《僕の野球人生》 Vol.13 秋山 千裕 外野手
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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《僕の野球人生》 Vol.13 秋山 千裕 外野手 (4年/桜修館中等教育)
もし自分が野球をやっていなければ、自分はどんな人生を歩んでいたでしょうか。
小学校の頃に習っていた剣道を高校、大学と続けていたでしょうか、中学の段階で運動部に入らずに、運動とは無縁な生活を送っていたでしょうか。
人生はやり直しが利きません。
故に想像することしか出来ませんが、そのような人生も面白そうであると思います。しかしたった1つのことだけは断言することができます。それは、野球からかけ離れた人生を過ごしている自分には、小中高や大学とこれほどまでに素晴らしい監督やコーチ・友達・仲間と出会う機会はなかったであろうということです。
自分もそのような人々に感謝を述べながら野球人生を振り返っていきたいと思います。
少年野球の頃、上手くなりたいとかは考えずにただ同じチームの友達と過ごす時間が楽しくて野球をしていました。そんな中でも下手な自分をどうにかして教えようとしてくれた尾関監督、コーチの人々には心から感謝しています。
中学生になり桜修館中等教育学校で野球部に入りました。
野球に関しては弱く、全く強豪校ではない、そんな中高一貫校ですが、下手な自分は試合に出ることができないことが少なくなく、試合に出たとしても9番ライトで出場するといった状況でした。しかし初めて上手くなりたいと努力した6年間でした.そんな自分でも試合などでアドバイスをくださった顧問の渡邉先生や中山先生には感謝をしています。そして自分を仲間として受け入れて、練習時間を割いてでも自分にバッティングや外野守備を教えてくれた同級生には感謝しきれません。その時には感謝の気持ちを伝えることがほとんど出来ませんでしたが、この場でお礼を言いたいと思います。本当にありがとう。
小中高と野球をやる中で自分は野球が得意でないことは嫌というほど理解していました。それでも野球を辞めることが出来ませんでした。そんな訳で東大野球部に入りましたが、当然の如く、自分は他の人と比べてかなり下手でした。自分はそれを変えようと練習時間を多くしましたが、それくらいでは全く差は縮まらず、開いていきました。他の人たちが様々に活躍する中で私は出場機会すらない日々が続きました。
今思えばどこかで自分を変えていくべきだったかもしれません。上手くなる機会はそこら中に転がっていました。でも自分はその機会を盲目的な練習やお金がない、時間がないなどの言い訳で無駄にしていきました。
もちろんそれを全て集めたとしても神宮に届くかは別の話です。でも自分は神宮を目指すスタートラインにすら立てていなかったと感じます。
後悔しかない4年間でしたが自分が存分に野球をすることが出来たのはさまざまな人達のおかげです。自分がチームに対して貢献できたことはほとんどないのに、自分の練習にはさまざまな形で貢献してくれた監督、先輩、後輩、同期、学生コーチ、マネージャー、アナリストの皆、本当にありがとうございました。
そして今まで自分を支えてくれた両親には感謝しかありません。特に実家から通っている自分は小学校から大学まで様々に手が掛かったと思います。それでも困った時に悩みを聞いてくれる父親や文句も言わず朝早くから家事をしてくれる母親は、スマホなんかに比べ物にならない、自分の宝物です。あまり感謝の言葉を口にすることが出来ませんが、いつも本当にありがとう。
野球人生は終わってもこの後の人生は続いていきます。これからはこの12年間を今後どのように活かしていくかそこに注力したいと思います。
本当にありがとうございました。
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次回は明日10/4(水)、大井温登外野手を予定しております。
ぜひご覧ください。
以上が私の考えた「僕の野球人生」の内容です。
自己評価としてお世話になった人への感謝を綴りながら、うまくまとめることが出来たのではないかと思います。
しかしながら上記の文章は全体で1491字しかありません。今期の「僕の野球人生」の最少の文字数は朝(4年/内野手/沖縄尚学)《0927投稿》の1598文字であり(内容は素晴らしいのでぜひ読んでください)、このままでは私の文章が最少であるという不名誉になってしまいます。そのためいかに少しだけ私の書きたいことを書こうと思います。
(これまでの最多の文字数は阿部(4年/内野手/栄東)《0929投稿》の5303字です。しかし明日の大井(4年/外野手/小松)の「僕の野球人生」は10000字近い超大作だそうです。これらはぜひお読みください。)
これ以降は本文で没になった部分です。非常に読み難くなっています。
僕の野球人生について
今回私は「僕の野球人生」を書くうえで、100件近くある過去の文献を漁ってみました。
今回初めて読んだ文章も多く存在しました。三田村(4年/投手/奈良学園登美ヶ丘)《0923投稿》が自身の「僕人」でこのような文章を東大に入る前から読んでいたと書いていたのは少し驚きましたが、この企画はこのようにただのファンでも読んで楽しめるいい企画だと感じました。
漁ってみて気づいたことは「僕人」には同じチームの私たちでも知らないような選手たちの一面がたくさん書いてあるということです。例えば投手である大越(4年/投手/新潟)《0920投稿》が実は高校の頃に内野手であったことなどについては文献を漁って初めて知りました。他にも知らなかった面がたくさんあるのでぜひ読んでみてください。
私が上記の文章でいちばん苦労した点は書き出しの部分です。「僕人」の書き出しについては主に2パターンに分かれています。地曵(4年/内野手/開成)《0928投稿》のようにキーワードを出すなどの前置きを書くパターンと、向原(4年/内野手/長崎西)《0925投稿》のように野球を始めた頃の話をそのまま始めるパターンがあります。私は前置きがあるパターンがおしゃれであると思ったため、前置きがあるパターンを採用しました。しかし地曵や阿部のようなおしゃれな前置きを作り出すことがうまく出来ず、非常に苦労しました。実はこの前置きは過去の先輩の誰かの「僕人」を参考にしています。もし興味があれば探してみるといいかもしれません。
過去の振り返りについて
この文章は自身の過去を振り返ったものですが、中身はほとんどなく、私としてもあまり長い自分語りは読みにくいのではないかと考えているため、本文では没になりました。それでもここに載せてしまうのは私が実は自分のことを語りたいからなのでしょうか。
「僕人」を読んでいると大体の人の野球人生にはパターンがあります。
小学校の頃は無双するほどうまかった。
高校や大学で大きな壁にぶつかった。
私はそれを見ていて正直羨ましいです。自分の野球人生にそんな無双した経験も壁を乗り越えられた経験もあまり見受けられないからです。
それでも12年以上野球を不自由なく続けることのできた私はどちらかというと羨ましがられる方なのかもしれないし、それを実現させてくれた周りの人に感謝したいと思います。
この章を書くにあたって私が野球を始めた頃のことを想い起こしてみました。
小学校の4年生のある日、何を思ったか私は少年野球に入りたいと言い出しました。
それはすぐ近所の公園で少年野球をやっている人たちを見たからでしょうか、プロ野球を見に行ってかっこいいと思ったからでしょうか、理由は分かりませんが、私は近所にあった野球チームである中目黒ピータースというチームに入りました。入って初日、まずはキャッチボールをしてみようとコーチが下投げで放ってくれたボールをとり損ね、手首にボールが当たりました。今考えると、当たったのは軟式の柔らかいボールであるため、なぜそんなに痛かったのかはわからないです。しかしとても痛かったというのが野球を始めた当初の思い出でした。ピータースは当時そんなに強いチームではなく、他の人の野球人生に書かれているような殴る蹴るなどの暴力も全くなかったので、のびのび野球をすることが出来ました。しかし私はあまり野球が上手くはなかったため、上手になりたいといったようなモチベーションよりも野球チームで友達と会いたいといったようなモチベーションで野球をやっていた気がします。中学受験などもあり、私が実際に入っていた時間は2年ほどではありますが、私がこの年まで野球を続けたのはこの時の経験のおかげだと思っています。
中学受験をして桜修館中等教育学校に入学しました。そこで私は迷いながらも軟式野球部に入部しました。中学校の頃の野球の記憶は曖昧なのですが、当時の桜修館は中学軟式としてはその地区では弱いチームではありませんでした。ただ決して厳しいチームではなく、自分があまり上手くないことも同じだったので、自分が試合に出ても状況は変わりませんでした。しかし小学校の頃では私は試合で活躍できなかったり、スタメンで出られなかったりしても当然という心持ちで全く気にしていませんでしたが、この頃からは試合に出て活躍したいというような気持ちが強くなっており、様々な努力をし始めていました。この頃に桜修館の野球部は海城の中学の野球部と対戦し、当時投手だった和田(4年/捕手/海城)から1本のヒットも放つことが出来ずに、1-0で勝利しているらしいのですが、自分は全く試合に関与していないのか何も覚えていませんでした。中学で野球をやっている時に一試合でもいいから試合でチームを勝ちに導けるような活躍をしたいという目標を立てました。しかし中学ではこの目標を達成することは出来ず、高校生になりました。高校の桜修館は決して強豪校ではなく、どちらかというと弱い方の野球部です。部活は7時半より前はやってはいけない、18時以降やってはいけないという制限もありました。それでもほぼ毎日部活があったり、練習できる最大限の時間まで部活をしたり、というできる限りのことをやっていました。
自分高校でも同じくその目標のために取り組んでいました。チームでいちばん早起きして努力していたという自負があります。次第に努力の成果が出て試合でヒットが出ることも増えてきました。しかしそれでも目標には程遠い状況でした。高校最後の夏の大会が終わった後、私は野球人生について、「悔しいけどもうどうしようもないし、私の野球人生はこれで終わりだ」と考えていました。
東京大学を目指す決断をしたのは間違いなく、一緒に目指そうと言ってくれた高校の友達や野球部の同期のおかげです。彼らがいなければ、浪人することができないと考えていた私は受験を辞めていたかもしれません。受験期に一番驚いたことは、私にとって野球をしない生活をすることが苦痛になっていたことです。そのため受験期には入学後は野球をやろうと考えていました。高校でも中学でも野球では、あまり活躍ができていない、そんな私が東京大学硬式野球部を意識した理由は一つに神宮への憧れがあると思いますが、もう一つとしてそれを目指していた野球部の同期の影響があるとは思います。
そこからの東大野球部での野球人生は確かに満足のいくものではなかったけれど、とても記憶に残るものでした。
伝えたいことについて
高校同期へ
おそらくこの文章の存在を知っている高校同期はいないと思いますが書こうと思います。
私はみんなと高校で一緒に野球をやれて幸せでした。
赤木さん 部活後毎日一緒に帰る時間が楽しかった。ありがとう。
石塚 ありがとうキャプテン。
今村 また一緒にティーバッティングしたい。ありがとう。
奥山 怪我に負けない姿が私のモチベーションになった、ありがとう。
長良 長良みたいに足が早くなりたくて、頑張った。ありがとう。
田中さん 世界一面白いと思います。
大学の後輩へ
話しかけられてもほとんど何も返事を返さない私に話しかけてくれる後輩は本当に貴重で感謝しています。これからの神宮での活躍を応援しています。
大学の同期へ
特に2~3年の頃、午後の自主練の時間によく一緒に練習してくれた大井や近藤(4年/外野手/県立浦和)、4年になってほぼ毎日朝練をしてくれた平松(4年/外野手/東海)、本当にありがとう。
また別府(4年/外野手/東筑)、矢追(4年/外野手/土浦一)、長谷亮(4年/外野手/灘)などの外野手のみんなは私の外野守備の手本にしていました。本当にありがとう。
たまに話しかけてくれた藤川(4年/内野手/私立武蔵)や三宅(4年/学生コーチ/広島大福山)にも感謝しています。本当にありがとう。
そして下手な私を嫌な顔一つせずにサポートしてくれた学生コーチの人々本当にありがとうございます。
これで本当に終わりにしたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
秋山千裕