『僕の野球人生』第5回 古賀拓矢投手
『僕の野球人生』第5回
ここで野球を辞めようと思ったタイミングが何度かありましたが、結局はなぜか野球を続けてしまいます。身長も身体能力もかなり低い自分ですが、一応10年間野球を続けてきました。
父の影響で野球というスポーツを好きになったと思います。生まれた時から当たり前のように夜はカープ中継が流れていて、父と兄とゴムボールで野球をしていました。当時はカープがそれはそれは弱くて、そんなカープが嫌いで父の地元のソフトバンクを応援していました。当時のソフトバンクは大エース斉藤和巳がいて、新垣渚がいて、和田毅(現福岡ソフトバンクホークス)がいて、杉内俊哉がいて、個性のある選手のそろった投手王国でした。自分は左投なこともあって和田毅、杉内俊哉にとても憧れていました。小学校では野球をするのかなあとなんとなく考えていました。
しかしなぜか体験に行ったときのお菓子につられて小学校では剣道をしてしまいました。正直剣道は大嫌いでした。右足が必ず前という意味不明な足の動作制限があり、奇声を発さないとポイントが入らないよくわからないスポーツがあまりに面白くなく、しかも稽古がきつい上に大会に行ったらヤンキーみたいなやつにぼこぼこに負けるのがかなり不愉快でした。礼に始まり云々とか言う競技なのに大会に行ったらキティちゃんサンダルのヤンキーが大量発生したり、保護者がアディダスジャージでヤ〇ザみたいな見た目をしている時点でどうなんだよと今でもたまに思いますが、とにかくまあかなり嫌いでした。一度本気で辞めようと思い、母親に告げましたがそこで母親が異性親の涙という反則技を繰り出してきてやめられませんでした。野球は大好きでしたが、このようなことがあって小学校では野球をしませんでした。
満を持して修道学園に入学し、野球部に入りました。中学野球は結構楽しくて、同期が30人いながらもなんとかベンチ入りを果たし、最後の夏はファーストのレギュラーとして起用してもらってそれなりに満足して中学野球を終えました。中学野球はかなり平和で、詳述するほどでもないことばかりでした。
中3の冬に高校野球班の説明会が行われ、頭を丸めて入班届を出しました。30人いた同期は14人になりました。顧問は山口生まれの物理教師で、怒ると博多弁が出たり、選手に署名を集められて辞職を迫られたり、球場外の墓場にノックを打ち込んだり、毎週山口遠征の予定を入れてきて実は帰省したいだけなんじゃないかと疑われたりとかなりロックな人物で、身を挺して自分たちに世に出てからの理不尽と怒りを収めることの大切さを教えてくれました。あまり楽しくはなかった3年間でしたが、偉大な先輩方に出会い、ウェイトで体はどんどん大きくなっていき、そして山口の地理に詳しくなりました。一応投手として登録はしていましたが怪我で実質3年間ほとんどを野手として過ごしたため投げた記憶よりも打った記憶のほうが鮮明に覚えています。最後の夏は1番レフトで出場し、塁上で終戦を迎えました。その時は悔しさと解放された喜びとで少し複雑な気分でしたが泣くほどではありませんでした。
今となっては、同期と強い修道を作りたいと意気込んで入部したのに、色々あって最後のほうは部活が早く終わることを望むようになってしまっていたことを後悔しています。不愉快な大人に対して、未熟な自分は本質を見極めて大人の対応をできませんでした。一丸となり、対戦相手に勝つために努力するという本質を極めて同期と勝ち進みたかったと今でも思います。
さて、高校野球が終わった自分は1か月ほど解放感に浸った後に受験勉強を始めました。自分が中学3年生の時に兄が東京大学に進学したこともあり、次男として負けられない自分はもともと中2から東大志望でした。順風満帆ではなかったですがなんとか入試を乗り切り、東京大学に合格しました。
東京への強いあこがれと新生活への期待感を持って上京した自分に待っていたのは絶望の三鷹寮でした。隣のインド人が週末に夜通しパーティーを開催していてうるさかったり、自然が豊か過ぎてゴキブリとそれを食らうアシダカグモが自分の部屋に生息していて小さな食物連鎖を見れたりする変な場所でしたが、自分にとって一番の問題はキャンパスからの遠さでした。駒場なら45分、本郷ならば1時間以上かかり、その上寮から最寄り駅まで自転車で20分かかるその立地は自分をかなり絶望させました。もともとは硬式野球部も体験練習くらいは行ってみる予定でしたが、遠すぎたことと、当時のマネージャーの方にテント列で二刀流は不可であることを告げられ断念しました。
もともと自分は大学で野球をしようという強い意志はなく、東京で遊び暮らすのも悪くないかなあと考えていました。実際にサークルの新歓などにも行ってみました。しかしそれらに行く中で自分が本当にしたかったのは男子校の体育であって、男女で楽しくスポーツをしようという概念が理解できないことに気がつきました。そしてサークルの新歓でちょっと頑張ってる先輩にいきなり下の名前で呼ばれたことが決め手となってサークルをあきらめました。そんなときにツイッターのDMで準硬式野球部の方に声をかけていただきました。
準硬の体験に行ったとき、そのレベルの高さと本気度に惹かれ、練習場所が駒場であることもあって入部を決めました。準硬は本当に温かい場所でした。早いうちから試合に出していただき、たくさんご飯に連れて行っていただきました。大好きなバッティングもできて、投手もできて、久しぶりに野球が楽しいと思うことができました。しかし野球が楽しいと思い始めた自分はより上を目指したいと思うようになりました。言い方は悪いですが、せっかく東大で、神宮で野球ができる環境にあってそれから逃げることは後悔を残すのではないかと考え始めました。距離を理由に体験練習すら行かなかった自分は逃げているのではないかと考えることが増えました。そして2年生の秋の段階で転部することを決めました。
入部年度で学年が決まるため同級生と同級生ではないという微妙な環境でしたがともかく硬式野球部に所属することになりました。そこからはあっという間でした。硬式野球部ではプライベートで遊んだり飲んだりすることがあまりなく、思い出といえば野球の記憶がほとんどです。その中でも自分が頑張ったこと、好投したことはぼんやりとしか覚えていなくて、ありありと目に浮かぶのはリーグ戦でぼこぼこにされた記憶です。初めてあんなに大勢の観客の前で投げられたことはとても嬉しかったものの、結果を残せなかったことはとても悔しくて、球場から出る時にプロの試合のために早めに来ていたカープファンに拍手されたときは久しぶりに少し泣きそうでした。
それを乗り越えるために頑張ってきたつもりでしたがコロナや怪我が重なって夏のOP戦でまったく調子があがりませんでした。そして今に至ります。
主役とは程遠い野球人生でした。エースになったことは一度もなく、チームの顔になったこともなく、平凡以下の野球選手だと思います。それでも投手として野球をやっている限り自分が一番でないと許せないという気持ちは誰もが持っていてしかるべきだと思います。お山の大将になりたくて投手になりました。自分はその気持ちがとても大きくて、これまで成してきたことの少なさにまだ折り合いをつけることができていません。大学4年生の秋になった今そろそろ折り合いをつけないといけないのはわかっていますが、もう少し夢を見ようと思います。来るべき時が来た時に何かを残せるように最大限の準備をして待ちます。
これまでお世話になった方々に最大限の感謝を述べたいです。
高校野球班同期へ
中学から一緒に野球をやってきた仲間と高校でも野球をすることができる環境はかけがえのないものだったと大学生になってから気づきました。一緒に野球をしてくれてありがとう。特に烏田、初心者だった自分に左投手のほぼ全てを教えてくれてありがとう。今でもプレートの踏み方や牽制の方法は教えてもらったままです。またいつか同期で野球しましょう。
準硬同期へ
最初に入部した自分が途中退部して本当にごめんなさい。転部した後も結果を気にしてくれて、投げたらLINEをくれて本当にありがとう。とても頼りになる選手で、マネージャーで、一緒に野球ができて嬉しかったです。
お世話になった医療関係者の方々へ
たくさんの先生や理学療法士の方にお世話になりました。特にB&Jクリニックでは洞口先生にたくさん注射をうっていただきました。先生の注射が一番よく効きました。それまでは医者にかかって症状が良くなったことが無くてあまり野球専門の医者を信用していなかったのですが、プロチームのお医者様というのはすごいなと思いました。
両親へ
感謝の表現はどれも他人行儀な雰囲気を漂わせるので肉親に使うのは苦手です。そのうえで両親に伝えたいことは自分の野球人生が概して楽しかったということと、今のところ人生の幸福度がかなり高いことです。これからもどうぞよろしくお願いします。
他にもお世話になったたくさんの方々に、個別に感謝をお伝えしたいと思います。
この秋で学生野球からは引退しますが、もう少し硬式野球にこだわってみようかなと、少し考えています。いずれにせよ、見るのはつまらないですがこんなにするのが魅力的な競技に出会えて幸せでした。これからも東大野球部を応援しています。
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次回は9/20(火)、小髙峯投手を予定しております。
お楽しみに!