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『僕の野球人生』第21回 伊藤和人外野手

『僕の野球人生』第21回

伊藤 和人 外野手 (4年/城北)

表紙2枚目3枚目

「何事も全力で」

16年間の野球人生でそれだけは貫き通してきました。

 

小学1年生の時、兄が入っている少年野球チームに入りました。

たいした記憶はありませんが、一つだけはっきりと覚えているのは、6年生の時、それまでずっと守っていたサードからセンターにコンバートしようとコーチに提案されたことです。

サードは1つ下のうまい子が守ることになり、自分はサードをクビにされたと思い、大泣きしました。当時のコーチには本当にご迷惑をおかけしました(笑)

こんなこともありましたが、いい仲間とも巡り合い、野球自体は楽しかったです。

 

紆余曲折あり、野球がある程度強くて頭もいい学校に行きたいと自ら志願し、城北学園に入学しました。

中学野球部では『勝てば官軍、負ければ賊軍』、『返事は「はい」か「YES」だ』を冗談と本気の境目で言ってくる顧問たちの指導の下、愚直な自分はそのすべてを真に受け、様々な理不尽に全力で取り組みました。

三塁側の打球はファウルでもすべて飛び込み、バントの構えをされたらホームまで全力で走る、そして誰よりも声を出す。正直守備は上手いわけではなく、加えて常に下位打線でしたが、その全力さを買われ、サードを守り続けていました。

自分たちの代からは主将を務めました。

やんちゃなやつが多い代で、顧問に従う“優等生“な自分と衝突することも何度もありました。身体的にも精神的にもきつい思い出ばかりで二度と戻りたくありませんが、色んなことを学ぶことができ、当時の顧問や同期には本当に感謝しています。

 

当時、野球だけでなく勉強も全力少年でした。

顧問に冗談で言われた「試験前は1週間で50時間自主勉強をしろ」というのを本気にしていたら、みるみる成績が伸びていきました。

やがて顧問に「おまえも有坂(さん。(H31卒))を目指して東大で野球するよな?」と言われ、東大で野球をするという目標が生まれました。

正直その時は六大学野球なんて知りませんでしたが、東大っていう1番頭のいい大学で自分の好きな野球に全力で取り組めるなんて超かっこいいなと思い、とりあえず東大を目指す決意をしました。

 

高校に入り、当然のように硬式野球部に入りました。高校の野球部は自主性を重んじる指導方針だったため、ただただ好きな野球に時間の許す限り夢中で取り組んでいました。

中高一貫校のため、中学時代の主将が高校でも主将になることが多かったです。

自分たちの代になり、自分もそうなるだろうと思っていました。

しかし、話し合いの結果自分は副将に。

みんなとあまり衝突せず、信頼の厚いエースが主将になりました。

この出来事は自分を見つめなおすいい機会でした。

口論の中で放たれた「おまえは自分が満足するために主将をやりたいだけで、チームのことなんて何も考えられてない」という言葉は、当時は否定しながらも深く胸の内に刻まれていました。

今でも何か部内で率先して行動するときにはこの言葉を思い出し、本当にそれがチームのためなのかを考えるようにしています。人として少し成長できた経験でした。

 

野球自体は正直やり切った感がありました。必死に練習して、最後の夏大会4回戦を神宮で迎えます。コールド負けこそしましたが、珍しくそこで三塁打を放ち、下手くそなりには満足のいく結果でした。

しかし、「男に二言はない」の精神で、東大野球部に入り本気で野球をするという決意は揺るぎませんでした。

そして何とか東大に合格し、2日後には練習に参加し、長い4年間が始まります。

 

1年生の時は下手なりには順調な滑り出しでした。松岡(4年/捕手)や宮﨑(4年/外野手)、井澤(4年/投手)などのメンバーには到底及びませんが、七大戦に連れて行ってもらうなどの経験はでき、自分もある程度通用するんだなと思っていました。しかし、結局はフィジカル面でかなり劣っていたためフレッシュで使われることはなく、ただ鍛錬を積む1年に終わります。

2年春のフレッシュこそ出たいと目標を立てて過ごす矢先、コロナが流行し、フレッシュもなくなり、まともに野球ができなくなりました。加えてコロナが少し落ち着いた夏には、手首の骨を折り、段々と同期との差が開いていきました。2年秋のフレッシュでも少ない出場機会を活かすことはできませんでした。

そして2年秋の終わりから春先にかけて自分の意識を変える出来事が2つありました。

 

まずは新チーム発足前に、話し合いを経て島袋(4年/学生コーチ)が学生コーチになりました。

彼が「(学生コーチになる理由の一つとして)俺はフレッシュもあんま出られなかったから」と言ったとき、自分の心がきゅっとなりました。

自分は学生コーチになるという選択肢を考えながらも、心のどこかで選手をあきらめたくないという自分勝手な気持ちを優先していました。

真剣に考え、悩み、勇気を出してその選択をした島袋を本当に尊敬し、目を背けた自分を情けなく思いました。

その勇気を出せなかった自分はせめて選手として本気で頑張ろうと改めて思いました。

 

自分の中では本気でした。

今まで以上に野球に時間を費やしました。

しかし、結果はなかなか伴わず、加えて春前には腿を肉離れし、春はBチームに。

もう3年生にもなり、主力として活躍する同期も増えてきました。Bにいた同期も週に1度の入れ替えで次々とAに入っていきます。

Bでは自分がまとめ役となり、積極的に前に出ていましたが、「自分だけが取り残されていく様を後輩はどう見ているのだろう、こんな下手くその指示をみんな聞いてくれているのだろうか」と不安が募り、憂鬱な毎日でした。

オフの夕方にグループLINEで「次回のAメンバー in ●●(他の選手)」という通知が来るたびに、悔しくて何度も涙を流しました。

 

ある時、この気持ちを1人で抱えるのが限界になり学生コーチの周佐さん(R4卒)に相談しました。

そこで周佐さんに「みんなの前に出られるのは和人のいい部分だ。チームのために長所を活かせ」と励まされ、考え方が変わりました。

今までの自分の行動はすべて自分のためのものでした。

全力プレーもまとめ役を担うのも、それを見た首脳陣が使ってくれるかもしれないという思いから出ていました。

 

でも、本当にチームに必要なのはチームのために動こうとする人間でした。

 

リーグ戦に出ているメンバーは、リーグ戦でどう勝つか、そのために何をするべきかを真剣に毎日考えています。

対して自分は、Aチームに上がることを目標に、オープン戦で結果を残すために練習していました。

とりあえずリーグ戦に出たいという個人的な思いを優先していました。

リーグ戦で自分がどう貢献して、チームがどう勝つか、とかそんなビジョンは考えられておらず、盲目的にただ目の前の場面で結果を残すために練習していただけでした。

考えてみるとこの14年間、自分の行っていた全力の努力は常に盲目的であったことに気づきました。

とにかくノックを受け、バットを振り、いっぱい走って、全力プレーで何とか食らいついてきましたが、六大学野球という最高峰の舞台では、下手くそな自分のそんな浅はかな努力は通用しませんでした。

 

チームが勝つために自分がどんな存在になるべきか真剣に考え、そのうえで本気で努力しよう、そう心に決めました。

 

自分の強みの肩を活かすために外野へのコンバートを決め、食事管理と筋トレで体を大きくし、打撃も外部指導に出向いて理論から学び、努力してきました。

思い上がりかもしれませんが、自分がAに上がろうと必死にやっていればAの選手を脅かすことができるかもしれない、そうすればAの選手がもっと必死に練習してチーム力が上がるかもしれないという心持ちで一日中練習していました。

リーグ戦中は相手の分析を何時間もかけて本気でやりました。

チームの勝利に貢献したい、その一心でした。

 

その春の法政戦、秋の立教戦で勝ったとき、心の底から嬉しかったです。

夏にAチームに上がったものの、その年のリーグ戦には自分は出場していません。

直接自分が勝利に貢献したわけではないし、自分の努力がなくても勝ったかと思います。

しかし、勝つために真剣に考え、努力していた日々が報われたように思い、本当にうれしく感じました。今までのように盲目的に過ごしていたら、この感情を得られなかったと思います。

 

最上級生になり、「チームのために」「勝つために」をより一層意識するように。

練習はしつつ、チーム内の規律管理や分析など裏方仕事にも尽力してきました。

神様は見てくれていたのか、苦手な打撃が16年で1番の好調を見せ、運よく春の開幕戦はスタメン出場となりましたが、大した結果も残せず、1勝もできずと、悔しいことだらけのシーズンでした。

 

しかし、初めてのリーグ戦は、東大野球部が自分たちだけのものではないという新たな気づきを得られる良い機会でもありました。

応援部が必死に自分たちのために応援してくれている様子を肌で感じたり、色んな人から激励の連絡を受け、「この人たちのためにも自分は決してあきらめてはいけない、チームの勝利のために尽力し続けるべきだ」と思うようになりました。

 

夏から秋のシーズンに向けては、葛藤の日々でした。

応援してくれている人のために試合に出て貢献したいという思いは、調子の低下と合わさって、試合に出られないかもしれないという焦りを生みました。

そしてそういった焦りが募り、態度に出てしまうことも。同期や後輩には本当に気を使わせてしまったと思います。ごめん。

 

秋が近づくにつれ、そんな焦りは「しょうもないな」って思うようになりました。

メンバー争いを諦めたわけではありません。

しかし、「勝てればいい」「とにかく勝ちたい」「勝たなきゃいけない」その気持ちでいっぱいでした。というか、悔しさを無理やり押し除けてその気持ちでいっぱいにしました。

そうしないと後悔するから。

 

自分のことばかり考えて、リーグ戦に出ることに満足して。

負けちゃったけど神宮の舞台には立てたしまぁ満足かな!あははは!

 

そんなのは嫌でした。

そんなことを考えている人間が1人でもいたら、勝てないと思ったから。

自分がその1人になって負けてしまった時、後悔してもしきれないから。

 

外野の最後の守備固めや代打として、わずかな機会でより貢献するために毎日全力で練習しつつ、メンバーを外れたら気持ちを切り替えて分析やバッピに尽力する。

この気持ちの切り替えは今までで1番難しく、苦しいですが、

「これをやり続けるのが勝つための最適解だ、そして勝った時に1番喜べる」

そう思いながら毎日を過ごし、3カードを終え、立教戦を明日に控えています。

何としても勝ち点を取るために、チームのために全てを出し切る所存です。

 

最後に、お世話になった方々への感謝の言葉を連ね、終わりたいと思います。

 

同期へ

こんな自分を受け入れてくれて本当にありがとう。

厳しい言葉にも優しい言葉にも救われました。

4年間とても楽しかったです。最後まで、みんなで頑張ろう。

 

応援部の方々へ

貴重な学生生活の一部を僕らの応援のために捧げ、どんな時も必死になって応援してくれてありがとうございました。

応援が勝利に貢献する、その道筋は実際の競技と違ってわかりにくく、難しいものだと思います。

しかし、その中でも諦めずに全力で応援し続ける姿には本当に勇気をもらえますし、尊敬しています。

個の力が弱い東大野球部にとって、勝利のためになくてはならない存在でした。

本当にありがとう。期待に応えられるように、恩返しのために、絶対に勝ち点を取りたいと思います。

 

両親へ

16年間、好き勝手に野球をやらせていただいて、本当に感謝しています。

母へ。中高では、毎朝辛い顔一つせず自分より早く起き、弁当を作ってくれてありがとう。大学では、色んなことを気にかけてくれて、いつも明るいLINEをくれて、小っ恥ずかしくて素っ気ない返事しかしてなかったけど、いつも元気をもらっていました。

父へ。いつも遠くで見守ってくれて、支えてくれてありがとう。メッセージはいつも堅いけど、本質を突いていて、辛い時に1番の支えになりました。

諦めず、頑張る姿を見せることが2人への1番の恩返しになるかなあと思っています。

なので、最後まで頑張ります。

 

全力で駆け抜けてきた16年間の野球人生。

我が強い性格は全く変わりませんでした。

しかし、周りに貢献したいという奉仕精神やみんなが喜ぶ姿を見たいという他喜力は間違いなくこの野球人生で得られたものでした。

これらを得られたのも、貢献したい!と思えるくらい周りの人に恵まれていたからだと思います。

 

毎日一緒に練習してくれる人。

自分の間違いを正し成長させてくれる人。

強豪相手に勝つために本気でみんなを引っ張ってくれる人。

真面目で堅い自分をいじって周囲と馴染ませてくれる人。

選手の技術の向上のために、嫌な顔一つせず自分の時間をサポートに費やしてくれる人。

4年間、裏でチームを一生懸命支え続けてくれた人。

試合に出ている姿を見て喜んでくれる人。

自分がどんなに失敗しても「和人なら次は大丈夫」とずっと前向きに応援し続けてくれる人。

 

野球人生で関わったすべての人が僕の人生を豊かにしてくれました。

この人たちのおかげで本当に楽しく充実していました。

くさい言葉かもしれませんが、「かけがえのない存在」とはこういうものなのだろうと思います。

本当にありがとうございました。

 

残り2週間で僕の野球人生は終わります。チームのために、何としても勝ち点を取り最下位脱出をするために最後まで頑張ります。全力で。

 

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次回は10/10(月)、伊藤翔吾外野手を予定しております。

お楽しみに!