『僕の野球人生』第25回 周佐亜活学生コーチ
『僕の野球人生』第25回
あれは9/25、立教1回戦のこと。
前半6-1とリードするも終盤に猛攻を浴び、気がつけば6-15。
勝てる感触がありながら勝利を逃した試合。
やるせない想いの中、1人電車に揺られていると
大学生らしき集団の話が聞こえてきた。
「〇〇ちゃん、インカレのテニサーか。〇〇ちゃん綺麗だし、男寄って来そう~」
「〇〇は慶應生か!良いよな、就活も強そうだし、遊べるし!俺も行きたかったなあ」
「まあとりあえず、今日も〇〇ん家で飲むか!」
大学生のテンプレのような会話する彼らの話が聞こえてきて思った。
ああ、こいつらは知らないのだ。
毎日汗にまみれ、泥にまみれ
それでも日の目を見る日を信じ、必死に、もがくあの日々を。
こいつらは知らないのだ。
何度打ちのめされても、その度に支えてくれた人を想い
歯を食いしばりながら、再び立ち上がろうとする、あの覚悟を。
こいつらは知らないのだ。
地獄のような長いトンネルを抜け、歓声止まぬ中
仲間と抱き合い、ともに涙を流せる、あの嬉しさを。
思えばいつから野球を好きになったのだろうか。
小学校の頃、野球は僕にとって怖いものだった。
怖い監督、怖い先輩、怖い同期。1個上の代が横浜市大会・神奈川県大会を制覇したこともあり、
実力も然り、その練習の厳しさ・プレッシャーは小学生の僕には凄まじいものだった。
決して出場機会は多くなかったが、始めてフルで試合に出た時には5打席全出塁の活躍。
普段人を一切褒めない監督も試合後に僕に握手を求め、「期待以上の活躍をしてくれてありがとう」と言った。周囲からも「感動した」「めっちゃ良いヒットだったよ」「見直したわ」と言われた。厳しい練習に耐え、なんとかレギュラーを掴みとろうと自分だけのために努力してきたのに、自分が努力して結果を出せば、他人にも良い影響を与えられるという感覚が幼いながらに凄く嬉しかった。野球を好きになったのはその時からかもしれない。
中学は「ちょっとグレてる=カッコいい」というくだらない価値観に支配されてしまった。
チームとしてそういう雰囲気の塊だったが、何よりもそんなものに影響されたのは己の弱さ故だろう。結果として物凄く後悔が残った。受験にも落ち散々だった。
とりわけ受験に対する後悔はかなり強く、劣等感を払拭するため勉強した。
野球と勉強に対するコンプレックスはいつしか「東大で野球をする」という夢に変わっていた。
浪人の後、東大に受かるもそこからの生活は理想とは程遠いものだった。そもそも高校は勉強に全振りしていたので身体能力・技術・知識全てにおいて自分は周囲よりも疎かった。
当然、1年生として覚えることも多く、頭はパンクしかけていた。
そのせいか、大学1年生の記憶があまりない。多方面に迷惑をかけてしまった。
その際たる例はマネ決めだろう。今の4年はマネージャーがいない代だった。
それはつまり選手から1人マネージャーを出す必要があるということである。
自分は筆頭の候補だった。中学の後悔から浪人含めて足掛け4年。やっとここまで来た。
なのになぜマネージャーなどにならないといけないのか、当時は理解が出来なかった。
まだ100歩譲って皆に労われるなら承諾したかもしれないが、当時は誰に感謝されるわけでもない。それどころか、周囲の「お前がやればいいだろ」という押し付けの態度に心底腹が立っていた。
その点、吉田(マネージャー/4年)には本当に迷惑をかけた。
何度もぶつかったし、本当の意味で許してはもらえることはないだろう。
今でも顔を見るたびに負い目を感じてしまう自分がいる。
でも、自分の代わりにマネージャーを引き受けてくれたこと。
こんな俺をチームに残してくれたこと。
そして沢山ぶつかってきたが、今もチームの一員として共に戦えること。
本当に感謝してる。そしてお前の神宮でのヒット。忘れられないほど感動した。
お前の大切な野球人生を奪ってしまって本当にごめん。
でも、当時は他人のことを考えられる気持ちの余裕がなかった。
チームに居場所がなかった当時、自分を守れるのは自分だけだと思っていた。
自分だけはなんとか前を向いて頑張らないと、そう思っていた。
しかし漫然と練習をしているだけでは一生出れない、とも思っていた。
知識や技術に差があるなら自分で調べて学んでいくしかない。
そう考え、YouTubeやSNSで技術を学び、ノートにまとめてはアウトプット。
ひたすらそれを繰り返した。そして1年の3月の冬の日。
大阪桐蔭元主将の廣畑実さんに出会った。彼はSNSで技術を伝える動画を配信していた。
「これだ!」と思い、すぐさまメールを送り、大阪まで直接指導してもらうことにした。
廣畑さんの指導はまさに目から鱗の連続で、ノートを書く手が止まらなかった。
帰ってすぐに「お前スイング良くなってね?」と言われた時は嬉しかった。
でも、こんなものでは足りない。
仮にも試合に出たいなら誰よりも野球を勉強し、考え、練習しなくてはいけない。
そう思っていた。
そうして、オフ返上で月1で大阪に行く生活が始まった。
でも、お金がないので、大阪の費用を捻出するために無駄を徹底的に節約した。
親に頭を下げて初動負荷にも入れてもらった。
週6で練習した後に片道2,000円の激安夜行バスに揺られ、
ろくに寝付けぬまま大阪に行くのはかなり応えた。
それでも廣畑さんは夜遅くまで、本当は2時間指導のはずなのに
下手くそな僕に4時間以上も、外が真っ暗になるまで指導してくれた。
何度も何度もティーを上げてくれた。マメが潰れて血が出るまで練習に付き合ってくれた。
クタクタになって、地面に腰をつくと「よう頑張ったな、寿司でも食い行こか!」と笑い、食の席で野球の話、人生の話をしてくれた。野球の指導者としてはもちろん、
人として本当に素晴らしい方だった。
そして自分が神宮で活躍出来るようにと、特注のバットを僕にくれた。
「神宮出たらコレ使い。頑張りや。応援してるで。」
なんて素敵な人なんだろう。
全国クラスでプレーしてきた廣畑さんから見れば、自分のスイングはさぞや下手くそに映っただろう。それでも嫌な顔1つせずに自分の技術を惜しみなく伝えてくれた。
人生で一番嬉しいプレゼントだった。
そんな廣畑さんに、どうしても野球で恩返しがしたいと思うようになった。
どんなに周囲から冷たい言葉をかけられようとも、それでも折れることなく
真っ直ぐに野球と向き合えたのは廣畑さんのおかげだった。
「実さん、俺打ちましたよ!」
実さんにもらったバットで打って
神宮球場のベースの上でガッツポーズしながらそう言いたい。
自分のプレーで廣畑さんに感謝を伝えたい。
いつしかコンプレックスは消え、純粋な想いへと変化していた。
そして試合になかなか出れないながらも、和樹(辻村/内野手/4年)や榎本(内野手/4年)も練習に付き合ってくれたりたまに一緒に大阪に練習しにいったりしてくれた。毎日のように遅くまで3人で基礎練をやっていたのはいい思い出だ。段々周囲とのわだかまりも解消されるようになっていった。
そして自粛明け、3年の9月、獨協大学戦、久々に実戦の機会が回ってきた。
3-3の同点、2死2塁。絶対に打つ。そう思ってファールで何球も粘るたびに、ベンチを見ると
周(齋藤/学生コーチ/4年)が笑顔でうなづいてくれていた。嬉しかった。
自分のことを信じて使ってくれているのだと思った。
思えば、周も横井(学生コーチ/4年)もどれだけ選手としてやりたかっただろうか。
自分の代わりにこの場所に立っていたいと、どれだけ思っただろうか。
俺を信じて使ってくれている裏で、どれだけの想いを押し殺してきたのだろうか。
ありがたくて胸がいっぱいだった。
しかし、結果は三振。体からインコースに入ってくるスライダーに手が出なかった。
「ああ、オレは何をやっているんだろう」
自分が打てなかったことよりも2人の想いに応えられない自分が本当に情けなくて、惨めで、
何より申し訳ない気持ちになった。
自分よりも才覚のある人間が「チームのために」と自ら選手を辞めて
裏方になってくれているのに、俺はこんなところで何をやっているんだ。。
誰とも話す気になれず、帰って一人部屋で涙した。何もする気が起きなかった。
一個上が引退した時に、ある先輩が他の後輩に「頑張れよ」と声をかけている中、
自分に対してだけ「お前はどうでもいい」と言った。
正直、物凄く腹が立ったが、そう言われるのも仕方なかった。
3年間で一度もリーグ戦どころかメンバーにも入れていなかった。
「選手を辞めた方が確実にチームのためになるだろうな」と客観的にみる自分と
「お世話になった人に、実さんに、恩返しをしたい。諦めたくない。
自分みたいな奴が前向いて練習して、活躍すれば、どれだけ周りの希望になれるだろうか、
俺も頑張ろう、そう思ってくれる人がそれだけ増えるだろうか」
とそれでも前を向こうとする自分が同居して、どうにも心がはち切れそうになったときがあった。
そんな時に相談に乗ってくれたのが和樹だった。
和樹は自分の部屋に招いてくれた。
和樹の想いを聞いて、自分も想いを打ち明けた。
そして再び前を向こうと思って、4年生を迎えた。
しかし、決意とは裏腹に4年になっても調子は上がらなかった。
周囲から「いつまで選手やってんだよ」と言われることもあった。
また口にはしないまでも、周囲からの無言の圧力を感じていた。
さらにはリーグ戦まで約1ヶ月となった時、どうにも自分に自信が持てなくなっていた。
本当に自分がこのまま野球を続けることが幸せなのか?
自分を信じられないまま野球を続けていていいのか?
自分さえ良ければ、チームなんてお前にはどうだっていいのか?
いろんな想いが重なり、「俺は野球を続けたい」
そう自信を持って言えなくなってしまった。
そしてそう思えなくなった時点で引き際だなと思った。
自分のような人間は下手な分、人より前を向いていないといけない。
人よりも練習しなくてはいけない。人の模範とならなくてはいけない。
「こんな奴でも前向いて練習してんだな。俺も頑張らないと。」
周囲にそう思われるような人でなくてはいけない。
でも、そんな自分でいられる自信がなくなり、自分を疑うようになってしまった。
それに、もう自分より才能がある人に野球をやめて欲しくなかった。
横井が、周が、「学生コーチになります」と言った時、胸が張り裂けそうだった。
一体どれだけの覚悟でその結論に至ったのだろう。
自分よりもずっと可能性があった。期待されていた。
2人だって試合に出て活躍したかったはずだ。
それなのに、その想いを捨ててまでチームのために動いてくれているのだ。
そうだ、俺はずっと支えられてきたんだ。吉田に。守上(マネージャー/4年)に。横井に。周に。廣畑さんに。
もうこれ以上自分の想いを捨てていく人は見たくない。
今度は俺が誰かを支えるんだ。自分たちの代で選手をやめるのは俺で最後だ。
もう誰もやめさせてなるものか。そう思い、選手をやめることを伝えようと決めた。
不思議なものである。自分の中では割り切っていたはずだった。
「明日から俺、選手やめるわ」
それだけの言葉を伝えた後、涙が止めどなく溢れてきた。
やっぱり悔しかった。不甲斐なかった。
何より支えてくれた人に申し訳ないと思った。
学生コーチとなってからは「あと一歩で勝てる」という場面で浮き足立ってプレーできずに結果、勝てないというのが課題だと考え、いつも通り選手がプレーできるようにとプロのスポーツドクターの理論を3年分学び、メンタル指導のシェアをしたりと、それなりの充実感やチームへの貢献感こそあったものの廣畑さんに恩返しがしたかった、という心残りはあった。でも、そんな捨てきれない自分の想いを繋いでくれる人がいた。
「神宮に出たら絶対にこのバットでヒットを打つ」
廣畑さんが託してくれた大切なバット。
「和樹になら託せる」そう思った。
ずっと一緒に練習してきて、一番信頼できるのは和樹だった。
そう話すと、和樹は
「オレ絶対神宮でヒット打つから。死ぬ気で練習頑張るわ、ノック頼むぞ。」
そう言って引き取ってくれた。
そして、5/8、立教1回戦で
和樹が神宮の打席に立ったとき、涙で前が見えなくなった。
そこにあったのは自分が託したバットだった。
バットなんて、ものによって合う合わないがある。好みだってある。
長くて使いづらかったかもしれない。重いと感じていたかもしれない。
ましてやリーグ戦。結果が出なかったらベンチアウトということだってある。
それでも、和樹は迷わず自分のものを使ってくれた。
自分が果たせなかった神宮の打席に立つという夢。
実さんにもらったバットで恩返しをしたいという夢。
和樹は迷うことなく、自分の想いを背負ってくれた。
9/25、立教2回戦で和樹が2ベースを打った時には
もう自分のことのように嬉しくて、涙が止まらなかった。
「実さん、俺たちは打ちましたよ!」
自分の想いを、夢を、繋いでくれて本当にありがとう。
もう選手時代のような情熱は残ってないはずだった。
それなのに不思議と自分も一緒に戦っているようで胸がいっぱいだった。
1年の時には、なかったはずの自分の居場所。
でもいつの間にか東大野球部は自分の大切な居場所になっていた。
何度ぶつかろうと最後には仲間として共に戦える人がいる。
どんな選手にもその選手の可能性を信じて、全力で背中を押してくれる人がいる。
果たせなかった自分の夢を背負ってグラウンドに立ってくれる人がいる。
俺は一人じゃないんだな。俺もチームの一員なんだな。
心からそう思えるようになっていた。
そして春の法政戦での勝利は決して忘れないだろう。
入部して初の勝利。
全員が出来ることを徹底して勝ち取った勝利。
4年間ずっとずっと欲しかった、悲願の勝利。
涙が溢れて止まらなかった。近くにいた辻と声をあげて泣いていた。
周りを見ると皆同じだった。このチームともっと感動を味わいたい。もっと前へ進みたい。
そう思っていたの束の間、気づけば夏もすぎ、秋も残り1カードに迫る。
「人の人生の価値はその人が与えたもので決まる」
いつかの新聞で見かけた記事。野球人生の終わり。
4年生になった時から、野球の技術でリードはできないけど
周佐になら相談できる、自分の本音を打ち明けられる、心から信頼できる
そんな人間になれたらと思い、色々やってきたつもりだ。
それでも自分はチームにどれほどのことが出来ただろうか。
選手の肩を使わせないと思って自分が投げていたバッピは実は打ちづらかったんじゃないか。
後輩の意見を聞いたり、学年間の確執を作らせないようにと
後輩とご飯に行っていたが実はただの迷惑だったんじゃないか。
チームのためにとやったメンタル講習など、色んなプレゼンは
実はやるだけ無駄だったと思われているのではないか。
本当はチームから必要とされていないじゃないか。
そんな不安に苛まれることもある。
それでも、最後はやっぱり勝ちたい。その想いに勝るものはない。
自分のやってきたことが無駄でもいい。でも、最後の最後は
みんなで笑い合いたい。みんなで喜び合いたい。「やりきった!」そう言って終わりたい。
最後、みんなで絶対勝って終わろう。
そのために残された僅かな時間を、自分に与えられた役割を、俺は最後まで全うしよう。
野球人生の晩年の暮れも暮れ。そんなことを思い、俺は今日もグラウンドに立つ。
改めて、ここまで人として成長できたのは、大学まで野球をやらせてくれた家族、早渕レッドファイヤーズの吉川監督・コーチ、中学校の顧問の先生、東大進学の時にお世話になったチューターの方々、廣畑さん、久松さんはじめ大阪でお世話になった多くの方々、ワールドウィング横浜の三木さん、篠江さん、江口さん、こんな僕を応援してくれた友人、井手監督、大久保助監督、最後に野球部の皆のおかげです。本当にありがとうございました。
最後に。僕が大好きな歌の歌詞で締めようと思う。
良ければ見ていって欲しい。
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夢見てたステージも 思い出に変わってく
駆け足の季節を 僕たちは
何度つまづいて 何度擦りむいて
青春って後になって 呼ぶんだろうか?
明日のことなんていつでも 思い通りじゃないけど
こんなに眩しい 今日がある
なんでもない世界だって 君がいればShining Days
どんなに遠くなって霞んだって 忘れないよ
まだまだ止まないビート ついて来てよAmazing Days
夢が夢じゃなくなる瞬間を信じて 走れ
夜明けBrand New Days
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まだまだ終わるわけにはいかない。夢が夢じゃなくなる瞬間を信じて。
残り約1週間。走り続けます!!
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次回は10/17(日)、横井学生コーチを予定しております。
お楽しみに!