『僕の野球人生』vol.4 長谷川 大智 投手
先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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「僕の野球人生」 vol.4 長谷川 大智 投手(4年/駒場東邦)
爽やかな淡青に身を包み、緩急で打者を翻弄する。鉄腕から繰り出される魔球は、野球エリートを追い詰める。
17番の背中は自信を物語っていた。
勝てる。勝ち切れる。
その夢は目前で消え去った。
小学校3年生で始めた野球もすでに10年を数えた。数えたという言葉がふさわしい野球生活だったと思う。
少年野球はしんどかった。集合時間は5:55、なぜかゾロ目だった。冬の走り込みは、理不尽を超えていたが、あれほどに厳しい練習はいまだに経験していない。8番レフトと9番ライトとコーチャーを行き来するのが精一杯だったが、それはそれでとても楽しかった。自分の実力を知り、早々に甲子園を諦めた僕は、中学受験をするという理由で5年の冬に引退した。自分にとっての最後の練習試合では2本のヒットを放った。その時の相手投手は青山勝繁(4年/内野手/川和)だったらしい。
駒場東邦中学は不思議な場所だった。強豪校ではないはずなのに、なぜか130キロを投げるピッチャーがいた。偉大な先輩である松岡投手(R6卒)だ。投手を始めたはいいものの、松岡さんに勝てるはずもなく、それどころか2年次はベンチすらも入れなかった。3年になってエースになると、なぜか勝ち進んだ。最後は都大会で一勝して、満足だった。2回戦で負けた後は、涙もなく、ミーティングでどんなふざけたことを言うかをみんなでニヤニヤしながら考えていた。
高校はひと味違うかもしれない。当時の駒場東邦高校軟式野球部はかなり厳しかった。
下級生の頃は松岡さんがいたから、大して試合には出られなかったけど、任されたイニングを全うした。最上級生になってからは、ほとんどの試合に登板した。2年秋の都大会が終わった段階で、投手としては15勝0敗。だけど、チームが勝ち続けていたわけではなかった。大事な場面でマウンドを降りる。僕は勝てる試合に投げるだけのへっぽこエースだった。
それでも、なんとなく野球は楽しいし、勝つ喜びもたくさん教えてもらった。だからそろそろ野球は観る専門になればいいと思っていた。応援している西武も強かったし。まだこの頃は。
今から一年ちょっと勉強して、どこか国立大学に行こうと思っていた。それならやっぱり東大か。
そんな2019年の秋だった。
爽やかな淡青に身を包み、緩急で打者を翻弄する。鉄腕から繰り出される魔球は、野球エリートを追い詰める。
17番の背中は自信を物語っていた。
勝てる。勝ち切れる。
その夢は目前で消え去った。
連敗は止まらなかった。それでも、17番の背中に何かを感じた。フォームもマウンドさばきも、魔球チェンジアップもめちゃくちゃかっこよかった。当時の大エース小林大雅さん(R2卒)は、僕の憧れの人になった。
こんな素敵な場所があった。知らなかった。日本一の頭脳派が、プロ予備軍を追い詰める。それだけで、野球をやる意味がきっとあるのだろう。心が決まるのは一瞬だった。
ここで野球をやる。
いきなり硬式に転向して、通用するかなどわからなかった。だけど、高校でそれなりにやれた自信と、高校軟式野球出身のプライドで決意は揺るがぬものとなった。
そして最後の関東大会。小林大雅さんのエースとしての風格に圧倒され、奮い立たされた僕は、延長11回のマウンドに立って、初めて黒星をつけた。15勝1敗。僕にとっては価値のある一敗だった。
こうして高校の野球部を引退し、受験に専念した。東大野球部という目標を目指して。
結局、大学受験は一回でクリアした。合格発表後、当日こそ放心状態であったが、翌日には本来の目的を思い出し、入部を決めた。同期は思ったよりも普通だった。同じクラスの平田くん(4年/投手/都立西)は、縦にも横にも大きくて面食らったのだが。入ってみれば、野球のレベルは案外だった。平田くんはそもそも浪人明けでろくに動けていなかった。部内においては、軟式上がりでも通用するみたいだった。
春のフレッシュトーナメントは同期投手一番乗りでベンチに入り、秋は一番乗りで登板した。0-9の2回から登板して5回途中まで1安打に抑え、降板した時にもらった温かい拍手は今でも覚えている。
2年はAチームスタートだったが、めぼしい結果を出すことができなかった。徐々に出場機会を減らしていき、しまいには一切実戦練習に入れなくなっていた。まだ2年生で先があるという余裕は、いつしか怠惰に変わっていた。この頃、平田はリーグ戦にたどり着いていた。
3年春は激動だった。鹿児島合宿に行ったはいいが、めまいを発症し、しまいには宿舎から出られなくなった。本隊から外れて東京に帰り、静養したがあまりよくなることはなかった。医師からは軽いうつ病と告げられ、薬を飲んで治したが、今でもめまいがすると怖くて眠れなくなる。もはやリーグ戦どころではなかったが、練習に来て皆と顔を合わせるだけで救われた。
気がつけばリーグ戦のマウンドにいた。
チーム状況もあったのだろう。とにかく僕はリーグ戦のマウンドで、懸命に腕を振っていた。結果は散々だった。3試合で9点を取られた。防御率13.50。3年生なのに、思い出登板と書きこまれた日もあった。平田は防御率2.45で終えていた。
思い出という気持ちが自分に芽生えていたのは事実かもしれない。他大学との圧倒的な実力差に心を折られかけていた。リーグ戦に出場できたことが心の拠り所になっていた。
自分の実力はここまで。活躍する同期との差を受け入れることもできず、なんとなく野球を続けていた。神宮のマウンドに立ち、打席にも立ち、これで少しは東大に名前が残せたかなと思っていた。そうして秋はベンチから外れ、リーグ戦への熱意も薄れてしまっていた。何がなんでも自分が出たいという気持ちはなくなり、他のピッチャーの活躍を素直に喜べるようになった。そういう意味では成長したのかもしれない。
そんな僕に、再びのリーグ戦のマウンドは遠かった。
4年生になると、当然ベンチには入るものだろうと思っていた。しかし、リーグ戦まで1ヶ月を切った頃、突然の2軍降格を告げられた。直前での2軍落ちはすなわち戦力外であった。同期の投手で自分だけがBチームにいる。寂しかった。みんなと毎日練習できることがどれだけ幸せなことだったか。普段気づかない幸せは、当たり前の権利ではなかった。
この時、もう一度リーグ戦で戦いたいという思いを取り戻した。
リーグ戦まで1週と迫ったころ、Aチームに昇格した。ギリギリだった。また同期のみんなと一緒に野球ができる。それが一番だった。リーグ戦のメンバーに入った時は、とても嬉しかった。4年生としての初登板は、前年以上に緊張した。なんとか0に抑えてベンチに戻った時、Bチームで過ごした1ヶ月は、自分にとって必要な時間だったと思うことができた。チームのために戦いたい。どうにか自分が、勝ちを引き寄せる役割を果たしたい。
先発は青天の霹靂であった。太陽(鈴木太陽投手/4年/国立)に繋ぐ、たった2イニング。チームに流れを呼び込むチャンスだった。けれども、リーグ戦の壁は高く厚かった。1回2失点。早稲田打線は、思っていた何倍も手強かった。その後、法政戦こそ惜しい場面を作ることができたが、結局春は僕自身で2敗を喫してしまった。
この間、七大戦の京大戦で久しぶりに活躍した。自分が活躍して、勝利した。とても久しぶりの感覚だった。負けっぱなしの大学野球に、光明が差した気がした。小林大雅さんのように、一人で投げぬけるほどにはなれなかったかもしれない。けれど、僕は僕の仕事をする。与えられた場所で活躍して、リーグ戦での勝利につながればいい。17番をつけてマウンドに上がれる喜びを噛み締めて。
自分語りはこの辺で。
野球を始めて13年。お世話になった全ての人に感謝したいと思う。
指導者の方々
すぐに手を抜いてしまうタイプだったかもしれませんが、辛抱強く面倒を見てくださり、ありがとうございました。長先生が僕を投手にしてくださったおかげで、今の自分があります。野口先生や内藤先生に徹底的に考える野球を教わったことが、大学でも野球を続ける原動力になりました。これから少しでも、駒東に恩返しができたらと思っています。
大久保監督には、下級生の頃から面倒を見ていただいて、多くの試合で起用していただきました。いまだ、監督の期待に応えられるような快投ができていないことが悔しく、このシーズンで一つでも、監督を勝たせる投球がしたいです。西山コーチは、たくさんアドバイスをくださり、4年生になってからもうひと伸びするきっかけになりました。井手監督、石井助監督、高木さんや東大野球部に携わる全ての方々に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
応援してくれる方々
東大に入って、最も感じたのは応援してくださる方がたくさんいるということです。どんなにビハインドでもタオルを振ってくれる人がいて、少しいい投球をしただけでも大きな拍手を送ってくれる人がいます。そういったファンの方々に、もっといいプレーをお見せできるように頑張ります。今後とも、応援よろしくお願いします。
そして何より、応援部のみんなです。彼らは最強の部隊です。どんな展開でも下を向くことなく応援してくれます。七大戦で緊張を鎮めてくれたのは、彼らの声でした。リーグ戦でも、応援を見て、聞いて心を落ち着けています。本当にありがとう。あとは、僕らが恩返しをする番です。一生懸命プレーするので、最高の応援を、大好きな不死鳥を、神宮に轟かせてください。
両親
野球をやらせてくれて、中学に入らせてくれて、大学受験を満足にさせてくれてありがとう。いつでも僕の選択を尊重してくれて、納得のいく学生時代を全力で過ごすことができました。たった2イニングしか投げないのに名古屋や岐阜まで見にきてくれたり、合宿から逃げ帰った僕を羽田まで迎えにきてくれたり、大学に入ってからもいつも近くで支えてくれたこと、本当に感謝しています。これからも迷惑をかけることになるかもしれませんが、ちゃんと大人になれるように頑張ります。
関わった全てのチームメイトたち
大学まで野球を続けてきた理由は、野球が楽しめる環境にいたからだと思います。
駒場東邦で過ごした六年間は宝物だと思います。初めは不作の学年だと思われていたかもしれないけど、人数が少ないながらに皆で力を合わせて頑張れたことが、大きな財産になりました。ありがとう。これからもよろしく。
東大の同期。みんなで同じ四年間を共有できるということがこの上なく幸せです。2年の室蘭や3年の沖縄の思い出話でまた大笑いしましょう。そしてこの秋のシーズン、みんなが力を出し切って、4年生の力で勝ちにいこう。
それから投手陣の後輩たち。いい先輩像とはかけ離れていたと思いますが、長い間一緒に練習してくれてありがとう。僕が辛い時に頼りっぱなしだった、増田(3年/投手/城北)には本当に助けられました。みんなが僕とは桁違いの力を持っているから、来年以降は盤石です。頑張れ。
下級生の頃毎日一緒に練習して、たくさん話を聞いてもらった大友(4年/外野手/仙台一)や、春先にどん底から救い出してくれた見坂(4年/外野手/水戸一)、部活から授業から全て頼りきりだった角能(4年/マネージャー/攻玉社)、他にも多くの人に迷惑をかけ、その度に助けられてきました。本当にありがとう。
小松庵での一年半は辛くもあり、楽しくもありました。もう戻りたくはありませんが、また間島(4年/学生コーチ/八王子東)とゴキブリを捕まえたいです。青山や大巻(4年/学生コーチ/花巻東)、同居人の先輩方、ありがとうございました。
最後に同期の投手陣。最後は6人になってしまったけど、こうしてみんなと練習してきたことが何よりも楽しかったです。最後のシーズン、全力で戦おう。また休みになったら屋上で待ってます。
先日の早大戦は、チームとしても個人としても不甲斐ない結果に終わってしまい、本当に悔しいです。自分が今後チームの戦力になれるのか、もう一度マウンドに立つことができるのか、考え込んでしまう日もあり、正直とても苦しいです。だけど、まだやれると思ったらまだやれる。そう思って1ヶ月、やっていくことにします。ただの東大野球部ファンだった自分がいざ中に入って、何か一つでも、いいものを残していけたらと思っています。
そしてこの文章を書いている今、明治戦の一戦目を終えたところです。スタンドでの応援は、悔しさでいっぱいです。だけど、小村(2年/内野手/私立武蔵)が送りバントを決めて、喜んでいたのを見て涙が出そうになりました。チームが勝つために何かがしたい、その気持ちは今でも変わりません。ついでに送りバントもたくさん決まって欲しいです。
東大に入って多くのことを学びました。
自分は脆く、か弱い生き物でした。常に精神に支配され、人の手を借りてようやく生きながらえています。それでも、一緒に戦う仲間がいて、支えてくれる人がいます。だから、それに報いるために、自分の仕事をするだけです。
それが僕の野球人生です。
お読みいただきありがとうございました。
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次回は9/25(水)、平田康二郎投手を予定しております。