『僕の野球人生』第8回 綱嶋大峰投手
『僕の野球人生』第8回
ずっと野球から逃げ続けてきた。
努力が報われないまま終わってしまうことがただひたすらに怖かった。
大した努力をすることもせずに、端から裏切られるのではないかという恐怖に怯えていた。
そんな甘ったれた気持ちが抜け切れない野球人生だったと思う。
(15年間の野球人生の節目として、今までのことを振り返り、ありのまま記していこうと思います。長くなりますが、お付き合いしていただけますと幸いです。)
出会い。
昔のことで記憶が定かではないが、父とキャッチボールを始めたのは小学校1年生の頃からだったと思う。
父が地元高校の名ショートで、母がその高校野球部のマネージャー。そんな一家の息子である僕が野球の道に進むのは必然だった。
学校が終わったらすぐに父と公園に向かい、キャッチボールをして、ノックをして、壁当てのコントロール対決をして、、、ただただボールを取ったり投げたりすることが楽しくて楽しくてたまらなかった。
「とにかく大きくゆったりとしたフォームで投げること」
父からこれだけは何度も言われていたことを、今でも覚えている。
小学校2年生の冬から、地元の少年野球チームである“村上ファイターズ”に入部した。
元々肩が強く、小学校の休み時間に行うドッジボールでもブイブイ言わせていた僕は、入部当初から自信満々だった。早い時期から色んなポジションで試合に出させてもらった。野球というものに初めて触れて、楽しいとか嬉しいとかいう感情以上に、ただただ一生懸命ボールを取って投げてを繰り返していた。そんな毎日だった。
小学校4年生の時に監督からキャプテンの指名を受けた。決して突出した選手ではなかったけれど、毎日の練習を頑張っている姿が評価されたのだと思う。そう思うとすごく嬉しかった。
その後3年間キャプテンとして務めた。チームとしては市大会を経て、県大会ベスト8まで昇り詰めることができた。たかが小学生にできることなんて大したことではないけれども、それでもチームをまとめることの難しさ、そして自分の不甲斐なさを痛感した日々だった。本当に貴重な経験をさせて貰えたと思う。当時のチームメイト、監督コーチ、父兄の方々には本当に頭が上がらない。
選手としては、地元でも名を馳せていた選手とバッテリーを組み、ピッチャーとキャッチャーを交代で守るというまさにチームの中核を担った。この頃からピッチャーに対する憧れと楽しさを感じ始めていた。
転機は中学時代だった。
そのまま地元の中学に進学し、その野球部に入部したのだが、この野球部は正直に言って腐っていた。
中学になると半グレのようになっていく輩が一定数いるのだが、野球部はまさにその巣窟で、勝つために練習するというよりは、いかにサボるかを考えるようなところだった。裏で部の備品のバットを破壊したり、試合中に帰ってしまうようなことが日常茶飯事だった。一度、真面目に練習をしていたら、後ろからボールを投げつけられたこともある。そんな野球部だった。
僕は僕で、この頃から勉強の楽しさに目覚め始めてしまい、野球そっちのけで日々授業の復習に勤しんだ。学級委員に率先して立候補するような、ザ・まじめ優等生くんだった。先生からは本当に可愛がられた。
中1からレギュラーとしてサードを守り、最上学年になってからはエースとして奮闘したが、最後の夏の大会は初戦敗退に終わった。延長戦にもつれ込んだ末、相手のエースに僕が打たれて負けてしまった。あの一球だけは今でも脳裏を離れない。中学の3年間を振り返れば当たり前の結果だった。チームメイトには申し訳ないが、正直悔しさもあまり感じなかった。
引退した後、受験勉強にスパートをかけた。夏休みは朝から夜まで、冬休みも朝から夜まで死ぬ気で勉強した。人生で1番勉強した時期だった。
その成果が実り、第一志望校だった筑波大学附属高校に進学することになった。ネットで調べると、偏差値78もある神学校である。怖いものなんて1つもなかった。恐ろしい過信家の完成である。
高校でも迷わず野球部に入部した。1学年7人ほどの少人数の野球部だった。ここで、澁谷さん(R3卒)や和気さん(R3卒)、同期の齊藤(4年/投手)や小髙峯さん(4年/投手)と出会った。
高校野球部の記憶はくだらないことばかりが蘇ってくる。冬の部室で毛布にくるまって動かなかったり、夏の練習がキツ過ぎてボールを取ってくるふりをして日陰で休憩したり、朝練に遅刻しすぎて一度除名処分を食らったり、放課後の練習をサボってクラスでトランプをしていたり、負けた試合で勝手にふてくされて同期と大ゲンカしたり、ミーティング中に居眠りして監督と齊藤にめっちゃ怒られたり、、、本当にくだらないことばかり思い出してしまう。沢山の想い出を一緒に刻んだ同期には本当に感謝したい。そして同時に、僕の生意気さに拍車がかかっており、チームメイトに大きな迷惑をかけてしまったことも思い出す。一度、同じ中学出身の先輩に、「生意気すぎるから気をつけろ。俺の手には追えない。」と釘を刺されたこともあった。今思い返すと、本当に反省しかない。この場を借りて謝罪したい。
少し脱線してしまったが、小中で投げすぎた為か、肘痛を患っていた僕は、高校ではサードを守った。進学校なこともあり、週4回2時間ほどの練習時間しかなかったが、それでも短い時間を精一杯工夫して自分たちなりに一所懸命練習していたと思う。
高2の時に一度、ピッチャーをしたいと監督に打診したことがあったが、即却下された。ピッチャーをしている同期が羨ましかった。
夏の最後の大会は、3番サードとして出場した。一回戦の対戦校は堀越高校で、当然のようにコールド負けした。僕はチームで唯一の2塁打を放ったが、キャッチャーからの牽制球で刺されて夏が終わった。最悪の終わり方だった。サボったりなんかしていた僕にはまさにふさわしい終わり方だった。野球はこれで辞めるつもりだった。
私文狙いの現役時はどこの大学にも受からず、1年の孤独な浪人生活の末、運よく東京大学に合格することができた。
元々野球を続けるつもりはなく、アメフト部から英会話サークルまで色んな新歓を漫然と観て回った。大学生活はゆっくり気ままに過ごそうと考えていた。ふとしたきっかけで、神宮球場に試合を観に行く機会があったのだが、そこで目にした光景が僕の人生を180度変えた。応援団、吹奏楽団、チアリーダー、ファンの方々が一体となって割れんばかりの声援を送る中、懸命にプレーする選手の姿はただただカッコよかった。「自分もあのマウンドで投げたい」そう思わずにはいられなかった。その試合は東大が大敗していたけれども、「俺が抑えて必ず勝つ」そう心に誓って入部を決めた。この想いだけは、今もなお消えることなく心の奥底に秘めていて、苦しい時も自分を鼓舞し続けてくれている。
そんな想いとは裏腹に自分の実力の無さを痛感する毎日だった。所詮、井の中の蛙に過ぎなかった僕には耐えられないくらい毎日がしんどかった。おまけに肘肩痛を抱えていた為、ボールを投げずにトレーニングする日々が続いた。(練習外でも、神宮球場の手伝いに制服ではなくユニクロの私服で行って散々に怒られたりと色々とやらかした。)
話は逸れるが、野球部には授業よりも部活を優先するという暗黙の了解が存在する。この風潮を当時の僕は受け入れることができなかった。元々文科三類から法学部への転類を考えていたこともあって、どうしても大学の成績を高く取る必要があった。そのため練習を休みがちだった僕は、部内で完全に孤立した。練習に行っても一言も会話をせずに、ただ黙々とメニューをこなして帰る日も多々あった。加えて、家が遠いこともあり、朝5時に起きて練習に向かい、授業とバイトを終えて23時過ぎに帰宅し、24時半頃寝る。そんな生活を半年程送っていた。心身共に限界だった。
「野球部をやめよう」、そう考えていた矢先、駒場の食堂の2階から島袋(4年/学生コーチ)に、話があると呼び止められた。「野球部をやめようと思う」、そう彼は切り出した。衝撃だった。なにせ島袋は沖縄初の東大野球部として有名だったからである。人間は不思議なもので、他人を見ることで自分を客観視できるらしい。気が付くと、「今やめるなんて勿体無い。もうちょい頑張ろうよ!」と必死になって島袋を止めていた。それは自分自身への言葉でもあった。
同じクラスの宮﨑(4年/外野手)が早々とリーグ戦デビューを飾る中、何も残していなかった僕は、同期のチアから冗談抜きで応援部のリーダーの勧誘を受ける始末だった。何も言い返せない自分が悔しかった。
「絶対に結果を出して見返してやる」
それだけが僕の全てだった。
沖縄合宿、福岡合宿を経て、2年の秋に初めてリーグ戦のメンバー候補にまでのし上がった。あと一歩という期待感が膨らんでいたその矢先のオープン戦だった。投げ終わった後、激しい腰痛に襲われてまともに歩くことができなかった。診断名は、椎間板ヘルニアだった。心の底から絶望した。
リーグ戦にも出られず、フレッシュリーグで同期が次々と神宮デビューを果たす姿をただスタンドから眺めることしかできなかった。悔しくて言葉にならない涙が溢れ出た。
2年秋の暮。引退する平山さん(R3卒)から「お前は最後抑えろよ」と、19の背番号を引き継いだ。先輩から託された想いを胸に、復帰するためにやれることは何でもやろうと決心した。
そのあと約8ヶ月、ボールを投げられない日々が続いた。体幹、柔軟、栄養管理、できることを最大限やりながら、どうやったら自分がリーグ戦に出られるのか、ひたすら悩む日々だった。一向に引かない腰の痛み。回復するかどうかも分からない恐怖に、就活に逃げることもあった。
3年秋。1つ上の代の一度もリーグ戦の出場機会に恵まれなかった仲の良かった先輩が、「俺の大学4年間、何の意味があったんだろう」、そう言い残して引退していった。自分もこうなるんじゃないかと、底知れぬ恐怖に襲われていた。
4年の春。
同期の齊藤と小髙峯さんがリーグ戦で活躍する姿をスタンドで眺めることしかできない現実。同じ筑附出身として、どうしても負けたくない、負ける訳にはいかなかった。
ここしかないと全力で臨んだ空き週のオープン戦を経て、早稲田戦で初のベンチ入り、初登板、初先発を経験させてもらった。本当に怒涛の3日間だった。無我夢中で、目の前のバッターを抑えることだけに全力を注いだ。今までの苦悩も努力もすべてが報われた気がした。
ラストシーズンを迎えた今。
1年生の頃からチームメイトに迷惑をかけ続けた僕が、今更チーム全体の為にとか、勝利の為にとか言う資格がないことは重々承知している。
ただ、僕が唯一チームに対して還元できること、それは抑えて結果を残すこと。1イニングでも多くスコアボードに0を刻むこと。これだけが、迷惑をかけてきたチームメイトに、支えてくれた両親に、そして、なんとか15年間ここまで頑張ってきた自分自身に、報いることができるのだと確信している。なんとかして結果を残す。なんとしても結果を残す。死んでも相手バッターを抑え込む。その気迫だけは残りの試合も変わらずに持ち続けていく所存である。
勉強、バイト、就活と、、、色んなことと両立しているように振る舞ってきたけれども、ただ野球と正面から向き合うことが怖かっただけ、努力をしたとて結果が出ないのではないかという見えない恐怖に怯えていただけだったのだと今なら分かる。
色々迷い続けた野球人生だったけれど、もう迷わない。
自分にできること。目の前の打者を全身全霊で抑えること。これだけが今の僕の全てです。
お世話になった方々へ
ここにくるまで本当に多くの方に支えていただきました。小中高のチームメイト、監督コーチ、体を見ていただいた理学療法士、トレーナーの方々、ヘルニアのリハビリを二人三脚で進めてくれた豊田さん。どんな天候、どんな試合展開であっても変わらず熱い声援を送ってくれる応援部、チアリーダー、そしてファンの方々。本当にありがとうございました。
両親へ
ここでは到底言い尽くすことなんてできないけれど、ほんの少しだけ感謝の気持ちを伝えさせてください。小学、中学、高校と毎日毎日お弁当を作ってくれたこと。寝坊しがちな僕をダッシュで車で送ってくれたこと。試合のたびに「頑張れ」と笑顔で送り出してくれたこと。なんだかんだ親父も興味ないふりをして、試合の結果とか個人の結果とか気にしてくれたこと。
大学に入ってから、結果が残せない自分のせいで徐々に野球の話をしなくなってしまったけれど、野球部をやめたいと弱音を吐いた時も、どんな時も力強く支えてくれて、こんな自分をいつだって応援してくれて本当にありがとう。
ラストシーズン、最後まで駆け抜けます。
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次回は9/23(金)、松島投手を予定しております。
お楽しみに!