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『僕の野球人生』第3回 岸野亮投手

『僕の野球人生』第3回

岸野 亮 投手 (4年/湘南)

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満足の行くような野球人生ではなかったですが、大学4年間、そしてここまで野球を続けてきた自分をまずは肯定してあげたい、というのが自分が野球人生を振り返る際に真っ先に思うことです。高校、大学とあまり出場機会には恵まれませんでしたが、とても大切な時間でした。こんな機会もこれ限りなので、僕の野球人生を振り返ってみようと思います。少し長くなってしまうかもしれませんがお付き合いしてくださると嬉しいです。

 

野球を始めたのは小3の冬でした。友達に誘われて双子の弟と一緒に地元の少年野球チームに入団しました。ただ、あまりすぐにはうまくなれず、まともにプレーできるまで1年くらいかかりました。今思えば意外と排他的なチームで、下手な自分はボール回しにも入れてもらえず、しばらくはみんなのボール回しを外から眺めていました。初めて監督に「岸野兄弟!ボール回し入るか?」とボール回しに招待されたときは小学生ながらとても嬉しかったのを覚えています。それからはサードとして次第に試合に出られるようになり、何度か市大会の決勝に進むこともでき、勝ったり負けたりと野球の楽しさを存分に味わった期間でした。70歳くらいの総監督が、練習中に部員のカバンから水筒を探し出し、勝手に次々と飲んでいくような倫理観の崩壊したチームでしたが、それも笑い合えるくらいに楽しく、充実した日々でした。投手をやり始めたのもこの頃でした。球は少し速かったけれどコントロールが悪いごく普通の投手でしたが、この頃は俺って野球上手いんだなあと思っていました。

 

中学校に進み、小学校の主力メンバーの多くは硬式クラブチームに入りました。自分はそこまでの決断力もなく、順当に中学校の軟式野球部に入りました。主力が抜けたこともあり、多くの試合に出させてもらい、最終学年ではキャプテンでエースで3番という野球漫画の主役のような存在でした。自分たちの代は弱く、公式戦はほとんど勝てませんでしたが、楽しく野球をやっていました。さらに勉強もかなりできてしまったので、この頃は文武両道を極めており、怖いもの知らずでした。

ちなみにどれほど極めていたかというと、中学校の卒業式の日に学年主任の先生に呼び出され「お前は挫折を知らない。だから今後の人生が心配だ」と言われるほどに完璧でした。空も飛べると思っていました。

一方この頃は、体育の授業のバスケや昼休みのサッカーがあまりにも下手だったので、俺って運動神経悪いのかな?とはうっすら思っていましたが野球はうまいと思っていました。

 

高校では文武両道を謳う湘南高校へ進学し、迷わず野球部に入部しました。文武両道が自分のアイデンティティだと思っていたからです。しかし僕はわりと簡単に現実を見ることになりました。練習初日に人生で初めて「野球を辞めたい」と思いました。練習は常に体力の限界と隣り合わせでした。そして周りの選手(大久保(R4卒)など)や先輩(笠原さん(R3卒)や大音さん(R4卒))の動きを見て、自分は野球が下手なのだと初めて思い知りました。入部して1週間で、すごいところに来てしまったと後悔しました。今まで厳しい練習をしたことがなかったため2年半耐えられる気がしませんでした。同期の何人かは入部早々やめていきました。しかし自分には辞める勇気がなく、早く辞めたい早く引退したいと思いながら練習するしかありませんでした。しかしやるからには手を抜けない上に負けず嫌いという面倒な性格ではあったので、毎日元気な声を出し、朝から晩まで野球漬けの日々を送りました。肩と足だけは強かったので下級生の頃から何度かチャンスを頂きましたが、この風貌で実は小心者の僕はミスを恐れたプレーの連発でほとんど結果を残せませんでした。最後の夏も8番レフトという超微妙なポジションで、チームは2回戦負け。2回戦ではブルペンで引退を迎えました。後悔の残りようもない高校野球でした。

 

大学で野球を続けたとしても県大会2回戦負けのチームの4番手投手だった自分が通用しないことは容易に想像できたので、大学では陸上部に入ろうと考えていました。走ることは得意だったからです。自分が輝ける場所で過ごしたほうが幸せだと考えていました。正直言って、どうして野球部に入ろうと決断したのかは明確には覚えていません。やっぱりかっこいいから、というような単純な理由だったような気もします。わずかな希望に目が眩んだのかもしれません。大学では苦しいこともたくさんありました。いつからか心の底から野球が好きだとは言えなくなってしまいました。でも、大学に入るときに陸上部と野球部で迷いに迷った挙句、野球を続けようと決断した自分にありがとうと言いたいです。そのくらい、この4年間は自分の人生の中で大切な4年間でした。

 

大学の4年間では自分の実力より少し上の経験を何度かさせてもらいました。2年春に初めて入った神宮のベンチ、2年秋のフレッシュトーナメントで初めて踏んだ神宮のマウンド、3年秋のリーグ戦初登板、経験が少ない自分にとってどれも一生忘れることのないような素晴らしい景色でした。努力してよかったと思えた経験でした。結果は残せたり残せなかったりでしたが、神宮で野球ができることの喜びを身をもって感じていました。

ただ、どの思い出も悔しさと隣り合わせでした。結局、試合に出られないのは悔しいことです。その度にその悔しさをウエイトにぶつけたりブルペンにぶつけたり、たまにふて寝したり、皇居ランにぶつけたりしているうちに4年の秋、ラストシーズンになってしまいました。今思い返せば4年生になってからのシーズンはいろんなことがありました。冬は今まで以上にトレーニングに精を出し、辛い練習も多かったけれど、後輩たちや同期のおかげで楽しくできました。ありがとう。そして意気込んで迎えた3月の終わりに腰の骨を折りました。親に報告した時に「それもまた人生だ。秋頑張れ」と言われ、不覚にも号泣してしまったのを覚えています。

 

春リーグが終わるとその傷は癒え、覚悟をもって夏のオープン戦に挑みました。何度もチャンスを頂きましたが、思うような結果を残せませんでした。秋の開幕カードでベンチに入ることはできませんでした。神宮で戦う同期や後輩は本当にかっこよく、頼もしいです。これまた身分相応な終わり方かなとも思いますが、こんなところで終わってたまるかとも思っています。やっぱり、試合に出られないことは悔しいことです。ここまで来たからには最後まで、自分を信じてあがきます。

 

最後に、両親への感謝を述べたいです。父譲りのどっしりとした風貌と母譲りの超豆腐メンタルを持ち合わせ、過ごした野球人生は幸せでした。野球に限らず、金のかかる息子だったと思います。野球で恩返しはあまりできなかったけれど、これから期待しておいてください。小学校3年生から約15年間、何不自由なく野球をやらせてくれて本当にありがとう。

 

また、春先に怪我をした際にはトレーニングコーチの豊田さんをはじめ、理学療法士の方々には大変お世話になりました。何事も親身に相談に乗ってくださり、僕の心の支えでした。本当にありがとうございました。

 

いまだに、甲子園のファインプレー集とかを見ると「俺もやってやるぞ!!」とか思っちゃうくらいには夢見がちな人間です。ラスト1ヶ月半、最後まで夢を見続けようと思います!!

 

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次回は9/16(金)、木戸投手を予定しております。

お楽しみに!