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《僕の野球人生》 Vol.22 秀島 龍治 学生コーチ

4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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《僕の野球人生》 Vol.22 秀島 龍治 学生コーチ (4年/東筑)

秀島X

 

野球と出会ったのは東京に住んでいた小学2年生の時、きっかけは覚えていない。多分その場のノリで友達から誘われて面白そうだから野球チームに入ったのだと思う。土日しか活動がないのにズル休みを何度もしてた気がする。
4年生の時に福岡に移り、半年間はチームには入らなかった。ただ学校の教室にカラーボールとバットが常設されていて、授業合間の15分で外に出てクラス全員で野球をする暮らしだった。そこでの楽しさを契機に週6日活動のチームに入った。厳しかったが、当時の田村監督から贈られた「有基無壊」という言葉は今でも心に残っている。

中学生になり、当然のように軟式野球部に入った。すぐに主力になり、走攻守投全てで活躍できて、あの頃は無敵だった気がする。2年生の秋に野球未経験の新顧問が「草むしりで野球は上手くなる」などと言っていたので部を辞めて硬式クラブチームに入った。入団初日から300m×30本くらいのインターバル走から始まるような後にも先にもない身体的に厳しい環境で食らいつきながら、野球を楽しんでいた。

高校では挫折の連続だった。クラブチームで試合にも出ていた僕はそこそこやれるだろうという中途半端な自信を持っていたが、全て砕け散った。何もかも自分の上位互換がいる環境だった。試合にはほとんど出られず、途中出場しても何もできない。ある試合で起きた「10分で5エラー事件」は今でも高校同期に会うたびにバカにされるくらいだ。チームは2年夏・3年春に甲子園出場したが、自分はアルプススタンドで応援するだけ。ただ、NHKのスタンド紹介でアナウンサーにインタビューされたことだけは自分だけの体験だったので少し思い出である。
そんな中でも、上手くなってメンバー入りしようと必死にもがく日々はとても楽しかった。練習に行くのが楽しいと思ったことの方が多かったし、実践形式の打撃練習で北村(慶應R5卒)や菊池(早稲田R5卒)と競争していた日々は財産である。

そうして高校時代を野球部の勉強枠として過ごした僕は、2年生の冬に担任だった先生に「東大目指したら?」みたいな軽いノリに乗っかって東大を目指すことにした。
現役の時は硬式野球部に入る気なんて全くなかったし、そもそも存在自体ほとんど知らなかった。
浪人していた時に、高校同期が東京六大学で活躍しているという情報を得て、心がざわついた。高校時代はずっと遥か遠くに感じていた同期と同じグラウンドに立ちたくなった。そうして、名声のみに縋った東大合格という目標の先に、野球部で試合に出るという新たな目標が加わった。

無事合格して心躍らせていたが、コロナにより入部は1年生8月となった。
順調で恵まれていた。入部1週間でオープン戦デビューし、上級生と同じ練習に入れてもらえた。秋に指を骨折し1年秋フレッシュで同期が神宮デビューする中メンバー外になったが、あまり悔しさもなかった。新チームになるとAメンバーに呼んでもらえるようになった。2年春フレッシュでは神宮デビューもできて、夏にはガチA戦の試合にも出れるようになって、着実に階段を登っている気がしていた。秋も経験を積み、3年春にはレギュラー取るといったような青写真も描かれていた。課題は打撃であった。

2年冬は、人生で1番と言っていいほどバットを振った。チームの中で誰よりも振った、そう言い切れるくらいに。練習の中でも打球速度や飛距離が日に日に増しているのも実感できて、本当に楽しく充実した日々だった。

ただ、そんなに上手くは行かない。3年の春、打撃で結果を残してレギュラー獲得という目論見は全く外れた。何も結果を出せなかったのだ。続々と結果を残し浮上していく競争相手を横目に、今までの努力が水泡に帰す思いだった。試合が終わる度に、バスで移動する度に、部屋に帰る度に沈んでいく自分の無力さを実感して涙をこぼす日々。高校時代の挫折を経験していた僕は、自分には野球は向いていないと悟った。少しの期間部活にも顔を出さなくなり、本気で部を辞めようと考えていた。ただリーグ戦直前でAメンバーだった自分が辞めると周りに迷惑をかけるだろうと思い、春リーグ終了後にしようと留まった。

転機は法政戦だった。法政のピッチャーとして、高校同期であり小学生の時から対戦してきた石田(法政R5卒)が登板したのだ。そして打席には先輩である別府さん(4年/外野手/東筑)がいた。石田は三球三振に打ち取っていた。それを見て大学で野球を続けた理由を思い出した。彼らと同じグラウンドで戦うために野球を続けたのだ。その目標を達成せずに辞めたら後悔するだろうと思って再び立ち上がることに決めた。

3年夏、様々な方にアドバイスを貰いながら打撃向上に努めた結果、結果も少し残せるようになった。守備でもあまり経験のなかったセカンドに取り組むようになり、内野のユーティリティプレイヤーとして生きていけるようになった。
そうして迎えた3年秋、リーグ戦でようやくメンバー入りを果たし、試合にも出られた。各大学の高校同期とも同じ場で戦えた。数少ない勝利の瞬間に選手として出場という形で立ち会うこともできた。今までの苦労が報われたような気がして、本当に嬉しかった。

いよいよラストイヤーになった。試合に出ていた先輩方がごっそりと抜け、経験もある自分が主力としてチームを引っ張りたいという思いがあった。外部の施設に通い、厳しいトレーニングを自分に課した。ただ、前年と違って楽しい気持ちは無く、日々義務感に駆られていたような気がする。きっとそれは現実と対峙することを経験しての恐怖感からだった。

迎えたオープン戦、打撃は変わらずいつも通りであった。後輩にレギュラーも奪われていた。でも、もう何も感じない自分がそこにいた。

感情が出るということは、その対象にどれだけ本気で向き合えているか、そのものがどれだけ好きかが表れると思っている。思えば、部を辞めようと思った3年生春から、野球に対して喜怒哀楽の幅がなくなった気がする。それまでは練習で上手く行かなかったら癇癪を起こし、上手くいけば馬鹿みたいに喜ぶ、無邪気な野球少年だった。当時格上だった水越さん(R4卒)や中井さん(R5卒)らに対してでさえ「早く俺の枠空けろ」なんて思っているような、ギラギラして高い熱を帯びた日々だった。授業や就活で休むチームメイトを見る度、そんなことに使っている時間なんて無いと思えるくらい。午前中全体練習をして、ご飯を食べて休みもせず球場に行って暗くなるまで練習して、あー疲れたって思いながら浴槽に浸かるような生活だった。野球そのものを心から楽しんでいたのである。

3年春の挫折を経験して、世間的に言えば「大人になった」のだろう。少しずつ何かが崩れかけていて、野球に対してどこか冷めた態度で接するようになって、バイトや授業といった逃げの選択肢を用意するようになっていた。「野球楽しい?」って聞かれても楽しいとは答えられなくなった。何か上手くいかなくても淡々と練習をこなすだけになった。冬が去った頃には崩壊がかなり進んでいて、3月のオープン戦では同じポジションの後輩が活躍しても最早何も感じなくなっていたのだ。
そうした生活の中で、自分の変化に自分でも気づくようになっていた。今まで嫌っていた野球への熱意を感じられない人物に自分がなっていたのに気付いた。野球に全力を注げない自分が試合に出ている状況が周りに申し訳なかった。もちろん勝ちたい気持ちは充分あったが、それとは裏腹に本気で向き合えていない自分が許せなかった。メンバー外の人々はかつて高校そして大学で試合に出ている人々に羨望や尊敬の眼差しを向けていた時の自分なのだ。自己矛盾が日々大きくなって、選手を辞める気持ちが芽生えていった。

決断は春のリーグ戦中である。様々な面で支えてくれている部員が蔑ろにされているようなチーム体制に嫌気が差した。選手として改善を試みようとしてもあまり効果がないと感じていたので、スタッフの立場になることを決めた。先輩方が、井手監督が勝利という形で繋いでくれた野球を、勝ちではなく良い試合を目指す外面だけを取り繕った野球に壊されたくなくて、ほとんど自分の我儘を強引に突き通した。

こんな大義名分をこじつけているが、結局自分は逃げたのだ。色を失った世界の中で、怖いもの知らずに勇猛果敢に現実に立ち向かえる自分はもういなかった。
スタッフの立場になって、色んなことを改善しようと動いても、こんな自分が何に貢献しているのかもよく分からなくなった。強引に突き通した自分の我儘でさえも一貫できない自分にうんざりした。他の重荷にも次々と潰されて、身体は壊れて夏には球場にも出られなくなった。

こんな形で4年生後半は燃え尽きてしまいました。再び火も起こせず、灰になりかけていますが、分析や少しのノックという微かな炎を燃やして現在に至ります。本当はもっと色んなことに取り組みたかったけど、先に自分が力尽きてしまいました。色々任せてくれたり頼ってくれたりしていたのに情けないです。本当にごめんなさい。

最後に面と向かっては言えないので、この場を借りて様々な人に伝えたいことを書こうと思います。

井手監督へ
打撃練習中などいつも「打てるはずなんだけどなぁ」と下級生の時から言い続けてくれましたが結局神宮で打てずに終わってしまいました。色んな野球を教えてくださりありがとうございました。井手さんの作り上げたチームで野球ができて幸せでした。
先輩方へ
いつも僕のダル絡みに嫌な顔を少ししつつも付き合ってくれてありがとうございました。時には引っ張ってくれて、時には寄りかかることができる先輩方の存在はとても偉大でした。大好きで心の支えでした。

同期へ
良くも悪くも感情や考えを言葉や行動に乗せてしまう僕をどう思っていたかは分かりません。それでも目標を達成したい気持ちは同じだと思います。勝利はしましたがこんな所で立ち止まっていられないはずです。最終カード勝ち点取って最下位奪出しましょう。

後輩へ
偉そうにしていた僕の話を聞いてくれたりついてきてくれてありがとう。1つ最後に伝えるとするならば、もっと自分の意思を尊重しても良いのではないかということです。各々色んな価値観を持っていて、「そうあるべきだ」という通念と自分が食い違ってしまうことは往々にしてあります。それぞれ育った環境は違うし、他人や集団にとって当たり前の価値観も自分にとってはおかしいと思うこともあります。今までの「僕人」でも様々な「こうすべきだ」ということが語られてきましたが、鵜呑みにする必要はないと思います。「誰かのため」という言葉は綺麗で敬いたいものですが、一方で自分自身を抑え込んで苦しめてしまう危険性もあると思います。勝利を目指すのは自分が嬉しくなるからだし、頑張っている理由も悩む理由も、自分が貢献できていることに喜びを見出すからです。独善的な考え方かもしれませんが、他人の価値観はあくまで参考程度で極論全て切り捨てても大丈夫だと思います。最後まで選手を続けたければ押し通していいし、守りたいポジションがあれば飛び込んでみればいい。楽しんでやるのも自分に厳しさを課すのも自由です。自分で行った決断はきっと良い方向に進みます。この考えも価値観の押し付けなので、参考程度に留めておいてください。
行けてなかった牛星内野手決起集会と軍団会も、いつかお疲れ様会としてやろうね。

応援部の方々へ
どんな状況でも一緒に戦ってくれてありがとうございました。翌日のことなんて考えてはいないくらいの大きな声も、野球部員より神宮に賭けてるんじゃないかというほど燃え滾った闘志も、選手にはしっかり届いています。守備の時後ろから聞こえて来るゲッツーコールのおかげで何個もゲッツー取れました。

卒業した東京六大学の高校同期へ
大学野球に導いてくれてありがとう。みんなに憧れて入った世界で、他4大学に散らばった全員と神宮で戦うことができた時間は宝物です。

他にも様々な人のおかげで恵まれた環境で野球を続けることができました。一緒に野球をプレーしてくれた人、野球を教えてくれた人、頑張ってと声をかけてくれた人、運営などで支えてくれた人、自分の時間を応援に注いでくれた人、SNS等で写真や言葉を贈ってくれた人、数え上げればキリがないです。本当にありがとうございました。

これからの人生の中でも数少ないであろう、何かの不可抗力に縛られずに自分の意思で好きにやってきたのが野球でした。
選手を自ら辞めるという決断をしたことも、全く後悔はないです。苦しみの先にあったものでしたが、何にも流されず、自分自身でやりたいことを見つけて行った決断を、むしろ誇りに思っています。
将来プロ野球選手や社会人野球選手といった「野球で食べていく人」になるわけではない中で膨大な熱量と時間を注いできました。勝利によって色んな人が涙を流すほどの想いが注ぎ込まれた東大野球部は、野球人生の終幕に相応しい最高の舞台でした。これからの人生でも様々なものを犠牲にして本気で打ち込めるものはあまりないかもしれません。きっと少し季節が巡った後で、燃え尽きた灰は肥料となり、不死鳥の如く新たな花を咲かせてくれるはずです。

貴重な時間を野球に捧げられて幸せでした。

 

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次回は明日10/15()、三宅杜衛学生コーチを予定しております。
ぜひご覧ください。