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《僕の野球人生》 Vol.14 大井 温登 外野手

4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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《僕の野球人生》 Vol.14 大井 温登 外野手 (4年/小松)

大井X

 

かなり長くなってしまったので休憩しながら読むことを推奨します。

 

小さい頃は運動が好きだったけどどのスポーツも長続きしないような飽きが早い子供で母を困らせていました。水泳や体操は爆速でやめてしまいました。その中でかなりハマったのがトランポリンでした。毎週練習後のたこ焼きや友達とワイワイ運動するのを楽しんでいました。それまではサッカーとトランポリン以外のスポーツは知らないくらいに熱中していました。

 

野球との出会いは小学2年生の頃だと思われます。ふとテレビを見ていた時にプロ野球をやっていて左バッター(多分、小笠原道大選手?)のホームランを見て野球に興味を持ち始めました。実際に野球を始めたきっかけはあまり覚えていません。近所の友達の兄が野球クラブに入っていて友達が一緒にやろうと言ってくれたことや、プロ野球を見て憧れが強くなったことだと思いますが他にも理由があります。放課後に学校のグラウンドで遊んでいると6年生のお兄さんお姉さんがゴムボールの野球に誘ってくれてわざとアウトになったりヒットを打たせてくれたりしました。多分これが最有力です。そこで自分は野球の楽しさに目覚め野球を始めることを決意したように思います。

 

小学校の時はトランポリンをしていたおかげか運動に抵抗はなく、上達することにとても楽しさを覚えていました。自分の学年は4人しかおらず、自分はピッチャーやショート、キャッチャー、センターなど色々なポジションを守らせてもらいました。そのため試合に2個下の後輩が出場することが必要であり、外野に打球が飛んだら2塁打確定という状況でやっていました。それをどう防ごうとしたかというとひたすらバッターの前の打席を覚えていました。前の打席を参考にして守備位置を動かしまくっていました。当然小学生なのでその通りに行くことはほとんどなかったものの、うまくいった時はとても嬉しくなりました。記憶力はこれで鍛えられていたのかもしれません。大会では1勝しかできなかったし、練習も大変で憂鬱だった時もあったのですが、試合でヒットや三振を取った時はその苦しさを忘れるくらい嬉しかったので、中学でも野球を続けようと思いました、

 

中学では学校の野球部に入りました。コンスタントに県大会に出られるくらいの強いチームであり、小学校の頃強いチームだった人たちが同じチームになったので勝てるようになったので、試合に勝つ喜びを味わうこともできました。中学軟式はとにかく点が入らず、その中でヒットを打つことに快感を感じていたのでひたすらバッティング練習をしていました。これが自分の打撃重視の野球観の原点になったのかなと思います。

中学の時に一番良かったことはいい指導者に巡り会えたことだと思います。顧問の先生がみんな地元の進学校の小松高校出身であり、1人が甲子園に出た時の4番の方であり、勉強をしつつ野球も頑張って強豪校に勝つことに憧れを感じ、小松高校を目指そうと思いました。幸い勉強の方は嫌いではなく(でも数学はカス)、合格ラインは超えることができていたので、高校受験はそんなに苦労することなく小松高校に合格し、野球部に入りました。小松高校には中学の先輩も多くいたので楽しくやれるだろうなとその時は思っていました。

 

入った時の先輩は秋の県大会で準優勝しており、1人1人のプレーのレベルが高く、これは甲子園を目指せるぞと思ったと同時に相当努力しないと試合には出られないなとも感じました。夏の大会が終わり、秋の大会には1試合スタメンで出ることができ、「春はもっと頑張ろう」と思っていた矢先、激動の高校野球時代が始まりました。

 

秋大会終わりから少し肩と肘が痛いと感じていましたが、チャンスを逃したくないと無理をしてしまい痛みがひどくなり、さらには庇って投げていたせいで腰椎分離症にもなってしまいました。結果的には1年間肘は痛いままでした。新チームとなり主将2人制の中の1人(実質副将)になった自分は、まともに野球ができていない状況で副将になったのがとても不安でした。秋大会は塁間がまともに投げることができないまま出場しました。チームはベスト4に進んだものの、自分は準々決勝の前に足を疲労骨折し、離脱してしまいました。そして冬に肘の手術をしました。ここまで書いたように高校では怪我ばかりしていて、健康な状態で野球をやったのはいつだろうというような感じです。また、人に怒ることが苦手な自分はチームメイトに厳しく指摘することが苦手で、よく監督に「甘過ぎる」と叱られてしまいました。そんなこんなで肉体的にも精神的にも辛い高校野球ではあったのですが、それも高校初の甲子園に出て1勝するためにことだと思えば耐えることができました。自分たちの学年は投手がいなかったのですが慶應義塾大学2年の小川ら下級生の活躍もあり、夏にもう1回ベスト4に入ることができました。3年時には自分も怪我をすることなく思いっきりプレーすることができました。目標の高校初の甲子園1勝には届かなかったのですが、とても満足のいく高校野球でした。

 

東京大学を目指そうと思ったのは完全に周囲からの圧力です(笑)。1年生の時に模試でいい成績を取った時に担任の先生に「東大に行きなさい」と熱弁され、体育の授業では宮台さん(H30卒)の特集ビデオを見させられ、「これはお前のために見せた」と言われました。高校に入った時はなんとなく東京の方で野球を続けたいと思っていて、野球の実力を思い知るにつれ「早稲田の野球部のマネージャーでもいいな」とも思っていました。しかしこの熱烈な囲い込みと3年の夏大会時にインタビューで監督が東大志望と話してしまい、覚悟が決まりました。現役時は東大に合格する感覚は皆無のまま受験しました。中学から数学は大の苦手でセンター試験でも60点くらいしか取れず、受験終わりには青い顔をして出てきたそうです。浪人期は今まで突っ走ってきた人生の休憩だと思ってゆっくり勉強しました。特に数学と英語をなんとかすれば合格できるという自信があったのでそればっかりやっていました。幸い早い段階で、模試でA判定を取ることができたので本番では自信を持って受験することができ、合格することができました。そしていよいよ大学に入って野球部に入ろうとした矢先にコロナがやってきました。

 

新型コロナウイルスによって大学はオンライン授業になりました。その影響で「教授が成績評価がやりにくい」という謎の理由で課題がエグい量課されました。自分は中高一貫校に通っていた同期と違って1浪で文科三類に無理やり入った人なので、それをこなしつつ野球をするのは困難と判断し、一度入部を諦めるとマネージャーさんに伝えました。それからの自分は課題の通知音で目が覚めてしまい、毎日夜遅くまで課題をこなすという地獄のような生活をしていました。さすがにやばすぎて鬱病になりかけ、親に休学を提案されるほどでした。それでもなんとか前期を乗り切り、野球部はどうなっているだろうと調べてみるとリーグ戦が始まっていました。その頃自分は運転免許をとっていました。圧倒的に情弱でした。完全に入るタイミングを失った僕は野球部に入る気がほぼ無くなりかけていました。後期の授業が始まり、徐々にクラスのみんなと直に会えて仲良くなった時に、早慶戦を見にいくことになりました。そこでは早稲田の早川投手や慶應の木澤投手らによる素晴しいプレーと神宮での応援がありました。その時「ここでプレーしたみたい」という失いかけた気持ちが再燃しました。その試合の後、早稲田の野球部の先輩にご飯に連れて行ってもらい、相談したところ、「絶対やった方がいい」と背中を押していただきました。しかし困ったことにリーグ戦終わりの代替わりの時期で、いつ入ったらいいか迷い続け、駒場のグラウンドで友達とキャッチボールする日々が続いていました。そこで最後の一押しをしてくれたのが同じクラスの青木(4年/投手/筑波大駒場)です。青木がいなかったら野球部に入る可能性がかなり低かったです。だから青木にはとても感謝しているし、このラストシーズンでは絶対に投げてもらいたいです。

 

ようやく野球部に入ったと思ったらまた災難が起こりました。初めての練習の日にキャッチボールをしたところ、肩が外れました。友達とのキャッチボールではなんともなかったのになんでだよ、とたまげました。浪人期に何も運動しなかったので体重は10kg減り、もはや野球をする体ではありませんでした。春のリーグで同期たちが続々とデビューする中、どうしようもない無力感を感じていました。フレッシュ戦には少し出番をもらえたものの、当然活躍できず、夏に入ってからは同期がAメンバーに入る中、自分はずっとBで、秋のフレッシュも同じような結果になりました。このように2年生の時にはずっとBチームでした。

 

しかし努力は絶対にやめませんでした。2個上の井上慶秀さん(R4卒)と練習する際にかけていただいた言葉があります。それは「プロを目指すつもりで練習しろ。そうしないと六大の奴らには勝てない。」です。この言葉はフレッシュで自信を失っていた自分を奮い立たせました。少しヤケクソになっていた自分の身の程を知らせてくれました。実際2年生の時はAチームが練習しているときにウェイトをし、それからBチームの練習に参加するという生活を続けていました。

 

松岡さん(R5卒)の代になってからはバッティング練習しかしませんでした。それしか新チームでリーグ戦に入ることができないだろうと思ったからです。幸いにもフレッシュ戦での経験や浪人期を経た感覚のズレの修正がようやくうまく行き始め、春のOP戦ではホームランも打てました。そしてついにリーグ戦で初ヒットを打つことができ、春シーズンは代打で10打数4安打でした。その勢いのまま、夏のOP戦ではスタメンで使っていただき、コロナの代替選手で六大学オールスターにも出場させていただきことができました。しかしこれが秋の挫折の始まりでした。オールスターで他大学の選手のバッティングを見て自信を失ってしまい、また、春の好成績から守りに入ってしまい、秋は1本しかヒットが打てず、最後のカードの法政戦ではベンチから外れました。試合後に奥田さん(R5卒)から「外してすまなかった」と慰められ、自分のせいで出られなかった先輩が納会で明るく振る舞う姿を見るとものすごく情けなくなりました。もうこんな思いはしたくないという決意を誓い、冬はさらに練習に励みました。

そして4年生になりました。自分は打撃長なのですが、投手の好投を見殺す展開ばかりになり非常に申し訳なく感じています。秋はなんとか投手を救う打撃を個人、チームでもできるようにしていきたいです。

 

こんな感じで波乱万丈の野球人生を送ってきた中で学んだことや重要なことをいくつか後輩に伝えたいと思います。

 

1つ目は「自分はどの分野でチームの戦力になれるか見極めること」です。走攻守三拍子揃った選手になることはとてもいいことです。しかしそれは東大の選手の力量を考えたら低次元のものになることがほとんどで中途半端に終わり、結局試合で使ってもらえないということになりがちです。例えば極論守備がものすごく上手い選手がレギュラーで出ているのに、守備練習をしたって出場機会は生まれません。そのために自分の持ち味を理解し、伸ばす必要があります。漫然と練習してもそれは時間の無駄です。チームの中のある分野で絶対的な信頼を得ることができたらベンチを外れることはほぼありません。

2つ目は「無限の努力を前提としないこと」です。リーグ戦に使われるのはOP戦で結果を残した選手です。そしてOP戦で使ってもらえるのは練習で首脳陣の目に留まるようなプレーをした選手です。練習を見ていると日々なんとなく練習し、「いつかうまくなるだろう」というような感じで危機感がない選手がたまにいます。しかし、メンバー選定の期限は刻々と迫ってくるのです。その中で進歩がない練習や首脳陣の評価を度外視した練習をしていては試合に出られない、つまりリーグ戦にも出られないのです。リーグ戦に出るには目の前の1球を試合と同じような意識、緊張感で扱い、首脳陣にアピールし、OP戦で結果を残すしか方法はありません。そこの競争に勝ったものだけが神宮の舞台に立つことができるのです。試合に出ることができていない人は日々の練習の1球をどんな意識でやっているか振り返ってみてください。自分勝手な練習をして試合に出られないと言う不満を漏らす人は早くそのことに気づいてください。

3つ目は「周りの人の態度は自分を映す鏡」ということです。周りの人が冷たく感じる。そう感じている人はいませんか。人間だからミスをするし、不機嫌な時だってあります。嫌なことがある時もある。しかしそれを周りの人にぶつけてしまってはいけません。他大学の選手ですらミスするのに下手くそな東大の選手がミスをして不機嫌になるのは烏滸がましいです。不機嫌な人は周りの人も不機嫌にしてしまいます。そしてその態度はいつか自分に返ってきます。それはチームにとって大きなマイナスです。だから後輩たちにはミスをしてもなんとか取り返そうとして頑張り、ミスをした人を鼓舞するような人になってもらいたいです。

4つめは「大人になれ」です。試合で活躍できないことや出場できないことに不満を漏らす人がいます。それが不当なものなら不満を言うべきですが、ほとんどはそうではないと思います。大学生にもなって自分の目の前の1球に対する甘さによる結果に対して、他人を非難することは恥ずかしいです。それは野球に対して不誠実です。他大学の選手は東大に比べてはるかに野球に対して誠実です。そのような選手と対戦し、勝利するには意識の面だけでも上回る必要があります。それが東大野球部に3年いて感じたことです。

 

そして大井軍団の構成員の2人にメッセージを送ります。

 

内田(3年/内野手/開成)

2年のフレッシュ後に変なやつに絡まれたと思ったら最高の後輩になりました。いつも試合前に声をかけてくれることで元気を貰えています。ありがとう。そんなお前ももう後1年です。来年お前は絶対チームの中心にいないといけない。しかし、時々お前がグラウンドで見せる自信のない顔はチームを動揺させる。お前の練習の取り組みや試合で結果を出す姿は周りの奴は絶対に見ているし、責めるような奴はいないはず。だからグラウンドでは堂々とした姿を見せ続けるように。サードでベストナイン期待しています。

 

工藤(2年/外野手/市川)

内田がスカウトしてきたにしては静かなやつが来たと思ったら、飯の場では先輩をいじり倒す陽気なやつだとわかりびっくりしました。その饒舌さを野球の場面で発揮するように。野球ではあまり自分の意見を俺以外に言うことがなさそうで周りから変な誤解を受けそうで心配です。お前の考えていることを言ったら周りは理解してくれるだろうから、野球における表現力をもっと鍛えるように。結果が全て、それを忘れないように。

 

最後に色々な人へメッセージを送ります

 

同期のみんなへ

途中入部して、さらにはド陰キャだった自分を受け入れてくれてありがとう。みんなが頑張っている姿を見て自分も頑張ろうと思えてここまでやってこられました。ラストシーズンに「奪出」できるように頑張っていこう!

 

応援部のみんなへ

いつもどんな展開になっても熱い応援ありがとうございます。六大学野球を特別なものにしているのは間違いなく応援の存在です。勝利を届けることができるよう励むので最後まで一体となって頑張りましょう。

 

両親へ

この年まで野球を続けさせてくれてありがとう。ありえんぐらい怪我して心配させまくってすみませんでした。もう少ししたら勉強頑張るので今はあとほんの少しだけ野球小僧のままでいさせてください。

 

小、中、高の監督、コーチの方へ

ご指導ありがとうございました。誰か1人でも欠けていたら神宮でプレーする自分はいなかったと思います。自分も生徒に夢や希望、勝利、人間として必要なもの全てを与えられる教師になりたいと思うのでもしどこかであったらまたご指導お願いします。

 

井手監督へ

こんな途中入部のガリガリメガネに目をかけていただきありがとうございました。「スイング変えるな」とアドバイスをいただいたり、「打棒」と言うあだ名を名付けていただいたりしましたが、1番思い出に残っているのはマンツーマンでの外野守備練習です。あれは本当にしんどくて「はやく起き上がれ」と笑顔で行ってくる井手監督のSっ気が癖になりました。親元を離れた自分にとってじいちゃんのような存在でした。いつも背筋が伸びた姿が印象的でした。自分も井手さんのような勝負感鋭い監督になりたいです。お倒れになった時は心臓マッサージしながら泣きそうになりました。ご自愛ください。ご指導本当にありがとうございました。

 

最後に今までの野球人生を振り返ってみると色々な人と出会い、支えられてきたとしみじみと感じます。数えきれないほど怪我をしたけどなんとか復活し、試合に出られているので十分過ぎるほど幸せな野球人生だったと思います。しかし、最近やっと野球がちょっとだけわかってきた気がします。この頭のまま大学や高校に入学していたら、なんて考えることもありますが、もう怪我をして惨めな思いをしながら野球をするのは懲り懲りなのでもういいです。

 

残された試合も少なくなってきましたが、最後まで全力を尽くして戦うので東京大学野球部の応援をよろしくお願いいたします。

 

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次回は明日10/5(木)、近藤悟外野手を予定しております。
ぜひご覧ください。