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『僕の野球人生』vol.20 芳野 詢 外野手

4年生特集、『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」vol.20 芳野 詢 外野手(4年/西大和学園)

僕の野球人生芳野 2 3

 

今日も東大は勝った、僕の力を借りることなく。
勝利の瞬間、

喜ぶグラウンド上の同期後輩、涙を流すチア、枯れた声で叫ぶリーダー、皆の顔を鮮明に思い出すことができる。

スタンドの最前列、勝利の瞬間の自分の顔はどんなだったろうか。
声を張り上げることしかできない惨めさだろうか、

こうなるまで状況を好転させられなかった自分に対する無力さだろうか、
両親や、試合を見にいくと何度も言ってくれた友人へ向ける面目のなさだろうか。

たかが野球、たかが部活にこうも苦しむことになるとは思ってもみなかった。

これは入部を決めた日の僕に宛てて書くメッセージ。

 
 
 

三兄弟の真ん中として生まれた僕は

全国の他の三人兄弟の次男たちを見習うようにして、兄を最初で最大のライバルと認識して幼少期を過ごした。

 
兄がアニメMAJORを見ることなく少林寺拳法を続けていたら僕は今、『ぼくじん』(僕の格闘技人生)を綴っていたかもしれない。兄の入団した少年野球の応援についていくだけでいろんな大人がお菓子をくれたことで僕はすぐに野球を好きになった。マンションの下の公園でプラスチックバットを振り回し20mほどの自作のダイヤモンドを一周してホームラン王ランキングを独走する一人野球を嗜んだ僕は、両親のアメリカへの転勤に乗じて本場アメリカで初めて複数人でやる野球に触れた。
地元のメジャーリーグ球団Pittsburgh Piratesにおそらく許可を取らず名前とユニフォームのロゴをまるパクりしたLittle Piratesという怪しい近所の野球チームで、僕の野球人生は始まった。左打ちなのに言葉が通じず右打ちとしてティーを打たされるし、みんなバブルガムかひまわりの種を噛んではそこらじゅうに吐き捨てるからベンチは不潔極まりないし子供ながらに最初は苦労したけど、サマーキャンプでみんなで食べたホットドッグやハンバーガーは大学生になって日本で食べるどれよりも美味しかった気がするし、ノンプレッシャーで皆が皆の一挙手一投足を喜び合う野球は唯一無二で最高に好きだった。また、ろくにチームプレーや戦略的な野球を教えられないアメリカの少年ベースボール界隈では日本の少年野球経験者の兄がダントツで上手く、ピッチャーかショートでいつも輝いていた兄ちゃんを外野から同じチームの一員として見るのもたまらなく嬉しくて好きな時間だった。
 

当時から父さんはネットで訳のわからない野球ギアを買ったり野球の技術本を読み込んで兄と僕(その後弟も)で試すのが趣味になったようで、大学野球の最後が近づく中で先日久しぶりに合った時もゴルフのスイングから想起した謎のスイング理論を提案してきたりと、その癖は10年以上抜けなかったみたいだった。
小2で帰国し、あやめ池リトルダンディーズの下部組織であるかえるまた池ケロッグスに入団した初日の練習は今でも覚えている。

 
実力試しとばかりに同期のみんなと父親コーチ陣に見守られる中、前から転がしてもらったゴロを一つ捌いただけで、みんながしゅんすげー!と言ってくれた。テニスしか経験のない父親の独学による技術指導が正しかったことが証明された瞬間だったのか、僕の類い稀なる野球センスが垣間見えただけなのか、またその両方なのか当時はわからなかったが、一瞬でチームのみんなに受け入れられた感動が鮮烈で、ホッとするとともに野球との運命を感じた。
 

 
その後、上の代の試合にも呼んでもらえるようになり人生で唯一となるピッチャーもさせてもらった。ワシが羽を広げるように投げろ、という例により根拠なき父さんの教えを受けて僕は小学生にしてはちょいと速いかなくらいのボールを投げることに成功したが、ストライク率は3割にも満たず、先輩の代の怖い父親コーチ陣があまりにも怖くて肘が痛くても投げ続けていたら小4にして周囲より一足先に慢性的な怪我との付き合いを始めることとなった。

 
それ以降、野球は僕にとって一番得意なことではなくなり、勉強の次に得意なことになった。当時、兄が毎日スパルタ指導を受けて勉強するのを見ていた僕は小学生のくせに一丁前に母の顔色を窺って勉強する癖がついていたこともあり、奈良の小さな塾では常に全校舎トップだった。

小6になるとそんな僕が中学受験をするのは自然な流れで、野球と土日の塾の兼ね合いが難題となった。福嶋監督は野球に専念できない僕にキャプテンを任せたいと言ってくれ、塾の田中先生は野球を優先して模試や夏期講習を休んでいいと言ってくれ、両親は頑張りたいなら全部頑張りなさいと言ってくれた。僕は本当に今もだが身の丈以上になんでもやりたがりなので、キャプテンがしたかったし、運動会で応援団長もしたかったし、給食委員長もしたかったし、放課後は友達の家にも行きたかったし、週7本ドラマが見たかった。全てをやった。全てが中途半端になることに夏くらいで気づいた。

田中先生に、このままじゃお前を応援する全ての人を裏切ることになるぞ。と言われた僕は、野球と勉強以外は受験が終わるまで控えようと思った。両親だけじゃなく、音楽の先生や給食のおばちゃん、マンションの管理人さん、チームメイトのパパママ、他にも多くの人が応援してくれていることに気づいたのもその頃だった。どちらか一つ、じゃなく野球と勉強両方を本気で頑張ることでより多くの人に応援され、それに報いるためにも、自分のためにも努力する、そういう周りを巻き込んだ努力の素晴らしさみたいなものをその頃から無自覚ながら意識していた。

結果として、野球ではチームのみんなが粒揃いだったこともあり歴代最高の成績を残した代のキャプテンを全うすることができ、勉強では受験した中学全て合格し硬式野球部があり、関西の難関校では珍しく一応共学だった西大和学園に入学することができた。

 
正直無敵だと思っていて、

自分は選ばれし何者かだと信じて疑わなかった。

僕の小6の卒業文集の夢の欄に「大統領」と書いてあるのがその証拠で、

日本の内閣制すら軽く無視する傍若無人さだった。

 
破竹の勢いはとどまるところを知らず、

中学では1年の夏からスイングの綺麗さだけで4番に座らせてもらい、

努力しないので定期試験は学年下位10傑だけど地頭を問われる模試は上位10傑だし、

校内に自分を知らない人はいないんじゃないかレベルの人気者でほぼ満票で生徒会長になった。

高校でも色々あったけど自分の代で初の県ベスト8という記録を残せて、大学受験も途中絶望的な時期を経つつも持ち前の強運で現役で突破できた。

全てがなんやかんや上手くいってしまっていた。

 

僕は土曜日の朝、月曜日の朝の苦しさを想像することができない楽観的な人間だ。
 

高校の先輩の府川さん(4年/捕手/西大和学園)(現涼ちゃん)に誘われた時も大して思慮することなく入部を決めた。別に最初から上手くいくとは思っていなかった。ただ、「野球上手い顔」「スポーツ万能顔」「何でもできる顔」などと高校までで形容された僕の顔はレベルが段違いと聞いていた大学野球の世界の入り口でまたしても通用してしまい、平均的な走力しか持たないにも関わらず「足速い顔」として評価された僕は代走用人材(通称足キャラ)として1年春フレッシュリーグのベンチ入りを決める。
やはり大学でもなんやかんや上手くいってしまうのか、
2年のフレッシュではセンターでスタメン、代打枠からリーグ戦にも食い込んで3年からは六大学の野球エリートと正面から対峙しちゃったりして。
大いなる勘違いから始まった僕の大学野球人生はそこからありえない停滞前線を形成する。
目的意識の無い自主練はただやったという空っぽの満足感だけを残し、本質的な改善が進んでいないことを告げるアラームに対しスヌーズを連打するようなもので、1年生の間の進歩と言えば初めて触れたウェイトトレーニングで体重が少し増えたくらいで、それを除けば野球の技術的進歩はゼロに近しかった。
僕が漂うように所属していた東大野球部という集団は全員が進み続ける集団だった。立ち止まるということは置いていかれるという事、周りとの距離が開いていくという事だった。

それに気づいたのは1年の秋のフレッシュで初めて同期の活躍をスタンドから見た時だった。それでも考えて努力する方法がわからなかった僕は努力のような見た目の無意味な自主練を続けた。

また、この頃の僕は大学生活を野球だけで埋めるなんてなんと馬鹿らしいのだろうとも思っていた。居心地の良かった薫平(4年/投手/堀川)の家に毎日のように転がり込み聞かれてもいない理想の大学生活について意気揚々と語っていた。

今考えると野球と本気で向き合うのを恐れていたのだろう。

そんなこんなで二年目に入ろうとしていた3月にフェンスに突っ込んで二ヶ月間松葉杖生活を送った。練習に参加できない間、広報班の仕事で東大野球部の新歓PV、スタメン動画を作った。今のマネージャー陣が作っている魅力的なものとは比べようのないほど低クオリティな内容だったがそれはさておき、Aチームにいる同期のスタメン動画を作る作業は彼らと自分の遠のいた距離を毎日画面で再確認する作業を強制されているようで苦しかった。

復帰してからはその時点での自分のスペックの最大値を出せるようにということだけを意識して過ごした。一個下の怪物たち、捷(3年/外野手/仙台二)工藤(3年/内野手/市川)黒武者(3年/外野手/渋谷幕張)榎本(3年/外野手/渋谷幕張)はまだ眠りから覚めておらず、中山(3年/外野手/宇都宮)に関しては入部してもいなかった。自分の代は橋元(4年/外野手/修猷館)以外横並びで、打てば序列はすぐに上がった。

2年の春フレッシュ2試合目、法政戦2番センターでスタメン。
神宮でプレーする僕を見たいとうるさい高校同期を神宮に呼ぶことができた唯一の試合。140km/hを超えるストレートにファールを出すので精一杯だった。
チームも完敗だった。

それでも秋までにあれを打ち返せばいいのか、できなくはないなと根拠なく思った僕は前向きな気持ちで神宮を後にした。依然として楽観的だった。

 
 
数日後、門池(4年/学生コーチ/都立富士)が学生コーチになった。

門池は春フレッシュ1試合目でスタメンだった。自分より序列の高い門池が学コになったことに純粋に衝撃を受けた。相当な覚悟があっての決断に違いなかった。
何か大きな変化が必要だった。

結果が残せなければ秋時点で出すもう一人の学コの候補に自分の名前が上がる可能性があった。
毎日のように午後練で同じような状況だった谷保(4年/学生コーチ/屋代)と打ち込んだ。でもヒットを欲しがれば欲しがるほどスイングは壊れていき、高校生相手でも前に打球が飛ばなくなっていった。一個下の代の目覚ましい伸びも焦りを助長させた。室蘭合宿を挟んで30打席連続無出塁という大記録を一人でそれもB戦で更新し続けていた。

辞めようと思った。

毎日、明日辞めようと思いながら帰り道の自転車を漕いでいた。
劇団サークルの団員募集ページをよく見ていた。

秋のリーグ戦が始まりある日の神宮からの帰り道、涼ちゃんと董平にだけ、すぐにでも辞めようと思っていることを伝えた。涼ちゃんは冗談か本気かわからないが、

「打球速度が140km/hを超えたら辞める時期先延ばしにしようや。」

と言った(当時僕は130km/hを超えるのも珍しいくらい貧弱なスイングをしていた)。

次の日の午後練でのバッティング練習、思いを打ち明けて軽くなった僕の体のキレは凄まじかったようで、打球速度145km/hを記録した。

野球の神様は本当にいるのかもしれないと思った。

微笑みながら「スイング強くなったな」と声をかけてくださった井手監督の顔を今でも覚えている。

  
ただ、当たり前だがB戦で本当に一本もヒットを打っていなかった自分は2年の秋フレッシュの1試合目でベンチを外れた。ベンチ裏で網岡(4年/内野手/六甲学院)木村(4年/外野手/開成)と雑用をしていた。

そこで目にした光景は人生最大の衝撃だった。
慶應義塾大学に打ちまくってコールド勝ちする自分の同期たちの躍動する姿をベンチ裏から覗き見て興奮し、心から尊敬し誇りに思った。そして初めての感情が芽生えた。

 
こんなにすごいみんなと一緒にいたい。
 

それ以降の日々、この感情が圧倒的に僕の真ん中になった。

辞めたいという感情はもう無かった。

 
進み続けるみんなと一緒にいるためには立ち止まってはいけない。
一緒にいるために進み続ける。十分な動機だった。
芽生えたのは、自分のためというよりみんなと一緒にいるために努力し続け、結果を出し続けようという確かな覚悟だった。

数日後の秋フレッシュ3試合目、ツーアウト満塁で2度打席が回ってきた。

 
2度三振した。屈辱的だった。ただ立ち止まる理由にはならなかった。

 
一緒にずっと練習していた谷保が二人目の学生コーチになった。
谷保の分まで頑張ろうと本気で思った。

それからの日々は上手くなるために毎日考えて試行錯誤し、それまで以上にバットを振った。年内最後のOP戦東農大戦でライト前を打った時にはただの練習試合ではありえないほど興奮して、気づいたらサインを見ずに盗塁してしまっていた。4か月ぶりの出塁と半年ぶりの盗塁死を記録した。谷保が喜んでくれたのが嬉しかった。

 
代が変わった。

大好きな先輩たちの多くはAチームにいたが、僕はBチームにいた。

鹿児島合宿のメンバーからも漏れて一瞬腐りかけることもあったが、ふらっと球場に来た峯さん(小高峯さん、R5卒)の「これ経験して上に立てたらでかいぞ」という浅そうで深そうな金言を胸に練習を続けた。

冬から春にかけて本当に毎日自主練で前投げをしあった菊地さん(R6卒)がAにあがっていった。そこからは必死だった。外部指導にも行ったし、球場にいる時間は二倍になった。
学コになった秀島さん(R6卒)、三宅さん(R6卒)とのコミュニケーションの中でAチームとの距離がどれくらいかも肌で感じられるようになっていた。
5月以降、ここで一本、次の試合でも一本、ヒットを打たない日が無い二ヶ月を過ごしたような気がする。自分の実力以上に打球が抜けていった。

 
Aチームに上がった。菊地さんと入れ替わりだったことだけが悲しかった。

 
夢の世界だった。
朝遅刻する恐怖を除けば、大好きな先輩と同じ目線でできる野球は僕にとってご褒美以外のなんでも無かった。遠軽合宿はもう朝から晩まで練習していたことに気づかないほど楽しかった。

バッティングの調子は下がらなかった。遠軽でのシートbtで松岡由機さん(R6卒)から芯で捉えたライトライナーを放ったのが良かったのか、A戦でちょこちょこ打席をもらえた。バスに乗ってアウェイのOP戦へ行くのも僕にとってはほとんど遠足だった。

満足してしまっていた。
大好きで憧れだったみんなと一緒にいる時間はそれまでの日々と比較してあまりにも幸せだった。

あの頃のA戦で数本ヒットを打てていれば左の代打でベンチ入りすることもあったかもしれない。しかし愚かな僕は満足してしまっていた。
進み続けることが彼らと一緒にいられる唯一の方法だということを忘れかけていた。

応援席ではせりょうさん(R6卒)と菊地さんと大声を出すのが楽しかった。
秋季リーグ戦法政戦で勝ったときは、大好きなゆうきさんが投げ抜き、開智(4年/内野手/開成)真之介(4年/内野手/小山台)も輝いていて、邪念なく勝利の光景の美しさに泣いた。ただひとつを歌いながら泣いた。自分が勝利に何も貢献していないことがその綺麗な景色を濁らせるようなことは全く無かった。

 
代が変わった。
ゆうきさんや三田村さん(R6卒)達が期待の言葉をかけて引退していった。

「やってやる。」

そう思い高いモチベーションで練習に励んだ。
捷の助言もあって自信の無かったボールの質も上がり、守備もそこそこ通用する。
あとはバッティングだと思った。

おいどんカップの1打席目から継続的にヒットが出ていた。
捷の怪我もあり、春のオープン戦ではライトの一枚目になる瞬間もあった。
苦しいチーム状況で俺がやってやると強く思っていた。
3月末のOP戦で人生初めての柵越えホームランを放った時はスタメンもあるんじゃないかとさえ思った。自分の実力以上に打球が抜けていった。

でも出番は来なかった。
 

2度の空き週のOP戦に全てを懸けた。そこで2度ともヒットを打った。

でも出番は来なかった。

中山も怪我で離脱して、外野手が4人しかベンチにいない状況さえあった。

でも、出番は来なかった。

 
ベンチに入ることすらなかった。

 
正直絶望した。自分を使いたくない理由を探しているんじゃないかと思う瞬間もあった。間違った考えだった。勝つためのピースとして実力が足りていないだけだった。

腐りかけていた時、寮のロビーで開智が僕に一つの言葉をくれた。

「報われるまでが努力」

日本語の下手な開智がそんなベストマッチな言葉をくれるとは微塵も思っていなかったので面食らいその場で泣きそうになった。急いで部屋に帰りタオルで目を拭った。

もう一度だけ頑張ろうと思った。

リーグ戦後の実戦機会でもどうにかヒットを積み重ねた。

双青戦の遠征メンバー入りを目標にやっていたが、積み重ねたヒットのおかげか6番レフトでスタメンだった。千載一遇のチャンスだった。菊地さんにすぐに報告した。

ここしかない、そう思い無意識に無理をしていたのか、当日の試合開始時点では完全に熱中症になっていた。それでも巡ってきた打席でいつも通りのポテンヒットをセカンドの後ろに落とし、先制、そして結果的には決勝点となる1点目のランナーとなった。太陽(4年/投手/国立)大智(4年/投手/駒場東邦)の好投があり、完封勝ちを収める最後のレフトフライを掴んだ時には両足が攣りかけていた。
嬉しかった、たまらなく。公式戦ユニを着て、たまたまでもチームの役に立ち自分の学年が中心となって試合に勝った経験は自分にとって本当に大きかった。
 

ただ、インパクトには欠けた。

リーグ戦で活躍するのは練習試合で詰まった単打を重ねる選手でなくスケール感のある選手だということには自分でも薄々気付いていた。

そこからは長打を求めてスイングを崩し、元に戻しての繰り返しで今に至る。
  
 

秋のリーグ戦のベンチから外れ、出場はおろか、ベンチに入る可能性もほとんどない、それでも僕が夜、室内球場へ向かうのをやめないのはきっと、自分が努力を続けることが、上を向き進み続けるみんなと一緒にいられる大義名分に他ならないからだ。

もちろんいろんな高校の友達や大好きな東大野球部の先輩たちや家族、バイト先の小学生たちにだって、ましてや一番苦しい時に支えてくれた人に、神宮でプレーする姿を見せたい、という身の丈に合わない願望はあるけれど、

一番は、大好きな同期、後輩たちと一緒に練習して、ばかな話をして、ご飯を食べて、笑って、お風呂で大声で歌って、そんなかけがえのない時間を失わないために、ぼくは今日も夜、室内球場に行く。この最高のエゴを僕は最後まで守り抜く。
入部した時の僕は惨めだと思うだろうか、

今の僕はそうは思わない。

最後の最後までもがき続ける権利を自分で勝ち得たのだから。

無様に最後までもがきつづけても日の目を見なくても、君はきっとみんなに囲まれている。それはきっと他の何をしても手に入らなかった本当の仲間だ。

 
 
これが入部を決めた日の僕に宛てて書くメッセージ。
 
 
応援部の皆さんへ、

自分のことのように他人の幸せを喜べるみなさんは世界一幸せになれると思います。

本当にありがとう。
  
後輩各位へ、

苦しい時の方が多いかもしれないけど、もがいている時間のほうが長いかもしれないけど、自分のエゴを大切にしてください。それはフルスイングする姿勢かもしれないし、オフにみんなで出かける時間かもしれない。自分の大切にしたいものを大切にできる人たちであってください。そんなみんなを応援し続けます。
 
 
同期へ、

一緒にいてくれてありがとう。自分も含めて自分に矢印が向く人の多い代だったけど苦しさを押し付け合わず、楽しさを分かち合えるみんなと過ごせた時間がかけがえのない宝物です。董平、ライブいっぱい行こな。開智、授業いっぱい行こな。
まだまだ、勝てるだけ勝って屋上飲みしよう。
 
 
 
最後に家族各位に宛てて、

直近の一年間は家族と会うときは普段よりボケが少なく、ほとんど表情筋を動かさず、むすっとしていたと思います。ごめんなさい。

いつものように自然に喜怒哀楽を出していると涙が溢れて止まらなくなりそうだったので可能な限り機械化した対応をするよう努めていました。

たぶんこれからはめちゃくちゃ笑います。
  

長文読んでいただきありがとうございました。
 
 
 

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次回は10月15日(火)、谷保梓樹学生コーチを予定しております。