『僕の野球人生』第23回 井上遼太郎外野手
『僕の野球人生』第23回
僕は今まで沢山の人に支えられ、応援されてきました。僕が野球をやっているのは、そんな方々に野球を通して恩返しがしたかったからです。月並みではありますが、この場をお借りして感謝の気持ちを伝えさせていただきたいです。
島袋(4年/学生コーチ)、小野(4年/学生コーチ)、隆成(奥田/4年/学生コーチ)へ
選手の道を諦めて、今までの努力や経験、野球への情熱や勝利への想いを全て僕たち選手に託してくれた3人には本当に頭が上がりません。愚痴も我が儘も泣き言も、全部真摯に聞いてくれてありがとう。託された分は、絶対に無駄にはしません。
応援していただいた方へ
1年生で初めて部員として神宮に行った時にこんなにも沢山の人に応援されるものなのかと感動しました。今まで頑張って来られたのは間違いなくその応援のおかげです。本当にありがとうございます。
リーグ戦にもまだ出ていないし誰?って感じだとは思いますが、これからも東大野球部のことをよろしくお願いします。
ご指導してくださった方、トレーナーの方
未熟な自分に色々なことを教えていただいたおかげで肉体的、技術的にも、そして精神的にも大きく成長することができました。選手としてプレーで勝敗に関与していないことは残念ではありますが、指導していただいたことは全て自分の糧となっています。本当にありがとうございます。
後輩へ
先輩をアルファベット一文字で呼ぶような大概舐めたやつばっかり。それでも親しく接してくれたこと、たまーに頼ってくれたこと、落ち込んでいる先輩を励ましてくれたこと、みんなと練習してきたその毎日が僕の大切な思い出です。今までありがとう。そしてこれからも頑張ってください。
同期へ
チームのために個人を捨てたり、野球が超大好きで努力したりする姿はずっと僕の尊敬、憧れの対象です。そんな人たちと、最後の最後の瞬間まで一緒に闘えたことを誇りに思います。今までありがとう。そして、勝とう。
あと、寂しいので引退後も仲良くしてください。
家族へ
家族には本当に色々な面で支えてもらいました。4回もした手術ではまともに歩けない自分を送ってもらったり、オープン戦でも足を運んで見にきてくれたり、考え出したらキリがありません。これまで何不自由なく野球をできたのも、心が折れずに努力をし続けられたのも間違いなく家族のおかげです。本当にありがとうございました。
さて、僕の野球人生で伝えたいことはほぼ書き終わってしまったのですが、一応野球歴的なものも書いてみました。とっ散らかっていますが、お手隙の際に読んで頂ければと思います。
野球を最初にやった記憶は、幼稚園の頃だった気がします。母に投げてもらったボールをプラスチックのバットで思い切り打ち返し、高々と上がったボールを見るのが好きでした。小学校に上がると、何か1つのクラブを選ぶことになりました。サッカーか野球をするか迷っていた自分は初めて知った野球選手である松井秀喜選手のTシャツを着て体験会に行きました。確か、風が強かった日だったと思います。サッカーボールがしょっちゅう風で転がっていくのが鬱陶しくて、野球を選びました。きっかけは些細なことでしたが、思えばこの時、僕の野球人生は決まっていたのかもしれません。
小学1年生の時に程なくして、父の仕事の影響で海外に移住しました。現地にあった野球の日本人チームは1チームしかなかったのでソフトボールのチームに入りました。体がデカかった当時は4番、ショート(!?)、キャプテンで結構活躍していた気がします。
筑駒に入学して、野球を再開しました。この時もまだ体がデカかった(筑駒比)自分は運良く4番を打つことができました。ちなみに、投げるのが下手なのはこの時からな気がします。
高校に入って最初の夏大会初戦は神宮での開幕戦でした。日大二高にコールド負けした後、当時主将の啓資さん(田中/R4卒)が最後くらい泣くなと言っていたのは今でも忘れません。いつも以上にカッコよく見え、啓資さんともう野球ができないのかと思って、試合に出てもいないのに大泣きしました。
最高学年になった時、監督が東大OBの朝木監督に代わりチームの4番、副将と重要な役割を持たせてもらえました。その代の秋も春も勝てなかったですが、少人数のチームながらなんやかんや楽しく、このままチームを引っ張っていい感じで野球を辞められたらいいなとか思っていました。
高3の5月末に、その理想はあっさり崩れました。右足首を捻って、折りました。病院に行って全治3ヶ月以上、手術も必要と言われたとき、悔しさよりもまずチームメイトにも、今まで応援してくれた両親にも、一番期待してくれていた朝木監督にも、本当に申し訳ないことをしたと思いました。その時、野球を続けて、活躍する姿を見せることで何とか今までの恩に報い、罪滅ぼしをしたいと思いました。これが、東大野球部に入ろうと思ったきっかけです。
東大野球部に入ってからは一瞬でした。井手監督の就任初日に前十字靭帯を切って全治9ヶ月の怪我を負ったり、2年秋のフレッシュで初めて神宮で打席に立ってめちゃくちゃ興奮したり、結局その1打席しか貰えずに泣いたり、小松庵で生活するようになったり、Aチームに入れずにそこで発狂したり、小松庵に同期がわらわら来て酒を飲まされ大泣きしたり、初めてホームラン打ったり、リベースに入ったり、色々なことがありました。3年生まで結果が出た時こそあまり多くはなかったものの、4年生で選手として認められ仲間と共に神宮で躍動することを考えながらする練習はキツくはありませんでした。
最高学年になって、冬くらいから少しずつ今までやってきたことが形になってきたように感じられました。同時期に、今までずっと選手としても人としても尊敬していた宮﨑(4年/外野手)や阿久津(4年/外野手)、別府(3年/外野手)や梅林(3年/内野手)、他にも色々な人にバッティングやトレーニングを聞きに来る人がいて、このチーム内でやっと自分の役割を見つけられたような気がして、本当に本当に嬉しかったです。今までめげずに努力してきて本当によかったと思いました。より一層練習に打ち込むようになったと共に、少し調子に乗りました。
そして春の実戦の打席では、アホみたいに三振しました。今まで妄想していた、打ちまくっている自分の姿とはあまりにもかけ離れていて、自分のやってきたことを打席の結果に全否定されたようでした。自分よりもっと色々なことを積み重ねてきた同期、後輩は自分の手の届かないところへ行ったり、抜き去って行ったりしました。当然そんな選手のリーグ戦出場なんて叶うはずもなく、5月にBチームに落とされました。
その時は、正直かなりしんどかったです。
今まで大好きだった同期が、後輩たちがリーグ戦に出ている姿を見て、もしこの人たちがいなければ、自分より下手だったら、島袋たちが自分のことを使ってくれれば自分がリーグ戦に出ていたかもしれないと思ってしまう自分が心底嫌いになりました。同時に、いくら頑張っても努力に応えてくれない自分も嫌いになりました。午後練に備えてAのバッティング中に1人でアップしているときに「あれ、俺何やってんだろ」と何度も思いました。それでもなお秋での活躍に縋りつき、春のリーグ戦が終わってからも出来ることを続けました。
そんなことをしていたらやっと少し結果が出て、運よくAチームに上がることができ、夏の遠軽合宿のメンバーにも選ばれました。今まで一緒にいた同期とは下手したら二度と一緒に練習も野球もできないと覚悟していた中、同期の多くと合宿に行けるなんて幸せだと思いました。ここから結果を出して、秋に活躍する。最後は仲間と笑って引退する。そのことしか考えていませんでした。
そう思っていた矢先、合宿の練習初日に指を折りました。その時ばかりはただただ自分の運命を呪いました。そして次の日に遠軽から東京に帰る飛行機に1人で乗りました。悔しいとか情けないとか以上に、本当に寂しかったです。
東京に帰っていつもお世話になっている病院で診てもらうと、全治3ヶ月と言われました。その時、自分はもう神宮で試合に出ることはないんだなと思い、選手の道を諦めることを真剣に悩みました。そんな時に頂いた励ましの言葉には本当に本当に救われました。そして頑張って欲しい、活躍を見たいと願う人の想いを無駄にしないために、まだみんなと野球ができる可能性を信じて、左手を手術しました。それから、元々無かったような守備と走塁を完全に捨てたり、曲がらない指でも握れるようにバットをめちゃくちゃ太くしたり、全く骨がくっついていない状態でバッティングしたり…書いていることは大層ですが、不思議と練習自体は辛くなかったです。
そしてそんなこんなで今に至ります。
まだ薬指は耐えているし、先日Aチームに上がって、またたくさんの同期と練習でき、何より、まだリーグ戦出場の可能性が残されています。最後まで皆と夢を追い続けることができ、僕個人として野球への後悔などあろうはずもありません。残された僅かな時間は今まで頂いたもの、かけてもらった気持ちを少しでもお返しするために、冒頭の言葉では伝えきれなかった感謝を伝えるために、最後までもがいてみようと思います。
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次回は10/12(水)、月原外野手を予定しております。
お楽しみに!