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『僕の野球人生』第27回 奥田隆成学生コーチ

『僕の野球人生』第27回
奥田 隆成 学生コーチ (4年/静岡)

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10月14日20時44分、明日投稿の「僕の野球人生」を大急ぎで書いているところだ。隙間時間を見つけて執筆していなかったのは私の落ち度だが、最大の原因は多忙極まりない学生コーチの日々だろう。

 午前は全体練習、午後は各個人にマンツーマンの指導やノック、夜は治療、深夜は分析(、合間に授業笑)と休まる時間の無い毎日。とはいうものの、特段忌避感もなく目標に向かって充実した日々だからこそ継続できているのだけれど。長い前置きになったが、まぁそんな訳で時間の無い中作成しているので多少の拙さと冗長さはご容赦願いたい。さて私の野球人生を読んだ誰かの思想や行動に、少しでも良い影響が及ぼせたらという思いで執筆していく。



 私にとって野球人生とは、ほぼ等しく人生そのものであると初めに述べておく。私の人格を形成したのも、私の人生を彩ったのも、私の他者との関わり方を定めたのも「野球」であるからだ。



 初めて野球に興味を持ったのはいつだろうか、両親曰く父親を真似て剣道よろしく木の棒を振り回していたのが始まりだと。自分が覚えている限りでは、幼少期の夏休みに祖父母の家で「メジャー中継」と「アニメMAJOR」を毎朝見ていたのが野球との出会いだと思っている。

 小学生時代は初めから野球チームには所属しておらず、友達と公園で遊び野球が日課だった。高学年の頃に週一の小規模な野球教室に通い、小6の時に友達の誘いでソフトボールチームに入団した。同期は15人ほど居たが入ってすぐリードオフマンを任された。自分を過信しかけたが、対外試合では負けばかりのチームだったので変に奢ることがなかったのが不幸中の幸いだった。

 当時の野球観はただただ打って走って投げて守る、これが楽しいというもので、勝利への執着心や組織としてのあり方などは微塵も考えていなかった。



中学に入ると、1つ目の転機を迎えた。野球への向上心だけは1人前だった当時の私は、部活ではなく地元に新設された硬式野球チームに入ることを選択した。元静岡高校の監督で甲子園にも導いたことのある船川監督のもと、元静岡高校野球部のOBがコーチを勤めるというチームで、憧れと期待を胸に入団した。

 やはりというか、先述通りの評判のためか新チームにもかかわらず同期は40名を超えた。

 先輩こそ居ないものの、腕に覚えのある選手たちに私は簡単に埋め尽くされてしまった。華々しい夢を描いていた訳でもなかったので、その事実で挫折することはなかった。しかし、真に大変だったのはチームの雰囲気と練習の厳しさであった。週4回計20時間程の練習だったがその殆どが体力強化のメニューで、バットを持ったと思えば連続スイングと猛烈なしごきだった。小学校お決まりのマラソン大会では下位1割程の常連だった私にとって生き地獄といっても過言ではなかった。また毎日事細かな野球ノートを書くことが要求され、しっかりと書いていないと厳重注意されたものだ。

 当時を振り返ると再度取り組みたいとは思わないが、非常に自分の糧になったと確信できる。辛いトレーニングに必死にしがみつき、気づけばチームでも指折りの体力お化けになっていた。何よりも、決して物事を諦めない不撓不屈の精神が宿ったのはこの時期だと思う。

 日々綴った野球ノートも、最初は野球のことばかりだったが次第にチームに対する内容が増えていったと記憶している。最近になって偶然当時の紙切れが出てきたのでそれを見てみると、中学生なりに大人びたことを書いていて驚いた。当時の私は今の私が思うより成熟していたようだ。

曰く、

「(〜自チームが最終回に逆転負けしたことを受けて〜)強いチームが相手の時は一瞬の心の隙が明暗を分けることを実体験しました。星稜が大差を逆転されたように、実力差の拮抗するチーム同士でさえ心のあり方一つで試合の結果は大きく変わると知りました。これは今後の人生において決して忘れてはならないと感じました。同時に終盤に追い上げたチームの一体感をいつでも生み出せるよう取り組んでいきます。」

「このチームで戦う試合は次が最後。残りのひと月は緊張の糸を張り詰め、集中力を高く保ちたい。全員が勝利に向いていなければ向かせるようにして大会に臨みたい。」

流石に自画自賛である。まぁ見方を変えればマセガキではあるけれど笑。ともかく、私の野球観は中学三年間で団体競技としての色を強めていった。



 そんなこんなで心も身体も3年かけて割と鍛えられた私は、親から授かった学力をいかして県下トップレベルの強豪静岡高校の門を叩いた。当時の監督、栗林先生との出会いが人生における最大の転機だった。栗林先生は野球の技術を教えるよりも、野球というスポーツの特性・野球に対する取り組み方といった面を教えて下さる方で、実績が物語るとおりの紛うことなき名将だ。

 先生の教えの中でも今でも自らの指針として心に留めているのは「勝負は準備で八割決まる」、「気配り目配り心配り」の2つだ。特に準備に注力することに関しては、私の愚直に努力する性質とも相まって自身の中で確固たる核として育まれた。

 高校野球で得たもう1つの財産は、中学の頃に薄らと気づき始めた「心の大事さ」をより明確に理解し、そしてその鍛錬方法の一つを学んだことだ。静岡高校には県内の有力選手が集まるため栗林先生の指導方針は、元々の実力を出しさえすれば実力通りに勝ち切れることを前提とした心を中心に据えたものだった。実戦に似た練習メニューは常に失敗の許されない雰囲気で行われ、試合で受けるプレッシャーに普段から晒されることでメンタル強化がなされた。この練習は常にどんな局面でも「普通」であることに重きが置かれ、これは野球以外の場面でも重要なスキルだと感じる。

 

 話は変わり、東大を目指し始めたきっかけはというと、それは怪我である。元々それなりに勉強は出来るほうで東大への憧れはあったが、「野球をしに東大へ行こう」と思ったのは高2の冬に全治半年の大怪我をしたからだ。

 少し話が遡ってしまうが、私が高2の秋に母校は東海大会を制覇して神宮大会に出場し、春の選抜甲子園の出場を決定した。神宮大会までは運良くベンチに入り込んだが、私自身は春にはベンチ外になってしまうだろうという焦燥感があった。それまでも決して努力は欠かさず、毎朝7時過ぎにはティーを打ち始め夜23時頃までグラウンドにいるようにしていた。しかし、流石は静岡高校というのか後輩でさえ圧倒的な実力で今にも追い抜かれそうであった。そこで当時右打ちではあったものの、秋大会終了後に癖のないフォームを獲得すべく左打ちに転身した。それまでにもまして必死にバットを振り続け、トレーニングにも励み、オーバーワークを見越してストレッチにも注力した。けれども現実は残酷で、選抜を控えた2月に腰椎分離症が発覚した。当時は痛みもお構い無しに練習していたが、明らかに動きがおかしいことをコーチに指摘されて半ば強制的に診断を受けた結果である。初めて野球で泣いた。それも診断を受けろと言われた段階で、だ。正直、診断を受けたら取り返しのつかない怪我をしていることは何となく分かっていた。あぁ、こんなに早く終わってしまったなと、悔しさの極みであった。

 元々春以降に選手として貢献出来る可能性は低いと自覚していたこともあり、立ち直りは早かった。すぐさまリハビリの傍らでチームサポートを始め、学生コーチに近い役割を担った。死に物狂いで野球にかける友を、全力でサポートすることはなんの苦でもなく、むしろやり甲斐さえあった。しかし、あまりにも早く選手人生が終わってしまったことで、まだ高いレベルで野球をしたいという気持ちが強まった。初めに戻るが、ここで日本最高峰の六大学野球でプレーしたい思いが生まれたのである。しかし、私大では試合に出れる可能性は無いに等しいのも現実であるため、東大に入り他大学の選手達と渡り合うことを目標にしたのだ。



 浪人の末なんとか東大に合格すると、もちろん結果発表の数日後には練習に参加した。大学では盲目的な練習をやめ、正しい知識を獲得しその上で正しい努力を積み重ねることを目標にし実践した。

 1年時には春のフレッシュにスタメンで出して頂き、怪我で数ヶ月離脱したものの秋フレッシュ直前に復帰してアピールに成功してベンチに滑り込んだ。しかしながら、そこで出場機会に恵まれず飛躍することはなかった。フレッシュ後の静岡で開催された新人戦では、活躍こそ出来なかったが打席を拍手で迎え入れてもらい、とても感動した。選手としての野球人生においては最も嬉しかった場面だ。2年時は夏以降、元々の怪我が再発しかけ満身創痍でフレッシュに出場したがやはり結果は残せなかった。

 その後に迎えた学年ミーティング、議題は学生コーチの選出であった。先に断っておくと、その時点では学生コーチにはなっていない。当時の自分はまだ将来を見込まれていただろうし、実力もある程度あったので、競走に敗れた者が学生コーチになるという側面では適任ではないと判断し立候補しなかった。だが、高校時代にコーチ的役割を担った私としては、自分がチームを運営した方がよっぽど良く回せるとは思っていた。そんな思いがありながらも踏みとどまったのは、本当にこのチームのためにコーチとして寄与できるかという疑問だった。高校時代の友と比べてしまうと、野球に対する熱量はどうしても弱いし、まして自分よりも努力も思考もしていない選手が多い中、自己犠牲する気にはなれなかったのだ。

 時は流れて3年春。前年から続く怪我の再発が完全なものとなり、2度目の腰椎分離症となった。尋常ではない痛みで、実際腰の骨が3本折れていると聞けば選手は断念するかという思いが浮かび上がった。それでも半年程で痛みが引く可能性が高いという言葉を信じてリハビリしたが、やはり1度経験した怪我であるからか、今回は前回とは訳が違い復帰は無理だということも半ば感じ取っていた。

 立つのも寝るのも座るのも痛いときて、頑張ることすら出来なくなるという人生で初の挫折を味わった。壁にいくらぶち当たっても必死に手をかけ足をかけ登ればいいが、最早その手足をもぎ取られた気分だった。やるせなくなってしまい、3年秋には部活に顔を出せなくなった。昨年の4年生には大変に申し訳ないことをしてしまった。冬場もコロナ自粛と重なり結局殆ど部活動には関わらなかった。部に出ない間はまさに精神的な死だったと感じる。一度出なくなると顔を合わせづらい負の連鎖はもちろん、復帰するならば学生コーチと決めていたが、あることが引っかかって踏ん切りがつかなかったのだ。一度決めたら半端は許さない性分から、以前から感じていた自己犠牲に足るチームかどうかという問が残存していた。

 コロナも収まり部活動も軌道に乗った二月末、和人(伊藤/4年/外野手)と小野(4年/学生コーチ)から連絡があった。まだ問いには決着はついていなかったが、頼りにされているのならばと決心し復帰した。きっかけをくれた2人はもちろんのこと、昔通りの態度で接してくれた同期と後輩には感謝の気持ちしかない。

 

チームに復帰すると、持ち前の打撃の知識をいかしていわゆる〝コーチ〟としての活動に邁進した。東大では選手起用も学生コーチが考えるが、その部分は秋冬とチームを見てきた小野と島袋(4年/学生コーチ)に任せ、自分は他の面を支えようと考えたのだ。その活動の中で、自分の取り組みの支えとなったのは宮﨑(4年/外野手)と浦田(4年/内野手)である。宮﨑とは出会った頃からバッティングのメカニクスについて語り合う程のバッティングオタク仲間で、チームの打撃長の彼が私を頼ってくれたことで他の選手も私に話を聞いてみようという雰囲気になったのだと思う。浦田とは選手時代によく個人練習をペアでしており、その点で自分を信頼してくれ、春のリーグ戦期には二人三脚でバッティングに取り組み見事結果を残してくれた。これにより宮﨑の時と同様の効果があったように思う。

 春リーグが始まり暫くすると、ある種〝監督〟としての役割も持つようになった。大きな契機は明治戦。慶應戦も疑問点はあったが、あまりにも大敗。加えて起用にも問題ありと私は感じた。そこで、それまでは躊躇っていたが起用にも口を出すことにした。

 そこからの日々は怒涛であった。やること、いや、新たにやれることは多岐にわたり、冒頭のような生活になった。睡眠時間も3-4時間くらいで、まさに身命を賭した半年間であった。やり甲斐はあったが、度重なる問題に頭を悩ませ部分的に白髪も生えた笑。

 最大の問題は、学生の立場であるにもかかわらず選手起用に関して多大なる権限を有していることに起因する。コーチとして選手をチームの勝利に向けて最適に起用しなければならない一方、一部員としては頑張っている選手には等しく報われて欲しいし、なんなら同期には他に増して晴れ舞台に立って欲しいと思ってしまう。その葛藤に悩まされ、なかなか眠れない日もあった。メンバー選定当日など、吹っ切れない日は人の出払ったグラウンドで1人走った。選手の苦しみくらいは自分も味わっておこうという完全な自己満足ではあるのだが…。

 結局のところ、何故学生コーチになり身を粉にして勤めたかといえば、一重に東大野球部として神宮の舞台で功績をあげるためである。そのためならばプライベートなど無価値に等しく、部のメンバーにどう思われようとも自分のなすべきことをなす気概で取り組んだ。

 

今まで主軸だった選手を下位に据えた。レギュラーだった選手を簡単に控えに回した。ベンチメンバーだった選手をベンチから外した。Aチームの選手をBチームに降格させた。

 

 裏を返せば他の人にチャンスを与えたわけではあるが、悪影響を受けた当事者からすればこちらの意図がどうであろうが私に対して負の感情を抱くのはいたって当然だ。どう思っていたとしても構わないし、これからどう思われたとしても、私は私の行いに悔いはない。悔いがあるとすれば、やりたいことがまだまだ沢山あったのに出来なかったこと。しかしながら、自分のクローンでもつくらない限りは不可能だったので致し方ない、かな。同期の学生コーチや後輩スタッフ達とも、もっと野球に関して議論を交わしたかったし共感を得たいこともあったが、事ここに至ってはどうしようもないね笑。

 

 私の生来の性質は、圧倒的な負けん気の強さと自分自身に対する集中力。しかし、野球を通して私の人格は良い方向へと形成されたと感じる(少なくとも私の価値観では)。そう断言できるのは、野球部員として目配り気配りを徹底してきたこと、学生コーチとして様々な選手の思想を真っ向に受け取り対話を繰り返したこと、コーチとして自己リソースを惜しげなく他者に注ぎ込んだこと、これらの経験を乗り越えた自負があるから。苦しい経験を通して、私の人格は自己的から他己的へ、言い換えれば自己犠牲への忌避が薄れていった。

 野球で得た経験はこれからの野球が中心でない人生においても、きっと役立つと確信している。三度の飯より野球好きの私にとってこの先野球に関わらずに生きる将来があまり想像できないが、何かまた縁があれば野球と繋がっていたいという我儘でもって長く濃密な野球人生を一旦締めくくろうと思う。その時があればまぁ、その、野球観に柔軟な大人になりたいなぁ。笑




最後になりますが、感謝の言葉を綴らせてください。

 

同期選手へ。

 俺の勝ちたい勝たせたいという気持ちが先行しすぎて、今までになく前例のないことを多く実行してごめん。不満はあっただろうけど、信じて取り組んでくれてありがとう。法政戦勝って最後に笑って終わろう。

 

同期学生コーチへ。

 学生コーチとしてはぽっと出の私に対し、ただ野球の経験が豊富だからと、様々な便宜を図り自由に発言させてくれたことは本当に感謝しかない。正直出しゃばりすぎだろとか言われたくなくて、最初は控えめに行動してた笑。そんな2人とチームの舵を取れたこと誇りに思う。最後までやれることをやり切ろう。

 

後輩へ。

 怪我もあり後輩たちとまともに野球をした時間は極わずかだったし、暫く離れてさえした奴の話をしっかりと受け止めてくれてありがとう。今年はもう優勝することは叶わないけど、来シーズンも常に高い目標を目指して頑張って欲しい。

 

梅林(3年/内野手)と臼井(1年/内野手)へ。

これを読んでいるかは分からないけど言葉を残しておく。多分直接は言いません笑。

 静高野球部という過酷な環境から東大に来た後輩として2人を誇りに思う。別に俺に憧れて東大来たとか思うほど傲慢じゃないけど、常に自慢できる先輩であろうと特にこの半年は頑張ったので、何か気持ちが伝わっていたら嬉しいかな。2人とも来年以降のチームを、ゲーム的にも組織的にも引っ張れる実力があると思ってる。頑張って欲しい。

 

応援団の方々へ。

 日頃より応援活動ありがとうございました。とりわけ神宮応援におかれましては、いかなる悪天候に見舞われようと選手を信じて鼓舞して頂いたこと大変に感謝しております。皆さんのためにも法政戦で必ず勝ち点を取ります。ラストカード、共に走り抜けましょう。

 

両親へ。

 この場を借りずとも全て終わったら改めて伝えます。まずは法政戦をやり切ります。

 

 拙く冗長な文章ではありましたが、読んで頂きありがとうございました。これを読んだ誰かの行動を変えることが出来たら本望です。

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次回は10/16(日)、小野悠太郎学生コーチを予定しております。

お楽しみに!