《僕の野球人生》 Vol.8 菊地 悠太 内野手
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
——————————————–
《僕の野球人生》 Vol.8 菊地 悠太 内野手 (4年/サレジオ学院)
兄の影響で気が付いたらユニフォームを着ていました。
地元の藤が丘ファイヤーズで友達と楽しく過ごし野球中心の生活になっていきました。
お父さんコーチの方々、平日は仕事、土日は野球と休みのない中でも疲れを見せず熱く向き合って頂き野球の魅力を教えてくださいました。今も野球を好きでいられているのは間違いなく皆様のおかげです。ありがとうございました。
サレジオ学院で野球部に入りましたが6年間の野球の思い出はあまりいいものではありません。
野球は好きなのだろうけど、どこか情熱に欠ける同期が多く野球に向き合うのに適した場ではなかったように思います。
朝授業前にノックをしていると危ないからという理由で顧問の方に止められ平日の練習は下校時刻に間に合うように余裕をもって1時間で終わります。
かくいう僕もやる気だけを認められキャプテンとなっていましたがド下手で特に送球はひどく試合中に選手の治療に来てファーストの後方にいた救急車にサードから当てたりしました。(救急隊員の慌てて出てきた顔は今も覚えています。)
キャプテンとして何か変えないといけなかったのですができることは少なく当たり前のように夏の大会は初戦負けです。
最後の試合に負けた後楽しかったと言っている部員を見て僕の野球はこれで終わっていいのかと思い生意気にもちゃんと野球をしたいという気持ちが芽生え、少年野球の先輩である隈部さんから東大野球部は本気で野球をする人の集まりだという話を聞いたことで東大野球部を目指しました。
一浪を経て入部しコロナで合流が遅れ8月に練習参加となりましたがそこでは入るところを間違えたなと思うくらいレベルが高い世界が待っていました。今までやっていた野球は野球と呼べなかったのだと実感しました。
実力差を埋めるためめちゃくちゃ練習しないといけないのに最初の2年は耳の鼓膜が破ける、肉離れ、膝痛、鎖骨のヒビ、椎間板ヘルニアなどに苦しみました。(前Tをしていたらネットの穴を打球が抜け耳に当たったなどと一つ一つの原因を書くと日が暮れるので割愛します。)
それでも怪我をしていない期間には猛練習、怪我をしている間は好プレー集を見続け守備だけは少しマシになり2年生の秋にはフレッシュで神宮球場に立たせてもらいました。
3年になるとやっと本格的にオープン戦に出られるようになったものの結果を残せずリーグ戦とは無縁で続々とデビューする同期を寮で眺めるだけでした。
Aチームの補助のランナーをほぼ毎回やっていたこと、秘密の分析にいそしんでいたのもチームになにも貢献できていないという思いを打ち消すためだったのだと思います。
去年の今頃、走塁はいけるとアピールしようと無理なスライディングをしたところ体を打ちつけ右ひざの後十字靭帯を損傷。
またかと思いました。
野球はだめで怪我ばっかりで何も上手くいかずどん底でした。
先輩に何気なくお前の僕の野球人生は怪我のことしかなくない?と言われそんなことないですよと言いましたが振り返るとたしかに怪我の話ばっかりです。
このままだと僕の野球人生が怪我の羅列で終わるし何よりフレッシュで立った神宮の景色が忘れられずもう一度立ちたい、このまま終われないと思いリハビリに励みました。
ラストシーズンはサポーターを巻いて復帰し、芳野(3年/外野手/西大和学園)や網岡(3年/内野手/六甲学院)との練習のおかげでサッパリだった打撃も少し改善され猛打賞も記録し春にようやくAチームにあがりました。
リーグ戦までもう少しかという手応えを掴んでいましたが思うようにはいかずオープン戦で三三振し1試合で即Bチームに戻り春は終わりました。
勝負弱さに情けなくなりましたが怪我だらけだったことを思えばやっとリーグ戦を目指して健康に野球ができていることにありがたさを感じていました。
秋は守備固めと走塁でリーグ戦を目指すことになり必死に練習していたところあれが来ます。
左手首にデッドボールを受けて骨挫傷。
骨は折れませんでしたが心は折れました。
またかと思いました。
地味な名前の割に痛みが長引き守備もできなくなりました。
もうあかんなと思いましたが潔く諦められるほど神宮への思いは軽くなく残った足で代走としてリーグ戦を目指して日々走っています。
大学野球は難しいものでした。
ちゃんとした野球をしてこなかったこともあり考えも実力も全く違う。
練習しても身のこなしというかうまい人の持つ何かが身につかない。
実力のある人達がさらに努力して一向に距離は縮まらない。
スポーツの厳しさ、残酷さを思い知りました。
そんな中でも朝の始発に乗って隠れてバッティングをし、昼間にはひたすらノックを受けて夜はまたバッティングをする野球漬けの生活を送り何とかはいあがろうともがき続けた日々を誇りに思っています。リーグ戦に出られていないので取り組みは甘かったのかもしれませんがもっとやっておけばよかったなという思いはなく出られなかったらもうしょうがないという思いです。
かつて救急車にボールを当てていたのが大学の試合で送球エラーはありませんでした。
野球はうまくいきませんでしたが東大野球部に入らなかったらよかったと思ったことはありません。
朝練習をしていても止められませんし下校時刻もありません。
大学生活のすべてを野球に捧げるストイックな人がいて好きなだけ野球ができる環境があります。
ずっと応援してくださる温かい先輩、怪我をいじりながらもなんだかんだ気にかけてくださる先輩、今も技術指導をしてくださる先輩、人が傷つくような余計なことを言わず何でもない話で爆笑できる優しくて面白い同期、友達かというほどフランクに接してくれ、時に励ましてくれる後輩達など多くの素晴らしい人に出会えました。
本当に楽しい時間を過ごさせてもらいました。
やっと見つけたかけがえのない場所です。
今まで自分の時間を割き数えきれないほどのノックを打ってくれ代走を目指す自分をサポートしてくれる学生コーチ、行事のための準備、野球に打ち込める環境を作ってくれるマネージャー、お飾りの分析長に代わりほとんどの分析をしてくれるアナリスト、毎日おにぎりを握ってくれた方々、本当にありがとうございました。
「僕がヒットで出て菊地さんが代走ですよ」と言ってくれた開智(3年/捕手/開成)には特に感謝しています。
この言葉のおかげで心が奮い立ち何度も救われました。
今怪我をしている人、焦らずに治してください。
今怪我をしていない人、これからも怪我をしないでください。
重いものを運ぶときは気をつけてください。
好きな野球を思う存分やってください。
両親へ
ずっと一番近くで応援してくれてありがとう。
勉強もせず野球one choiceの僕を何も言わず見守ってくれました。
母 始発で練習に行く僕のため早く起きて朝ごはんを作ってくれました。
怪我をするたびギプスをつけて帰ったり痛みで苦悶の表情を浮かべて帰ったりで何度も心配をかけました。
あまり効果はありませんでしたが厄除けのために塩を持たせてくれた優しさに感謝しています。
父 羽打ちに付き合ってくれてありがとう。試合はほとんど見に来てくれ常に大きな声援をくれました。少しうるさいなと思うことはありましたが嬉しかったです。
フレッシュでちょっとだけ出場した際の嬉しそうな顔を覚えています。
振り返っているうちに感傷に浸ってしまいましたがまだ1か月弱残されています。リーグ戦を目指せることに感謝して少ないチャンスにすべてをかけて臨みます。
ちょっと遠回りをしてどうにかここまでやってきました。無謀と言われて笑われてもいい。最後の日まで全力で走り続けます。
東大野球部の部員は全員がリーグ戦に出たい、勝ちたいという思いで入部して毎日練習しており色々な人の思いを背負って戦っています。一人一人の野球人生は重みのあるものだと思います。その野球人生を「勝つために」という言葉を使って軽く扱ってほしくないと思っています。
これに関しては僕が言えることでもないし難しい話であることは承知しています。
ただ全員が神宮球場を目指せる場であってほしいというのが僕の願いです。
——————————————-
次回は明日9/27(水)、長谷川朝内野手を予定しております。
ぜひご覧ください。