『僕の野球人生』vol.10 内田 開智 内野手
先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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「僕の野球人生」 vol.10 内田 開智 内野手(4年/開成)
僕は野球が大好きです。
僕が野球を始めたきっかけは2009年WBC決勝10回表イチロー選手のセンター前タイムリーを見たことでした。球場中を熱狂させるその姿に魅了され、その前から親父に連れられ巨人戦を見に東京ドームへ行っていたこともあり、その年の春には小学校の野球チームに体験に行きました。決して強いチームではなく、上級生の試合にも出してもらい楽しく野球をしてました。練習が終わった後も親父と羽打ちをしたり、家の中でストッピング練習をしてました。下の階の住人の方、今考えるとうるさかったと思います、すみませんでした。6年生の時には僕がキャプテン、親父が監督というありがちな展開になりめちゃくちゃ喧嘩もしましたが、3人になってしまった同期と都大会まで行けたのはいい思い出です。
開成中に受かった後は、普通に軟式野球部に入る事が嫌で東京神宮シニアへの入団を決めました。この選択が僕の野球人生の中で最も大きな影響を与えた選択かもしれません。ほぼノリと勢いで飛び込んだ硬式野球の世界はとてもレベルが高く、中学で140キロ投げるやつや柵越えして線路まで打球を飛ばす同期達に出会い、また野球人生における恩師にも出会いました。入団初日に鍋屋コーチと約束した「東大に行って野球をやれ」という言葉で中学を卒業した以降の具体的な目標も定まり、ここまで野球を続けてこれました。しかし中学の野球生活は非常に怠惰で悔しいものでした。もちろん土日の練習は普通にやっていましたが、平日の自主練は小学校の頃に比べ全然やらなくなり、元々すごかった同期達は甲子園に行くために必死にやっていたので差は広がるばかりでした。チームとしても1年生大会で優勝して最強世代とまで言われたのに最後の大会は関東で負けてしまい創部以来初めて全国大会の出場を逃しました。もちろんそれも悔しかったのですがほぼ関われてない自分に腹が立っていました。ちょうどその頃1日1000スイングの練習をしてる時に、力量以前に同期に比べて早々にバテてしまった自分は母親から「ちょっとがっかりした」と言われたのを鮮明に覚えています。そこから中学の時に敵わず、後に甲子園に行く同期達に負けないように大学で同じフィールドで戦える選手になることが僕の原動力になりました。
その後の開成高校での野球生活が良くも悪くも僕のバッティングに偏ったプレースタイルの基礎となりました。高校三年間でほとんど守備練習を学校でする事はなく、朝練も午後の全体練も自主練もずっとバッティングでした。ただもっと他にできるんではないかと思った僕は週2回室内練習場に行き、色々教えてもらいながら守備や打撃を学んでいきました。肝心の高校での成績はというと、1年生から5番を任せてもらうようになった矢先大会の2週間前に捻挫をし青木先生には多大な迷惑をおかけしました。その後も順調に実力が上がって来てると感じる度に大会前に捻挫をするという三年間を過ごし、無理をして大会に出る日々でした。そして3年生に上がるというところでコロナの時代になり、みんなで河川敷で練習するなど工夫はしたもののあっという間に最後の夏の大会を終えました。このメンバーならもっとやれると思っていたので神宮で負けた時は放心状態でした。しかし大学の舞台も神宮でした。神宮でリベンジするために勉強に切り替えました。
なんとか現役で東大に入学すると試験が終わった日から練習を再開しました。コロナで合流が遅れたものの1年春のフレッシュ1打席目で2塁打を打ち、キャッチャーとして2試合出してもらった時は秋からリーグ戦に出て、来年からは主力になれると思っていました。しかし悪夢のカウントダウンは始まってました。フレッシュの練習中に手にボールが当たったのが骨折しておりそれをかばって投げていたら、投手への返球がふわっとしたものになりました。それを大久保助監督に指摘され意識している間に返球ができなくなってしまいました。1年夏の横浜国立大戦、今でも忘れません。投手にとてつもない暴投を投げてしまいました。正直どうすればいいのか本当に分かりませんでした。でも球場に帰ったら涼ちゃん(府川捕手/4年/西大和学園)がキャッチボールに誘ってくれました。同期唯一の相棒として、暴投を投げても大丈夫と励ましてくれて何度も何度もキャッチボールしました。本当に感謝してます。ありがとう。その後、大事な紅白戦で結果が残せず、秋もフレッシュのみの出場となりました。でもその頃には返球も問題なく、静岡でのオータムフレッシュも松岡さん(R6卒)や健さん(R6卒)など先輩方の球を受けれてとても楽しかったのを覚えています。
冬の間、サードの練習も開始しました。バッティングを期待されての面もありましたが返球面の不安もあってのことでした。午前はキャッチャー、午後はサードの練習ととてもハードな日々を過ごしたことだけ覚えています。2年の春になると代打要員としてベンチ入りすることができました。しかし神宮では結果を残すことができず、春を6打席無安打で終えました。同期の中で唯一ベンチ入りしていたこともあり、沢山同期には情けない姿を見せました。間島(4年/学生コーチ/八王子東)に「打席中いつもと違って自信なさそう」と言われたのはとても印象に残ってます。そこから今まで少なくとも得意なバッティング中は自信のある態度でいようと思っています。そして春のフレッシュでまたも大きな挫折を迎えます。キャプテンを務め、サードとして出た法政戦で2エラーをかましました。あまりその後のことは覚えてません。ロッカールームでうなだれていた僕を誰かが駒場のテスト会場まで運んでくれました。でもそのテストを落として留年しました。大学2年の野球生活はそこから秋のフレッシュまで飛ぶような感覚です。夏は上手くいった記憶が私生活も野球もあまりありません。そして秋のフレッシュで慶應にコールド勝ちという凄いことが起きました。その時はDHとして出ていたので来年スタメンで出るためにはサード守備を必死にやるしかないという思いしか感じていませんでした。
冬から春の間沢山ノックを受けました。永田さん(R6卒)や門池(4年/学生コーチ/都立富士)、そして何より椎名さん(R6卒)に本当にお世話になりました。オフの日にもノックを打ってくれる学生コーチのおかげでどんどん上達していった感覚があります。それでも春のリーグ戦はまた代打のみの出場となりました。オープン戦から結果が良く、リーグ戦でも3割打つことができバッティングの方の手応えは大きかったです。それだけに守備に就けない悔しさも大きかったです。その後夏のオープン戦でサードで使い続けてもらったものの、打撃の調子が落ち、エラーをしたことで秋も代打に戻りました。またかと思うと共に無力感しかありませんでした。しかし秋のリーグ戦は途中からスタメンで使ってもらい、あの法政戦を迎えました。決勝タイムリーを打ち、最後の飛球をレフトが取った瞬間は一生忘れないでしょう。長い間一緒にやって来た先輩達と勝つことができたことがただただ嬉しかったです。そんな4年生と残りの試合で勝てなかったことは今でも心残りです。
そんな最高の4年生が抜け僕らの代になりました。打撃長に就任し前打撃長の大井さん(R6卒)に負けないよう個人としてもチームとしてもスキルアップを目指しました。春のチーム打率は惜しくも2割に届きませんでしたが、みんなの成長を感じました。肝心の個人成績はというと、4番サードで開幕を迎えたものの、明治戦でくらったデッドボールによる骨挫傷で何試合か棒に振り、法政戦で負けに繋がるエラーをしてレギュラーを剥奪されました。そこからとてもきつい日々が始まりました。バッティング特化の選手の僕は守備にはつかず、ずっとDH出場でした。このまま秋も代打なのかと何度も思いました。何度もバッティングだけやろうかと思いました。それでも守備の練習はやめれませんでした。選手の道を諦めてノックを打ってくれる同期がいる以上期待に応えたかったからです。自分自身も心の底ではまだやれると思っていたからかもしれません。でも何より大きかったのは芳野(4年/外野手/西大和学園)の存在です。彼が頑張ってるから頑張れました。そして4年秋、レギュラーに戻りました。多分理由は周りに関係なく自分の野球を楽しめたことだと思います。人間として成長できた半年でした。まだ秋の2カード、打撃陣の成績は奮っていません。必ずあと3カード必死にバット振ってピッチャーを助けたいと思います。
ここからはお世話になった人達に感謝を述べさせてください。森岡(4年/投手/渋谷幕張)をいじってたのにめっちゃ長くなってしまいました。自分の所だけ読んでください。
大向ベアーズの皆さんへ
野球にのめり込んだのは小学時代の楽しい経験のおかげです。特に高橋コーチや上林コーチは今でも試合を気にかけてくれて本当にありがとうございます。
神宮シニアの皆さんへ
同期達のおかげでここまで高い目標を持ってプレーできました。村田コーチの「常に冷静 常にひたむき」を胸に大輔に負けないよう最後まで頑張ります。
鍋屋コーチ、本当に沢山面倒を見てもらいました。「今じゃないぞ」と声をかけられた日々が懐かしいです。約束通り東大でプレー出来ていることが幸せです。シニアも忙しいと思いますがもっと神宮に観に来てください。
松井監督、野球人生の恩師です。出会えてなかったらどんなプレーヤーになれていたか分かりません。それほど沢山のことを教えてもらいました。7年間毎週教えていただきありがとうございました。2人だけがわかる言葉や指導が増えたのが本当に嬉しかったです。送球難もここまで改善したのは監督のおかげです。次の試合必ず打ちます。まだまだよろしくお願いします。
開成高校の皆さんへ
青木先生や立澤コーチには野球観に衝撃を与えられました。のびのび自主性に任せてやらして頂いたのが今でも役に立ってます。いつも六大学の審判もありがとうございます。4割指令守れるよう残り頑張ります。
開成野球部にしては珍しく17人誰1人かけることなく3年間やれたことは幸せなことでした。あんまり試合を観に来てくれない薄情な奴ばかりだけどおかげで三年間楽しかったです。ありがとう。
東大野球部監督助監督へ
手のかかる厄介な選手だったと思います。監督の意図した選手には最後までなれなかったかもしれませんが、だからこそ色々成長できました。
林先生へ
中学から沢山鍼を打って頂きありがとうございました。度重なる捻挫も無事にプレー出来たのは先生のおかげです。
増宮トレーナーへ
今の身体はトレーナーと一緒に作りました。技術がついて来たのもトレーニングで作った身体があったからです。冬の地獄の手押し車は忘れません。
平安名さんへ
体の面倒だけでなくメンタルも育ててもらいました。怪我なくコンディションを整えてもらい、夏の苦しい時に人生における大きなヒントを貰いました。本当に出会えてよかったです。
フィールドフォースの皆さんへ
小泉さんをはじめ、沢山練習させてもらいました。あそこでの練習があったからこそ今の僕があります。バットも作って頂き本当にありがとうございます。
初動負荷池袋の皆さんへ
何度も平田(4年/投手/都立西)とあおし(青島内野手/4年/学芸大附)と谷村(4年/内野手/湘南)と通いました。特に新川さんには親身になって教えて頂きました。ありがとうございました。
応援部の皆さんへ
いつもどんな試合でも応援していただきありがとうございます。心が折れそうな時もみんなの姿を見てまだやるぞという気持ちになれます。みんなと一緒に勝ちたいです。残り3カード一緒に頑張りましょう。
大応援団の皆さんへ
バックネット裏に陣取って応援してくれる姿は非常に心強いです。私生活においてもお世話になりっぱなしなのでこれから恩返ししていきます。
先輩達へ
4年生になってから自分がどれだけおんぶに抱っこでプレーしてたか分かりました。エラーはカバーしてくれるし、信頼もしてくれる最高の先輩達です。和田さん(R6卒)に法政戦で「頼むぞ開智」と言われた時は奮い立ちました。取材で言えなかったので今言っときます。
そして大井さんには沢山のことを教わりました。1年生の頃からご飯に連れてってもらい、打撃長として背番号5の先輩としていつも助けてもらいました。去年の大井さんの『ぼくじん』にグラウンドでは堂々としてろと書かれました。今も実践できてるかは分かりません。でも野球を楽しんで笑顔でプレー出来ていると思います。最後ホームラン見せれるように頑張ります。
椎名さんにも頭が上がりません。散々ノックや基礎練に付き合ってもらい、オフにも出勤してもらいました。サードとしてど下手くその素人をここまで引き上げてくれて本当に感謝してます。椎名さんのいる間にダイビングキャッチを見せられなかったのが残念です。いつか見せます。
後輩のみんなへ
いつも生意気で可愛い後輩達です。あと1ヶ月頼りない4年生かもしれませんが全力で甘えてください。下級生はのびのびやるのが一番です。
3冠王会のメンバーは東大野球部の将来を担える子達ばかりです。めげずに自分の道を貫いてください。リーグ戦中もその後もご飯行きましょう!
同期へ
みんなと出会えてよかったです。それぞれが野球、神宮の舞台への想いを持っていて、こんなに四年間を野球に捧げる集団に出会えたことが誇りです。いつもわがままで「永遠の小学生」と呼ばれる僕のことを面倒見てくれて、励ましてくれてありがとう。引退した後も一生付き合ってください。マネージャー、アナリストのみんなのおかげで安心して野球ができました。岩瀬(4年/マネージャー/開成)は同期で初めて選手を辞めてスタッフに転身してくれました。開成の同期としてすごく胸が痛かったけど立派に主務してる姿を見て感謝の思いでいっぱいです。そして学生コーチになったみんなにも本当に沢山お世話になりました。何百球も何千球もノックを打ってもらったし、バッピをしてもらったし、球を入れてもらいました。最後その恩に報いるため、言葉じゃなくて結果で返せるようにあと1ヶ月よろしくお願いします。
そして特に芳野。沢山のオフを一緒に過ごしました。沢山話聞いたし、聞いてもらいました。同じ留年仲間としてキャッチボールパートナーとしてビジネスパートナーとして本当に助けてもらいました。芳野と神宮でキャッチボールして2人でヒット打つのが夢です。
両親へ
まず親父。小さい頃は鬼コーチでよく怒られましたが、中高大とほぼ毎試合観に来てくれるのは恥ずかしさ半面嬉しさが上回ってきました。よく喧嘩もするし腹立つことだらけですが、誰にも負けない開智応援団でいてくれてありがとう。今はいいライバルみたいな感じです。漢として超えられるように頑張ります。
そして母さんへ。野球人生常に母さんが僕を救ってくれたし這い上がらせてくれました。いつも話を聞いてくれるし必要な言葉をくれます。マザコンとよく言われますがその通りだと思います。言葉では表せないくらいお世話になったのでもっと喜ばせられるように頑張ります。
2人の元に生まれて野球ができて本当に幸せでした。
ここまで下手くそな長い文章を読んでいただきありがとうございました。
野球に出会えてよかったです。こんなにもたくさんの人に助けてもらって、応援してもらえたのは野球があったからです。泣いても笑ってもあと1ヶ月です。みんなと楽しんで笑って終わりたいと思います。
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次回は10/1(火)、青島秀多内野手を予定しております。