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『僕の野球人生』vol.12 谷村 雄太 内野手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」 vol.12 谷村 雄太 内野手(4年/湘南)

僕の野球人生谷村 2-3 3-3

僕は野球人としては凡人です。特別な才能は持ち合わせていません。そんなことは初めから分かりきっていましたが、それでも野球を続け、かれこれ15年目になります。基本的にはうまくいかないことばっかりで、悔しい思いをして、たまーにいいことがあって、それが忘れられずに、結局野球を辞めませんでした。華々しさとは程遠い野球人生ですが、振り返って行こうと思います。

 

小学2年生、まだ何のスポーツをやるか決められていなかった僕は、2009年WBC決勝韓国戦10回表、イチロー選手の放った決勝タイムリーをテレビで見たことをきっかけに、野球を始めることを決心します。当時、小学校の同級生が所属していたこともあり、近所の金沢ファイターズに入団しました。この時は、野球がとても楽しくて、とにかく毎日練習していた記憶があります。同学年は人数も多く、みんな野球がうまかったため、大会で勝ち上がったりもしました。何より、誰かが自主練しようって声かけると、全員集まっちゃうような、そんな雰囲気がとっても好きでした。そして、僕自身も6年生になると、ようやく試合で打ち始めます。今までに経験したことない「 結果が出る」ということに調子に乗った僕は、こんな考えに至ります。 「中学ではもっと高いレベルで野球がしたい」

 

中学では横浜港ボーイズという硬式クラブチームに入団します。この横浜港ボーイズは非常にレベルが高く、とにかく自分は一番へたくそで、練習についていくのがやっとでした。ダービー(グランド一周のランメニュー)では、物理的についていけません。練習の度にしんどい思いをしていたのを思い出します。しかし、しんどい思いして練習に食らいついた甲斐があってか、中3の夏には、ボーイズ全国大会の神奈川県予選決勝の舞台を踏むことができました。僕自身も、ショートとして出場し、準決勝で2エラーかまして戦犯になりかけることもできたのです。今思っても、先輩後輩含め、周りの選手のレベルが本当に高く、貴重な経験をさせていただいたなと思っています。また、中村先生をはじめとする指導者の皆さんのおかげで、野球とは何たるかの基礎を学ぶことができ、この時学んだことは、今でも自分の中で大切にしています。いま、大学まで野球を続けられているのも、このチームでプレーできたからだと思っています。そして、実はこのころから、六大学、特に東大でプレーしたいと考えていました。

 

高校は、神奈川県立湘南高校に進学します。その当時、宮台さんが神宮で活躍されていたのに影響され、志望校は一択でした。高校での練習は、中学に負けず劣らずこれまたしんどかったです。下級生の頃は、練習試合中に体幹をし、かけじゅう(200m×10本)をし、スパスト(校庭端から端までダッシュ)をし、イブラン(クリスマスイブに12本×240m)をしてクリラン(クリスマスに120m×25本)をして、走った記憶ばかりです。ただ、チームメイトがみんな面白く、毎日しんどい中でも楽しく過ごせていました。こう書いていますが、高校3年間、辛い思い出しかないわけではありません。高校3年生の最後の夏、神奈川県予選を5回戦まで勝ち進み、最後横浜スタジアムで東海大相模に敗戦して引退ができました。終わり良ければすべて良しということで、すべていい思い出です。

 

現役の時は、東大に合格できず、早稲田大学に入学しました。しかし、入学当初は、正直野球を続けるつもりはありませんでした。しかし、コロナ下で対面授業もなく、一日一日何もせずになんとなく過ごす中で、徐々に野球をやりたい気持ちが高まっていき、再び受験勉強を始めます。早稲田の秋セメの単位をすべて落とし、留年通知が届きましたが、受験勉強の甲斐あって無事に東京大学に入学することができました。

 

大学に入ると迷わずに野球部に入ります。この時は、受験に受かった快感も含めて、神宮で活躍できると確信めいたものまで感じていました。

 

しかしながら、今こうして野球部での四年間を振り返ると、本当にしんどい思い出ばかりでした。その瞬間瞬間はもちろん楽しかったのですが、野球選手としての充足感や達成感をあまり得ることができない四年間でした。

 

印象に残っている場面や出来事を振り返ろうと思います。

 

まず、1年の練習参加初日に肩を飛ばします(怪我をしました)。その日まで、自分でキャッチボールを続けてきて、公園でもイキって投げていたので、大丈夫だろうと高をくくっていましたが、ダメでした。そしてこのけがは、2年の春まで続く非常に重いものになってしまいます。当時はあまり重く考えてはいなかったのですが、大学野球の一歩目から踏み外してしまったなと今になって思います。ちなみになのですが、このけがをしたときに、梅林さん(R6卒)が氷嚢を作ってくださり、心配もしてくださって、 「あの有名な梅林さんは優しい人なんだな」って思ったなんて出来事もありました。

 

練習を続けていく中で訪れた2年生の春、メンバー争いが熾烈に行われている中、連日シートBTが行われていました。ベンチ入りにまだ関わったことない僕ら下級生にも、何打席か与えられていたのです。前もって誰と対戦するか判明しており、僕は松岡さん(R6卒)でした。何としても結果を残そうと思っていたある日、平田(4年/投手/都立西)と飲んでいるときにこの気持ちを吐露すると、平田は「 俺がどう打つか教えてやる」といい、松岡さんの球種と、ラプソードのデータを教えてくれたのです。このおかげか、シートBT当日、僕は二安打し、Aチームに上がることができました。後々考えると、この時が一番うまくいっている時期でした。真之介(4年/内野手/小山台)あおし(青島内野手/4年/学芸大附)が自分事のように喜んでくれたこと、後日、平田に「やるやん」と言われたことも忘れません。

 

さらに、2年の春フレッシュでは、一打席のみでしたが打席に立ちました。変化球が全く当たらずあっけなく三振を喫するのですが、神宮の打席は球が見やすいこと、逆に守ると打球が見づらいこと、そして神宮という舞台で野球すること楽しさなど、たくさんのことを感じられた記憶があります。

 

徐々に上手くいき始めていた春から一転して、2年の秋フレッシュには、コロナを罹患してしまったがために出場することができませんでした。もちろん体調管理が十分にできていなかった自分の責任ですが、この時は本当にしんどかったです。この秋のフレッシュでは、東大は慶應にコールド勝ちしましたが、自分だけが蚊帳の外のような感覚で、素直には喜べていなかったのが正直なところです。

 

このころから徐々に、野球をすることに苦痛を感じ始めます。とにかく人と比べて、同期がどれだけうまくいっているか、チームの中での自分の立ち位置はどうか、そればっかりを考えていました。人と比べて楽しいわけがありません。しかし、それと同時に、首脳陣に期待していただいていた部分もあり、そしてなにより自分はこんなもんじゃないと思っていたため気持ちは前向きでした。

 

3年の春に行われた鹿児島合宿のメンバーには、僕はおそらく何も起きていなければ選ばれていたのですが、その直前に、ダイビングをした際に左手の人差し指を地面に取られて骨折してしまいます。秋うまくいかなかった分見返してやろうとしていた矢先の出来事でした。メンバーからも落ち、僕は東京に残り、「薩摩藩」として活動を続けます。なかなかうまくいかないことに苛立ちを覚えていましたが、一緒に東京に残ったメンバーのあおしや芳野(4年/外野手/西大和学園)大友(4年/外野手/仙台一)の頑張りがモチベーションになっていました。

 

春のリーグ戦に絡めないまま迎えた3年の夏、遠軽合宿のメンバー選考が行われている時期のことです。合宿メンバーの候補に入れていただいたのですが、結果が残せておらず、そんな中、今日打てなければ合宿に連れて行かないという日が訪れました。与えられた打席は三打席です。そんな中、僕は二打席目までヒットが出ず、 「 またうまくいかないのかな」と、そんな気分になっていたのです。迎えた三打席目、無我夢中でバットを振ると、気づくと打球はレフト線へ。ようやく打ったツーベースに、二塁ベース上で泣きそうになりました。それまで何かとうまくいっていなかった分、光が差した気分でした。ベンチに戻るとみんなにおめでとうと言ってもらったことも印象に残っています。

 

しかし、このツーベースで手繰り寄せた遠軽合宿では、腰痛を発症してしまいます。決意を新たに秋こそはと思っていたがために、知らず知らずのうちに無理をしてしまったのでしょうか。真相は不明ですが、結局この腰痛とは、今の今までまで付き合うことになりました。

 

4年生になって、決定的に印象に残っている出来事といえば、肘の靭帯を断裂したことです。上に書いた腰痛がひどくなっていた中練習を強行していたため、知らず知らずのうちに偏った、ほかの部分に頼るようなプレーになっていました。ある日肘の感覚がおかしいなと思ってから、あっというまに激痛に代わりました。ただこの時には、 「ほっとけば治るだろう」ぐらいの感覚だったため、医者に靭帯切れてるねと診断された際には、 「何言ってんだろ」と理解できなかったことも鮮明に覚えています。

 

ここからの数か月は、もう自分でも訳が分からなかったです。もう痛すぎて、動くのも投げるのも何するのも苦痛なのに、練習し続け、試合に出て、肘にテーピングをぐるぐる巻きにして(「 タニ―ジョン手術」と命名)、本調子とは程遠いのにあきらめずに動き続け、そうしているとだんだん痛みがなくなっていき、医者に 「なんで投げられているのかわからない」と言われ、合宿にいき、送球するたびになんかみんなに褒められ、でも結局選手としてはダメで、いまチームを支える立場になっています。自分が“ノック”と打つ側として向き合うなど思いもよりませんでしたが、今は、それはそれで楽しめています。

 

そして、そんな中行われた引退試合、ソウル大戦はとても楽しかったです。僕も守備機会があるし、武(4年/外野手/戸山)が攻守に大活躍するし、見坂(4年/外野手/水戸一)がお家芸のヒットを打つし、間島(4年/学生コーチ/八王子東)がフライ落とすし、もう最高でした。約二年ぶりの神宮の舞台、いい思い出です。

 

四年間を振り返って、リーグ戦への未練はいまだにあります。それどころか、Aチームの試合にすらも、四年間で数えるほどしか出られなかったことも悔しくてたまりません。さらに七大戦や鹿児島合宿などの遠征にもことごとく参加できませんでした。とにかく辛酸を嘗める思いばかりでした。

 

ここまで、どれだけうまくいかない大学野球生活だったかを書いてしまいましたが、僕の野球人生は”胸を張れるもの”だと思っています。

 

僕はおそらく、野球がうまくなかったです。自分のプレーに最後まで自信がありませんでした。それでも、特に大学に入ってからは、これでもかと思うほど練習しました。正直、野球が楽しいと思える時間はあまりなかったのですが、それでもあれをやればよかったというやり残した後悔はありません。

 

さらには、チームメイトや指導者にも恵まれました。正直言って、小中高の戦歴は、自分には似つかないほどのものです。レベルの高いチームメイト、そして指導者との出会いがあったからこそだと思っています。大学に入ってからも、死ぬほど練習に付き合ってくれる仲間に出会えました。谷保(4年/学生コーチ/屋代)のノックも間島のノックも大巻(4年/学生コーチ/花巻東)のノックも死ぬほど受けたし、西前(4年/内野手/彦根東)と前ティーを飽きるまでやったし、内田(4年/内野手/開成)と平田とあおしと初動負荷行ったし、外部指導で藤田(4年/内野手/岡山大安寺)と偶然会うし、やれるだけのことはやれました。つらい、しんどい思いをしたからこそ、成長できました。だからこそ、胸を張って引退しようと思います。

 

最後になりますが、僕の野球に関わってくださった方々に向けたメッセージを書きます。今更このように書くと少々気恥ずかしいですが、読んでいってほしいです。

 

同期へ

ちょくちょく登場させたので、あんまりもう書きませんが、あと一か月、とにかく勝とう。

何年後も何十年後も酒飲みながら語れるような思い出に残る試合を作ろう。

 

先輩方へ

面倒を見てくださり、ありがとうございました。特に内野の方々には、ノックの時にいろいろ教えていただき、時にはご飯に連れて行っていただき、本当に感謝しています。椎名さん(R6卒)、オフに呼び出してごめんなさい。朝さん(R6卒)、これからもよろしく。

 

後輩たちへ

とっつきづらい先輩だったかもだけど、話しかけてくれてありがとう。これは僕が多くの時間接していたBチームに向けた言葉になってしまいますが、書いておきます。この野球部は人数も多く、試合に出てる人も含めて、なんかうまくいかなくて、しんどい思いをしている人が多いと思います。けれど、後になって、あれ以上の努力は無理だったなって思えれば前向きな気持ちで引退できます。僕が言いたいのは、とにかく後悔のないように、やれるだけのことをやってほしいってことです。みんなが神宮で活躍する姿を見たいです。心から応援しています。

 

金ファイの関係者の皆さんへ

泣き虫な僕を温かく見守ってくださり、ありがとうございました。金ファイで野球が楽しいと思えたからこそ、今まで野球を続けることができました。特にチームメイトのみんなは、その後野球を続ける上で、常に意識してきた部分もあり、本当に大切な存在です。事実、高校の最後の夏の大会では、光陽のいる高校、もっちゃんのいる高校それぞれと対戦して、本当に思い出深いです。今更になりますが、ありがとうございました。

 

ベイボーイズの関係者の皆さんへ

中村先生をはじめとする指導者の皆さん、本当にありがとうございました。ベイで、野球というものの基本を叩き込んでいただいたと思っています。この時学んだことは、大学に進んでからも振り返っていました。

同期、先輩、後輩と、本当にレベルが高く、本当に尊敬していました。一緒にプレーできたことを本当に光栄に思います。

父兄の皆さんの中には、いまだに気にかけてくださる方もいて、本当に励みになりました。ありがとうございました。

 

湘南高校の関係者の皆さんへ

川村先生をはじめとする先生方、ご指導ありがとうございました。甘い自分が変わったのは、間違いなく湘南高校野球部に所属したからだと思います。勝負とは何たるか、結果を残すとはどういうことか、大いに学びました。反発する自分に対して、勝ちたいがための行動と理解し受け入れてくださり、本当に感謝しています。

チームメイトのみんなには、プライドが高く接しにくかっただろう自分に対しても、明るく接してくれて、楽しく過ごすことができました。おまけに、最後の最後にいい思いもすることができました。本当にみんなのおかげだと思っています。ありがとう。

 

B&Jクリニックの洞口先生、鎌田さんへ

三年という長い時間、お世話になりました。鎌田さんには、治りかけでまたどこか怪我をして、なかなかリハビリを卒業しない自分に、丁寧に治療していただき、本当にありがとうございました。ここまで野球ができたのも、B&Jクリニックで治療していただいたおかげです。

 

両親へ

長い間、僕の野球を支えてくれてありがとうございました。泣き虫で情けなくて、全然打たなくてめちゃくちゃエラーするけど、それでも応援してくれて、本当にうれしかったです。

母さんが弁当作ってくれて、背番号縫ってくれて、父さんが送ってくれて、時には練習にも付き合ってくれて、そのおかげで最後まで、満足するまで野球をすることができました。最後、神宮で活躍する姿を見せられなかったのは心残りだけど、最後まで頑張って野球した姿で満足してください。本当にありがとうございました。

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。まだ、リーグ戦が3カード控えています。僕自身、最後の最後まで走り抜けます。チームへのご声援、よろしくお願いいたします。

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次回は10/3(木)、大友剛外野手を予定しております。