『僕の野球人生』第11回 守屋大地捕手
『僕の野球人生』第11回
『お前が大学生活で捧げてきたのは野球じゃないのか。そんなお前に俺は絶対に負けない。』
大学3年生の夏、就職活動でOP戦を欠席した自分に同期唯一の同じポジションである松岡泰希(4年/捕手)がかけてくれた言葉です。他の同期は就活ならしょうがないと言ってくれましたが、自分の心に深くささりました。野球が心の底から好きな自分と、実績や実力のなさを言い訳にして、野球以外のところでアイデンティティを作ろうとしている自分。 野球から逃げている自分に、野球と常に向き合ってきた同期の言葉は心に残りました。ここから少し長いかも知れませんが、拙い文章にお付き合いくださると幸いです。
野球をいつ始めたのかの記憶はありません。覚えてることは父親の仕事の関係で横浜スタジアムが遊び場だったことと、祖父と父とよくキャッチボールをしてたことくらいです。そんなこんなで野球を始め、小学校4年生で野球チームに入りました。少年野球とは思えないくらい厳しく、練習も好きではなかったですが、チームメイトと指導者の方々に恵まれ、試合に常に勝つことができていたので、ある程度楽しさを感じていました。ちなみに、松岡は実家が徒歩20秒くらいの距離な ので、自分の少年野球時代を知っていましたが、その当時の方が今よりさらに丸かったけど、野球はあの時が全盛期なくらいうまかったと今でも言ってきます。
厳しい練習により野球がそこまで好きでなかったことと、小中高一貫の私立に通っていたので、 シニアとかには進まずそのまま中高の軟式野球部に所属しました。この6年間は野球部の練習こそやっていたものの、野球よりもいかにクラスで目立って人気者になるかを考え、変な行動をしては先生方に怒られるそんな生徒でした。先生方や顧問の方にご迷惑をおかけしたこと、今考えれば本当に申し訳なく思っています。高校軟式野球部では、ずっと試合に出させてもらっていたことに加え、軟式ボールが得意で盗塁をされたことがほとんどないくらい肩が強かったので、相手監督に褒めてもらうことが多く自分は良いキャッチャーなのかもと本気で思っていました。そんな甘い環境で育まれた自信をもった当時の自分は、大学では大学生活をかけて硬式野球をしたい、どうせなら大きな舞台でやりたいと考えていたため、東京大学の硬式野球部を目指しました。成績が低いことが恥ずかしすぎて同級生に東大を受けると最後まで言えなかったのですが、唯一背中を押してくれた恩師や両親の支えと負けず嫌い精神で机にかじりついたお陰で、一浪の末合格するこ とができました。
そうして、意気揚々と東大野球部の最初の練習に行った時、同期や先輩方との差の大きさを痛感し、練習の帰り道情けなさに1人涙したことを覚えています。同期の松岡が春からリーグ戦に出ている中、自分はフレッシュ練にも入れず片岡(4年/内野手)といつも2人で草むらでティー練習をしていました。 (同期の片岡は唯一練習に入れなかったパートナーとして謎の絆が今でもあります。)そんな状況から抜け出したい、この一心で朝から夜までひたすら球場で練習していたのを覚えています。その当時、野球を楽しむより、なんとか認められたいという承認欲求を満たすことに終始していて、 他の人と比べて優劣を測るばかりでした。しかし、今振り返るとここで野球部を辞める選択肢がなかったあたり、相当野球が好きなんだと感じています。
そうして部内での立ち位置を徐々に確立し、試合にも出させてもらい、2年のフレッシュでマスクを被ることができました。3年でAチームに入ることができると、次第に部内で認められたいという思いはなくなっていきました。普通はリーグ戦スタメンで勝利に貢献する、と目標が切り替わっても良いと思いますが、どうせ松岡には勝てないし自分は4年になったらベンチには入れるだろう、ヒットでも打てたらよいな、くらいに考えるようになってしまいました。そうして野球もそこそこに、次の承認欲求の矛先を就職活動に向けました。自主練習を犠牲にして、就活をし、良い企業に行ってお金とスキルを身につけることが自分の成功だと勘違いしたからです。
そのように過ごしてきた大学3年の夏、冒頭に書いた出来事がありました。自分は今まで実力がないことを生まれながらの素質のせいにしていましたが、松岡を筆頭に活躍している同期、先輩方は天性の能力がなくても長年野球に向き合い、多くの練習をしてきていると改めて実感しました。身体能力も低く、野球にもまともに向き合わず、就活や遊びに逃げてきた自分に実力がないのは当然だなと思いました。言い訳して現実から逃げる前に、大好きな野球に真摯に向き合おう。下手くそでも志高く、あと1年弱野球だけを考えてすごそうと思い、就職活動を引退後にすることに決めました。
そして、1年余が過ぎました。この期間に何を成し遂げたかと言われたら、何も実績を残していませんし、まして松岡に勝つことなどできていません。冬には大きな怪我をしましたし、OP戦でも結果を残せず、レギュラーを逃し同期や後輩の活躍をブルペンで見る日々です。慶應戦前の練習でも怪我をして勝利をスタンドから見届けることとなり、不甲斐ない気持ちになっています。しかし、この1年間は今までの人生で1番楽しく、充実していたと感じたのは紛れもない事実です。 野球が上手くなることだけを考えて、様々な指導者のもとや施設に行き体の動きや野球技術を学んで、実践と修正を繰り返す日々。(下手くそな自分に親身になってくださる全ての指導者の方々、本当にありがとうございます。)毎日目に見えて上手くなっていくわけではないですが、長いスパンで見て成長していると感じ、本当に毎日野球するのが楽しくてしょうがないです。今年から挑戦した新しいポジション(新チームになり実績もない自分を温かく受け入れてくれたサードの面々、特に同期の浦田(4年/内野手)と赤井(4年/内野手)には本当に感謝しています。)も楽しくて、あの時逃げなくて本当によかったと思います。こんな日々を過ごす中で、もっと野球がしたいと思うようになりました。
今の自分の目標は、『野球で一人前に稼げる選手になり、上の舞台で東大野球部の同期と野球をする』ことです。進路も実力も実績も何もない自分ですが、就職活動に充てると考えた来年は野球にもう一度挑戦してこの目標をなんとか達成できるようにしたいと思います。 上の舞台で野球を続ける同期との差は大きいですし、そんなお前が野球を続けてもと思う方もいらっしゃると思います。でも、自分を支えてくれる方々が応援してくれる環境の中で、心踊る目標に向けて大好きな野球を続ける。明日仮に亡くなったとしても後悔しない毎日を送る、それが何よりも大事かなと22の若造なりに考えています。まだ遥か遠い目標だと思いますが、井の中の蛙だったお坊ちゃん高校生が東大野球部で神宮で野球をするという目標を掲げてたことを考えれば、いけなくもないかなと楽観的に考えています。
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。こんな何もない自分がここまでになれたのも、両親をはじめ自分に関わってくださった方々のおかげです。最後に各々の方々へお礼だけ書かせていただきます。 僕の野球人生はまだ続くので、後編『松岡を越えた』でまたお会いしましょう。ありがとうございました。
両親へ
常に僕と妹に自由を与えてくれて、本当にありがとうございます。浪人を決意した時ももう1年野球に挑戦したいと言った時も、話を聞いて最終的に背中を押してくれました。2人のような子供の意思を尊重する家庭を作って、子供に同じことをしてあげたいと思います。(そもそも結婚できなさそうだなと考えていると思いますが、)今は大晦日も寮に残り、紅白の裏で野球してしまう、野球バカですが必ず親孝行します。これからも挑戦する過程でご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします。
応援部の皆様、東大野球部のファンの皆様、暑い中も雨の中も応援していただきありがとうございます。応援は心が折れそうな時に本当に支えになります。支えていただく方々に結果で姿で恩返しをすることが自分達にできることだと思います。今後も全力で応えていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。(個人的にはブルペンで聴こえる学生注目が好きなので、今後も楽しみにしています。)
最後まで読んでいただきありがとうございました。本当に最高の同期、先輩方、後輩に恵まれたと思います。最高の同期、後輩と過ごせる1ヶ月を楽しく全力で過ごしたいと思います。
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次回は9/26(月)、赤井内野手を予定しております。
お楽しみに!