《僕の野球人生》 Vol.16 平松 光紀 外野手
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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《僕の野球人生》 Vol.16 平松 光紀 外野手 (4年/東海)
僕は野球が大好きです。そして今日まで野球を続けてきて、色々なことがありまし た。人に語れるような野球人生かどうかは分かりませんが、せっかく頂いた機会なの で一生懸命書いてみようと思います。
僕の地元はイチロー選手や稲葉選手の地元と近く、野球が盛んな地域でした。そん な環境で自然と野球に興味を持ち、小学校2年生の時に少年野球チームに入団させ てもらって野球を始めました。しかし幼い頃の僕は人と競うことが苦手で、一生懸命何 かに取り組んでいる人を見て不思議に思っているような子供でした。そんな子供に野 球が楽しいはずはなく、「皆みたいに教えてくれるお父さんもお兄ちゃんもいないから 上手くなれない」という噓をついて辞めようとしましたが、母に見破られて頓挫し、僕の野球人生は首の皮一枚でつながりました。 その後も、野球自体は好きだったのでそのまま続けていました。しかし本当に運動 が苦手で、チームで一番下手な子供でした。練習時にいつも穿いていたジャージに由来するあだ名で上級生から「オレンジ君」と呼ばれて馬鹿にされ、低学年の内は常に惨めな思いをしていました。初めて本当に悔しいと感じ、自主的に素振りをしたり、懸垂をしたり、努力をするようになって少しずつ上手くなっていきました。すると6年生になる頃には4番を打てるようになり、皆と試合に出て勝てるようにもなりました。自分にとってはとても大きな出来事で、自分にも可能性が広がっているように感じ、野球が大好きになっていきました。
中学校に入学すると迷わず野球部に入りました。そこそこ強いチームで一学年に30 人近くの部員が在籍していました。自分より上手い選手がたくさんいる環境で、僕は顧問の先生に怒られてばかりいました。とても悔しく、絶対に一番上手くなりたいと思い、毎日手が血まみれになってもバットを振り続け、陸上選手の本を読んで走りまくり、最上級生になる頃には中心選手の一人として試合に出られるようになりました。しかし僕は大して上手くもないのに、試合に出られない選手に対して「俺なら出られるま で努力するのに」などと思っているような、勘違いした所もありました。最後の公式戦に負けた時も、他の選手がもっと本気で取り組んでいたらもっと勝てたのに、と思って いました。一生懸命に頑張ることができる選手である一方で、人の気持ちを汲んだり冷静に考えることはできませんでした。
高校生になっても僕は相変わらずで、練習は沢山していました。しかし実力は伸び悩み、2年夏もベンチ入りすることはできませんでした。自分でも空回ってるなあと思う一方で、頑張ることが正義だった僕にはそれ以外の解決法が分からず、さらにバットを振っていました。結果的に体調を崩して部活に行くことが出来なくなり、やっと落ち着いて考えることが出来ました。 そこで、野球は努力を競うものではないということに思い至りました。 また、チームメイト一人一人がどのような人なのか、どういう取り組みをしているのか見えていなかったことにも気づきました。こうしたことに気が付いてからは練習も試合も、以前よりずっと面白くなりました。落ち着いて周りを見ると、チームには良い取り組みをしている選手も能力の高い選手も沢山いました。 結局勝ち上がることはできませんでしたが、強いチームと当たることが多く、面白い経験でした。どの試合も良い勝負でしたが、勝てなかった悔しさはしっかりと残りました。大学では高いレベルで野球をしたいと思っていた所、東大野球部を目指す高校生向けの合宿の案内を顧問の先生から頂き、参加しました。梅林(4年/内野手/静岡)や健(4年/投手/仙台一)といった選手と出会い、これだけ実力があって面白い人が集まるのであれば、東大野球部に行けたら面白いチャレンジができるのでは無いかと考え、俄然やる気を増して受験勉強を始 めました。 しかしやる気だけで突っ走った受験勉強はもう1年要し、心身ともにボロボロになりながら一浪で合格することになりました。
大学入学後すぐに祖父が体調を崩し、半年後に亡くなりました。そんな状況でも家族は皆、僕が野球をすることを応援してくれていたのに、僕は疲れてしまって頑張るこ とが出来ませんでした。高校より選手のレベルが上がり、1人暮らしになり、環境も大きく変わる中で気持ちが付いていけず、ただ流される様に部活に行き、授業に出る生活を繰り返していました。辛くて仕方がありませんでしたが、そういった部分を誰にも打ち明けられないのが僕の弱さでした。それでも野球を辞められなかったのは、家族が応援してくれていたからだけではありません。自分は好きなこと・やりたいことには本気で一生懸命になれる人でいたかったし、ここで辞めてしまえば、もうずっとそうい う人にはなれないのではないか、そう思うと辞めることができませんでした。祖父が死んでしまってからやっと、頑張らなければいけないという義務感から頑張ることが出来ました。しかし僕は格好のいい人間ではなく、そんないきがって気負った状態では練習も試合も苦しくて、ただ沢山練習したという事実を作るかのように自主練習をしていました。せっかく色々な人が僕を応援してくれている夢のような状況なの に、「応援されたら頑張らなきゃいけないじゃん」などとひねくれたことを考えていまし た。しばらく経って2年も終わり頃になり、やっと、もっと自分のために頑張れば良かった んだと思いました。応援してくれている人は、人のためにじゃなくて、自分のために頑 張っている僕を見たかったんだよなと気づきました。 そこで、自分のために頑張ろうと思うと楽になり、少しずつ頑張る理由をポジティブに 捉えられるようになりました。
そこからの野球は本当に楽しく、改めてレベルの高い環境でプレー出来ることが面白く感じられるようになりました。春のリーグ戦では1度だけ打席に立つことが出来、おめでとうと言ってくれる人や、親孝行だと言ってくれた人がいて心の底から嬉しかった一方で、一発で打てなかったことが悔しくて仕方がありませんでした。それ以外の 試合は全てスタンドで応援することになり、応援部の皆さんの素晴らしい応援の中で 声を張り上げるのは楽しい一方で、グラウンドでプレーする皆を見ると悔しくて涙が出ました。練習試合でもチャンスを掴みきれず、悔しく無い時なんかありませんでした。 それでも、本気でやりたいことをやって悔しいと思えることがどれだけ素晴らしいことなのか、身をもって感じることが出来ました。本当に幸せな時間だったと思います。
このチームには尊敬できる人が沢山います。試合に出られない人も努力を怠らないし、試合に出る人は期待に応えて勝負強いプレーをしてくれます。学生コーチは100 人以上いる部員の上に立って色々なことに責任を持って決めているし、マネージャーはチームを文字通り運営しています。本当に皆すごいなと思います。皆と一緒だか ら、こんなに頑張れたと思います。本当にありがとう。また、いつまで経っても試合に出られない僕を真っ直ぐに応援してくれていた母には 頭が上がりません。高校時代、夜遅くに帰っても必ず沢山ご飯を作って待っていてくれてありがとう。当時から当たり前だとは思っていなかったけれど、今になってより感謝しています。 祖父と祖母にも頭が上がりません。やりたいことばかりやってきた僕を応援してくれ てありがとう。2人が見て恥ずかしくない大人になれたらいいなと思います。 家族以外にも僕を応援してくれている方が沢山います。夢みたいなことだと思いま す。本当に、ありがとうございます。ここに書いていないことでも伝えたいことは沢山あります。1人1人に伝えたいことや、聞いてみたいこと、また謝りたいことが山程ありますが、一区切り付いてから直接ゆっくり話せたら良いなと思います。
野球を通じて色々な経験をして、最高な気分になる時もあれば、最低な気持ちにな る時もありました。それでも、こうした経験が出来たのが野球で良かった、心からそう思います。 このチームで勝つために僕ができることは神宮球場でデカい声を出すことくらいで すが、最後まで一生懸命やろうと思います!
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次回は明々後日10/9(月)、別府洸太朗外野手を予定しております。
ぜひご覧ください。