《僕の野球人生》 Vol.27 石井 悠人 主務
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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《僕の野球人生》 Vol.27 石井 悠人 主務 (4年/マネージャー/灘)
自分が幼稚園に入園するころだっただろうか、4歳年上の兄が野球を始めた。兄に憧れ、様々な事で兄の真似事をしようとしていた自分にとって、兄と同じように野球をやることは当然の流れであっただろう。地元の少年野球チームは小学生からしか入団できなかったため、幼稚園の間は兄の練習や試合を見たり同年代くらいの子供たちと新聞紙を固めたような飛ばないボールとプラスチックバットで野球をやっていた記憶がある。その頃は憧れの兄のやっている野球というものを自分もやりたいと思っていただけなのであろう。
小学校に上がり、いよいよ地元の少年野球チームに入団した。最初のころは試合もなくただ野球を楽しんでいたと思う。そのうち学年が上がり試合も時々行われるようになったが、あまり自分は試合は好きではなかった。試合の記憶としては守備中にトイレに行きたくなり試合進行を大幅に遅らせたことと、外野守備中に相手のランナーコーチャーの「ファール!」という声に騙されてランニングホームランを献上してしまったことくらいである。同学年の中でもとりわけ体の小さかった自分は四球だらけだったらしくヒットを打った思い出すらない。
そうして野球をしているうちにボールが怖くなった。原因としてはデッドボールを何度か受けたことだと思う。キャッチボールでもボールを避けて捕るようになり打席内でも死球の恐怖におびえていた。体が小さく、運動神経も悪く、ボールが怖い。そんな自分は中学受験のためと理由をつけて小学5年生で野球をやめてしまった。自分の選手としての野球人生はこの時点で終わった。
苦しい中学受験生時代を乗り越え念願の灘中学に入学した自分は野球部に見向きもせず何故か柔道部に入部した。体が小さく、痛いのが苦手な自分がなぜ体格が必要で痛いの代表格である柔道部に入部したかは今考えたらよくわからないものである。「野球」人生ではないので柔道部での詳しい生活は省くが、少しは勝つことができたり黒帯を取れたりもしたのだが結局辛くなり高2の時に辞めてしまった。
柔道部のことは置いておくとして、この中高時代にある意味自分を東大野球部に導いた存在がある。それは甲子園と阪神タイガースである。
幸いなことに灘は中高一貫なため中学校の間はかなりゆったり過ごすことができ、夏休みの期間は決まって甲子園の試合を見ていた。プレーすることは既にあきらめていたものの甲子園のおかげで野球というものに対する興味を保ち続けることができた。また、夕食の時に兄がテレビで見ていた阪神タイガースの試合も甲子園と同様自分に野球に対する興味を保ち続ける助けとなった。もともと自分は阪神ファンではなかったが兄と一緒に見るうちに阪神ファンになり、気づけば母親まで洗脳されてしまった。家族で阪神戦を見に行ったときにその試合がたまたま鳥谷敬さんの2000本安打達成の試合だったこともいい思い出である。これら2つが無ければ大学に入って野球に関わることなどなかっただろう。
楽しい中高時代を経て東大に入学した。東大に合格した直後あたりは野球部に入る気は全くなかった。(というよりは選択肢になかった。) 東大には阪神の試合を見る「猛虎会」というサークルがあり、それに所属して阪神が好きな人たちと試合を見ながら大学生活を過ごそうと当初は考えていた。
しかし自分たちが入学するころに新型コロナウイルスが流行し始めた。見る予定だったプロ野球は開幕延期が決定し、大学も早々に前期のオンライン授業を決定した。関わるはずだった人たちと対面で関わるような場がなくなり、入ろうかと考えていた猛虎会もプロ野球の延期に伴い活動が不透明になっていた。先行きの見えない状況の中でこのまま漫然と過ごしていたら大学の4年間が無駄なものになってしまうのではないかという焦燥感も感じていた。対面での情報が得られないためSNSなどで授業の情報を収集する日々が続いていた。
いつものようにSNSで情報収集をしていたある日、ある1つの新歓情報が流れてきた。それは東大野球部のスタッフ募集の新歓であった。
先ほど野球部は選択肢にはなかったと書いたが、それもそのはずで自分は大学の野球部に男子マネージャーがいるとは思っておらず、高校の野球部のように女子マネージャーが球拾や球出し等の練習補助をしているだけだと思っていた。
そんな認識の中で流れてきたマネージャー募集の内容は予想外で非常に魅力的に見えた。野球には何らか関わっていたいもののプレーすることはできない自分にとってはやるほかないように思えた。
しかし即断即決というわけではなかった。自分は外向的とは言い難く、人とコミュニケーションをとることが非常に苦手だった。その中で野球部の人や部外の大人の方としっかりと付き合える自信がなかったからだ。
しかし、コロナによる焦燥感やここで一歩踏み出さないともう二度と深く野球に関わることはできないかもしれないといった思いから勇気を出してマネージャーに連絡を取り、自分は晴れて東大野球部に入部することとなった。
ただ入部したからと言ってすぐに活動、というわけにはいかず8月まではコロナの影響で部としての活動に参加することができなかった。実際に参加するまでは実家で授業を受けつつ時折行われる野球部のzoomで交流したりといったゆったりとした日々を過ごしていた。この時期で何より驚いたことは同期に甲子園出場者が二人もいることとマネージャー志望に笹川がいたことだ。笹川は自分と同じ灘校卒で面識があった。人と関わっていく自信がなかった自分にとっては心強い仲間ができて安心した思い出がある。約1年間の間だったが笹川にはとても感謝している。
大学の前期が終わった8月に部に合流した自分はすぐに初めてのリーグ戦をスタンドから応援することになった。東京六大学もプロ野球などと同様開幕が延期になった影響で8月半ばの非常に暑い中での開催となり非常にしんどかった思い出がある。
このリーグ戦が始まるまで自分は東大野球部についてほとんど知らなかった。東京六大学野球連盟に所属していることは知っていてもほかの五大学がどこかわからなかったし、唯一聞いたことのあるニュースは自分が中2の時に連敗を94で止めたというものだけだった。そのため自分は単純に弱いチームだと思っていた。しかし目の前で行われている試合はそういった自分の思い込みからはかけ離れていた。
春季リーグ戦の初戦の相手は慶應義塾大学で、大学野球に明るくない自分でも強豪大学であることはわかる程度には強い大学だ。そんな相手に対して9回表までリードしていた。自分はかなりの衝撃を受けた。弱いだろうと思っていたチームが強いと思っていたチームに互角、いやそれ以上の試合を展開していた。最終的には9回に2点を取られてサヨナラ負けしてしまったのだがこの調子ならば春秋あればどこかの試合では勝てるだろうと楽観視していた。
しかし現実はそう甘くなかった。秋に1回引き分けたものの1年生の間は1勝もすることができずに終わってしまった。惜しい試合も何度も見たもののそれを取り切れなかった。この1年間で勝ち切ることの難しさを身に染みるほどに感じた。
さて自分はというと1年の夏に運転免許を取り、秋には連盟の仕事に入ることになった。(もしかしたら春も連盟には入っていたかもしれないがよく覚えていない) 連盟にはあまり同級生がおらずほとんどが先輩だったため入るときはかなり緊張していたことを覚えている。それでも同期の笹川の支えもあり何とかやっていくことができた。運転はかなり苦手だったが実はマネージャーの仕事で一番多い仕事は運転なのでなんとか頑張るしかなかった。
私たちの1年生はわずか3カ月で終了し、2年生になった。この期間もコロナの影響が色濃く、部活動が一時期停止になるなど東大野球部も甚大な被害を受けていた。行くはずだった沖縄合宿も中止が決まり部内で唯一沖縄合宿の運営を知る守上さん(R4卒)もこの代で卒業と従来やってきたような引継ぎができないことになった。引継ぎが難しくなっている現状を見てこの頃から自分は「何か下の代に残せるような実体のあるものを残さなければいけない」と思うようになっていた。
コロナの活動停止で時間はかなりあったので、それを達成するためにかねてより興味のあったプログラミングを勉強してみることにした。プログラミングは敷居こそ高かったものの一度着手してしまうと割とわかりやすく楽しく勉強することができた。ほぼ1日中をプログラミングの勉強に費やす日もあったくらいだった。
また、ただ漫然とプログラミングを勉強していても仕方がないので何か具体的な目標を立てようと思い、マネージャーの仕事で非効率な部分がないかと探していると会計の人が個人帳簿(部員各個人の部費請求などを管理する帳簿)を大変そうにつけているのを見た。当時は個人帳簿は紙でできており、約120人分を何時間もかけて書いていたのだ。それも仕方のないことで野球部の人数は数年で急激に膨れ上がり、以前は紙で十分だったものをなかなか変えられずにいたのだ。これを電子化すれば会計の負担が減るのではないかと思い、それを目標に定めることにした。これを作れれば会計の人が楽になるであろう、喜んでくれるであろう、そう思いつつ自分なりに楽しんで「開発」を行った。この楽しい日々は忘れることがないであろう。
しかしマネージャーの仕事として純粋に楽しいと思えたのは後にも先にもこれだけである。
マネージャーの仕事は言ってしまえばただの雑用がほとんどである。取材の対応やオープン戦の帯同、備品の購入など誰にでもできて、それ以上改良の余地もないものがほとんどであり、さらに重要なのがそれらの仕事が部員にわかりにくく、勝利に直結しているとは言い難い所である。
例えばいくつかのタスクを抱えた状態である部員に「この備品を買ってくれ」と言われたとする。持っているタスクを処理してから備品を注文することになるが、そのタスクが忙しくて注文が遅れてしまったり時には忙しさで忘れてしまうかもしれない。そうすると依頼した部員にとっては自分でもすぐできるような単純な仕事もできないやつという評価になる。その部員からするとほかのタスクをこなしていることを知らないからだ。また、その備品を注文しないことはマネージャーの責任として敗戦につながるかもしれないが注文することが直接チームの勝利につながるというわけではない。また、他の人の「僕の野球人生」を読んでも漠然とチームの運営をしてくれてありがとうという文言があったとしてもマネージャーの特定の仕事に対して感謝しているような人はいなかっただろう。それはやはりマネージャーの仕事というのが部員に見えにくいという証左であろう。(決して部員にマネージャーが何をしているか理解し感謝してもらいたいということではなく、この点がマネージャーの仕事の解決しがたい問題点であろうということを伝えたい)
つまるところマネージャーの仕事とは他の部員に見えにくい仕事が多いにも関わらずネガティブな評価しか受けず、かつ勝利に貢献できているということも感じにくいものなのである。この仕事に対してやりがいを感じられる人がいればそれは一種の才能ではないかと自分は思うほどである。
自分は楽しい「開発」が終わった後この問題に直面した。理系大学生特有の忙しさとその当時のマネージャーの厳しさの中でなかなかモチベーションを保ちにくい状態にもなった。勝利に貢献できているとは思い難い仕事をこなしつつ何を目標にすればよいのかわからなくなった。それに加え頼りにしていた笹川も2年の春後に退部し、自分の代の男マネが一人になったことで自分が4年になった時に主務にならざるを得なくなったという状況も相まって辞めたいとさえ思うこともあった。それでも辞めなかったのは小学生で少年野球チームを、高校で柔道部をやめたことから大学でも逃げてしまうとこのまま一生色んなことから逃げることになるんじゃないかという危機感と2年の春より徐々にリーグ戦に出場し始めていた同期の活躍を見届けたいという思いからだった。
チームとしては2年生の間で2勝することができた。自分にとっては部でのリーグ戦初勝利も経験できたわけで、もちろんうれしかったわけだが心の底から喜べていたかというとそうではなかった。なぜならこの勝利に対して自分が何も貢献できていないという感覚が自分の中では非常に強かったからだ。このころから自分はチームの勝利よりも同期の活躍を願うようになっていた。それが良いことなのかどうかはともかく、そうすることで自分のモチベーションを保っていた。
3年生になり上級生になるとより重要な仕事を任されるようになった。室蘭合宿も自分の中で初めての合宿運営として経験させてもらった。これらの仕事は楽しさもあったがそれ以上に「やらかしたらどうしよう」という責任感の方が強かった。
このころになると前年より出場していた梅林(4年/内野手/静岡)や別府(4年/外野手/東筑)、健(4年/投手/仙台一)、松岡(4年/投手/駒場東邦)を中心に同期が数多く活躍するようになっていた。また、自分も一誠寮に住んでいたことから同じく一誠寮に住む部員を中心に仲の良い人も増えていき私生活も充実してきた。仕事は相変わらず楽しいとは思えなかったが辞めたいと思うことはほとんどなくなっていった。
しかし自分たちの代が近づいていくとともに自分の中に一つ重くのしかかるものがあった。それは主務になるということだ。
自分に近しい人なら知っている人も多いと思うが、自分は本当に主務になりたくなかった。本気で下の代に主務をやってほしいと思うときもあった。
なぜそこまで主務をしたくなかったかというと、主務は平日に拘束されることが多くなるからだ。例えば全国大会に当たる全日本や明治神宮大会は各校の主務が運営として召集される。それらの大会は当然のように平日に行われ、日によっては1日4試合行うことで1日中拘束されることもあった。出席が重要な実験や演習を抱えている自分にとってそれらを休むことは留年を意味しており、正直東大が全く関係ないこれらの大会に興味を見いだせない自分にとって足枷にしか思えなかった。
それに加えて他人にあまり興味のない自分にとってリーダーシップの必要であろう主務は明らかに不適格だろうという思いもあった。自分がやるくらいなら下の代がやったほうがいいんじゃないかというのも岩瀬(3年/マネージャー/開成)などの方がリーダーシップの面から言うと優れているんじゃないかと考えていたからだ。
また、主務になったからと言ってできることが増えるわけでもない。増えるものはせいぜい仕事と責任くらいである。こんな言い方もなんだが主務になることのメリットも見いだせなかった。
結論を言うとその思いはある日を境に変容した。それは3年生の秋季リーグ戦最終戦、つまり上の代の引退試合の後のことであった。通常リーグ戦の試合後には報道陣の取材が行われる。最終戦の後もいつもの通り選手の誘導などの取材対応をしていた自分のもとにベンチ入りを終えた平祐さん(R5卒)がきた。お疲れ様です、と言おうと平祐さんの方を見ると珍しく目元が赤くなっていることに気づいた。言葉に詰まった自分に平祐さんは頑張ってねと言い自分と役目を交代した。その時に主務として責任もって1年間やるということはどういうことか、そしてその先にどんな景色が待っているのか知りたくなった。
4年生になり、同時に主務となった。部の最重要責任者の一人になるとともに合宿運営、オープン戦組み、時間外の電話番など主務特有の仕事も増えた。特に電話番は電話の苦手な自分にとってはトラウマのようなもので電話の着信を告げるバイブレーションだけでなくそれに少し似たような自然音ですら睡眠中の自分の眼を覚ましてしまうほどであった。
4年生になってからはあっという間に時間が過ぎていった。気づけば去年の今頃見た神宮セレモニーは1週間後に行われる。最終戦後に見える景色は未だに想像はつかないがすぐそこに迫っていることは確かである。
確かにあっという間ではあったがたくさんの思い出ができた。4年越しに行われた沖縄合宿では人のつながりの強さ・素晴らしさを感じられた。続いて行われた鹿児島合宿ではプロとの対戦など貴重な経験をさせてもらった。春季リーグ戦では勝つことの難しさを再認識させられた。遠軽合宿では環境の大切さを知った。秋季リーグ戦では勝つことの喜びを教えてもらった。ほかにも数えきれない思い出があるが挙げるときりがないのでこのくらいにしておこう。
また、この4年間で野球部に入っていなければかかわらなかったであろう数えきれないほどの人と関わることができた。そうした人たちに感謝を述べたいと思います。長くなりすぎてしまったので該当箇所のみ読んでもらえればと思います。
家族へ
急に灘行きたいとか東大行きたいとか言い出すよくわからないやつだったと思いますが自分なりに楽しみながらこの場にこれたのも家族のみんなのおかげです。以前のひかりちゃん(2年/マネージャー/智辯和歌山)のブログで書いた、「生まれ変わったら誰になりたいか」の問いに「自分」と書いたのは紛れもない本心です。そのような風に育ててくれたり導いてくれたことには感謝してもしきれません。まだ少しの間は迷惑をかけますがよろしくお願いします。
東大野球部を応援してくださる皆様へ
いつも応援ありがとうございます。なかなか勝てない野球部ではありますがラスト1カード、そしてこれからも勝利を目指して頑張りますのでこれからも応援よろしくお願いいたします。
合宿等を含めた野球部の運営にご協力いただいた皆様へ
これまで運営にご協力いただきありがとうございました。個人的には4年越しの沖縄合宿で多くの人が支援してくださったことは人と人のつながりの強さ大切さを知れた良い機会だったように思います。来年度以降もご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんがよろしくお願いいたします。
OB会の皆様へ
今年度初めの井手監督の件を含めて様々なところでご協力いただきありがとうございました。皆様の力添えがあってこそ部が運営できているのだと痛感した1年間でした。これからは自分も一員となりますので今後ともよろしくお願いいたします。
井手監督、大久保助監督へ
自分たちの代はお二人の体制から始まりお二方の体制で終わることができた唯一の代です。まさに井手監督・大久保助監督のチームです。お二方が作り上げてきた集大成を見せられるように最終カードも頑張りたいと思います。これまでご指導ありがとうございました。お体にお気を付けてお過ごしください。
応援部のみんなへ
いつも応援ありがとうございました。ベンチで聞いた「不死鳥の如く」は忘れられません。
あと応援部主将の浅香とは勝ち点を取ったら丸坊主にするとか約束してたのに勝手に丸坊主にしてごめんなさい。日焼け対策は頑張ってください。
先輩方へ
生意気な後輩だったと思いますが根気強く指導していただきありがとうございます。
特に1つ上の主務である平祐さんには多くのことを教えられました。今後もその教訓を胸に進んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。
後輩へ
リーダーシップ皆無で申し訳なかったです。自分なりに頑張ったつもりではありますがあんまり頼りない先輩だったと思います。
1つアドバイスをするならばモチベーションについてです。もしかしたら後輩の中でも自分と同じような壁に直面しモチベーションを保てなくなったり辛くなったりすることもあるかもしれません。そういった時には心のよりどころを作っておくことが重要だと思います。自分だとそれが同期の活躍でした。
また、特に下級生は失敗を恐れずにチャレンジして、上級生はそのチャレンジによる下級生のミスを許してあげるような心の広さを持ってくれればと思います。多少ミスしたところで人の命がかかるようなことはほとんど無いわくらいのマインドをもってやるといいと思います。逆に運転など人の命がかかっているときはミスをしないように気を付けてください。頼りない先輩でしたが1年間ついてきてくれて本当にありがとう。
最後に同期へ
ずっと書いているとおりみんなの活躍が自分の心の拠り所でした。リーグ戦での活躍はもちろん、オープン戦や一誠寮での生活、球場での雑談も自分の日々の生活の楽しみでした。いつもは恥ずかしくてあんまり言えないけど本当にありがとう。みんながいたからこそ自分はこの野球部を続けることができました。
自分はまだチームの勝利に貢献できたという実感を持てていないから軽々しく勝とうとは言えない。だけど恐らく全員が一つに集まるのは最終戦後が最後になるだろうからその時くらいは笑顔で会いたいと思います。
ラスト1カード、一緒に頑張りましょう。
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次回は明日10/20(金)、梅林浩大主将を予定しております。
最終回となります。ぜひご覧ください。