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『僕の野球人生』vol.7 青山 勝繁 内野手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」 vol.7 青山 勝繁 内野手(4年/川和)

青山表紙23

小学校1年生の頃、入団したらもらえるお菓子に釣られた兄に誘われるようにして、少年野球チームに入団しました。のちに所属した中高大のどの組織よりも“体育会系”だった覚えがあります。コーチの方々は厳しくも親身になってたくさんのことを教えて下さいました。最終学年になると、試合に出る6年生が私だけであることと、私が勝ち負けに大きな影響を与えるほど野球が上手じゃないことから、ほとんどの試合で負けた記憶があります。それでも、周りの先輩が毎日自主練していた影響もあり、野球漬けの小学校生活を送りました。中学校進学にあたって、兄と同じボーイズに入団しようと考えていましたが、体が小さすぎて怪我するぞと、兄や父がやんわり反対していたこともあり、野球部への入部を決めました。正直この頃から、強豪校に進学、甲子園に出るといったような野球人生は送れなさそうだなと考えていました。“ 野球が上手い人たち” へのコンプレックスが芽生え、どんどん大きくなっていきました。ちょうどその年、京大からプロ野球選手が出そうだといったニュースを見て、ぼんやりと、テレビでよく見た甲子園・プロ野球ではない、その先の野球人生について考えるようになりました。

 

「ぼくの夢はとにかくプロ野球選手になることです。そして、活躍したいです。しかし、高卒でプロに行くより、頭の良い大学に入り、そこからプロに入る方がいいと思っています。万が一プロになれなくてもちがう仕事が見つかると思っています。」

小学校の卒業文集に載せた将来の夢です。おそらく後半部分が本音で、小学生のくせにリスクを取ろうとしない夢に呆れてしまいますが、この頃から、野球だけで勝負することに逃げ、それ以外のところでもアイデンティティを見出そうとしていたのだと思います。

 

中学校の野球部は人数が少なく、入学後すぐの春の大会にスタメンで出るようなポジションのまま、特に何もなく三年間過ごしました。代が進んでいくにつれ、市大会ではありますが、少しずつ勝てるようになっていったため、無難に楽しかった三年間でした。高校進学にあたっては、今度は東大からプロ野球選手が出そうだといったニュースを見て、東大野球部で活躍するために適切な野球部といった軸で選びました。頭のすごく良いところと、野球部が強いところと迷いましたが、良く言えば良い所どり、悪く言えば悪い所どりの川和高校へ進学することに決めました。

 

結論から言うと、川和高校に進学したのは我ながら最も良い選択だったと思います。インフルエンサーとして活躍されている伊豆原先生から、たくさんのことを学ばせていただきました。当時の高校野球においては珍しく、積極的にSNSや外部指導を導入していく姿勢など、選手に対してたくさんの可能性を提示してくださる指導をしていただきました。特にソフト面でかなり恵まれた環境で野球をすることができた二年間だと思います。

 

肝心の僕の野球の調子はというと、入学後すぐの東北遠征などにも参加するなど、第一印象は良かったのですが、段々と雲行きが怪しくなっていくと共に、怪我をして儚く消えていくといったような一年目を過ごしました。後述する大学生活でもほとんど同じ走り出しだったので、更にその次のライフステージでも同じような経験をすると考えると憂鬱です。その後二年目、三年目と無難に過ごしていき、高校野球を終えることになりました。高校3年生最後の試合では、コロナによる中断を経て、夏の大会を迎えるにあたっての目標みたいなものが自分の中であまりなかったこともあり、「東大野球部行きたいから勉強頑張るか」くらいの気持ちでさらっと終わってしまいました。とはいえ、高校野球が終わったその日に球場から帰ると地元の公園で先輩たちが野球をしており、一緒に練習をするくらいには野球に熱中していました。入学直後よりも、段々と野球が好きになっていった高校三年間でした。

 

運よく東大に合格すると、合否発表のあったその日から練習を始めました。1春のフレッシュでは、内野の先輩方が怪我をしていたことや、同期が受験明けであまり動いていないこともあり、ベンチに入りました。試合に出ることはありませんでしたが、特に落ち込むこともなく、1秋フレッシュではスタメンになって、2年からリーグ戦でベンチ入り、そのままレギュラーになるといったような青写真を描いていました。が、現実は全くそんなことはなく、現在まで、神宮球場と東大球場を自転車で往復するだけの生活が続いていきました。「名も無きリーグ戦メンバー外」として四年間が過ぎましたが、その中でも微かな野球人生の起伏はありました。1春フレッシュ後には、怪我により四ヶ月ほど離脱をしました。そこからしばらくは、正直あまり記憶に残っていないです。次々と同期がリーグ戦デビューを果たしていく姿をただ見ているだけでした。リーグ戦どころかフレッシュでもまともな出場機会を得ることができませんでした。野球に気乗りせず、全体練習が終わったらすぐ帰るという時期もありました。同じような状況だった大友(4年/外野手/仙台一)芳野(4年/外野手/西大和学園)、まじま(間島学生コーチ/4年/八王子東)辺りと傷の舐め合いのような日々を過ごしていた記憶だけが残っています。

 

2秋フレッシュ前、ボールが目に当たって涙小管が断裂して入院をしていたとき、横たわりながら1人でぼーっとしていると、野球をしに東大に来たのにまだ何もしていないという事実に気づきました。涙は特に出ませんでしたが(涙小管が断裂していたため)、一通り悔しがったあとにもう一度頑張ろうと決意のようなものをした覚えがあります。少しずつ結果も出ていき、3春にはAに上がることができました。結果が出るまでとても長く、小さな怪我も重なり、結構苦しかったのですが、同じような立場の先輩がたまにかけてくれる言葉が非常に励みになりました。そのあとは特にリーグ戦に絡むこともなく、夏の合宿後にまたBに下がりました。直後に、四ヶ月ほど怪我による離脱をすることになりました。記憶を美化するために、怪我したからB降格ということにしたかったのですが、何度思い出してみてもこれらの順序が逆転することはありませんでした。

 

そこから4春まで、かなりしんどかったです。冬が明けてのオープン戦では、コンスタントに暴投を積み重ねていき、外野へのコンバートを決意しました。バッティングでアドを取るタイプではない4年生野手が外野へコンバートするというかなり恐ろしい判断でしたが、最早そうするほかないというところまで来ていました。高校生とのオープン戦でも後半からの出場というかなり厳しいところから、外野手生活をスタートしました。夏のA合宿に選ばれなかった時点で選手を引退するということを前々から決めていたため、夏前の時期は一層しんどかったです。Aの午前練が終わったあと、リーグ戦に向けて彼らが会話をしている中でひっそりと始まるBの午後練。プレイヤーとしての立場がないようで勝手に気まずささえ感じました。(この時期はたくさんチャンスもいただけたので、チームに対しては感謝こそあれ不満はないです。)その頃Bチームにいた4年生はかなり少なかったですが、靭帯切らして頑張る谷村くん(4年/内野手/湘南)を筆頭に、彼らから活力をもらいながらギリギリのところで野球をしていました。

「次のオープン戦あたりが最後になるかもな」

という会話を何度もした記憶があります。

その後は運良く合宿に行くことになりましたが、8月半ばに、

「試合に出るなら代走(守備固め?) になる」

と伝えられ、今に至ります。当初目指していた姿とは大きく変わりましたが、あともう少しだけ頑張ろうと思います。

 

スタンドからリーグ戦を見るとき、初めは同じポジションの選手や同期が活躍するたびに悔しさを感じていました。自らの実力を棚に上げ、自分の方がもっと上手くできるだろう、グラウンドでそれを証明したい、と考えていました。シーズンが降るにつれ、ある程度現実も見えてくるようになり、情けなくも目標はどんどんと下方修正されていきました。もうこの頃には仲間のプレーに対しても悔しさも何も思わなくなっていきました。このようなどうしようもない時期を経て、今では、素直な気持ちで喜び・悔しさを共有できていると思います。試合への貢献の仕方が限定されたからでしょうか。四年間のうちのおよそ四年間はしんどい思いをしましたが、六大学野球の華やかさに魅せられ入部をした東大野球部はなかなか居心地の良い組織でした。そんな彼らと良い結果を残せるように最後の秋を駆け抜けたいと思います。

 

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次回は9/28(土)、江口雅人内野手を予定しております。