『僕の野球人生』第7回 齊藤祐太郎投手
『僕の野球人生』第7回
齊藤 祐太郎 投手 (4年/筑波大附)
長くなってしまいました。お手隙の際にご一読いただけると幸いです。
1番最初に好きになったスポーツはサッカーでした。決して上手ではありませんでしたが、当時は周りより身体が大きかったこともあり、強靭なフィジカルを持つセンターバックとして活躍していたような気がします。この頃は野球チームには所属していませんでした。野球好きな父親にキャッチボールに誘われて、「しょうがないなぁ…」とよく公園に行っていたのを覚えています。ただ、父親はどうしても野球をやらせたかったようで、息子に漫画MAJORを買い与えました。左投げに転向し数ヶ月余りで投げた球でプールサイドの壁を壊すような超絶天才野球少年吾郎に憧れた僕は、父親の作戦にまんまとハマり、サッカーチームを退団し、野球チームに入団し、僕の野球人生が始まりました。今となっては、僕に野球を始めさせてくれた父親には心から感謝しています。
入団した少年野球チームは、練習は日曜日のみで決して強くはない、というか大会も一回戦敗退が常の弱小チームでした。野球を始めてたちまち本田(茂野)吾郎に憧れる野球大好き少年になった僕は、練習がある日曜日に飽き足らず、学校から帰宅するとランドセルを玄関に放り出し、近所の公園で友達と暗くなるまでボールを投げ、バットを振りました。それも、優しい地域のおじさんコーチたちに指導を受けて、「野球は楽しいものだ」ということを知ることができたからだと思っています。感謝しています。
小学生の僕は勉強も出来たため、コーチに「祐太郎は東大に行って野球するんだぞ」と言われたことをかすかに覚えています。当時は、東大って頭いい大学でしょ、そこで野球をするってどういうこと?程度の認識でしたが、今思えば東大野球部に入部することになったのはその一言がきっかけだったかもしれません。そんなこともあり、僕の今の背番号23は、少年野球チームに入って初めて貰った思い入れのある数字を、新チームが始まるタイミングで選びました。
本当に楽しく野球をした小学生時代でしたが、この頃から変化球好きの投手だった僕が、右肘の怪我とお付き合いを始めたのもこの頃でした。
中学校に進み、学校の軟式野球部に入部しました。肘の怪我とチーム事情が相まって、捕手としてプレーしました。2年生の頃から試合に出していただき、公式戦で勝ったりもしていた記憶があります。ただ、監督がグラウンドに現れた途端に皆がきびきびと動き出すようなチームで、僕自身も野球に真剣に取り組んだ、というような3年間ではなかったように思います。とはいえ最後の大会で敗退した瞬間は落ち込みましたし、この借りは硬式野球で返してやるぞと意気込んでもいました。
中学生の僕も右肘の怪我とは順調にお付き合いしており、キャッチボールで遠投をするたびに、右肘に電気が走るような痛みを感じていたことだけは覚えています。
高校に上がり、硬式野球部に所属しました。僕のいた高校の野球部は、監督を野球部OBの大学生が務める習慣があります。そのおかげか監督と選手との距離が近く、選手が主体性を持って練習に取り組む部活でした。丁度現在の東大野球部のようなイメージです。朝練をした後に眠い目を擦りながら授業を受け、授業が終わればグラウンドに走って移動して、限られた時間の中で精一杯練習に励みました。が、悔しい思いをし続けた3年間となりました。
高校1年、夏の大会で3年生に代わる代打として出場し最後の打者となりました。試合後のミーティングでその3年生が泣きながら話しているのを見て、大変なことをしたと思いました。高校2年、捕手として出場した最後の大会でパスボールを2つして、チームは負けました。自分が先輩の夏を終わらせたと、人生で1番泣きました。帰りの電車での、小髙峯先輩(現在はなぜか同期)(4年/投手)の「お前は来年頑張れよ(肩をポンポン)」という言葉を胸に、最終学年でのリベンジを誓いました。高校3年、背番号1をつけて出場した神宮第2球場での夏の大会初戦は、僕が強豪校に打ち込まれてコールド負けを喫しました。
このままでは野球人生を終われないと、大学で野球を続けることを決めました。高校の先輩である遠藤さん(H12卒→北海道日本ハムファイターズ)や澁谷さん(R3卒)、和気さん(R3卒)などの影響もあり、神宮球場での強豪高校出身者との対戦を夢見て、1年間の浪人を経て東大野球部に入部しました。
念願の東大野球部に入部したのも束の間、高校2年生の終わり頃完治したかに思えた右肘の怪我が、浪人あがりの僕と再びお付き合いを始めました。キャッチボールを30球ほどしたかと思えば、1週間のノースロー調整。試合で投げることはおろか、ブルペンで投球することも満足にできないまま、大学1年生の1年間は過ぎていきました。オープン戦やフレッシュリーグで登板する同期を羨望の眼差しで見つめながら、東大球場の端で体幹トレーニングに励みました。試合に出ることができず悔しくて、毎晩ぐっすり眠る日々が続きました。
大学2年生の1年間は、SNS等から身体や投球動作についての知識を蓄え、いつまでたっても怪我を治す事ができない自身を見つめ直すことのできた期間でした。この頃から、投球前のウォーミングアップと投球後のクールダウンにかける時間が長くなっていきました。入念なアップとダウンの習慣のお陰か、少しずつ痛みなく投球する事が可能になり、秋のフレッシュリーグで神宮球場での登板を叶える事ができました。来年こそはリーグ戦に出てやるぞ、と意気込んで3年生になりました。
怪我も完治した大学3年生の1年間はそれまでの2年間とは違い、試合でのアピールを続けました。翌日の試合で結果を残さなければと、緊張でなかなか寝付けない夜も多くなりました。しかし思い通りにはならず、春のリーグ戦64連敗を止める瞬間も、秋の勝利の瞬間も、スタンドで迎えました。もちろん嬉しかったです。勝利の瞬間には自然と座席から立ち上がり、グラウンドにいる選手と同じようにガッツポーズをしていました。他大学の分析などを通じて「ほんの少しだけでもこの勝利に貢献できた」という思いを上回る、「グラウンドでこの瞬間を味わいたい」という悔しさを抱えて、最上級生になりました。
なんとしてでも結果を出すぞと臨んだ今年、なんとか春のリーグ戦のベンチに入る事ができ、初登板を果たしました。マウンド上であれほど足に力が入らない感覚は初めてでした。それから今日まで、光のように時間が過ぎていきました。チームは勝ち点獲得と最下位脱出を目指しています。何とか貢献したいです。
高校2年生の冬、先輩の遠藤さんが高校の野球部に対して講演にいらっしゃいました。そこで、「君たちは野球を今すぐやめても良い。それでも、高校3年間という貴重な時間を割いてまで野球をやっている。」というお言葉をいただきました。当時はどういう意味かピンと来ませんでした。現在福岡ソフトバンクホークスでアナリストとして活躍されている齋藤周さん(R4卒)が、どこかのインタビューで「人は不要不急のことにこそ熱狂する」という内容のことをおっしゃっていました。
就職活動をきっかけに自己分析をしてみたり、野球人生の終わりが近づいてこのような文章を書いたりしているうちに思ったのは、人は「別にやらなくていいことに真剣に取り組む」ことにこそやりがいや楽しさを見出すのかな、ということです。よく考えれば当然のことかもしれません。何十連敗もする野球部で野球をすることも、はたから見るとやらなくてもいいことかもしれません。やらなくてもいいからこそ、どうせなら真剣に。その中で感じる不安や緊張、悔しさは普通であれば経験できないものです。
東大野球部は本当にいい環境でした。都内では珍しい人工芝の綺麗な球場で、似ているようで似ていない面白い人達と同じ時間を過ごす事ができます。目指す先には、神宮球場で大勢の観客と応援部の声援を味方に、他大学のスター達と対戦し、打ち破ることのできる可能性があります。その可能性を信じて、野球という“別にやらなくてもいいもの”に真剣に打ち込んだ大学での4年間は、後に振り返っても何にも代え難いものになっているでしょう。今後の人生で、野球に代わる“やらなくてもいいこと”を見つける事ができるのかどうか、楽しみです。何だかそれっぽいことを述べたところで、僕の僕の野球人生を終えたいと思います。
最後に、僕の野球人生は学生人生と共に一旦終わりますが、これまで学生として何不自由なく生きる事ができたのは他でもない両親のおかげです。将来自分に子供ができたときにも、同じようにしてあげたいと思います。野球人生最後の今年は元気に登板する姿を見せる事で、そして来年以降は社会人として何らかの形で、少しずつ親孝行する所存です。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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次回は9/22(木)、綱嶋投手を予定しております。
お楽しみに!