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『僕の野球人生』第18回 林英佑内野手

『僕の野球人生』第18回
林 英佑  内野手 (4年/土浦一)

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『10年後のぼく』

10年後のぼくは東京六大学で大活躍をしています。

 

これは小学校の卒業文集の書き出しです。
この当時なぜ東京六大学と書いたのか全く覚えていません。
12歳の10年後は22歳だから大学卒業か、じゃあ東京六大学って書いておこう
そんな程度だったと思います。
早慶戦があることと斎藤佑樹選手(早大/H22卒)がすごいということくらいしか知らなかったですし
東大が東京六大学に入っていることも知らなかったはずです。
まさか東大野球部に入って本当に東京六大学で野球をするとは。

 

そんな自分の野球人生を綴っていきたいと思います。
拙い文章ですが最後までお付き合いくださると幸いです。

 

野球が好きになったこれといったきっかけは覚えていません。
将来の夢はプロ野球選手、特技は野球、趣味も野球、暇さえあれば中日戦の野球中継を見て一喜一憂する、そんな子どもでした。

 

本格的に野球を始めたのは小3の時、地元の少年野球チームに入りました。入る前までは野球中継を見るとか父親と野球ごっこをする程度だったので、野球のプレーやルールなど教えてもらうことが知らないことばかりで新鮮で夢中になって練習していました。最初のポジションはサードでした。お前の右に出るサードはいないとか何とか言われた記憶があります。理由はわかりませんが、打球を飛び込んで捕るのが大好きでそれを練習で毎回やっていたことなのかなと勝手に解釈しています。その後はいろんなポジションを経験させてもらいました。ショート、セカンドはもちろんやりましたし、小6になると外野に回されレフト、センターそして突然キャッチャーになり、最後はピッチャーもやりました。使い勝手のいい選手だっただけかもしれませんが、この時にほぼ全てのポジションを経験したことは今後の野球人生で少なからず生かされたのではないかなと思っています。そんなに強いチームではなかったので、勝ったり負けたりでしたが、勝った時は喜び、負けた時は悔しくて涙したりと野球を純粋に楽しんでいました。

 

中学では、硬式のクラブチームで通用する自信が全くなかったのと少年野球のチームメイトも部活で野球を続けるメンバーがほとんどだったので、中学校の軟式野球部に入部しました。最初はなかなか試合の出場機会に恵まれませんでしたが、2年生の頃からスタメンの多くが3年生の中、ショートで試合に出してもらえるようになりました。そして、最終学年ではエース候補が転校してしまったこともあり、キャッチボールで投げるボールが強かったことと投手経験があったという理由で投手を任され、打撃もそれなりに良かったので、エースで4番としてチームを引っ張りました。自分の出来が良ければ勝つし、悪ければ負ける、自分の実力が試されている気がしてとても楽しく、充実していました。そして迎えた最後の大会、市大会は突破したものの、県南大会では不甲斐ないピッチングをしてしまい、途中でマウンドを降り、打撃でも調子を落としていた中で最終回1点ビハインドの2アウト1,3塁という絶好の場面で打席が回ってきましたが、監督のサインは大会前に用意していた秘策のホームスチール。見事に失敗し、最後のアウトを打席の中で迎えました。試合に負けた悔しさと自分の不甲斐なさでチームを負けさせてしまった責任を感じ、負けた瞬間から涙が止まりませんでした。試合会場から学校に戻った後もまた泣いてしまったのを覚えています。この悔しさは高校野球で晴らそう、そう決めました。

 

高校は地元で1番の進学校である土浦一高に入学しました。前述の通り中学時代はエースで4番だったので、(今思えば井の中の蛙なのですが)自信とプライドがあり、進学校の野球部ならすぐに出られるだろうし活躍できるだろう、そんな気持ちで入部届けを出しました。しかし、自分の考えは甘かったのだということにすぐに気づきました。先輩はバッティング練習で軽々と柵越えを放つし、同期も中井(4年/内野手)や西山(4年/投手)をはじめ、自分より速いボールを投げる選手、足が速い選手、守備が上手い選手と、自分が思っていたよりも能力の高い選手たちばかりでした。投手としては入部早々に見切られ、内野手としてプレーしていくことになるのですが、2年夏までは公式戦に出場することはありませんでした。それでも1学年10人ほどだったし、さすがに最終学年になれば試合に出られるだろうと思っていました。しかし、新チームでの僕の定位置はレギュラーではなく3塁コーチャーでした。守備は上手いと言われながら打撃で結果を残せず、1年通してほとんどA戦に出られませんでした。野球人生で初めての挫折でした。試合に出たい活躍したいという気持ちとは裏腹に試合にほとんど出られないという悔しさと活躍する同期たちに対する羨ましさ、そして自分の無力さを痛感しました。最後の夏が近づいてくると次第に自分が試合に出ることを諦めるようになっていました。今からどれだけ頑張ってもどうせ大事な試合で出ることはないだろうな、でも最後の夏の大会で思い出出場くらいはできるだろうからそれで引退でいいやくらいに思っていました。この時はどうしたら自分が試合に出られるのか、チームに貢献できるのかを考えずにただ練習をこなしているだけで本気で野球に向き合えていなかったのだと思います。そんな状態で最後の夏を迎えました。チームは初戦で完敗。チームに思い出出場なんてしている余裕はなく、最後の夏も出場せずにあっけなく終わってしまいました。本気で野球に向き合えなかったからこそ悔しさもなく、涙もほとんど出ませんでした。正直、やっと終わった、解放されたという気持ちの方が圧倒的に強かったです。こうして中学の悔しさを晴らそうと始まった高校野球は結局何もできずに幕を閉じました。

 

でもここで野球をやめようとは全く思いませんでした。

 

気づいたら東大野球部に入るために必死に勉強していました。

 

というのも志望校は高校に入った時から東京大学で、中学生の頃から文武両道が自分の強みだと思っていた僕は文武両道の頂点とも言える東大野球部で野球がしたいと思っていました。

 

高校野球で何もできなかった自分が野球を続けてうまくやっていける自信は全くありませんでしたが、野球人生の最後の挑戦だと思って東大野球部を目指しました。

 

1浪の末、運よく東京大学に合格し、真っ先に東大野球部の入部を決めました。

 

1年の頃は守備がそれなりにできるのを評価していただき、秋のフレッシュで神宮を経験させていただきましたが、徐々に打てないことが露呈し、2年春にはBチームのオープン戦にすら帯同することができなくなっていました。当時はAチーム優先のチーム方針だったので、バッティング練習には入れず、守備練習もグラウンドの隅にベースを置いて仮のダイヤモンドをつくり、リーグ戦前のAチームの練習を横目に細々とノックを受けていました。チームには必要ないと言われているようで何のために練習しているのかよくわからなくなり、練習に行くのが嫌でした。そんな矢先、コロナで野球部が活動停止になり、とにかく現実逃避がしたかった僕はすぐに実家に帰りました。実家に帰ると、弟が足を速くすると言ってYoutubeを見ながらスプリントトレーニングをしていました。足なんて速くならない、才能だよと思っていた僕でしたが、特にやることもなかったので、一緒にトレーニングすることにしました。その結果、コロナ明けの走塁練習のタイム計測では、以前より明らかに速くなっていました。まさかとは思いましたが、足の速さでさえ練習次第で向上するのだからバッティングや守備も練習して上達していけば良いのだと気付きました。これは当たり前のことかもしれません。でも高校時代から自信を失っていた自分にとっては大きな発見であり、野球へのモチベーションが再び高まるきっかけになったのは事実です。弟には本当に感謝しています。そこからはとにかく自分の能力のレベルアップだけを考え、練習に励むようになり、結果もある程度ついてくるようになりました。

 

それでも2年、3年とリーグ戦の出場どころかベンチ入りも叶いませんでした。入部して初めての勝利もスタンドで観戦し、勝利という事実は嬉しかったものの、メンバーに入れなかった悔しさと活躍する同期たちに対する羨ましさ、そして自分の無力さをまたもや痛感しました。このままでは試合に出られず、何もできずに終わり、高校時代の二の舞になってしまう。そんな気持ちを抱えながら最終学年を迎えました。

 

高校時代の僕であればここで腐っていましたが、4年も経つと人は成長するもので、自分の置かれている立場や現実と向き合い、自分がリーグ戦に出て、勝利に貢献するにはどうしたら良いのかを考えていました。

 

リーグ戦に出る選手=チームが勝つために必要な選手

 

守備がうまいとか遠くに飛ばせるとかそういうことではなく、チームが勝つために少しでも必要だと思ってもらえる選手を目指そうと思いました。

 

守備はうまくやろうとせず、アウトにする確率を高めることだけを考えるようになりましたし、打撃もクリーンヒットでなくても詰まったポテンヒットやフォアボールでもいい、どんな形であれプラスを作ればいいと割り切って考えられるようになりました。こうした気持ちの持ちようが功を奏したのか、春のオープン戦で今まで経験したことないくらいヒットを放ち、春のリーグ戦では見事にベンチ入りを果たし、スタメンでも出場することができました。でもチームは1勝も挙げられず、自分の出た試合も全て負け試合でチームに貢献しているという実感は全くありませんでした。チームに必要な選手にはまだなれていませんでした。

 

夏はより一層チームの勝利に必要な選手になろうと練習に励みました。守備の安定感がさらに増し、首脳陣や投手から英佑が守っていると安心感があると言われることも多くなりました。チームに必要な選手になってきていることを実感できました。4年間で1番充実した夏を過ごすことができました。

 

そして迎えたラストシーズン。慶應1回戦で今季初勝利。終盤の2イニングを守り、特に何かしたわけではありませんでしたが、チームの勝利に少し貢献できたという達成感があり、チームに必要な選手として認められたような気がしました。

腐らずに諦めずにやってきて本当に良かったと心の底から思いました。

 

さて、この文章を書いている最中、明日(10/2)ベンチから外れることが決まりました。

まだまだチームに不可欠な選手にはなれていないということです。

引退までの残り3週間も引き続きチームの勝利に少しでも貢献できるように日々精進していきます。

 

両親へ

僕が何不自由なく大好きな野球ができているのは両親の支えがあってこそのことです。試合に出られない時期の方が長かったですが、ずっと見守ってくれて応援し続けてくれて本当にありがとうございます。大学野球も残りわずかですが、神宮での晴れ姿をできる限り見せられればと思っています。

最高の両親です。ありがとう。

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次回は10/5(水)、林遼平内野手を予定しております。

お楽しみに!