フリーパス付きプレミアムパス 2024年度版 販売中!
BIG6 BLOG LEAGUE

東京大学
野球部ブログ

主将 藤田 峻也
  • TOP
  • 『僕の野球人生』vol.23 間島 悠斗 学生コーチ

『僕の野球人生』vol.23 間島 悠斗 学生コーチ

4年生特集、『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

——————————————–

「僕の野球人生」vol.23 間島 悠斗 学生コーチ(4年/八王子東)

僕の野球人生間島 2 3

『誰のために野球をやっているんだ。野球をやるのは自分なんだよ』
中学時代の監督に言われて一番印象に残っている言葉です。中学時代はそれはそうだ、と純粋に思っていました。

私が野球を始めたのは小3の頃で、そろそろ何かスポーツをやらせようという親からの勧めでサッカー、野球、バスケを回りました。その中で唯一注意されることがなく楽しくできた、野球を選びました。最初の頃は楽しく先輩たちにも優しく接してもらい小5の頃にはヒットもたくさん打ちとても楽しかったです。小学校6年生になりバットをあまり振らなくなりチームもあまり勝てなくなりました。プレーをしていてもコーチ陣に怒られないように野球をしていました。この頃からあまり野球が楽しくなくなっていきました。それでも私はみんなが行くからと中学からは硬式野球を始めました。
シニアに入ると今までとは違う練習の強度に驚きました。朝集合すると全員で一周400m弱ほどのグラウンドを10か15か20周してから練習開始。5月から10月までは砂を詰めた500mlのペットボトルを両手に持ち、腰には砂を入れた自転車のタイヤのチューブを巻いて朝イチからグラウンドを走る。同級生たちとは真逆で土日が憂鬱で月曜日が一番楽しみでした。自分は小学校時代からランニングはしていたので、この15周走では1年生の頃から先頭集団についていくことができました。そういったところやグラウンドでの元気を買ってもらい新チームでは1年生の頃から10番をつけさせてもらうこともありました。しかしプレーはからっきしでシートノックっでは1周目からエラーをし外され横で声出し、バッティング練習ではひたすら球拾い。家に帰り、練習どうだったという親からの言葉にいつも言葉が詰まっていたのを覚えています。お金を出してもらって、毎週こんなことをしていることが申し訳なくて仕方ありませんでした。そんなある時父から、『金を出してもらい、お茶当番や審判まで親にやってもらってそれに報いる気持ちはないのか。なぜもっと努力をしないんだ』と厳しい言葉をかけられました。その瞬間私は泣きながら野球をすることが辛いことを伝えました。父からは後1ヶ月頑張ってそれでも辛ければその時はやめようと言ってもらいました。弱音を吐けたせいかそれからは心がかなり軽くなりました。野球を本気で辞めたいと思ったのはこれが最初で最後でした。そして自分の代になりましたが、秋は後輩たちが試合に出て自分は3塁コーチャーでした。多少は上手くなりましたが、まだ足りませんでした。それでも試合に出たかったのでバットを振り続け紆余曲折あり、最後の大会では1番レフトとしてヒットを打つことができ、チームは負けましたが最後に親にいいところを見せられたかなと思います。
高校は軟式しかなかったのは知っていましたが姉に学力で負けるのが耐えられなかったので姉と同じ八王子東高校を選びました。硬式でやっていたこともあり1年生の早い時期からレギュラーとして試合に出してもらいました。1年生の時期には先輩におんぶに抱っこでたくさん迷惑をかけました。冬が過ぎ迎えた春大会では自分のエラーをきっかけに失点をしました。9回裏に自分の出塁から鶴巻のヒットでなんとか同点にしましたが、延長戦の末に敗れました。これを転機に先輩に頼らず自分自身をもっと練習から追い込まないといけないと考えるようになりました。先輩が引退し自分の代になって私は満場一致で主将に任命してもらいました。同期とたくさんぶつかりましたが、練習からかなり厳しく取り組み、秋大会で都ベスト8までいくことができました。コロナで最後の大会は無くなりましたが高校時代はとにかく野球が楽しく高校のメンバーでずっとやりたいと思うくらいには野球部が好きでした。コロナ禍に入り勉強しながら自分は大学どこに行くのだろうとぼんやり考え、なんとなく数学が得意だったので東工大に行こうかなど考えていました。この時は東大など雲の上だと思い東工大なら頑張ればいけるかと甘く考えていました。3年生の7月になり担任や顧問に強く勧められ最後に志望校下げれば良いやと思い、とりあえず1番上の大学を目指すことにしました。そこから運や周りの支えや顧問の先生の力もあり東京大学に合格することができました。
入学後高校でなんとなくやれて自信があったことと東大の野球部を舐めていたことと顧問の先生や中学時代のコーチの後押しもあり入部を決断しました。
しかしそこは自分が思うほど甘い環境ではありませんでした。守備にそれなりに自信がありましたが、ノックを受けている内野手は全員自分より上手く初日から絶望した記憶があります。1年生の夏前から自分は1秋のフレッシュを諦め来年の春フレで出ることを目標にしていました。目標が低かったこともあり1年生の間は特に何かをできたという記憶はありません。この頃自分の実力に勝手に見切りをつけて1秋のフレッシュを目指さなかったことはかなり後悔しています。残されているシーズンは限られているのに目の前の1シーズンを諦めるということがいかにもったいないかをこの頃はわかっていませんでした。1年生の冬には小松庵に入り自主練の量が増えました。人に練習しているところを見られるのが嫌だったので、誰もいない22時から23時くらいを狙って一人でバットを振りました。その甲斐あってか2年生になるタイミングでの上智大学戦で2安打を打ちこれならフレッシュでの出場も狙えると思っていましたが、そこで油断をし夜室内に行く数も減っていきベンチを争っていたはずの同期たちとどんどん差が開いていきました。2年の春は自分がチームにいないような感じで時間が過ぎていきました。この頃からプレイヤーとしてやって惨めな思いばかりをするなら選手を辞めて普通の大学生になろうかと思うようになりました。唯一の心残りはここまで野球をやらせてもらい、期待もしてくれていた親や祖父に神宮でプレーをしている姿を見せられないことでした。そして2春が終わったタイミングで門池(4年/学生コーチ/都立富士)が学生コーチになりました。当時グラウンドに一番長くいたと言っても過言ではないくらい自主練をして、結果を出していた門池が手を挙げたのは驚きでした。夏になりコロナ持ちが内緒で飲み会に来たことによって、濃厚接触者になり夏合宿は不参加になりました。この時期少し野球から離れ、目標とそこへのモチベーションがクリアになりました。なんとしてでも親に神宮でプレーしているところを見せる。そこまでやれたら学生コーチにでもなろう、その一心でまた自主練習の時間を増やしていきました。春とは違い目の前の結果に一喜一憂せず自分がやるべきことをこなしていきました。その甲斐あってか実践でもらった打席では結果を出していけました。しかし秋のフレッシュ初戦はベンチ外でした。みんなが慶應にコールド勝ちしているのをボールボーイの位置から眺め、その後の明治戦は芳野(4年/外野手/西大和学園)網岡(4年/内野手/六甲学院)とベンチ裏で俺らはここで何をしているんだと唇をかみしめていました。それでも法政戦では2枚目が中心の試合となり、スタメンで出ることができました。なんとか当初の目標は達成することができました。僕はこれでも満足だったので、親に選手を辞めて学生コーチをやろうと思っていることを伝えました。この時は最後まで試合に出られなくても選手としてやって欲しいと言われました。決断していたはずが心が揺れうごき、結局学生コーチになることをチームには言い出せませんでした。僕が勇気を出せずずるずると結論を先延ばしにしている間に谷保(4年/学生コーチ/屋代)が学生コーチとして手をあげてくれました。感謝やら申し訳ない気持ちやらで胸がいっぱいでした。それでも私は自分勝手に選手を続ける道を選んだのだからもう一度ちゃんとやろうと闘志に火がつきました。留年していたこともあって全体練でのトレーニングには全て参加し、体づくりからやり直しました。2年の冬を超えて体重も5kgほど増加しました。鹿児島合宿に行きその最後のAの2枚目の試合に帯同し、1打席もらえました。結果はセンターフライでしたが内容はよくまだ自分もやれるここからのオープン戦で結果を出してAチームに上がってやる。そう意気込んで東京に帰ってきての練習初日背中に違和感を感じバットを振れなくなっていきました。それでも周りに遅れをとりたくなかったので試合には出続けました。そんな状態で当然結果は出るはずもなく、結局Bチームさらに怪我で1ヶ月ほどまともに練習ができませんでした。僕の闘志はここで燃えカスになりました。復帰してからその燃えカスに一生懸命火をつけようと夜の練習を再開しました。そこには秋のフレッシュで一緒にベンチ裏で燻っていた芳野と網岡の姿がありました。僕が来る前から打って僕が打ち終わってもまだ二人は打ち続ける。さらに僕よりも足繁くグラウンドに通っている。そんな二人が結果を出すのは必然でした。二人は結果を出し続けAチームに上がり遠軽合宿行きを決めました。努力が報われあの二人が試合でヒットを打つのを見るのは他人のことなのにとても嬉しかったです。しかし他人のことだから嬉しくないという気持ちもありました。いつの間にか同期や後輩たちの活躍を喜べなくなっていました。それどころか自分と同じような境遇の人たちが凡退したり、ミスをすると安心してしまっていました。そんな気持ちには気づかないように、そんなことは思わないように頑張っていましたが僕の理性とは裏腹にそんな感情ばかり浮かんできてしまっていました。彼らの頑張りを間近で見て応援したいのにそんなことを思ってしまう自分が本当に嫌いで、醜くて最低で。自分のそんな醜い部分を感じるのが非常に辛かったです。
今でも当時の同期たちにそんなことを思ってしまっていたことを申し訳なく思います。頑張っている彼らを全力で応援したいと思い、学生コーチになることを決断しました。そのことを親に告げるために両親とドライブをしにいきました。また反対されるのかななんて考え、そこへの反論も用意していましたが、親は決断したことなら応援する。長い間お疲れ様と言ってもらいました。涙で前が見えなくなりそうでしたが運転中だったので我慢しました。プレイヤーとしての野球人生はここまでです。大人たちの目を気にしながら野球をしていた小学生から中学生にかけて、自分が楽しくてやっていた高校時代、親の期待に応えたくてやっていた大学時代。大人の目を気にするという意味では最初と最後は同じなのかもしれませんが中身は全く違い、大学時代は充実していて楽しかったです。野球と出会えてよかったです。

初めに学生コーチになった門池、彼のおかげで僕は後悔なくプレイヤーを終えることができました。その後僕よりも早く覚悟を決め支えてくれた谷保。誰よりもプレッシャーを感じていただろうし周りの目も気になるだろうにそれでも覚悟を決めた大巻(4年/学生コーチ/花巻東)。ラスト1年この4人でやれてよかったです。ふざけすぎることもありつつ毎日がとても楽しかったです。ありがとうございました。

ユーゴ(2年/内野手/浅野)春山(2年/内野手/昭和学院秀英)コーイチろー(2年/外野手/県立千葉)大坂(2年/外野手/金沢泉丘)を初めとする後輩たちへ
あなた達とプレイヤーとして関われた時間は少なかったですが一緒にできて楽しかったです。いろんなことを言ってくる人達の言葉に悩まされることもあるとは思いますが、そんな人達は結果で黙らせてあげてください。あなた達ならできると私は信じています。来年の神宮で暴れ回ってくれることを楽しみに待っています。

僕の野球人生に関わってくださったすべての方々へ
何か一つでもかけていたらここまで野球をやっていたかもわからないし東京大学にいたかも分かりません。皆さんと関われたからここまで続けられたしここまで野球を好きになれました。中学の同期やコーチ監督、高校時代のチームメイト、加藤先生、ここに書ききれないほどのたくさんの方々本当にありがとうございました。

両親へ
ここまで様々なサポートありがとうございました。喧嘩した次の日からしばらく出てきた白米の二段弁当も今ではいい思い出です。辛く辞めたくなったり落ち込んだりした時に僕を動かす原動力でした。野球を通していろんな感情や人、ものに出会うことができました。その全てが僕には欠かせないものです。そんな財産と巡り逢わせていただき本当にありがとうございました。

最後になりますが東京大学野球部を応援していただいている皆様、いつもありがとうございます。選手一同皆様の声援に応えられるよう全員で戦います。秋リーグが終わる頃には東大野球部を応援してよかったと言ってもらえるような結果を残す予定です。ラスト1カード引き続きよろしくお願いします。

拙い文章でしたが最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

——————————————–

次回は10月18日(金)、角能紳吾マネージャーを予定しております。