことでした。それだけ大学に入る前の僕の野球人生は順調だったように思います。

 

僕の野球人生が始まったのは小学2年生の秋。家のテレビで流れていたプロ野球中継を観て野球に興味を持ち始め、小学校の友達も続々と野球を始めていったのをきっかけに自分も野球を始めました。他に水泳や体操などの習い事にも通っていましたが、野球の楽しさに魅了され、気づけば野球が生活の中心にありました。少しずつ野球がうまくなっていくのを実感でき、小さなことにも喜びを見出しながら野球に打ち込む日々でした。チームとしてのレベルも高く、試合に勝って得られる喜びもたくさんあったし、その中で中心選手としてやってきて、選手としての自信もありました。その後大学まで野球を続ける訳ですが、野球が好きだという僕の野球人生の原点がここにあるように思います。

 

中学では部活ではなく硬式野球のクラブチームに入りました。高いレベルを目指して集まったチームメイト達と過ごした日々は濃密なものでした。土日祝日は毎日練習に励み、切磋琢磨しながら高みを目指しました。チームとしては強いとは言えなかったかもしれませんが、試合に勝つために厳しい練習を積んでいたからこそ、勝ったときの高揚感や達成感はとても大きなものでした。個人的には、日々の練習や厳しい上下関係の中で選手としても1人の人間としても成長を感じることができました。

 

高校時代はとにかく考えて野球をすることを求められました。顧問の先生は練習内容などに関して僕たちに大きな裁量を与えてくださりました。そうした中で、限られた練習時間において何に取り組むべきか、格上の相手に勝つためには何が必要なのかなどを徹底的に考えました。最上級生になって主将に選ばれてからは、チームをまとめ上げ引っ張っていくことも必要となりました。一方で野球のことだけ考えていれば良い訳ではなく、進学校という環境の中で勉強もしなければならず、とにかく毎日が忙しく過ぎていったように感じます。それでも不完全燃焼になるようなことはありませんでした。夏の大会だけで振り返って見ても、1年の夏からベンチに入り、2年の夏には先輩とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成しました。3年の夏にはホームランを放ち、最終戦では0-1でサヨナラ負けを喫したものの優勝候補の玉野光南を最後まで苦しめるなど、多くの良い経験ができました。

 

そして、東大野球部に入りたいと思うようになったのもこの時期です。僕たちの高校では東京遠征があり、そこで東大の練習に参加する機会がありました。東京六大学野球という舞台で野球エリート達に挑んでいる先輩方の姿を目にし、憧れを抱きました。また、当時は勝ち点を獲得してメディアに取り上げられたりもしており、自分も神宮でプレーして勝ちたいと思うようになりました。

 

このような順調な野球人生を経て、1年間の浪人という少しの遠回りはあったものの、大きな期待を胸に東大野球部に入部することになります。当時は入部してからも順調にいくだろうという楽観的な考えというか変な自信を持っていましたが、期待はすぐに崩れていきました。

 

入部当初、浪人明けの体は思ったように動いてくれませんでした。ボールを投げれば肩が痛い、バットを振れば腰が痛い、体の動きは鈍い。徐々に頭角を現し夏合宿のメンバーに選ばれたりA戦で試合に出たりする同期が出てくる中でAチームの練習にも参加できない日々。悔しい、辛い、もどかしい、そんな負の感情が募っていきました。成果が出ない野球から目を背けるように、数値の伸びが見えやすい筋トレに力が入った時期もありました。

 

そんな中、1年の秋頃には小さな希望も見え始めました。筋トレの成果が出始めたのか、バッティングの調子が上向き、秋のフレッシュリーグでの出場機会を得ました。2年春のフレッシュリーグでは4番を打たせてもらったりもしました。フレッシュリーグとは言え、神宮でプレーできる喜び、ヒットを打ったときの高揚感は忘れられません。その後、少しでも多くの出場機会を求め、小3からずっとやってきたキャッチャーを辞め外野手に転向しました。慣れない外野守備には最初はかなり苦戦しましたが、バッティングにはかなり手応えを感じていました。2年の秋は野球人生の中で間違いなく一番バッティングの調子が良かったです。そしてついに秋のリーグ戦で初めてリーグ戦のベンチ入りを掴み取りました。

 

しかしここでも希望は打ち砕かれました。代打として2回出場しましたが、結果は2打席とも空振り三振。即刻Bチーム行きを命じられました。リーグ戦のピッチャーのレベルの高さを痛感し、一気に自信がなくなりなした。本来ならそこで必死に練習して技術向上に励むべきですが、それまでかなり調子が良かったのもあり、あれこれ悩んでは気が沈み、何をやってもうまくいかないように思うときもありました。3年生としての1年間は野球人生の中で最悪でした。なんとかしなければと思っても気持ちばかり空回りして結果が出ない。そんな自分が嫌になり何度も自己嫌悪に陥りました。応援して発破をかけてくれた親に対して冷たく当たってしまったこともありました。正直に言うと、同期や後輩がリーグ戦に出てプレーしているのをスタンドから見ているのはとても惨めでした。

 

そのように良いとはとても言えない状態で最上級生となりましたが、ここで心境の変化がありました。新チーム発足当初、何度も学年ミーティングを行い、リーグ戦で勝つためにはどうすれば良いかを話し合いました。入部して以来1度も勝利を経験していなかった僕たちの代にとって、リーグ戦での勝利は至上命題でした。ミーティングでは本当にたくさんの意見が飛び交いました。みんながリーグ戦での勝利に向かって本気で知恵を絞りそれを実現しようとしている。そんな中で自分だけが腐っていてはならない。そのように感じた僕は、リーグ戦で勝ってみんなで喜び合うんだという一心で練習に打ち込みました。そうして開幕した春季リーグ戦。全試合でベンチ入りというのはできませんでしたが、分析なども含め自分にできる仕事を前向きな気持ちで全うしました。そして最終カードの法政戦、ついにリーグ戦での勝利を掴みました。あの瞬間の興奮、スタンドの歓声、みんなの涙は一生忘れないし、その勝利に微力ながらも貢献できたことは本当に嬉しかったです。

 

春季リーグ戦の終わりから秋季リーグ戦の開幕までは一瞬のように感じられました。猛暑の中での練習、連日のOP戦、合間には院試の勉強、そんな中でもチームの勝利というのを常に考えて取り組みました。そして現在、僕たちにとってのラストシーズンの真っ只中です。立教戦のように打ち合いを制しての勝利も経験しましたが、早稲田戦のように悔しい敗戦もありました。個人的にもまだ勝利に貢献する働きはできていません。残された時間は少ないですが、勝利に向かってひたむきに走り抜けます。

 

最後になりますが、ここまで自分が野球を続けることができたのは、多くの方々の支えがあったからです。同じチームの中で互いに高め合った同期と先輩後輩。多くのことを教えてくださった指導者の方々。どんなに厳しい状況でも応援してくださった応援部やファンの方々。そして何と言っても、何不自由なく野球ができるように数え切れないほどのサポートをしてくれた両親には頭が上がりません。時にはわざわざ岡山から神宮まで足を運んで応援にきてくれたこともありました。本当にありがとう。

 

人生において、良いことも悪いことも含めて予測することは難しいでしょう。ただ、厳しい状況におかれた時、ずっと気持ちが沈んだままでは良いことは訪れないのではないでしょうか。辛い状況を打破するために何かに取り組まなければなりません。高校まで順調な野球人生を送ってきた自分は、大学に入ってからつまずいた時にうまく対処できませんでした。自分の結果ばかり気にして利己的になっていたのかもしれません。しかし、「チームの勝利」という、今考えれば当たり前のことがひとつの目標として明確に定まった時、自分の中で道が開けました。僕の野球人生に残された時間はあと2週間ほどですが、良い結果が訪れると信じて最後までもがき続けます。

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次回は10/12(火)、中嶋マネージャーを予定しております。

お楽しみに!