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『僕の野球人生』第4回 木戸健介投手

『僕の野球人生』第4回

木戸 健介 投手 (4年/学芸大附)

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僕は野球人生を語れるほど大したことはしていませんし、人の意見を聞いてすぐに流されるほど意志の弱い人間なので、わざわざ書く内容はないと思っていました。しかし、いざ振り返って書いてみると、意外と書くことがあって自分でも驚きました。少々長いと思いますが、読んでいただくとありがたいです。

 

野球は小学2年生の頃に、父と一緒に東京ドームで上原浩治選手を見たことをきっかけで始め、それと同時に投手に憧れを持つようになりました。野球をやるなら投手をやりたい、そう思って小学校の野球チームに入ったのですが、初めはまともに捕球も出来ず、練習がない日にはよく父親と近所の公園でキャッチボールをしていたのを覚えています。高学年になり、自分のコントロールの悪さでチームに迷惑をかけることは多々ありましたが、投手として試合に出してもらえるようになり、さらにバッティングでも上位打線を任せてもらえるようになったため、自分の野球能力に自信を持つようになりました。将来、野球で生きていけると何故か確信していた僕は、早く硬式球に慣れたいという思いから、中学では硬式のチームに入ろうと決めました。

 

この決断は後々とても後悔する決断でした。野球が十分にできるようにと土日に学校がない中学に入り、意気揚々と調布シニアに入部すると、そこには60人の新入部員がいました。当時、日大三高が甲子園で優勝したときのエースが調布シニア出身であったことから多くの新入部員が集まり、そこには昨年早稲田大学でベンチ入りしていた尾崎や西田、小西ら(R4卒)もいました。そのため、練習時間のほとんどはボールを触らせてもらえず、走ってばかりでした。さらに、中学1年生の9月になるとリトルリーグで世界一になったばかりの清宮幸太郎(現日本ハムファイターズ)も入部してきました。彼はすぐに試合に出してもらい、片手だけでセンターオーバーを打つ姿を見て、「あ、このチームじゃ無理だ」と思い、彼が入部した1週間後に別のチームに行くことを決めました。余談ですが、僕は当時のガラケーに尾崎や西田、清宮のメアドまでちゃんと持っていたのですが、不注意で携帯を洗濯してしまい、データが消えてしまいました。最近の清宮の活躍をテレビで見るたびに惜しいことをしてしまったなと思ってしまいます。

 

チームを変えて、世田谷シニアに入ると、そこには同期が15人ほどであったため、やっと自分が望んでいた野球が出来るとワクワクしていました。しかし、現実は全く異なりました。当時、成長期を迎えるのが遅かったため、チームで2番目に背が低く、力もなかったので、バッティングで満足に内野の頭も越えられませんでした。そのような選手に待っているのは、同期からのいびりでした。体の大きさで勝てない相手からのいびりには抗う事ができず、初めて心から野球を辞めたいと思いました。練習に行きたくない日は数えられないほどあり、体温計を服で擦って熱に見せかけたことも何度かあります。でも結局辞めませんでした。理由としては、わざわざ応援してくれている両親を悲しませたくなかったからです。数少ない仲良かった同期や後輩にも救われました。彼らとは、自分の悩みを共有することができ、シニアでの3年間で唯一良い思い出として残っています。このシニアの経験を通して、楽しく野球をやりたいと思い、そのまま内部進学して学芸大附属高校で野球をやろうと思いました。

 

高校に入ると、ここで成長期を迎え、高校1年生で180cmほどになると、今まで飛ばなかった打球が飛ぶようになり、とても野球が楽しくなりました。投手もまたやるようになり、良い高校野球をスタートできたと思っています。高1の秋には初戦で二松学舎高校と対戦することとなり、その試合の先発を任されたことは非常に良い経験になりました。結果は5回コールド負けでしたが、3回までは抑えられたことは自信になりました。それから春、夏と一回戦負けする事が続きましたが、最上級生となり、主将を任せてもらうようになって、次こそは一回戦突破したいと思っていた矢先に、膝の大怪我をしてしまいました。手術が必要で全治6ヶ月以上と診断されたため、自分に残る大会は最後の夏のみとなりました。それでもしっかりとリハビリを行い、復帰して、最後の大会に勝てたことはとても嬉しく同期のみんなと喜びを共有することができました。

 

高校野球を引退したとき、もう一度レベルの高いところで野球をやりたい気持ちが強くなり、高校の先輩も東大野球部に在籍していたこともあって、東大を目指すようになりました。当然、勉強を始めたのが遅かったため、現役では合格することはできませんでしたが、必死に予備校で勉強した結果、早慶落ちで東大のみ受かるという非常に運の良い形で東大に入ることができました。

 

高校では怪我で最後は投手をやらなくなっていたため、東大野球部では投手をやるつもりで入部しました。しかし、1年生の頃、浪人明けということもあり、肩痛でボールを全く投げられませんでした。すぐに治ると楽観視していましたが、1年生の間はずっと投げられず、他の同期たちは1年生の頃からたくさんオープン戦で投げている中、自分だけ大きく出遅れている現状に対して焦りを感じるとともに、このままずっと投げられないのではないかという不安もありました。この期間はどうすれば良いかわからず、とりあえずインナーマッスルを鍛えるか、ストレッチをするかで練習の時間を過ごしていました。

 

2年生になり、コロナの流行によって練習もまともに出来ない間、ちょうど良い機会だと思い、リハビリに専念するようにした結果、練習が再開した頃にはようやく投げられるようになり、秋にはフレッシュトーナメントで登板する事ができました。ここで、神宮球場で投げるという1つの目標は達成できましたが、内容は、ボークからの大暴投で失点したことが大きく印象に残っており、いつかリーグ戦でリベンジを果たしたいと思うようになりました。

 

しかし、楽観的だった僕は、3年春にベンチ入りできず、肩痛を再発させて1ヶ月ほど投げられなかったときでも、まあ秋に頑張ればいいかと思い、3年秋に入れなかったときでも、ラストシーズンは4年だから4年になって頑張ればいつかベンチ入りできるだろうと考えていました。その結果、4年春もベンチ入りする事ができず、同期が神宮デビューする姿をスタンドで見ていました。

 

流石にこのままではやばいと感じ、夏のオープン戦は絶対に抑えなくてはいけないと思って試合に臨んだ結果、なんとか抑える事ができ、秋の明治戦で神宮デビューをする事ができました。登板内容自体はそこまで良いものではありませんでしたが、登板後に家族や高校同期から初登板おめでとうと祝ってもらえたときはとても嬉しかったです。しかし、登板するからには勝ちに貢献したいという気持ちもちゃんとあります。まだ、秋のリーグ戦は始まったばかりなので、残りの試合も自分の持てる力を最大限発揮して勝ちに貢献できるように頑張ります!

 

ここまで長々と述べてきましたが、最後に両親へ。

10年以上も自分の野球の応援をしてくれてありがとうございます。高い野球道具を嫌な顔せず買ってくれたり、毎日おにぎりを握ってくれたり、述べ出したらキリがないくらいたくさんのことをしてもらったと思います。野球を辞めたあとも心配事はたくさんあると思いますが、その心配を吹き飛ばすほどの人生を歩んでいくつもりなので、これからも応援よろしくお願いします。

 

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次回は9/19(月)、古賀投手を予定しております。

お楽しみに!

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