フリーパス付きプレミアムパス 2024年度版 販売中!
BIG6 BLOG LEAGUE

東京大学
野球部ブログ

主将 藤田 峻也
  • TOP
  • 『僕の野球人生』第12回 赤井東内野手

『僕の野球人生』第12回 赤井東内野手

『僕の野球人生』第12回

赤井 東 内野手 (4年/浅野)

R40419vsk_1 (864)

R40430vsW①canon (366)

_DSC5617

 

あと1ヶ月で物心ついた時から常に身近にあった野球とお別れするのですが、全く実感が湧いていません。せっかくの機会なので僕の野球人生を振り返ると共に、現在の心境を記そうと思います。拙い文章ですが、少しの間お付き合いしていただけると幸いです。

 

 

 幼稚園の頃、近所の公園でしていた父親との戯れが僕の野球人生の始まりです。チームスポーツという野球における重要な要素を排除した父親と僕の1対1のタイマン勝負。両者ともに二桁得点をする大味な試合を心の底から楽しんでいました。当時使っていたプラスチックバットは今でも家で大切に保管しています。

 小学生になると父親に連れられて、地元の少年野球チームに所属しました。運動神経がそこまでいいわけでもなく、体も特別大きくなかった僕は、入った当初は上手くプレーができずあまり野球が好きではなかった記憶があります。

そんな僕に転機が訪れます。小学2年生の夏、左手を骨折したことです。当時僕は右打ちだったのですが、骨折により右手しか使えない生活を余儀なくされたことをきっかけに右手一本で左打ちの練習を始めました。また夏休みの間、野球の練習以外は室内にこもってゲームばかりしていたため、体重が10kg近く増えました。その結果、骨折が完治した秋にはなよなよした右打者からどっしりした左打者へフォルムチェンジしていました。努力と怠惰の賜物です。これが僕の野球人生の土台となったといっても過言ではありません。

 そこから僕はバッティングが得意になり、大好きになり、ついでに野球も好きになりました。

 

 小さい頃から僕の生活は野球と勉強を軸に回っており、文武両道が1つのキーワードであったように思います。そして中学入学後も当然のように野球部に入部しました。

 中高では毎日のように練習はしていました。しかし熱意を持って野球に取り組んでいるわけではありませんでした。勝ったり負けたり、真面目だったりふざけたり、泣いたり笑ったり。文武両道を目標として掲げていたものの、勉強と野球の両方を中途半端にこなしていたと思います。

毎年初戦負けの弱小校でしたが、高3の夏は運よく2回勝つことができ、3回戦でシード校相手に大敗を喫しました。負けて悔しいという感情はなく、シード校に負けるならしょうがないという気持ちでした。

 高2の頃から大学受験をするのなら最高学府である東京大学に挑戦してみたいという思いがあり、東京大学の受験を決意しました。また中高の1個上の先輩である隈部さんが東大野球部に入部していたこともあり、東京大学に入学できたのなら硬式野球部に入部して神宮の舞台でプレーしたいとなんとなく思っていました。しかし当時の僕は六大学野球を見たこともないし、なんなら6つの大学を言えるかも怪しいレベルでした。

 

 ここまでの文章を読むと薄々分かってきたと思いますが、僕は向上心も闘争心も熱意なく、とても高いレベルで野球をしていいような人間ではありません。しかし入部当初の僕はそんなことを知る由もなく、神宮でのホームランを夢見ていたお気楽野郎でした。

そして神宮で初めて試合を観戦した時、軽い気持ちで入部したことをとても後悔しました。甲子園で活躍していた選手を相手に奮闘するも惨敗する先輩方を見るのが辛かったです。ニュースでは聞いたことがあった東京大学の何十連敗。中高生の時には気に留めませんでしたが、当事者になるとこんなにも惨めで、とてもじゃないけど野球をできる状態ではないと感じました。

 

 大学野球で初めての試合は1年春のフレッシュリーグでした。とにかく投手の球が速く、初打席で中高の恩師からいただいたバットが折れた時は泣きそうになりました。しかし2打席目にボテボテの当たりでしたがヒットを放つことができ、こんな僕でも六大学のレベルに対応できるかもしれないという自信がつきました。

 数日後、左肩を脱臼しました。高校時代にも同様の怪我をしており、2度目の怪我ということで手術をすることになりました。全治半年。僕の大学1年のシーズンは突然終わりを告げました。全くボールに触ることができず、リハビリとランニングの日々。その間にも同期は練習をして実践で結果を残していることに焦りを感じずにはいられませんでした。当時の僕は同期の中で最初に神宮でヒットを打ったというちっぽけな優越感によって支えられていたと思います。

 怪我が完治したのは新チームが発足した11月でした。野球あるあるですが、久しぶりにプレーをすると上手くいくもので、年明けには打撃の調子が良く九州遠征に連れて行ってもらうことができました。この調子で2年の春リーグを迎え、しっかり結果を出すと意気込んでいた矢先、コロナが始まりました。

そこからの期間はあまり覚えていません。コロナ期間はできる練習が限られており、その間に打撃の感覚が分からなくなってしまいました。守備がヘタクソな僕がベンチ入りするためには代打として結果を出す必要があり、そのためにバットを振るものの一度失った感覚は取り戻せず、新しいことに挑戦するも失敗し、いつしか負のループに陥りました。とにかく野球が嫌いで何度も野球を辞めることが頭をよぎる、そんな大学2、3年でした。

 

 神宮の舞台で結果を残している仲間を見るのが辛く、勝利に活気づくチームが嫌で、野球の話で盛り上がる寮にいるのが億劫になり、かと言って悔しさをバネに努力する気力はなく、何もかも嫌になってしまいました。せっかく東大に入ったのなら勉強して将来役に立つようなことを学べば良いのに安易な気持ちで野球をすることを決断し、しかもそれを辞める勇気もない。そんな自分が心底情けなかったです。

 

 チームに所属する上で自分の存在価値とは何なのかを考える日々を過ごすうちに、ただ一つだけ見つかった答えがありました。それはチームの勝利に貢献するヒットを打つこと。やはり自分が六大学の舞台で勝負できるのは打撃しかないし、バットを持って戦わないと一生後悔する、そう思ったからです。

 

 4年生になってリーグ戦に出させてもらっても、リーグ戦でヒットを打っても、それが勝利に結びつかなければ意味がない。チームの勝利に直接貢献したい。スタンドで勝利の瞬間を見届けるのは懲り懲りです。

 おそらく引退まで10試合もないでしょう。そのうち何試合に出場することができるかは分かりません。しかし限られた出番の中で1本でもヒットを打って勝利に貢献することが、僕が大学4年間を通してやり遂げたかったことであり僕の野球人生の集大成だと思います。

そのためにも残り1ヶ月、最後まで足掻き続けます。

 

 最後に、16年間の僕の野球人生に携わってくださった皆様。本当にありがとうございました。ここまで僕が野球を続けることができたのは皆様のおかげです。心から感謝いたします。

 

 両親へ。迷惑ばかりかける愚息で本当に申し訳ございません。そして、ここまで何不自由なく育ててくださりありがとうございます。お二人の息子でなかったら、野球も始めていなかっただろうし、東京大学に入学もできていなかっただろうし、こんなにも幸せな生活を送れていなかったと思います。残り1ヶ月、野球に邁進しますので最後まで見守ってください。

 

 同期へ。みんな最高、それだけです。最後まで一緒に頑張ろう。

 

 まだまだリーグ戦は続きます。チーム一丸となって勝利を掴み取りますので、今後も応援よろしくお願いします。最後までご精読いただきありがとうございました。

 

——————————————-

次回は9/27(火)、浦田内野手を予定しております。

お楽しみに!