『僕の野球人生』vol.18 橋元 崚人 外野手
先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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「僕の野球人生」 vol.18 橋元 崚人 外野手(4年/修猷館)
私の野球人生はまだ終わりを迎えておりません。そのため過去を振り返ることに終始するのではなく、未来に向けたメッセージも残そうと思います。
両親を含めたお世話になった方々には野球人生が終わったタイミングで直接お礼を述べようと思うのでもうしばらく待っていただきたいです。それまでは必死に野球と向き合い、戦うので引き続きのご声援をよろしくお願いいたします。
私の野球人生は物心がついたころには始まっていました。気がつけば幼稚園で野球をみんなでしていたし、父と公園に行ってキャッチボールをしていました。いつの間にか地元球団のホークスを応援してもいました(今は中日に浮気し始めていますが)。本格的に野球をやり始めたのは小学3年生からで、理由は仲の良い友達がみんな地元の「別府少年野球部」に入団して遊ぶ相手がいなくなったからです。そのチームは部員が多くて非常に強かった記憶があります。部員は100人近くいて全員が同時に練習できないため4チームに分けて練習していたほか、県の上位チーム選抜大会のようなもので優勝しましたし、後の甲子園出場者も同期から誕生しました。そのチームの中で私は下手なほうに位置していたので、大会では代走か代打、もしくはスタメンが序盤に大量点差をつけたときに出場するくらいしか出番はなかったです。このように野球の楽しさをほとんど感じることがないまま少年野球は幕を閉じました。
中学に上がると別府少年野球部の同期は甲子園に出るため地元の中学野球部ではなく、強豪クラブチームに入団しました。ここで彼らに離されたらもうたぶん二度と追いつけないという想いから、無謀にも硬式野球チームの「福岡中央ホークス」に入りました。人数が少ないチームを選んだこと、成長期が訪れてパワーアップしたこともあって少年野球の時よりはるかに多くの試合に出場できました。またこのチームで、今まで外野以外守ったことがない私でも投手や捕手といった重要なポジションを守る経験を積めたのが高校以後の野球につながっていると思います。とにかく野球の楽しさを味わえた時期でした。そしてある程度中学野球で上手くいった私は、県一番の進学校で野球もある程度強い修猷館高校に進路を決めて入学しました。(今秋県ベスト4入り!12日の試合頑張ってください!)
中学野球で自信をつけた私は高校でもすぐに試合に出られるだろうと思っていましたが、高校に入ると、中学の時は滅多に見られない柵越えのホームランを毎週末の試合で打つ同期や先輩の姿を見てそのレベルの高さに驚きました。また、余談ですが今でこそ強肩、美しいと後輩に称賛されるスローイング力も外野のレギュラーの中では一番弱かったです。加えて1年の野球推薦者の中で私だけ春の鹿児島合宿に行けなかったのもショックでしたし、練習時間もかなり長くて根性論的な野球だったので毎日の練習もきつくて辞めてしまおうかと何度も思いました。それでもこの程度で負けてたまるかと踏ん張って部活動の時間だけでなく自宅に帰ったあともバットを振り始め、練習量を増やしたことで何とか結果を出すことができて、1年の秋からベンチに入り、2年の秋からレギュラーになることができました。しかし、入部時から続いていた野球強豪校には全く歯が立たない野球部の現状は何も変わりませんでした。冬を迎えると東大野球部で宮台さん(H30卒)とバッテリーを組んでいた喜入さん(H29卒)が高校に訪れて野球部内で成績の良かった私に「東大野球部を目指してみないか?」と声をかけていただいたのをきっかけに勉強に力を入れるようになりました。そして強豪校に勝てない現状に目を背けるように今までしていた自主練習の時間を勉強時間に変え、勉強中心の生活を始めました。その結果春先に打率が低迷して後輩にレギュラーを奪われました。この時期は本当にきつかったです。もう一度レギュラーを取り返すためにいつも以上に機敏に動いて声を出しながらアピールを繰り返し、週末の試合に向けて勉強そっちのけで練習しました。これらの取り組みが功を奏して調子が上がってくると、打った方がレギュラーという試合でマルチヒットを放ったことで何とか夏大前にレギュラーに返り咲けました。そしてその勢いのまま夏大で5割近い打率を残せました。しかしチームは勝てば県大会というところで私学に負けてしまい、結局野球強豪校には一度も勝てませんでした。そのため高校野球で野球は終わる予定でしたが、このままでは終われないと思い、全く成績が足りないにも拘わらず一浪して東大野球部に入る決心をしました。
そして予備校に通い詰め死に物狂いで勉強したことで東大に奇跡的に入学できました。
東大野球部には迷いなく入部しました。1年生の時は大多数の外野手同期と比べて技術的なアドバンテージがあり、早い段階から試合に出させてもらいました。また、自分の打撃を信頼していた部分もあったので、自信をもって打席に入れていました。その影響か分からないですが同期の中で1,2を争う打率を残せていました。このまま成長すれば2年でベンチ入り、3年でレギュラー、4年で主力という目標を達成できると信じてやみませんでした。
しかし、1年秋のオータムフレッシュから少しずつ暗雲が立ちこめました。この大会で高校生相手に惨敗を喫すると同時に肉離れをしてしまい、高校生相手にすら勝てないのに他大学に勝てるのかという問いとその問いを振り払うための練習ができない時期に入りました。またこの肉離れはかなりタチが悪く、新年一発目の練習とAチーム選抜のシートBT前という気持ちを入れ替えて頑張ろうと思ったタイミングで再発するため、モチベーションとオフシーズンの練習という2つを喪失しました。この期間は精神が病んで寮にいることができず、実家に帰省しました。そして地元の友達と遊ぶうちに野球をやる意味を考え始めるようになりました。それでもこの程度で野球エリートに勝つことを諦めるわけにはいかないとリハビリに励んでフレッシュ1か月前に復帰し、アピールを繰り返したことでフレッシュになんとか間に合わせました。しかし結果は2試合コールド負け。かなり心に響きました。野球強豪校に勝つという目標は自分の代では不可能だと諦めました。それからは今まで信頼していた自分の打撃技術への信頼が揺らいで色々フォームを弄っていくうちに打てていた感覚を失ってしまい、全く打てなくなってしまいました。そして今まで考えないようにしていた野球をやる意味についても四六時中考えるようになってしまい、いつしか野球をやめたい、いつ退部届を出そうかと考えるようになりました。しかし、そんな私をよそに藤田(4年/内野手/岡山大安寺)や山口(4年/内野手/小山台)、西前(4年/内野手/彦根東)といったAチームの同期はめきめきと実力を伸ばしてリーグ戦メンバー争いに加わり、正直な話今まで眼中になかった同期の外野手も私と肩を並べ、追い越す勢いで実力を伸ばしていました。そんな彼らを見ているうちに「苦しい中でも他大学に勝とうともがいている仲間がいるのに自分は何をしているんだ」と心を動かされて秋フレッシュまではもう一度頑張ろうと決心しました。
そして迎えた秋フレッシュで慶應相手に勝つことができました。16-6というスコアで勝利し、今まで負けっぱなし、やられっぱなしだった大学野球にやり返し、リーグ戦でも勝つことができるかもしれないと希望がさしたような気がして本当にうれしかったです。この勝利があったから残りの大学野球生活を頑張れたのだと思います。それほどまでに私の中では大きな意味を持つ勝利でした。
3年生になると後輩が台頭してきました。酒井捷(3年/外野手/仙台二)と中山(3年/外野手/宇都宮)はもう自分が太刀打ちできる次元を超え、榎本(3年/外野手/渋谷幕張)も私より先にベンチ入り、リーグ戦デビューを果たしていました。そんな彼らと自分を比較していくうちに、来年外野手を引っ張るのは私ではなくて彼らだから、バックアップする形でチームに貢献しようと思うようになり、学生コーチになることや守備に重きを置いたプレイヤーになることを考えるようになりました。(学生コーチになることを止めてくれた門池(4年/学生コーチ/都立富士)には感謝しています。)
こんな調子で野球を続けていた4年の春明け、酒井が怪我をしました。今まで私2:酒井8の比率で引っ張ると思っていた外野は私しかいなくなってしまい、彼の穴埋めをすることを求められました。こんな事態が起きると思っていなかった私はオフシーズンにチームの中心で活躍する覚悟をもって練習していなかったため、レギュラーに求められる水準の活躍を全くできませんでした。酒井が抜けた穴を埋めるために榎本や中山がセンターに入って悪戦苦闘している姿を見るたびに、守備力が求められるセンターは私がやらないといけないのに、結果が伴ってないために試合に出てセンターを守れない自分にすごく嫌気がさしていました。春シーズン前になると私が酒井の代わりに試合に出てくれるだろうという期待は誰も持たなくなって、代わりに大原(3年/外野手/県立浦和)が外野を守ることになりました。大原がベストナインを取るほどの活躍をして外野を盛り上げている一方で、チームのピンチで全く活躍できなかった4年生の私は何なんだろうと悩みが尽きないまま春シーズンは終わりました。
そして夏のオープン戦が始まると、酒井が驚異的な速さで怪我から復帰してきました。すると必然的に私の出番は限定的になり、七大戦メンバーからも漏れました。この時期から私はもう守備くらいしかチームに貢献できないからその準備だけしようと消極的になりました。つまり、誰かが伊藤樹や篠木を打ってくれるというように、誰かが点を取るという一番きつい仕事をしてくれるから守備だけしておけばいいという後ろ向きの思考になりました。そして秋のシーズンが始まり酒井、中山、大原が中心になって試合が展開していきました。しかし、その過程では守備のミスや不調などがあり彼らも本調子ではないなと感じる瞬間が多々ありました。それでも実力と先がない私よりも未来と実力のある彼らが出るのが当たり前だと後ろ向きの姿勢は変わりませんでした。そして慶應戦でようやく今シーズン初の勝利を掴んで勝ち点獲得というチーム2024の大一番に差し掛かり、私自身も絶対に勝ちたいと意気込んでいました。しかし結果は完敗でした。今まで感じたことがないくらい悔しくて、どうしたら勝てたのかと考えるうちにもっと自分が打てていればレギュラー陣にもっと刺激を与えられてチームの雰囲気が良くなっていたんじゃないかとか、調子の上がっていない外野手に早めに代打を出して私が途中出場するというプランができていれば守備のミスは起きていなかったんじゃないかとか、色々なことを考えるようになりました。こんなことを考えれば考えるほど早々に打撃を諦めて守備に逃げ、3年生に任せっきりになって勝つためのベストを尽くしたつもりになっていた自分に無性に腹が立ちました。
慶應に勝って改めて勝ち点を取りたいという気持ちが強くなりました。やっぱり一回勝ったくらいで満足はできません。この気持ちはみんな一緒だと思います。でも勝ち点がかかった試合の他大学はやはり強大で一筋縄ではいきません。我々も何かを犠牲にして、やりたくないことや逃げてきたことに向き合っていかないと勝てないと思います。私も今まで逃げてきた打撃や任せっきりになっていたチームを引っ張ることに向き合います。本当はこんなに望みが薄く、手遅れに思えることをやるのは苦しいですが、勝ち点を取る確率を1%でも上げるために頑張るので、みんなで各々のベストを本当の意味で尽くして残りの法政、立教戦に臨んでいこう。
勝ち点とるぞ
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次回は10月11日(金)、松原周稔外野手を予定しております。