《僕の野球人生》 Vol.5 三田村 優希 投手
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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《僕の野球人生》 Vol.5 三田村 優希 投手 (4年/奈良学園登美ヶ丘)
僕が「僕の野球人生」を読み始めたのは2017年、高校3年生の頃の僕は一東大野球部ファンで東大野球部を目指す受験生でした。つらい受験勉強の片手間で先輩方の「僕の野球人生」を読むたびに毎回奮い立たされたのを今でも鮮明に覚えています。あれからはや6年、本当に僕に「僕の野球人生」を書く番が回ってくるなんて想像も出来ませんでした。憧れだった東大野球部での4年間はあっという間に過ぎ、引退まであとちょっとに迫ったところで自分の野球人生について振り返ってみます。
アニメ「メジャー」に憧れ地元の斑鳩少年野球部に入った時から僕の野球人生はスタートしました。斑鳩少年野球部は、実家には13個の金メダルが飾ってあるほどの常勝軍団で、奈良県で1番強いチームでした。ピッチャーをやりたかったけど学年で1番チビだった僕は9番セカンドのセーフティバント職人でした。高木コーチや谷口コーチの怒声に怯えながら、またあーちゃんやミワ子らの阪神ファン顔負けの保護者大応援団にプレッシャーを感じながら、グランド上をウロチョロ駆け回っていました。チビだった僕は打球を遠くまで飛ばすことも、速い球を投げることも出来ず、セーフティを決める事かセカンドでダイビングキャッチをする事が僕にとっての野球の醍醐味でした。
想像していた野球選手像とは程遠く、また中学受験との両立で練習に行けない日もあり、あまり野球を心から楽しいと思えていなかった記憶があります。それでも、県大会で優勝した瞬間、近畿大会での緊張感、勇紀と完成させたゲッツー、眼の手術からの復帰を温かく迎えてくれたみんな、放課後のゆうがとのキャッチボール、練習後のかいととの帰り道、、、記憶を辿れば数えきれないほどの宝物のような思い出がたくさんあります。
中学受験をして私立の中高一貫校に入学しました。野球部に入ってみるとなんとびっくり、入部した10人中、野球経験者は自分含め2人だけでした。消去法で自分がピッチャーになりました。意外な形でのピッチャー人生の始まりです。初心者だらけの野球部、顧問のタムヘイもとても優しく、僕たちのやりたいように野球をさせてくれました。
ほとんどが初心者の野球部はもちろん弱かったです。ただこの頃は1番野球が楽しかった。初めて挑戦したピッチャー。マウンドからの景色、打者との一対一の真剣勝負、抑える嬉しさ、打たれる悔しさ、加田さんや西川らキャッチャーとの信頼関係、今まで味わった事のない野球の楽しさを味わうことができました。どうやったらもっと早い球を投げられるか、どうやったらこの弱小チームが勝てるか、自分で考えて野球をする癖はこの中高時代に培われました。
野球部ではエースになり、勉強も学内では割とできる方だった自分には文武両道という言葉が自分を肯定してくれて、とても好きでした。
2017年10月8日、僕の野球人生の歯車が動き出しました。
ぼーっと見ていたニュースで目に入ってきたのは東大野球部が15年ぶりに勝ち点を獲得したというニュースでした。
世の中には自分なんかよりも遥かに勉強も野球もできる人がたくさんいて、彼らはあの神宮球場でプロに行くような人たちに立ち向かっているのか。
軟式しかない、誰も東大すら目指さない、田舎の無名の高校から、神宮の大舞台で、プロに行くような人たちと対戦して勝ちたい。東大野球部で日本一の文武両道を体現したい。
東大を目指すには十分すぎる動機でした。
現役合格は叶わず、明くる日も神宮のマウンドを夢見て猛勉強しましたが、浪人の結果は1点差で不合格。。後悔がないほどに努力したし、これ以上浪人して親や色んな人に世話をかけるわけにもいかないと考え、東大野球部の夢は諦めて早稲田大学に進みました。
早稲田での生活はそこそこ楽しかった。でもどうしても、東大野球部への憧れは頭から消えることはありませんでした。仮面浪人を決断し、結果として2浪の末東大に合格し、遂に憧れの東大野球部に入部しました。
コロナで入部は遅れたけど、1年秋のフレッシュリーグ、幸運ながら初めて神宮のマウンドに上がることができました。何回も自分が神宮のマウンドにあがるイメトレはしていたけど、心臓がバクバクしました。神宮の電光掲示板、後ろの伊藤忠の看板、すべて画面越しの夢の世界だった光景が眼前に広がり、不思議な感覚でした。あの時のマウンドからの光景は一生忘れません。
しかし、軟式出身かつ2浪あがりの僕にとって硬式球を投げることは、まさに身を削る行為でした。1回ボールを投げたら1週間休まないとボールが投げられない僕の事をみんなはおじさんと呼びました。2年で肘の手術も経験しました。今でもこの2浪肩と2浪肘のメンテナンスには人一倍の手間暇をかけてやっています。
投げては痛くなって、投げては痛くなっての連続の日々、野球など上手くなるはずもなく、どんどん神宮デビューしていく同期がただただ羨ましかった。松岡(4年/投手/駒場東邦)や健(4年/投手/仙台一)に早く追いつきたくて悶々としながらも、自分の出来ることに集中しました。
球が投げられない分、自分の身体と向かい合うことの多かった僕は、ウエイトや身体機能のトレーニングに多くの時間を割きました。特に新3年の冬の事はよく覚えています。
午前練が終わり、午後や夜に球場に向かうと、トレーニングルームには常に峯さん(R5卒)や金子さん(R5卒)、西山さん(R5卒)、松島さん(R5卒)ら4年生が自分よりも遥かに重い重量でトレーニングをしていました。夜に寮の畳にストレッチしに行くと岸野さん(R5卒)や松岡さん(R5卒)が丁寧に身体のケアをしていました。本気で試合に出たいならこの人たちを超えなければいけない、そう思い必死に先輩らのトレーニング量や重量についていきました。トレーナーの方々やSNSからトレーニング知識をたくさん得て、ひたすら自分の身体を追い込み続けました。
ただまあ、東大野球部では努力なんてみんな当然のようにしているし、努力がそのまま結果に結びつくような甘い世界ではありません。
そんなこんなで怪我や制球難に苦しみ公式戦での登板がないまま3年が過ぎ、あっという間に4年生になりました。
4年になってもピッチングは良くならず、長く暗いトンネルの中でした。しかし、春のリーグ戦、幸運が重なり1イニングだけ登板機会が回ってきました。結果は想像通り散々なものでした。4年生の僕に思い出登板させてもらっているのかのように感じて情けなく、何よりこんな状態で試合に出て仲間に申し訳なかったです。試合後、携帯には家族や友人、先輩から沢山のラインが入っていました。それらのメッセージはどれも今までの自分の頑張りを肯定してくれるものばかりで、母親は感動したとさえ言ってくれました。意外でした。自分が神宮に立つことを、こんなにもの人たちが気にかけてくれていたんだと気づきました。Rさん(R5卒)と後日話していて「いやこれはでかいよ。」という言葉をかけてもらったのも覚えています。東大野球部でどれだけの時間をかけてもどれだけの汗を流したとしても、神宮のグランドに立てずに引退する部員は毎年たくさんいます。自分も2年生のフレッシュリーグが終わって、このまま二度と神宮のマウンドに立てないのかなと杜衛(4年/投手/広島大福山)に弱音を吐いたこともありました。そんな不安に怯えながらも自分より実戦の機会に恵まれない人や、サポートに回る人がたくさんいる中で、神宮のマウンドに立つことは、彼らの想いを背負うことであり、責任であり、自分のプレーは結果に関わらず彼らを納得させなければならないものであり、そのために普段から自分が人としてどう考え、どう行動すべきかは、勝つことよりも大事なことだと思いました。
思い返せば、自分で何かに気づき成長したな、と感じたことは少なく、同期や、先輩後輩の姿を見て、時には直接言葉をかけてもらって初めて、人として成長できたと思うことばかりでした。
先輩の背中から学ぶことは本当にたくさんありました。今でも気にかけてくださる岸野さん(R5卒)や峯さん(R5卒)、啓資さん(R4卒)ら挙げきれないほどの尊敬できる先輩方に出会いました。
試合に出られず苦しい下級生時代も、啓資さん(R4卒)、古川さん(R4卒)、松島さん(R5卒)、山田さん(R5卒)、Rさん(R5卒)らが諦めずに必死に努力を続ける姿を見て、下級生の自分がこの人たちより努力せずに試合に出られる訳がないし、出る資格もないと思いました。
4年になって杜衛が学生コーチになりました。1年生の時からほぼ毎日一緒に練習してきて、プライベートでも野球の事しか話さないような努力家だった杜衛が、もう神宮のマウンドに立つ未来を捨ててまで、チームのサポートに回るという決断をしたことが、自分を奮い立たせたと同時に、どんな辛いことがあっても選手としてあがき続ける義務があると思うようになりました。
東大野球部の人たちに出会っていなければこんな事思える自分にはなっていなかったと思うので、とても感謝しています。
「日本一の文武両道を体現したい。」そう意気込んで東大野球部を目指し、入部をかなえましたが、実際この4年間を振り返ると文武両道のぶの字さえ頭になく、ただただ野球に没頭した4年間でした。もう1か月後には引退しているなんて考えられないし、考えたくありません。4年間は圧倒的にしんどいことの方が多かったです。引退したら、もう毎日6時半に起床しなくてもいいし、毎日のように初動負荷に行かなくていいし、栄養バランスを考えて食事しなくていいし、睡眠時間を8時間確保しなくていいし、寝る前のストレッチもプロテインも身体中に湿布を張り付けるナイトルーティンも、野球をすべて最優先して送っていた生活から解放されます。でもそれは、もう球場でのピッチャー陣の治療台での毒舌トークも、みんなでする整備も、練習後のこくわも、今までの日常がなくなり、神宮という舞台で、獣のような他大のエリート選手と勝負できるあのゾクゾクもワクワクもなくなるということです。いま改めて夢のような時間を送っているということを自覚し、試合に出してもらえる機会が残っている以上、全力で準備するだけです。
後輩たちへ
三田村班のみんなをはじめ、山崎(2年/投手/渋谷幕張)や持永(2年/投手/駒場東邦)、伊藤数(2年/投手/旭丘)とか、みんな俺にアドバイスを求めてくれたり、時には頼ってくれてありがとう。
この秋リーグ、ブルペンからマウンドに向かうときにスタンドから俺の名前を呼んでくれるのが聞こえるのがめちゃくちゃ嬉しくて、鳥肌が立つくらい奮い立たされています。
自分が先輩の背中から多くの事を学んだように、後輩も僕たちから良い部分は吸収して、悪い部分は切り捨ててもっと強い東大野球部を作っていってください。そのようにして代々受け継がれてきた東大野球部のスピリッツがいつか文化になり、六大学野球の歴史を塗り替えると信じています。
チームトレーナーの高木さん、1年以上リハビリに通い続けたB&Jクリニックの鎌田さん、肘の手術をしてくださった菅谷先生、飛躍のきっかけをくださった北川雄介さん、他にも数えきれないほど多くのトレーナーの方々にお世話になりました。本当にありがとうございました。東大生は一見ちょっと変わっているけど、みんな根はくそ真面目で心に熱いものを持つやつばかりです。これからも東大野球部へのご指導のほどよろしくお願いします。
応援部の皆さん、神宮は我々野球人にとっての聖地であるだけでなく、応援部の人たちにとっても聖地だと思います。そんな憧れの場所で一緒に戦ってくれてありがとうございました。あの心臓が高鳴るような応援は一生忘れません。
両親にはたくさん迷惑と苦労をかけてきてしまいました。お金もたくさんかかったと思います。それでも、母親は自分の活躍を1番楽しみにしてくれていました。父親は無口ながらも自分に何不自由なく学生生活を送らせてくれました。2人がいなければ、今の自分はありません。ありがとうございました。社会人になったら恩返しします。ばばちゃんや上田家も連れて旅行でも行きましょう。
僕は頭がよくないので、言いたいことや文章がバラバラになって、とにかく読みにくい文章だらけだったと思います。長かったのにここまで読んでくださりありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう。
三田村優希
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次回は明日9/24(日)、和田泰晟捕手を予定しております。
ぜひご覧ください。