『僕の野球人生』vol.19 松原 周稔 外野手
先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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「僕の野球人生」vol.19 松原 周稔 外野手(4年/土佐)
左中間に飛んだ打球を見ることなく、一塁に向かって全力で走っていた。バットに当たった後はとにかく全力で走るという、中高のときから身についた癖だった。
(少し上がりすぎた。頼む…外野の頭を超えてくれ…)
そう願いながら一塁ベースを回った直後、打球を探した。
見つけられなかったが、相手のレフトが背中をこちらに向けたままスタンドを呆然と見ており、同時に三塁側ベンチとスタンドから歓声が聞こえ、やっと何が起こったのかを理解した。自分が1番驚きながら、ダイヤモンドをゆっくりと1周した。
試合には負けてしまったが、その日僕は野球人生で初めて、野球で「主役」になれた。多くのスポーツ紙にも掲載された。みんなが喜び、祝福してくれた。自信もついた。この1発は「松原周稔」という野球選手の輝かしい未来を約束するものになるはずであった。
その翌日はスタンドで、普段スタメンで出ない人たちが法政相手に試合をするのを談笑しながら見ていた。この試合で自分以外にベンチを外れていた人は、今リーグ戦で主力としてチームを引っ張っている人たちばかりだった。自分もこの時、2年後のリーグ戦では主力として他の五大学の野球エリートたちとやり合うものだと思っていた。この時が間違いなく僕の野球人生の頂点だった。
約1年が経った2023年10月8日、自分は同じようにスタンドから東大が勝利する瞬間を見届けていた。昨年一緒にスタンドで談笑していたメンバーのほとんどがグラウンドで勝利を喜んでいた。そして自分は心の底からこの勝利を喜べていなかった。ただただ、無力感だけが心の中にあった。みんなはもう次のステージに行っていた。
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いつの間にか自分の番になっていました。この四年間を思い出しながら書いていると思ったよりも長くなってしまいました。普段全く本を読まないので、読みにくい文章の羅列になってしまっているかもしれません。また、思ったことをなるべくそのまま書きたいと思ったので、醜い感情や自慢、負け惜しみなどがそのまま掲載されている箇所があります。それを考慮した上でゆっくり読んでもらえればと思います。
野球に興味を持ったのは、小学3年の頃、従兄弟とDSのパワポケをやったことがきっかけでした。当時ゲームが大好きだったこともあり、すぐにハマりました。それから阪神ファンの父親がテレビで野球を観ているうちに、どんどんと野球に魅かれていきました。ゲームでルールや選手を覚えて、テレビで「復習」していたのでしょう。
また、僕は投げるのが大好きで、小学校の休み時間ではずっと友達とドッジボールをしていました。成長と共に強い球を投げられるようになるのがとても嬉しかった記憶があります。友達にも小学校のチームで野球をやっている人が何人かいて、自分もやってみたいと思うようになりました。
しかし、小学生の僕は常にピアノと共にありました。小1から結局高3まで本格的にピアノを習っており、指の怪我をしてはならないからと小学校では本格的な野球をやらせてもらえませんでした。チームに入らない代わりに、家の駐車場の空き地でキャッチボールをすることくらいは許されていたので、ほぼ毎日学校から帰っては父とキャッチボールをしました。
中学受験をし、県内一の進学校である私立で中高一貫の土佐中学校に入学しました。中学ではとうとう野球部に入ることを許してもらえ、ピアノをしっかり練習するという約束の上、軟式野球部に入部しました。実はこのとき、ハンドボール部か野球部で迷っていて、たまたま先に野球部に見学に行ったらすっかりと入る流れになってしまい、ハンドボール部を諦めました。
当時の野球部は後に高校で甲子園に出た世代でもあり、とても強く、市の大会では優勝するし、県大会の決勝に順当に進むようなチームでした。自分たちの一つ上の世代も強く、大会では滅多に負けませんでした。下級生のうちは、土佐が勝つのは当たり前だと思いながら育ちました。しかし自分たちは谷間の世代で、公式戦ではなかなか勝ち上がることができませんでした。先生にはよくチームワークがないと言われていましたが、当時は何のことか全くわかっていませんでした。
自分は下級生の頃、本当に何故かわからないのですが、ショートを希望してやっていました。しかしゴロが全く捕れず、試合でショートフライを捕るだけで拍手されるくらい下手でした。足と肩は学年で1番だったのに、なぜ内野に拘っていたのかは今でもわかりません。ショートは自分より遥かに上手い奴がいたし、足と肩を買われ自分たちの代になったタイミングで外野に転向しました。これが転機でした。外野になってからは1年間、センターとしてレギュラーで使ってもらえました。全く打てていなかったのに、運動神経に賭けて使ってくれた三木先生には頭が上がりません。また、三木先生は野球初心者だった自分に野球を一から教えてくれ、ご指導のおかげでなんとか最低限のことはできるようになりました。本当にありがとうございました。しかし、チームメイトからは中学の時は3年間ずっと初心者というレッテルを貼られたままで、初心者だからと自信を持てないままの三年間でした。意見も言えませんでした。野球のことで指摘や口出しができませんでした。バッティングでも今のようなスタイルとは真逆で、凡退が怖く、フォアボール狙いで追い込まれるまでバットをあんまり振りませんでした。
中学の時に、後の野球人生に大きな影響を与える2つの出来事がありました。
一つ目は、中2夏の東京六大学野球と初めての出会いです。
高知市で開催された東京六大学野球オールスターゲームを部活の一環で観に行きました。当時六大学のことは全く知らなくて、所属している大学も東大慶應早稲田くらいしか知らなかったと思います。まさかこのリーグで野球をすることになるとは夢にも思っていませんでした。当時の記憶は、打球がめちゃくちゃ速いこと、内野守備がカチカチなこと、キャッチャーの2塁送球がとんでもなく速くてどうやって盗塁するんだと不思議に思ったこと、土佐から東大に行った高木さん(H28卒)というOBの方が試合に出ていたことくらいです。
二つ目は、自分が中3になる春、高校野球部がセンバツに出場し、大阪桐蔭と対戦したことです。中学時代の先輩方が甲子園の舞台に立ってあの大阪桐蔭と戦っている光景にとても感動し、負けてはしまいましたが自分たちも頑張ればここに立てるのではないかと夢をもらいました。野球は中学までで終わろうと思っていた自分や周りの同期が高校野球もやってみようかなと考えるようになりました。
結局中学最後の夏も後に大学野球選手権でノーヒットノーランを達成した投手を擁する相手に早々に敗退してしまい呆気なく終わってしまいました。
高校では野球をやるつもりはありませんでした。しかし、中学野球の同期の多くが続ける予定で、それに加えて甲子園での戦いに感化されて県内外の他の中学から上手い人が多く入部すると聞き、本気で甲子園を目指せるのではないか、ここでやらなかったら悔いが残るのではないかと思い、他の人とは遅れて高1の4月から入部しました。
入部したのはいいものの、噂に聞いていた通り高校野球の指導はとても厳しく、毎日精神的に辛い日々を送りました。最も辛かったのは、練習をほとんどさせてもらえなかったことです。ノックではファウルゾーンでボール回収、声出しをし、打撃練習ではマシンへの球入れや外野でのボール回収、バッピのキャッチャーしかさせてもらえず、キャッチボールとトレーニング以外は参加させてもらえませんでした。ある日の測定会で遠投と30メートル走の成績がどちらもチーム2位だったことで守備練習だけ入れてもらえるようになりましたが、結局金属バットを持つことはありませんでした。
ちょうどこの頃は自分の将来について考え始めた時期でもありました。中高一貫校にいたことで、中学の三年間はほとんどテスト勉強以外に勉強せず、のびのびと部活だけをしていました。高校生になってそろそろ大学受験のことについて考え始めないといけないと思っていました。当時は自分が東大に行くなんて全く考えていなかったし、行きたいとも思っていませんでした。勉強が嫌いだったので、そんなに難しくない大学を受けて受験なんてサクッと終わらせちゃおうなんて考えていました。
東大との出会いはまるで運命に導かれたかのようにやってきました。
高1の秋、学校の修学旅行でコース別研修があり、10種類程の行き先の中から自分が興味を持ったコースを選ぶ必要がありました。宇宙センターとか国会議事堂とか、そういう勉強みたいなコースに全く興味がなかった自分は最初TBS見学のコースにしようと思っていましたが、仲の良い友達が数人ほど東大見学のコースに行くと言いました。逆に、自分が志望していたコースに知り合いは少なかったので、お堅そうで嫌ではありましたが自分も東大のコースを選びました。これが後の人生を変えることになるとは思ってもいませんでした。初めて行った本郷キャンパスは都心なのにとても静かで、建物は古くてもカッコよく、とても魅力的に感じ、勉強嫌いな自分でもここで勉強してみたいな、ここなら勉強に打ち込めそうと感じました。また、土佐高校OBである浜田一志監督(当時)がサプライズで来てくださり、お話を聞く中で東大野球部という存在に魅力を感じました。浜田さんはお話を聞くだけでもの凄いカリスマ性を感じ、この人の下で野球をやってみたいと感じました。それまで東大野球部のことは弱いチームであること、150キロ投げるプロ注目のサウスポーがいることくらいしか知らず、前述した通り、六大学野球すら全く知らない状態でした。
東大野球部を目指してみよう。そう思い始めました。
ですが当時の自分には明らかに高すぎる目標でした。成績自体は校内でも比較的優秀でしたが、東大レベルでは全くなくて、東大を目指したら笑われるような立ち位置でした。それに、部活動への負担を考えると、部活動を続けながらの東大志望は不可能でした。
そういうわけで、東大野球部への憧れはありつつも、諦めざるをえませんでした。
しかし、東大は無理だとしても将来どうするのかを考えれば考えるほど、受験に対して不安になって行きました。このままだとどこにも受からない。そんな気がしました。
気づけば春になって後輩が入ってきていました。NOMO JAPANとかなんだか知らないけれど、後輩たちもかなりの実力を持っている人が何人もいました。そして、自分たちは練習に入れてもらえないどころか、アピールするチャンスすら貰えないまま、後輩で上手い人たちはすぐに練習に呼ばれていました。
このまま練習にもろくに参加できない野球を三年間やって、その先に何があるのだろうか。そう考えた自分は、野球を辞めた方がいいのではないかと考えるようになりました。また、部内に同じような考えを持った同期がいて、そいつは春季大会でベンチ入りしていたのにその直後に勉強を理由に退部しました。
将来を不安視した自分は、そいつに続くように、高2になった4月頭の始業式と同時に野球部を辞めました。僕の野球人生はここで幕を閉じることになりました。
いざ野球を辞めると、暇になるほど時間がありました。自分は野球を辞めはしましたが、まだ東大野球部という場所への一抹の憧れは残っており、勉強するために部活を辞めたのだから、どうせならトップを目指してみようと、自分を奮い立たせるためにも東大を目指すことを決意しました。とはいえ、当時の自分の学業成績は学校内でもいい方ではありましたが、とても東大を狙えるような成績ではありませんでした。なので、お前には無理だと言われるのを恐れて、周りには東大を目指しているとは中々公言できない日々が続きながらも、部活の関係者や周りの人を見返すために受かってやろうと気持ちをもち、学校の授業がない時間は図書館や塾の自習室に籠り、勉強しました。
結局高3になっても成績は上がらず、東大の壁の高さを思い知らされました。周りの同級生たちは部活を引退してからどんどんと成績を上げており、まだまだ伸び代を残している状態なのにあれだけ勉強してきた自分はずっとくすぶっていて、もう無理なのではないかと何回も諦めかけました。この頃になると野球から離れて月日が経ったこともあり、大学に入った後も野球をやろうとは思わなくなっていました。東大を勉強に打ち込める最高の場所として捉えており、そこで野球ではなく、勉強がしたいと理由だけで目指していました。
現役の時は理科一類を受験し、約100点差で不合格。開示された成績を見るに、一浪しても合格する希望を見出せないような成績でした。後期で受かった大学もあり、周りからはそちらに進学するように強く勧められました。しかしなぜか自分はもう一年勉強すれば合格できる自信があり、いわゆる仮面浪人もしないまま予備校に通うことを決意し、家族もその決断を尊重してくれました。東大から志望校を変えなかったのは、東大の魅力に取り憑かれていたからでしょう。
浪人しても成績は伸び悩み、秋頃に心が折れかけたこともありましたが、何とか理科二類に合格することができました。合格直後は、三年間運動から遠ざかり、勉強だけをしてきた自分には、東大は勉強するための場所、そのために受験した場所だという価値観が生まれており、大学で部活動に入ることは考えていませんでした。
しかし、自分は自分が思っている何倍も野球が好きだったようです。受験勉強から解放されて父とキャッチボールをしたり、野球のゲームをしたり、開幕が近づくプロ野球の動向を追ったりしていると、少しずつ野球をまたやりたいなと思うようになっていきました。
東大で野球といえば六大学に所属する硬式野球部。いくら弱いとはいえ、甲子園経験者もいるし、自分みたいな中学で野球を始め、高校でろくに野球をやってない人間がやっていけるわけない。
そう考えていた自分は、硬式野球部への入部を諦めました。部活動に入るくらいなら有名な硬式野球部がよかったので、軟式や準硬式には興味はありませんでした。それでも何らかの形で野球をやりたかったので、サークルでやろうかなと考えていました。
そして迎えた念願の東大の大学生生活。入学式の前に駒場でクラスメイトとの顔合わせがありました。そのときに、1人のクラスメイトが向こうから声をかけてきてくれました。
「野球やっとったん?俺硬式野球部入るんだけど、一緒にやらない?」
身長190cm近い、大柄なその子は僕の自己紹介プロフィールの部活動歴を見て声をかけてくれました。驚くことに、彼は小学校では野球をやっていたものの、中高ではやっていなかったそうだ。それに一浪。
(凄いな、それでよく厳しい硬式野球部に入ろうと思えるな。いやでも、多分運動神経よくて普通に上手い子なのかもしれない。自分とは違うのだろう。)
一瞬心を揺さぶられましたが、すぐに断りました。それどころか、その大柄な体を見て大学野球はこれくらい体が大きくないと無理なんだろうなと思い、ますます入部する気がなくなっていきました。やっぱり自分にはサークルくらいがちょうどいいと改めて感じ、サークルの新歓に行くことを決意しました。
サークルの新歓では新歓試合といって、いきなり試合に出してもらえるイベントがありました。何年かぶりの試合だった自分は、内野安打)ただの内野ゴロ)で出塁し、後続のバッターで色々起こってホームまで戻ってきたのですが、足が絡まってホームベース前でこけ、サークルなのにヘッスラでホームに戻ってくるやつだと笑われました。またダイヤモンド一周しただけなのに疲れすぎて、その後1時間くらいうずくまって動くことができませんでした。今となってはいい思い出です。それくらい当時の自分の体はガチガチかつボロボロで、当時は硬式野球部に入らなくてよかった、もはや今の体ではついていけないと思いました。
サークルの人たちはみんな明るく、単純に楽しかったし、友人もできたし、ここで四年間やってもいいなとも思いました。
しかし、週2回の2時間だけの練習、終わったら緊急事態宣言下でも開いてる店を探して終電あるいは朝まで飲む、雨が降れば練習はなくて即飲みに行く、男女比は1:1のインカレ…
このような環境は正直自分に合いませんでした笑。
また、同時に野球をもっと本格的にやりたいと思う自分もいました。当たり前ではありますが、サークルは雰囲気が緩く、エラーしても誰も何も言わないし、特に外野守備なんて存在しないようなものでした。高校のような厳しい環境はもちろん嫌でしたが、もう少しちゃんと野球やりたいなと日々感じていきました。
そういうわけで消えていた硬式野球部への入部という選択肢が再び自分の前に現れ始めました。しかし、練習は週6日もあるし、雰囲気もさぞ厳しいのだろうと思うと中々一歩踏み出せないまま月日だけが流れていき、気づけば6月になろうとしていました。
コロナに支配されていたこの頃の生活は、朝起きてから夕方までパソコンから流れる授業とにらめっこをし、夜にスーパーで食材を買ってきて自炊すれば1日が終わるという生活で、サークルがない日は家からほとんど出ないし、友達とも会えないし、想像していた念願の大学生活とは程遠いものでした。楽しみといえば週2回のサークルか、毎晩のプロ野球中継だけでした。1ヶ月続いたこの生活に嫌気が差しており、正直限界でした。外でできる何か新しいことを始めたいと本気で考えるようになりました。ちょうどその頃、東大野球部が連敗を64で止めたというニュースを見ました。やっぱり野球部はかっこいいな、せっかく東大にいるのにここで野球をやらないのは勿体無いなと考えるようになりました。この頃でもクラスメイトの彼は会うたびに野球部に誘ってくれるし、みんないい人ばっかりだと楽しそうに野球部のよさを力説してくれました。中高で野球をやっていなかった彼の楽しそうな表情は僕の決断を後押ししてくれました。彼がいなかったら今この文章は存在していない可能性が高いです。彼は1年生の8月で退部してしまいましたが、今自分は4年生の10月を迎えていてなんだか不思議なものです。
こうして、硬式野球部を諦めきれなかった僕は硬式野球部の練習見学に行くことを決意しました。
6月中旬、初めて行った東大球場は輝いていました。レフトにはスカイツリーをはじめ、上野方面の高層建築物が見える、高知ではありえないような光景は単純にわくわくしました。
練習見学する人には珍しく、朝のAチームのアップから夕方のBチームの解散まで一日中全てのメニューをスタンドで見ました。
Aチームは思っていた通りレベルが高く、打撃練習で簡単にスタンドへボールが消えていく光景に衝撃を受けました。(この時は東大球場が狭いことを知りませんでした笑。)
逆にBチームは思っていたよりもレベルが低かったです。特に、外野のノックでは外野フライの捕り方がおぼつかない人が多く、正直自分でも全然やれるなと思えました。バッティングには全く自信はありませんでしたが、守備走塁なら野球部でも通用できる可能性があるとわかり、入部に少し前向きになりました。
見学の中で野球部に最も惹かれたポイントは、雰囲気です。Aチームの練習は締まった雰囲気で行われていましたが、練習の合間に見せる笑顔や、みんなで考えて練習している環境が高校の野球部とは対極で、自分にはとても魅力的に見えました。もしかすると、自分がこの見学で一番見ていた部分は練習メニューの内容、体力的なキツさや選手の技量ではなくて部員の表情だったのかもしれません。また、スタンドで見ている時に当時監督の井手さんに声をかけていただきました。出身校を尋ねられたので答えると、「土佐高か。ならしっかりと野球をやってきているんだな。待ってるぞ」とお声をいただきました。高校ではやってないようなものだけどなと思いつつも、井手さんが作り出すその温かい雰囲気に、ここなら大丈夫だという安心感のようなものを抱いた記憶があります。もう1人、ユニフォームに大きな字で「門池」と書いた子がわざわざ近くまで来てくれて話しかけてくれました。名前の読み方はよくわからなかったけど、今では考えられないような笑顔をしていた彼は、僕にポジションを尋ねてきました。外野手だと言うと、「外野手なの?!俺も外野だよ!一緒にやろうよ!楽しいよ!」と爽やかな笑顔で答えてくれました。同じ外野手が入ってくればライバルが増えるはずなのに、どうしてこんなに誘ってくれるんだろうと不思議でしたが、この言葉も間違いなく僕の入部を後押ししてくれました。
そして気づけば数日後にマネ部屋に入部届を提出していました。入部届のポジションの欄には、外野手・投手と書いて出しました。(どっちをやるのかと問われて、とりあえず外野手をやりますと言って今に至ります。)
ここまで読んでもらえばわかる通り、東大野球部への入部そのものがもはや奇跡で運命的のように思います。少し選択が違えば、確実に今この文章を書いていなかったでしょう。
余談ですが、この時点で東大の試合を1試合も観たことはありませんでした。
自分は、ただ単に野球の練習をするのが好きだったので、四年間ずっとBチームで緩く練習すればいいかなと当時は思っていました。もし戦力になれそうならば守備・走塁枠でリーグ戦にベンチ入りできたらいいなと思っていました。
初練習の頃には7月になっていました。初練習の感想は、「暑い」と「緩い」でした。三年ぶりに部活動という本格的な運動をして体力はヘトヘトな上に、7月の暑さが加わりとにかくしんどかったです。四年間で最も熱中症に近かったかもしれません。また、高校まではグラウンドで歩くことが許されていなかったので、走らなくてもいいグラウンドは何か新鮮でした。雰囲気も怖くなく、長谷川君(4年/投手/駒場東邦)や芳野君(4年/外野手/西大和学園)をはじめ、みんなが歓迎してくれて嬉しかったです。衝撃的だったのは、その練習で寝坊してきたF君をみんなが笑いながらイジっていたことです。誰かが寝坊して盛り上がるなんて高校までではあり得ない光景でした。さらに衝撃だったことは、フリーバッティングに入れてもらえたことです。野手は全員打つのが当たり前ですが、高校ではバッティングをさせてもらえなかったので、いきなり打たせてもらえることはありがたかったし、びっくりしました。
野球部に入って一番嬉しかったことは、間違いなく「部活同期」ができたことでした。特に外野手はみんな個性豊かでポジ別の時間は全メニューの中で圧倒的に楽しかったです。絶望的にフライが捕れない門池(4年/学生コーチ/都立富士)、爽やかでめっちゃ大学生してそうな芳野、既に試合で打ちまくっていて雲の上の存在だった橋元(4年/外野手/修猷館)、愛嬌のある笑顔で話しかけてくれる武(4年/外野手/戸山)、ハンドボールみたいな投げ方で硬球を投げる谷保(4年/学生コーチ/屋代)、ストライクをまるでボールのように見送る見坂(4年/外野手/水戸一)、永遠にキャラがわからない大巻(4年/学生コーチ/花巻東)。みんなとただただノックを受ける時間から地理用語しりとりをしながらの草刈りまで、全ての時間が格別に楽しく、週6回もの練習が辛くなかったのもみんながいたからです。それにみんなは一番打撃力で劣っていた自分にとっては超えるべき目標でもありました。
まだこの頃は毎日の練習が楽しく、このまま四年間緩いBチームに居続けてもいいとも思っていました。Aチームを目指すことすらしていなかったこの頃は野球に対しての意識が今よりもずっと低かったと反省しています。知識不足が原因でバッティングは物理的に明らかにおかしい軌道で振っていて、バットを強く振ろうとしているだけだったし、それではもちろんミートもできずコロナのせいでこの頃は貴重だったオープン戦に呼ばれることは当然ありませんでした。63kg程度しか体重がなかったのに体も大きくしようとせず、自主練の質も量もずっと今より悪くて少なかったです。秋のフレッシュがあるのにどうせ自分は無理だと早々に決めつけ、メンバーに入りたいと言う気持ちすらなかったです。ただ野球の練習を楽しんでいるだけで、もちろん上達のスピードは他の人よりもずっと遅かったと思います。今になってもっとしっかりやっておけばよかったと後悔しているので、この文章を読んでいる同じ状況の後輩がいるならば、反面教師にしてほしいと思います。いつか必ず後悔するでしょう。
またこの頃、自分の数少ない武器であった肩をアピールしようとし、硬式球に慣れる前に投げすぎてしまって肘が慢性的に痛くなりました。特に重症というわけではなかったですが、痛くない時も痛くならないように投げようとしすぎて、ボールの投げ方がどんどんおかしくなってしまいました。気がつけばリリースの仕方や力感がわからなくなってしまい近距離をピシッと投げられなくなってしまいました。
しかし収穫もあり、高校生相手ながら試合でバントが決まったり、大学初ヒットとなる二塁打を打てたり、今度は大学生からも打てたりして高校レベルならもう大丈夫だと自信がつきました(高校生の球を大学に入って初めて見ました笑)。そういう意味では、一年目は結果的にはいいスタートを切れたのかもしれません。もちろんもっと意識高くやれたはずでしたが、周りと勝負できるレベルには成長できたかと思います。2年生での目標を、フレッシュにスタメンで出ることに設定しました。リーグ戦に出ることを目標にするべきだったと今になって後悔します。
新チームが始まると、宮﨑さん(R5卒)の少人数班に所属することになりました。宮﨑さんはとにかく体を大きくしろと何度も言ってくれました。会うたびに体重の増減やトレーニングの経過、食事の量を尋ねられ、無駄に真面目な部分がある僕は怒られないように言われた通り肉体改造に取り組みました。その結果、体重はどんどん増えていき、とうとう70kg台前半まで増えました。体に関する知識も増え、よりトレーニングや食事に興味を持つことができました。打球もどんどん強くなりました。自分1人だったらここまでは絶対にやっていなかったと思うので、しつこく言っていただいた宮﨑さんには本当に頭が上がりません。ありがとうございました。
打球速度が速くなったことに加え、肩の強さと守備を評価してもらい、Aチーム入りはできませんでしたが年明けからB戦に呼んでいただく機会が増えました。Aチームで怪我人が多く出たことも自分にとっては追い風で、同期の中では見坂と共に多くのチャンスをもらうことができました。この頃はまだコロナの関係で試合数が少なかったので、実戦機会は貴重で本当にラッキーでした。しかし、あんまり打てませんでした。見坂は結果を残していました。気づけば春リーグが近づいてきており、それは即ちフレッシュで誰がスタメンで出るのかを決定する時期に差し掛かっていることを意味していました。
最初の方はフレッシュぽいOP戦でもスタメンで使ってもらえたりしていたのですが、打てなかったり、他にも外野手がたくさんいたりという理由で途中からは守備だけ出場し、打席が回れば代打という起用になっていきました。大巻や門池、見坂、芳野といったライバルが試合で使われる中、上智大戦とフレッシュ前最後の試合である敬愛大戦と、フレッシュ試合2連続で打席をもらえなかった悔しさは今でも覚えているし、フレッシュ本番でも打席は立てないことを覚悟しました。でもこれは選手としての成長でもあったと今振り返れば思います。守備固めでいいやと思っていた男が、打席がないから悔しいと思っている。間違いなく入部からこの期間までに僕は心身共に成長していました。
打撃で何かを変えないといけない。でも知識が不足しているし何から始めればいいかわからない。そう考えた自分は、スイングを数値で評価してくれる測定機器、ブラストモーションを個人で購入しました。そこからほぼ毎日ブラストとにらめっこしながら自主練し、数値が上がるようにフォームとスイングを変えていきました。バットを肩に乗せて構えるようになったのもこの頃からです。
春リーグも終わり、いよいよ本格的にフレッシュの時期になりました。前述したように、フレッシュ試合ですら打席がなかった僕にとっては実戦練習で結果を出さないと本番で打席はありません。しかし練習で結果を出せないまま、フレッシュ前最後の紅白戦を迎えました。打撃が期待されていない自分は8番バッターでした。
もう後がない中、2打席で2本塁打。人生で初めて柵越えホームランを打て、増量の成果を感じると共にかなりの自信になりました。この紅白戦は僕の野球人生で最も忘れられない試合で、この試合が大学野球人生のターニングポイントだったと思います。
ラストチャンスを掴んだ僕はその後打撃が開眼したのか練習でも結果を残すことができ、フレッシュ本番に2番センターで先発出場することができました。目標は叶いました。しかし、2試合で3打席に立ち、全て凡退。自分の調子はこれ以上ないくらい良かったのに、ヒットを打てる気配がないような3打席でした。神宮初ヒットの壁は思っていた数倍高いものでした。実力不足は明白で、慶應戦では人生で初めて見る140km/hを超える速球にバットが当たらず、法政戦では速い真っ直ぐを意識しながら甘い変化球を打てませんでした。このままだと秋フレッシュも打てない。単純にスイングが弱く、パワー不足だ。140km/hを超える球に振り負けないパワーと真っ直ぐ狙いでも甘い変化球を打ち返せる技術が必要だ。そう考えた自分は今まで以上に増量とバッティング練習に力を入れることにしました。
このままいけば4年になったらリーグ戦にも出られるだろうと最初は甘く考えていましたが、再始動後にAチームには上がれず、橋元、捷(3年/外野手/仙台二)、工藤(3年/内野手/市川)はAチームに呼ばれ、加えて太陽(4年/投手/国立)が外野守備を始め、1年生の榎本(3年/外野手/渋谷幕張)や黒武者(3年/外野手/渋谷幕張)にも力がありました。このままだと秋フレッシュ、そしてその先のリーグ戦にスタメンで出ることは確実にできないと焦りを感じ始めました。また、一緒に練習してきた外野手仲間の門池が学生コーチになりました。門池はとても練習熱心で、自主練の量も多く、ストイックな面を持っている選手だったので、そのように熱心に練習している選手が自らチームのために学生コーチになるのはショックでした。その分頑張らないといけないと感じました。
幸運にもトレーニングの成果はどんどん現れ、体重の増加と共にB戦では打順も打率も上がっていき、長打も出るようになりました。練習でも強い打球を今まで以上に打てるようになり、守備も評価してもらっていたこともあって1クール限定のプロスペクト枠でAの練習に混ぜてもらえることもあったり、守備だけA戦に呼んでもらえるようになったりしました。
引き続きオープン戦でも結果が出ていたこともあり、Aの遠軽合宿メンバーを決めるシートBTにも呼ばれました。バッティングは当時いい感覚を掴みかけていたこともあり自信満々で挑みましたが、松岡さん(R6卒)、西山さん(R5卒)、木戸さん(R5卒)の前に3打席連続三振を喫してしまいました。もちろん遠軽には行けず、Bの室蘭合宿に行くことになりました。
室蘭合宿は室蘭合宿で、凄く楽しかったです。
森岡(4年/投手/渋谷幕張)には守備中に壮絶な野次を飛ばしてしまったことを今でも反省しております。
自分はどちらかというとこの合宿ではみんなを引っ張る側で、積極的に後輩に声をかけたり、守備を教えたりしていた記憶があります。今よりもこの時の方が周りが見えていたかもしれません。
室蘭で鍛えた成果もあったのか、東京に帰ってきてからも夏のOP戦では打ちまくることができました。試合で結果を出すたびにAに上がれないかと期待しましたが、結局Aに上がれないまま秋のリーグ戦が始まってしまいました。
Aに上がれなかった理由は、Aの定員が決まっていて、試合で結果が出てなくても実績がある人は落とせなかったからだそうです。
リーグ戦の途中に、Aで欠員が出たことが理由で満を持してやっとAに上がれることになりました。Bでは1番結果を残していたこともあって、Aでも十分通用できるのではないかと考えていましたが、真逆でした。Aの先輩方の実力は凄まじく、リーグ戦出場には高い壁を感じました。
結局最終戦までAチームにいることはできたものの、実力差を感じてこのままではいけないという危機感を感じたまま、秋フレッシュの季節となりました。
当時、フレッシュの外野は捷がセンターをやることと、太陽がレフトで出ることは決まっていました。スタメンで出るためには残りの1枠を取りに行く必要がありました。当時は自分はAにいて、橋元がBにいたこともあり、Aメンバーを優先的に起用する風潮があったことから、このまま行けば自分が出られるものだと思っていました。
しかし現実は甘くなく、フレッシュ前最後の試合で橋元が結果を出した一方で自分は残せませんでした。また、本番2週間前ほどからスランプに陥ったこともあってバッティング練習でもまともな打球が出なくなってしまいました。追い込まれた自分は思い切って本番直前にフォームを変えました。そうすると少しは良くなりましたが、春とは違って絶不調のまま本番を迎えることになりました。でも結果的にはこのフォーム改造が吉となりました。
秋フレッシュ初戦の慶應戦、やはりスタメンは橋元で、自分はベンチスタート。仲間が打ちまくるのをベンチで見ているだけでした。同期や後輩が神宮初ヒットを打っていく中、自分の無力さを痛感させられました。しかし勝っていたこともあり、後半にレフトの守備固めとして出場することができました。幸運にも回ってきた打席でノースリーからヒットを打つこともできました。自分のヒットで5連打目。完全に周りが打たせてくれたヒットでした。フォアボール狙いだった中学の頃だったら確実に打てていなかったと思います。なとんか神宮初ヒットを打て、試合にもコールド勝ちすることができました。
勝ったときの嬉しさは格別で、勝利の瞬間をグラウンドで迎えられたのは幸せでした。
でもスタメンで出られなかった悔しさがその日消えることはありませんでした。絶対に明日やり返してやると心に誓いました。
翌日の明治戦は太陽がピッチャーをやることもあって、9番ライトで先発出場しました。東大は前日の勢いそのままに、初回に2点取りました。相手のピッチャーは良さそうなのにみんなが鋭い打球を飛ばしていて、自分でも打てるかとても不安でした。そして1打席目、目の前で特大のセンターフライを打った橋元のことをただただ凄いなと感心しながら打席に向かいました。1-1から真っ直ぐだけを待っていました。気づけばバットを振っていて、手には今まで感じたことないくらいの、言葉では形容し難い気持ちいい感触が残っていました。
左中間に飛んだ打球を見ることなく、一塁に向かって全力で走っていた。バットに当たった後はとにかく全力で走るという、中高のときから身についた癖だった。
(少し上がりすぎた。頼む…外野の頭を超えてくれ…)
そう願いながら一塁ベースを回った直後、打球を探した。
見つけられなかったが、相手のレフトが背中をこちらに向けたままスタンドを呆然と見ており、同時に三塁側ベンチとスタンドから歓声が聞こえ、やっと何が起こったのかを理解した。自分が一番驚きながら、ダイヤモンドをゆっくりと1周した。
その後試合は負けてしまいました。
負けはしましたが、大きな手応えを得ることができました。自信にもなりました。
ちゃんとした球場で打った初めてのホームラン。しかも神宮でフレッシュ本番。
4年生のときは自分が主力となってチームを引っ張っていかないといけないと本気でそう思いました。もはやリーグ戦に出るだけではダメで、そこで結果を出してチームを勝たせないといけないとも思いました。一年間で同期の誰よりも野球が上手くなったと思いました。この先の野球人生は明るい未来が待っていると思っていました。
新チームになり、新たな少人数班の班長である大井さんに、これから一年間ずっとAにいることがマストで、レベルの高い東都のピッチャー達と対戦してレベルアップしろと言われました。また、門池との面談でも、「お前はもうB戦には出るな。A戦で結果を出せ」と言われました。自分としても、今まではB戦レベルのピッチャーとしかほとんど対戦して来なかったので、この1年はレベルの高い投手との対戦を重ねてレベルアップすることを目標にしました。
シーズンオフは更なる肉体改造に着手し、体重は初めて80kgに達しました。体重が増えるとバッティングは更に良くなり、今までにない飛距離が出ていました。スイングも部内でトップレベルまで速くなりました。純粋に球春到来が楽しみになりました。それくらい打てる自信がありました。春の鹿児島合宿にも行くことが決まり、春のベンチ入りを本気で獲りにいかんとしていました。この頃は何か無敵感がありました。
残念ながら、僕の野球人生が上手くいったのはここまででした。
鹿児島合宿3日前の明治安田グラウンドでの練習。守備中に右足の脛に大きな痛みが走りました。しばらく立ち上がれない程の激痛でした。その2週間前から脛に違和感はありましたが、ジャンプ系のトレーニングが増えたことによる軽い代償の一種だと思ったまま放置していました。少し休んだ後、軽くなら走れたのでその日のうちに痛みがなくなってくれないかと祈りましたが、翌日の練習でも同じように痛みました。でもここで離脱してしまうとせっかく掴んだ鹿児島合宿がなくなってしまう。それはつまり、Bチームに降格するし、春リーグにも出られないことを意味していました。合宿前日に通院しましたが、MRIを撮らないと何もわからないと告げられました。それだと日数がかかるので、詳しい診断は合宿後にならないとわからないことになりました。
痛みを我慢すれば走ることはできたので合宿参加を強行しました。
しかし合宿中も痛みは引くことなく、弱くなることもありませんでした。バッティングは今までにない程調子がよく、どうしても試合に出たくて練習をやめることはできませんでした。騙し騙しやっていましたが、限界が来ました。守備が限界でした。足を庇うような追い方がクセになってしまうし、投げる時も足を無意識に庇おうとしていつも以上に精度が悪くなる… もはや自分のプレーはできない。
合宿途中から守備練習を抜け、合宿後にMRIを撮りました。
脛の疲労骨折でした。
全治2ヶ月、その間は走るのに加えてバッティング練習も禁止と言われました。原因はおそらくスクワットジャンプなどジャンプ系の種目を間違った着地で繰り返していたことでした。体重を増やしたことも影響していたかもしれません。
何もできなかったので1ヶ月ちょっと全体練習を欠席しました。ただただ無念でした。
復帰すると春リーグが始まっていて、新入生も入っていました。スタンドで応援する際に、スタンドにいることを悔しいと初めて心の底から思いました。特に外野手の後輩たちが頑張っている姿を見るのは悔しかったです。
完全に走れるようになったのはリーグ戦が終わる頃でした。ブランクは思ったより大きく、特にバッティングが完全に悪い時に戻っていました。トレで手に入れた筋肉、体重、スイングの強さ、打球………オフシーズンで手に入れたものを全て失った気がしました。
1ヶ月でこんなに感覚を失うのかと絶望しつつも、どうせすぐ状態が戻るだろうと楽観的でした。
6月のリーグ戦オフ明け直後、最初のB戦にはしばらく試合に出ていなかったのに上位打線で使ってもらえました。ある先輩学生コーチに、「実力はAチームだけど怪我明けで動けるかわからなくてBにしているだけだから、早く動けるのを証明して上がってこい」と声をかけてもらいました。この試合で打ってAに戻るぞと意気込んでいた矢先、相手投手の直球が左手首を直撃しました。打ちに行って途中でやめたのですが、その分当たりどころが悪かったようです。グローブを閉じることができない痛く、試合中に病院へ向かいました。
左手尺骨骨折。全治1〜2ヶ月。
また骨折でした。骨折の復帰試合で骨折するなんて、今考えても呪われていたと思います。脛の疲労骨折の時よりも精神的ダメージは大きかったです。せっかく秋こそはやってやろうと意気込んでいたのに、遠軽合宿にも間に合わない。かなり絶望しました。今度はバットが振れないだけでなくグローブも使えないし、上半身のトレーニングに加えてスクワットなど下半身のトレーニングも一部できない…
今回はガードなどをしっかりと装着していたら防げたものでした。なぜ所有していなかったのか今となってははとても後悔しています。この日を境に、つけることができるガードは全て着用して打席に入るようにしました。もしハンドガードなど持っていない後輩がいるなら、絶対につけるようにしてください。当たってからでは遅いです。
まともに練習できないまま、気づけば8月になろうとしていました。
その間に橋元・芳野・木村(4年/外野手/開成)と同期が次々にAチームに上がって行きましたが指を咥えて見ていることしかできませんでした。単純に悔しかったです。
7月下旬に少しずつバッティング練習を再開して、8月になる頃には痛みが気にならない程に回復しました。なんとかBの岩手合宿に参加することができました。この合宿では実戦機会が多く、強い大学との試合も組まれていたので、遠軽には行けなかったけどここで打って結果を残してAにアピールしようと考えていました。
しかし、時代は変わっていました。
もはやチームに自分は必要とされていませんでした。自分の代わりはいくらでもいて、3年生を使うより将来性豊かな1年生を使うという風潮でした。
岩手での強豪大との試合はベンチに入ることもできませんでした。自分が練習できなかった間に多くの1年生が台頭し、同期でも野手に転向した大友(4年/外野手/仙台一)や安定感のある大巻が台頭していて、自分が試合に出る幕はありませんでした。正直、自分が使われないことに対してストレスを感じていました。なぜ出られないかもわかりませんでした。この中に神宮で放り込めるようなやつが他にいると思っているのか?と思ったりもしました。練習にも身が入らず、合宿の練習の記憶はほとんどありません。3年生なのにチームを引っ張る立場になれなかったこと、4年生や大巻に任せきりだったことは今でも反省しています。
東京に帰っても同じでした。遠軽に行っていたメンバーが何人かBチームに来たこともあり、試合には今まで以上に呼ばれなくなりました。
東京でも練習には身が入っていなかったように思うし、3年生なのに試合に呼ばれないような立場だったので練習で引っ張っていくような態度を取りたくても取れずにいました。
見坂だけは、「松原はもっと使われるべきだ。今の扱いはおかしい。」と言ってくれました。そう思ってくれる人が1人でもいることで自信を保つことができました。ありがとう。
左手首を怪我したことで、いつもに増して右手主体のバッティングになっていたこともあり、最初はなかなか試合で結果を出せずにいましたが、少しずつ感覚が戻り、試合で結果を残し続けることができ、試合に呼ばれることが多くなりました。強い大学との試合にも呼ばれるようになりましたが、突き抜けた成績を残せずにいたこともあり、Aチームに上がることができないままリーグ戦が始まってしまいました。学生コーチの候補になるかもしれないと焦りました。
法政2回戦で勝利した瞬間も、今までの勝利とは違って心の底から喜ぶことはできませんでした。自分は何をしているのだろう。どうやったらここに立てるのだろうか。そう考えるばかりでした。
もうこの状況を早く終わらせたい。何もかも嫌になっていた自分は、早く4年生が卒部して、新チームが始動することだけを待っていました。新チームにならないと何もかも変わらない。そう思って毎日惰性で、早く時が流れることだけを期待して練習していました。
なのに4年生が卒部する時は寂しさで胸がいっぱいでした。多くの先輩が声をかけてくれ、期待しているぞ、レギュラー取れよ、このまま終わるな、もう一発打ってくれなどと温かい声をかけていただきました。心の奥底では、もっと先輩方と練習したかったのだと思います。どんどん自分のことを嫌いになりました。
こうやって振り返ってみると3年生の期間は苦難の連続で、特に2度の骨折は神様からのパワハラとしか思えません。3ヶ月以上まともに野球ができない日々は何よりも苦しく、自分の精神状態を掻き乱してきました。しかし、これらの怪我がきっかけで自分の体と向き合うことができ、自分の体の特徴や正しい動作との違いを理解することができました。夏には外部始動に通うことでバッティングの知識も増え、自分のスイングを少しずつ言語化できるようになってきました。そして夏合宿後、Bの練習の補助に回ってくださった何人かの先輩方には大変お世話になりました。この期間を決して無駄にしないようにしよう決意し、新チームを迎えることになりました。
新チームでは特に何の役職にもつきませんでした。何かに立候補することもありませんでした。Aチームの練習から半年以上も遠ざかっていたし、周りを引っ張って行く余裕も自信も全くありませんでした。昔はやってみたいと思っていた外野手長にも手を挙げることはしませんでした。幹部として一年間活動してくれたみんな、外野手長を引き受けてくれた橋元には頭が上がりません。
そして一つショッキングな出来事がありました。大巻が学生コーチになりました。強豪校から並々ならぬ思いで東大に来て、常に注目されてきた大巻がチームのために選手を辞める姿を見て、これまで以上に頑張らないといけない、選手としてやらせてもらう以上は必ず手を抜くことなくやりきろうと心に誓いました。
冬はとにかく打撃練習に費やしました。シートバッティングでも結果が出て、Aチームに入ることができ、鹿児島合宿への切符を掴みました。首脳陣に期待してもらっていたのか、合宿での実戦練習も上の打順を打たせてもらいました。結果は出せませんでしたが、合宿後半のJR東日本との試合のメンバーに選ばれ、このままならリーグ戦も十分狙えると思いました。
さらに、合宿中に大きな出来事がありました。絶対的なレギュラーである捷が練習中に大きな怪我を負い、少なくとも春リーグは間に合わないことになりました。チームにとってはこれ以上にない危機でしたが、リーグ戦出場を目指していた自分にとってはこれ以上ない追い風でした。自分がスタメンを取って捷の穴を埋めてやろうと心が燃えていました。
東京に帰ってきて実戦が多くなると、Aの試合では多くの外野手が捷の穴を埋めるべく起用されました。自分にもいつかチャンスが回ってくるものだと信じて待っていましたが、一向にそのときは来ませんでした。普段の練習中でも、「〇〇を外野で使うのはどう?」という声が耳に入ってきて、不快感を感じる日々でした。なぜ元々外野をやっている人に期待しないのか?外野は誰でもできると思っているのだろうか?そう思いました。
気づけば大原(3年/外野手/県立浦和)が外野に転向し、結果を出し続けていました。また、伊藤(2年/外野手/県立千葉)や竹山(2年/外野手/修道)といった後輩が台頭していて、Aの試合にすら呼ばれない日が続きました。他の人にはチャンスがあって、なぜ自分にチャンスはないのだろうか。考えれば考えるほどストレスは溜まるし、リーグ戦が近くなるとより焦りが増して、練習でアピールしないといけないという気持ちが強くなりました。アピールしようという思いが強くなれば強くなるほど、プレーでミスが出てしまい、悪循環に陥ってしまいました。シートノックでは肩をアピールしようとして捕球ミスを連発し、バッティングでは飛ばせることをアピールしようとして代償動作が入ってしまいました。ようやく呼ばれたAの試合でも大きいのを狙おうとしすぎてタイミングが早くなったり、大振りになったりしてしまい、結果を残せないままリーグ戦は完全に構想外になってしまいました。春のA戦は一度もスタメンで使われることはなく、メンバーに入っても試合に出ないこともありました。もはやAチームにいることすら危うい立ち位置になってしまっていました。
結局春のリーグ戦では1試合もベンチ入りすることができませんでした。この頃はクール終わりになると「A→B 松原」という通知が来るのではないかとびくびくしていて、スマホにLINEの通知が来るたびに緊張していました。本当です。毎回練習終わりの整備の時に西前(4年/内野手/彦根東)が励ましてくれました。ありがとう。フレッシュでのホームランが未だに命綱になっているのかはわかりませんが、なんとかBに落ちを免れ、Aに居座り続けましたが、リーグ戦に出ていない自分が練習でどのようにチームを引っ張っていけばよいか分からず、声がけや集合での発言もできなくなってしまいました。自分がAチームにいてよいのかも分からず、リーグ戦に出ない自分がいるくらいなら将来性豊かな下級生がAにいた方がいいのではないか、自分はもう引退した方がいいのではないか、後輩は邪魔だと思っているのではないかなどと毎日のように思いました。松原さんを早くBに落として代わりに俺を上げろと2年夏の自分だったら思っていたことでしょう。もはや「なぜ試合で俺を使わない」と思う気持ちは消え失せ、この頃の自分は選手として死んでいたと思います。
しかし、リーグ戦に出られない悔しさは日に日に増しました。そしてやっぱり自分はリーグ戦に出たいんだと自分の気持ちを再確認できました。選手を続けたくても続けられず、自分たちを必死にサポートしてくれる同期がいる以上、死ぬ気でやらねばならないことを思い出しました。野球選手としての自分が生き返りました。まだやれる。絶対秋は出てやる。
秋がラストチャンス。捷も中山(3年/外野手/宇都宮)も帰ってくるし、Bで結果を出している後輩もたくさんいる。間違いなく春より険しい道のりで、とにかく結果を出すしかありませんでした。
しかし、そう簡単に物事は進みませんでした。
自分の立場上、最初はB戦で結果を出さないとA戦に呼んでもらえないのですが、とにかくB戦で結果が出ませんでした。同じくB戦にいた他のAの選手が結果を出し、上の試合に呼ばれていく状況は辛かったです。下級生の頃はあれだけ簡単に出ていたヒットが全く出ません。失うものがなく、いい意味で何も考えずにバットを出せていた昔と違い、凡退を恐れてバットが出なくなってしまっていました。学生コーチからは結果を出さないと遠軽に連れていけない(=引退)と何度も念押しされました。Aの外野手で自分だけが試合に呼ばれない屈辱も味わいました。結局春と何も変わらずもう後がないところまで追い込まれましたが、合宿まであと3試合となったところで主力クラスが出ないA戦に呼ばれました。普段B戦を見ない監督に直接アピールできる絶好かつ最後のチャンスでした。この試合で打てなかったらもう終わりだと考え覚悟を持って臨んだところ、途中出場で回って来た唯一の打席でツーベースを打つことができました。打てた時は喜びよりも安堵の方が大きかったです。アピールが成功したのか、その次のA戦では約5ヶ月ぶりにスタメンで使ってもらえました。勢いに乗っていた自分はその試合でもヒットを打て、合宿前最後となる主力組の試合にもメンバー入りできました。遠軽行きも内定し、秋はリーグ戦に届くかもしれないと思いました。でもそれは合宿で結果が出せればの話であって、合宿で結果を出して七大戦に呼ばれることがリーグ戦出場への必要条件でした。旭川空港行きの航空券は自分にとってのラストチャンスでした。
遠軽では連日のように実戦練習が行われました。最上級生なのにとにかくついていくだけで必死でした。また、大学院入試が月末にあったので全体練習後はほとんどの時間を勉強に費やす生活でした。自主練習も長くできないので短く集中して球数を決めて行いました。その練習方法が功を奏したのか、遠軽ではバッティングの状態が絶好調で、実戦練習でもヒットが出て、OP戦では高校生相手ながら3打数3安打と結果を残せました。今の調子ならどんな球でも打てる気がしました。七大戦メンバーにも入り、勢いづいていました。
七大戦の会場、名古屋に移動すると打撃練習ができるような練習場所がなく、移動日などを含めて数日間実打ができない日が続いてしまいました。その間に遠軽で掴んだ打撃のコツが消えていくのに気づけませんでした。京大との試合では130km/h程度の真っ直ぐを、狙っていたのに3打席連続でボテボテの内野ゴロにしてしまいました。特に3打席目は0-1で負けている中、2アウトランナー2塁のチャンスで打てませんでした。後半に逆転し、チームは勝ちましたが、試合後半に同じようなケースで同点打を放った竹山がその後打ちまくってリーグ戦での代打の切り札になったのに対し、自分のバッティングはここから下り坂となってしまいます。
東京に帰り、A戦で結果を残すぞと意気込んでいたものの、またA戦に呼ばれない日々が続きました。東京最初の試合から、七大戦に行っていない人がAの試合に呼ばれていて、自分は呼ばれないという状況にストレスを覚え、院試勉強のストレスと相まって夜はベッドに入っても数時間眠れない日もありました。その後、B戦では安定してヒットは出ましたが、1試合1本単打を打つ程度ではインパクトに欠け、Aの試合に呼ばれることはほぼなく、やっと呼ばれたと思っても出場機会がなかった試合もありました。院試が終わるとやっと野球に打ち込むことができ、バッティングの状態は戻りましたがもう遅く、Aの試合に呼ばれないまま秋リーグが始まってしまいました。また春と同じ過ちを犯してしまいました。
しかし春とは決定的に違うことがありました。春はOP戦で全く打てていませんでしたが、今回はOP戦でしっかりと率を残せていました。夏季はA戦もB戦も打率は.350を超えていました。また、バッティング練習でも飛距離が今までよりも伸びていたし、よかった時の力強さが確実に戻ってきていました。真之介のお墨付きです。これならまだやれる。チャンスは絶対に来る。あのホームランを思い出せ、まだやれるはずだ。そう信じ、空き週でアピールしてベンチ入りすることを最後の目標にしました。
そしてバッティングの調子が比較的良い状態で空き週を迎えました。OP戦では期待してもらっていたのか、2試合のうち1試合はリーグ戦メンバーを差し置いて5番でスタメンで出してもらえました。今年3回目のスタメンで意気込みましたが結果的に、芯で捉えた打球も野手の正面をついたりして結果を出せませんでした。気持ちが空回りして、ボール球にも手を出してしまいました。そのまま3カード目の慶應戦もベンチ入りを逃してしまいました。もう残りは2カード。追い詰められました。ですが、フェニックスと評されるほど諦めの悪い性格なので、まだまだ諦められません。
多くの同期が既に選手を退いてサポートに回ってくれていたり、走攻守のどれかに絞って練習に入っていたりする中で最後まで選手として全てのメニューに参加させてもらっているのは非常に幸せなことです。サポートしてくれる人たちの分まで、絶対にリーグ戦に出て恩返しできるように最後まで全力でやっていきたいと思います。
まだやれる。
代打でもいい、代走でもいい、1イニング、いや、打者一人の守備だけでもいい。なんでもいい。
絶対リーグ戦に出て、チームに勢いをもたらす活躍をしてやる。
僕の野球人生はまだ終わりません。
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先日の慶應戦では、TEAM2024初勝利を挙げることができました。負けの中でも、勝利から最も遠い場所にあるような敗北の仕方を何回もして、七大戦でもあっけなく負けて、秋の開幕戦でも酷い負け方をして、自分たちの代で勝利のバトンを止めてしまうのではないかと、一選手ながらずっと不安でした。自分がチームに何かプラスをもたらすことができたかはわかりませんが、勝つことができて本当によかったです。実はボールボーイをしながら、感動して最終回の守備の時には目に涙が浮かんでいました。野球で自分が出ていない試合で勝ってこんなに嬉しかったのは初めてです。何よりも七大戦・早稲田戦でどん底を味わった太陽がチームを勝たせる活躍をした姿はカッコ良すぎました。その姿を見ていると、まだ自分もやれるんじゃないかと心を奮い立たせられました。残り2カードも勝ちまくりましょう。
[先輩方へ]
本当に優しい方ばかりで、多くのことを教わり、のびのびと野球をやらせていただきました。
特に外野手の先輩方にはお世話になりました。僕が3年生の時に最後4年生の先輩方と一緒に練習できずに終わってしまったことは今でも非常に残念に思っています。
先輩方ともっと一緒に野球がしたかったです。
[後輩たちへ]
今の3年生は僕らの代よりも圧倒的に力があります。冗談抜きで歴代最強だと思います。
力がある故に悩むこともたくさんあるかもしれませんが、苦しい時ほど仲良く、そして大学野球を楽しんでください。そうすれば絶対勝てます。
みんなの中にも、試合に出たい、なぜ自分が出られないのかわからない、自分を出せ。と今思っている人がいると思います。これらは一見醜い感情に思えますが、こういう思いを抱くということは全く悪いことではないと僕は思います。むしろ、こういう思いを抱くことは選手としてまだ死んでいないことを意味していると思います。自分にしかない強み見つけ、それを磨き続けば、いずれ必ずチームが君を必要とする時が来るはずです。絶対にチャンスが来るので、腐らず上を向き続けてください。
来年も学生なのでリーグ戦観に行きます。
[応援部の方々へ]
リーグ戦に出ていないし、今年は1回も応援席にいないので僕のことは知らないかもしれませんが、毎試合皆さんの迫力ある応援に感動しています。どんな逆境でも全く弱い部分を見せることなくいつも応援してくださって、本当にありがとうございます。七大戦ではアカペラではありましたが、初めて「不死鳥の如く」を打席で聴けて感動しました。ありがとうございました。
[お世話になった方々へ]
この四年間で多くの方々にお世話になりました。
豊田さんはまだ下級生だった僕の質問に対し丁寧に答えを下さりました。
高木さんには無理を言って全体トレでも別メニューの作成をしていただきました。
お二方はトレーニングの知識が全くなかった僕に多くのことを指導下さいました。本当にありがとうございました。
また、BCSの井戸さん、B&Jクリニックの洞口先生、鎌田さんには大変お世話になりました。みなさんのご指導の元、正しい体の使い方や自分の体について知ることができ、野球にも活かすことができました。本当にありがとうございました。
[首脳陣の方々へ]
井手前監督は僕が紅白戦で2本塁打を打ったあの試合の後、一人だけ僕のバッティングよりも外野フライの追い方を褒めてくださいました。井手さんに初めて褒められて、嬉しく、すごく自信がついた記憶があります。もっと守備を頑張ろうと思え、より成長することができました。
大久保監督には助監督時代を含め、四年間お世話になりました。下級生の頃のようなパンチ力ある打撃を期待していただきずっとAチームに置いていただいていたと思うのですが、なかなか監督の求める結果を出すことができず、リーグ戦の戦力になれなかったことを申し訳なく思っています。
石井助監督は就任直後から助監督の方から積極的にコミュニケーションをとっていただき、短期間ながら多くのことを学ぶことができました。
お三方には大変お世話になりました。本当にありがとうございました。
[中高野球部同期へ]
多分誰も読んでいないと思うけれど、
久しぶりにみんなで野球がしたいです。
とりあえずまた飲みにいきましょう。
[東大野球部同期へ]
高校は一年間で野球を辞めた僕が四年間辞めずにやってこられたのは、間違いなくみんなのおかげです。途中から入部したのに温かく迎え入れてくれて本当にありがとう。
大友と肩がちぎれそうになるくらいキャッチボールをしたり、青山(4年/内野手/川和)の天才的大喜利を聞いたり、平田(4年/投手/都立西)とチーズナン食べに行く日常は最高でした。
まだまだみんなと野球がしたいです。あと少しですが残り楽しみましょう。そして引退したらたくさん遊んでください!
同期の中でも橋元と芳野は練習で一緒に行動した時間が圧倒的に長いと思います。
橋元は俺にとってこの四年間ずっと超えないといけない目標であり続けたし、芳野とは境遇が似ていてよく愚痴を言ったり、励ましあったりしました。
外野手長を助けないといけない立場にいるのに、橋元に多くの負担をかけてしまっていたと反省しています。一年間外野手を引っ張ってきてくれてありがとう。
芳野もお互い最後にリーグ戦出よう。まだやれるはず。
そして岩瀬(4年/主務/開成)、門池、谷保、大巻、間島(4年/学生コーチ/八王子東)には本当に感謝しきれないです。選手を続けたかったのに裏方に回ってくれて、嫌な顔一つもせずにチームのサポートをしてくれて本当に頭が上がりません。外野手が次々と減っていくのはシンプルに辛かったです。みんなの分まで、最後まで全力で選手を全うしたいと思います。
そして幹部の皆さん、最後までチームを引っ張ってくれてありがとう。
この一年自分はAチームにいながらチームを引っ張るような態度を取れていなかったように思います。みんなに負担をかけてしまって申し訳ないです。遅いかもしれないけど、最後くらいは4年生らしくチームを引っ張っていこうと思います。
[両親へ]
キャッチボールしたいと言ったらいつでも付き合ってくれ、中学ではほぼ全試合見に来てくれ、真っ黒になって帰ってきても翌朝にはユニフォームをピカピカにしてくれ、朝早くから送迎してくれ、東大を目指すと言ったら全力でサポートしてくれて欲しい参考書は全て買ってくれたり、塾や予備校にも行かせてくれたりして、バットが折れたらお金を出してくれ、高い遠征費なども「おめでとう」「行けてよかったね」と言って出してくれるなど、感謝したいことを挙げたらキリがないけれど、とにかく本当にありがとう。
大学入ってからは3,4試合程度しか目の前でプレーする姿を見せられなかったけど、大学野球で最も輝いた瞬間だったあの神宮でのホームランを母に直接見せることができて本当によかった。8月に最後に家族全員で見にきてくれた時もヒットが打ててよかった。
引退したらたくさん実家に帰るし、勉強も頑張ります。
とびっきり楽しい青春でした。
本当にこの部活に入ってよかった。
心の底からそう思います。
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次回は10月14日(月)、芳野詢外野手を予定しております。