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『僕の野球人生』vol.8 江口 雅人 内野手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」 vol.8 江口 雅人 内野手(4年/海城)

僕の野球人生江口 2 3

16年続いてきた当たり前のように野球が迫り来る生活も、気づいたら残り1ヶ月を切ってしまいました。自分の半生とも言える野球人生をまとめるなんて不可能な気もしますが、とにかく挑戦してみようと思います。

 

僕の野球人生は小学校に入る少し前から始まりました。監督コーチの声を出せという教えを忠実に守っていた僕は、すぐにライト、そしてセカンドで試合に出してもらえるようになりました。ただ、低学年チームのエースだったよしき君がほぼ全てのアウトを三振でとってしまうため、僕にとっての守備とはボールを捕ることではなく、ただひたすら「ばっちこーい」という呪文を叫ぶことでした。また、身体が小さかった僕は、小さく構えてファールを打ち続け四球を狙う小学校低学年にしては異色の打者となり、脅威の出塁率8割超えを記録していました。

同学年の選手がおらずチームの末っ子だった僕は練習でも学校でもお兄さんたちに可愛がってもらい、楽しい日々を過ごしていました。学校の廊下ですれ違った5年生のお兄さんに「えぐちカッター」と言われながら軽くチョップされたりしたのはいい思い出です。ちなみにひぐちカッターが何か分かったのはずっと後のことでした。

僕は自然と野球にのめり込んでいき、集団登校の前に父とバッティングの練習をするのが日課となっていました。

 

3年生になり、福岡へ引っ越した僕は、初めて同い年のチームメイトを持つことになりました。数ヶ月で博多弁を流暢に話せるようになったことで(?)、チームに溶け込むことができ、試合にもたくさん出してもらえました。セカンドのみならず、サードやショート、キャッチャーやピッチャーとしても出場し、僕の野球人生の中で最も主力として活躍した三年間でした。自主練にも熱が入り、ホームセンターでネットとキャンプ用のライトを買い揃えてまで朝晩トスバッティングに励んでいました。試合中水を飲んでいい回数に制限があったり冬のトレーニングにタイヤ引きがあったり若干昭和風の吹くチームでしたが、チームメイトと家族ぐるみで旅行に行ったりと多くのいい思い出があります。

 

6年生で再び引っ越しをすることになり、受験を控えた僕は新しいチームに所属したものの、あまり練習に参加することなく勉強に専念するようになりました。しかし、監督コーチは僕をあたたかく受け入れてくれ、夏には神宮球場でのヤクルトの試合で始球式までさせてくれました。(おそらく神宮デビューは東大野球部の中でも随一の早さでしょう) 引退試合もさせてもらい、僕がピッチャーで直希(2年/投手/海城)がキャッチャーという不思議な形で最初で最後の兄弟バッテリーもすることができました。卒部記念に「兄弟東大神宮観たい」という言葉をもらった僕は、高校に硬式野球部があると両親が選んでくれた海城中学校に入学しました。

 

中学入学後、当然のように野球部に入部しましたが、早速僕の野球人生最初の危機が訪れます。一学年30人も部員がいた上、ほぼ全員自分より大きな体をしていたのです。いつまでも慣れない階段ダッシュや体幹トレーニングに加え、成長期のため体の節々が痛み、Bチーム生活が続きました。しかし、最上級生になると学年で一番上手いチームメイトの家が遠く朝練に間に合わないことから、声をよく出していた僕がキャプテンとなることになりました。同時にセカンドのレギュラーとなり、僕の野球人生に再び追い風が吹き始めました。その後のキャッチャーへのコンバートは今でも鮮明に覚えているほど衝撃的な思い出です。秋大会直前の打撃練習中、外野で守備をしていた際に少年野球でのキャッチャー経験を確認された僕は、秋大会の試合(おそらく準々決勝)の最終回にいきなりキャッチャーを命じられました。サインを教えられだけで練習ゼロで扇の要につき、パスボール連発で危うく同点を招くところでした。

野球への熱量が様々な100人近い部員をキャプテンとしてまとめ上げるのは非常に難しく、先生に叱られることも多々ありましたが、多くのことを学べた一年間だったように思います。目標としていた都大会出場も達成でき、大きな希望を抱きながらそのまま高校野球部に上がりました。

 

しかし、高校野球は僕にとって逆風の連続でした。1年秋に発症した胸郭出口症候群はなかなかよくならず、満足に投げられるようになったのは2年生の5月でした。投げる、打つができないばかりかウェイトトレーニングでも腕が痺れてしまい、できることと言ったら捕り専のブルペンキャッチャーをすることくらいでした。練習の手伝いもしてみましたが、練習中は基本暇を持て余していました。今思い返しても浮かんでくる思い出は、ブルペンで投げる投手の後ろにある街灯が眩しかったこと、部室棟の前のベンチに寒がりながらずっと座っていたことくらいです。

ゴールデンウィークの真っ只中に久しぶりに復帰した僕はついに復帰した喜びと共に練習に励みました。それも束の間、5月末の球技大会のサッカーで本気を出しすぎ、今度は左足首の三角骨が欠けてしまいました。僕の野球見学人生の再開です。新チームの秋大会には間に合わせようとしましたが、足首はなかなかよくならず、チームもブロック大会初戦で敗れてしまい、結局一度も公式戦に出ることなく最後の冬を迎えました。

高2の冬は(もはや奇跡的に)一度の怪我もなく乗り切ることができ、春大会は活躍してやろうと息巻いていた矢先、今度はコロナが訪れました。学校が休校になる中、野球どころではありませんでした。家でトレーニングをするなどしましたが、夏の特別大会もほとんど練習しないまま望むこととなり、あっけなく1回戦負けで僕の高校野球は幕を閉じました。不完全燃焼どころかもはや火もついたか怪しい高校野球人生に満足できなかったため、東大に行くことになったら野球部に入ろうと思うようになりました。

 

東大に入学し、サークルの新歓に行くこともなく野球部に入部しました。周りにも同じような奴がいっぱいいました。相変わらず体が小さかった僕は流石にキャッチャーは無理だろうという考えからポジションをとりあえずセカンドとして申請しました。しかし、「同じような」と「同じ」が全く違うことに気づくのにあまり時間はかかりませんでした。この世の中には野球を中心に据えて東大に入ってくる人がいることを知りました。授業よりも練習を優先するという価値観に初めて触れました。僕は、授業を優先するという選択をしました。オンライン授業が多く、駒場への移動時間がなくなったとはいえ、平日の練習にはあまり参加できませんでした。当然春フレッシュ出場は叶いませんでしたが、まあそんなもんだと思っていました。それよりもフレッシュ直前の練習に参加しなければならず総合科目の授業を欠席しないといけないことが気がかりでした。

夏休みに入ると授業がなくなり練習に参加できるようになりました。硬式のゴロが怖く守備はなかなか改善しませんでしたが、ドラ直がバットに当たるようになるなど少しずつ上達していることを感じられ、また春学期の成績が意外と良かったことから秋学期は調子に乗って少し自主練するようになりました。オープン戦では全然ヒットを打つことができませんでしたが、シートバッティングで太陽(4年/投手/国立)からヒットを打ったことで打キャラとして秋フレッシュに出場することができました。投内連携では直前1週間で3球しかまともに捌けず絶望した記憶がありますが、神宮では2つもゴロをさばくことができ、このままいけばリーグ戦にも出れるかもしれないと思うようになりました。

しかし、僕の大学野球人生はそこから上昇することはありませんでした。体が小さいという課題は解決しておらず、練習に体がついてこないようになりました。体の色々なところが次々と痛くなりろくに練習ができませんでした。怪我が治ってもパワーで劣る僕は結果も全然出ませんでした。なんとか体を大きくしようと食べる量を増やそうとしましたが、食の細い僕にとっては無理がありました。夕食に毎回2時間以上かけていても、練習中に補食を頑張ってとっていてもなかなか体重は増えていかず、少し増えても維持するのが限界でした。また、経済学に興味を持った僕は文二ートと呼ばれる2年春学期にも進級要件を超えて授業を履修し、トレーニングに時間を割くこともありませんでした。その結果、せっかくのコーチ陣からの期待に応えることはできませんでした。初のA戦ではあっけなく三振し、呼んでもらったA合宿でも全く結果を残せませんでした。結局その年のフレッシュはもはや2年生であるという理由によると思えるような出場機会を貰うのみに終わりました。

自分の中で野球に向けた努力の限界が見えた上であまり結果が出なかったことを受けて、僕は大きな決断を下しました。学業と野球にはっきりと優先順位をつけ、いかなる時もそれを変えないようにしました。そして、僕は3年秋に米国へ交換留学することを決意しました。当然その決断は僕のリーグ戦出場の夢が絶望的になることを意味していました。そして、それはリーグ戦勝利に向けて全力で取り組むというチームの方針にそぐわないことも理解していました。実際に留学することを告げた時の門池(4年/学生コーチ/都立富士)の困惑した顔は今でも覚えています。

ただ、僕個人の野球人生はそれを機に少し明るいものとなりました。春先のB戦では久しぶりのヒットが出るなど比較的好調が続きました。留学直前のB合宿に人数の関係で参加することとなり、大学に入ってから一番野球を楽しむことができました。ずっと頭ではわかっていたもののできなかった、周りとの競争を気にせずに野球を楽しむ方がうまく行くというのをついに実践することができました。

留学に行き、同期より(何なら1個上の先輩方より)一足先に引退生活を体験することになりました。一応現地でバットを買って寮の部屋で素振りすることはありましたが、留学先の野球部に参加することはしませんでした。何の気がかりもなく授業に出席したり、友達とご飯を食べたり夜遅くまで勉強したりしました。周りには野球が何人でするスポーツか知らない人がほとんどでした。運動はアルティメットクラブに週数回参加する程度でした。サンクスギビングでは初めて何の制約もない長期休みを過ごしました。初めて野球のない「普通」の生活を経験しました。そんな生活を意外とあっさりと受け入れている自分がいました。留学の終盤にかけて生まれてきた焦りも、野球に対してではなく、経済学部のゼミの同期に遅れをとっていることへの不安から来たものでした。

一方で、野球部の同期といると居心地がいいことにも気づきました。似通ったバックグラウンドを持つ野球部でのコミュニケーションには言語の壁だけでは説明できない特別な安心感があるように感じました。野球は僕にとって最も大きいアイデンティティの一つとなっていました。

帰国後、僕はあまり迷うことなく復部することにしました。同期と後輩は(少なくとも直接分かる形では)不快感を示すことなく僕を受け入れてくれました。野球の全ての側面において錆びつきまくっていた僕は何とか練習についていったもののそれが限界でした。春のリーグ戦が始まっても当然のようにBチームだった僕に対して、足キャラとしてAチームを目指したらどうかと打診がありました。バッティングも守備もリーグ戦レベルに到達できないことは百も承知だったため、何の迷いもなく快諾しました。Bチームで代走枠になる選手なんて当然僕しかいないため今まで経験したことないくらい試合に帯同させてもらいました。2ヶ月でそれまでの3年間を優に上回る回数の試合でランナーになりました。そして、今まで経験したことないくらい走塁ミスをしました。盗塁を失敗するどころか、二塁で牽制死したり一塁でライナーバックを失敗したりしました。出場機会があまりないなか一生懸命やっているBチームの同期や走塁機会を譲ってくれている後輩に申し訳がたちませんでした。それでも夏のA合宿には呼んでもらえました。

合宿では、大学に入ってから最も真摯に野球に向き合うことができました。野球が上達しているのを久しぶりに感じました。久しく打っていなかったヒットをサヨナラヒットとして打つことができました。ソウル大学との定期戦で神宮でのヒットも達成することができました。

合宿後、代走専念を正式に告げられました。守備練習と打撃練習は僕とは無縁のものとなりました。そして今に至るまで毎日4時間ボールを触ることのない日々を過ごしています。今、リーグ戦出場は僕にとって掴み取るものではなく、備えておくものとなっています。

 

16年に及ぶ僕の野球人生において、反省点は多くあります。あの時別の決断をしていれば違う結末になっていただろうと容易に想像できることもたくさんあります。ただ、後悔していることは自分でも驚くほど出てきません。

 

気づけば5000字を超える長文になっていました。江口が喋ると学ミがなかなか終わらないと悪名高い僕の本領を発揮してしまったようです。泣いても笑ってもあとほんの少しの野球人生、頑張ります。

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次回は9/29(日)、網岡凜内野手を予定しております。