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『僕の野球人生』第17回 中井徹哉内野手

『僕の野球人生』第17回

中井 徹哉 内野手 (4年/土浦一)

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僕は団体競技に向いていなかった。人一倍負けず嫌いな僕は同じチームの人にすら負けたくなかった。試合の勝ち負けにはあまり興味がなく、相手ピッチャーとの勝負が楽しくて野球をやっていた。

 

小さい頃から野球を見ることよりもする方が好きだった。幼稚園児の頃は仕事から帰ってきてご飯を食べながら野球を見ている父を毎日引っ張り出しては家の中でスポンジボールと新聞紙バットで対戦した。小学校では授業が終わるとダッシュで家に帰り、ダッシュで学校に戻って友達と野球をした。この頃から野球が大好きな少年だった。しかし地元の野球チームは朝8時から夕方5時まで練習だったため、入らなかった。

 

小4になって、兵庫から茨城に引っ越しした。こっちのクラブは土日午前中のみだけだったし、4年生にもなったからそろそろ野球を始めようと思い、クラブに入った。そんなに強くないチームであったが突出するわけでもなく、2番サードとかで内野安打ばかり打っていた。周りの野球小僧たちと同じように将来野球選手になる夢を持ち、その夢を実現すべく中学に上がったときに強豪硬式ボーイズに入団した。

 

地獄だった。土日朝から晩まで練習、練習とはいってもランニングとトレーニングばかり、飯もたくさん持ってこいと言われ、試合にはもちろん出るどころか近くで見たこともほぼなかった。おまけに同期とも馬が合わず、楽しくなかった。体調が悪いと嘘をついて休んだことも何度かあった。野球をどんどん嫌いになっていった。

そんなとき、中学校の市の大会が始まった。中学の部活で陸上部に入るとかではなく野球部に所属させてもらっていた僕は、ベンチ入りしていない先輩や同期と一緒にスタンドから応援した。結果はそんなに上まで上がれなかったが、楽しい野球がそこにはあった。その大会をきっかけに、自分の実力や能力、可能性を見限った僕は硬式野球を辞めた。

 

どうやって中学の野球部に硬式を辞めたことを伝えたのかは忘れたが、みんな僕を暖かく迎えてくれた(ように感じていたが実際どうかは知らない)。中学の部活は、同期が19人もいて、下の代が3人ずつしかいなかったので、ほぼ1学年のチームだった。僕は投手を務めた。球は遅かったが生まれ持ったコントロールでフォアボールを出さないことと、自陣の守備の硬さがマッチして市内3位、県南一回戦突破と僕らの中学にしては好成績をおさめた。

 

高校でも硬式野球部に入った。この頃から僕はとても自分勝手になっていった。口では甲子園出場と言っていたが、甲子園なんてまあ無理でしょと決めつけていた。僕の悪い癖である。本気で甲子園に出たいなんてことは考えたこともなかった。ただ試合でバッターとしての勝負が楽しくて練習していた。守備は1打席でも多く立てるためにやるものだと思っていたし、同期に内野手が多かったため内野手はさっさと捨てて外野手になった。

夏の大会はあっけなく一回戦で終わり、悔しがる暇もなかった。

 

東大を目指した理由は、きっと誰よりも薄い気がする。特に行きたい大学がなかった僕は、「東大を目指しとけば後からどこにでも志望を下げられる」と思い東大を目指した。他に行きたい大学が現れないまま、最終的に東大を受けられる最低限の実力がついてしまったため東大を受けた。結果は惨敗だった。負けず嫌いだった僕は1年浪人させてくれと親に頼み、1年後合格した。大学でも野球を続ける気ではいたので東大野球部のことは調べていた。プロに行くような選手と対戦できるなんて夢のような場所だと思った。

 

下級生の頃から試合に出たかった僕は、バッティングに自信があったため打てる内野手を目指してやったこともないセカンドで入部した。これは失敗だった。守備が別にうまくなかった僕はバッティングに入らせてもらえず、新入生練習会もインフルで欠席した僕にはアピールチャンスがなかった。夏のオープン戦に代打とDHで2回だけ出場して、外野に戻った。

 

ここからはとても順調だった。守備が上手く足の速かった僕は学生コーチに発見され、Aメンバーに入れてもらった。1年秋のフレッシュでちょびっと結果を残し、冬には不注意で怪我をしたが、合宿にも連れていってもらった。2年春にリーグ戦初出場で初ヒットを打った僕の勢いは止まらず2打席目に逆転のタイムリーヒットを打った。この試合は9回まで1点差で東大が勝っていたが、東大の自滅で負けた。何十連敗を止められそうだったらしい。

僕はそんなに悔しくなかった。リーグ戦初戦だったし、自分の力が通用してどちらかというと満足した気分だった。

 

しかし、みんな泣いていた。特にそのときの主将である笠原さん(R3卒)の涙にはグッとくるものがあった。この日、僕の中で何かが変わった。チームとしての勝ち負けにあまり興味がなかった僕が、この人たちと一緒に試合に勝ちたい、このチームの役に立ちたい、という思いが芽生えた。かつての東大野球部はこんな人間にも夢を見させてくれるとても素敵な場所だった。しかし僕が2年生の間に勝利を挙げることはなかった。

 

3年生になった。先輩の冗談まじりのアドバイスや自分なりに今後のチームのことを考えた結果、ショートに転向することを決めた。内野手の方々は、教えることで自分が試合に出られなくなるという可能性もあるなか、僕に丁寧に守備を教えてくれた。本当に感謝している。色々な人たちに支えられて僕は3年春からショートのスタメンとして起用された。

何もかもダメだった。守備で何個かエラーするのは僕も覚悟していたしチームも覚悟していたことだったと思う(もちろんしない方がいいのだが)。しかし、打てなかった。2年の時に軽く結果を残していた僕は使われ続け、打てなかった。打てる内野手の枚数を増やすことでチームの役に立とうと内野手に転向していた僕の精神を壊すには十分だった。何より一緒に練習した二遊間の仲間に申し訳なかった。楽しかったはずの試合はやりたくのないものに変わり、打席では凡打を怖がってバットが振れなくなった。

そんな僕を置き去りにして、チームは勝った。嬉しかった。不思議だった。自分が全く貢献していない試合で勝って嬉しかったのは初めてだった。そんなチームの一員であったことがとても幸せだった。

 

時は流れ最高学年になった。松岡(4年/捕手)がキャプテンになった。僕は反対した。支持する人たちは、彼が出す厳しい雰囲気が勝つために必要だとかなんとか言っていた。僕からしたらそれは厳しい雰囲気ではなく、自分の思い通りにならないことに対するイライラからくる暴言にしか思えなかった。

 

同期に、そして後輩に謝らなければいけないことがある。僕はもうこの時点でこのチームがよくなることを諦めた。僕の悪い癖である。変わると言った彼の言葉にほんの少しだけ期待したが、ものの見事に打ち破られた。それでも最後の1年楽しい野球がしたかった僕は、チームをよくしようと頑張ってくれている人がいる中、問題が起きても見て見ぬふりをしてただ相手ピッチャーとの対戦を楽しんだ。

 

僕はもうなにがなんでも勝ちたいとは思わない。自分勝手だった僕を変えて、競技野球の楽しさを教えてくれた東大野球部はもう存在しない。誤解されると困るので言っておくが勝ちたくないわけではない。勝った方が楽しいし、勝ち点もとって最下位脱出もしたいに決まっている。でも、それによってまた誰かの顔から笑顔が消えるのであれば、勝利などいらない。

 

あとはもうここまで文句の多かった僕をバカでかい器で受け止め辛抱強く使い続けてくれた井手監督、練習に付き合ってくれた学生コーチ陣に恩を返すために、ずっと僕のことを気にかけてくれる過保護な母親に元気な姿を見せるために、ツンデレで俺に会うたびに全然打てへんやんと言ってくるが本当は僕の活躍を一番楽しみにしている父に活躍を見せるために、でも一番は、僕が1年浪人して手に入れた、プロに行くような投手との対戦機会で一本でも多くヒットを打つために、自分が野球を楽しむために僕は打席に立つ。

 

自分が楽しもうとしてからは、野球もうまくいった。忘れていた。初打席初ヒットを打った時の僕は打席を楽しんでいたじゃないか。今までびくともできなかったインコース低めをライト線に思いっきり引っ張ることができた。怖くて振れなかったファーストストライクの甘い真っ直ぐに手を出すことができ、打球はライトスタンドに消えていった。やっぱり僕は団体競技向いてなかったみたいだ。でも、これが正解なんじゃないか?とも思った。もちろんチームに自分がどうやったら貢献できるかを考えるのは大事である。しかし、チーム内のライバルに勝ち神宮の舞台に立てたのなら、一人ひとりが自分の努力で手に入れたマウンド、打席、守備機会を楽しむ、そうして発揮された一人ひとりのMAXの力の積み重ねによって得られる勝利が一番の近道だと僕は思う。

 

可愛い後輩たちへ

僕は大切な神宮の時間を無駄にしてしまった。そうならないように学んだことを伝えておく。取り入れるか取り入れないかはもちろん君たち次第である。特に、試合に出る人たちに聞いてもらいたい。試合に出ている上で、チームに貢献したい、自分のエラーで負けたらどうしよう、このチャンスで自分が凡退したらどうしよう、など色々考えてしまうこともあるだろう。そんなものは捨ててしまえ。自分を苦しめないでほしい。君がそこを守っているのは君が一番うまいからである。君がその打席に立っているのは君が一番打つ可能性が高いからである。君が打てなかったら誰も打てないし、君がエラーしたら他の人が守っていてもエラーする。そんなことを考えるより、君が今までなんのために勉強し、練習し、アピールしてきたのかを思い出してほしい。この舞台で楽しむためだろ。打てる、守れるから楽しいのではない。楽しむことによって打てるし守れるのだ。神宮で普段通りにプレーする方法はおそらく2つある。1つは練習からガッチガチにプレッシャーをかけて神宮のプレッシャーにも耐えること。もう1つは、練習のように神宮でもおちゃらけて楽しむこと。ブラスバンドに合わせて口ずさんでみたり、投球の合間にチアをチラチラ見てみたり、ツーアウトを二進法の数え方で伝えてみたり。僕は4年秋にやっと思い出した。今、神宮は超絶楽しいが、残り試合はもう少ない。もっと早く思い出したかった。

 

あとこれは面と向かって言いづらいため書かせてもらう。一緒に4年間頑張ってきた同期、特に多くの時間を共にした清永(4年/内野手)、赤井(4年/内野手)、浦田(4年/内野手)。完全に僕のエゴなので聞きたくない人は聞き流してほしい。そんなこと言われたってどうしようもないと言われるかもしれないが、やっぱり俺は一人でも多くの同期とグラウンドで勝利を分かち合いたい。彼らがグラウンドで輝く姿を僕は心から楽しみにしている。それまでグラウンドに居続けられるように僕も頑張る。楽しんで勝とう。

 

最後に

ここまで読んでくれた方は相当僕のことを気にかけてくれていたのでしょう。そんなあなたに支えられて今僕は野球ができています。本当にありがとうございました。

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次回は10/4(火)、林英佑内野手を予定しております。

お楽しみに!

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