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『僕の野球人生』vol.13 大友 剛 外野手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」 vol.13 大友 剛 外野手(4年/仙台一)

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3年春の沖縄合宿の終わり、僕は青島(4年/内野手/学芸大附)と杉谷と一緒に東京行きのフライトに乗っていた。残り20人のピッチャーが鹿児島のA合宿へ行ってしまった後だった。惨めだった。どうしてこうなったのか、雲の上でたくさんのことを考えた。

直接の原因はシートバッティングでの最悪のピッチングだった。高校生相手にストライクがほとんど入らず、ランナーを溜めては打たれるという状況を何度も繰り返した。

「大友さんいい球いってますよ!」

「切り替えていきましょう!」

サードの高校生の子が気を遣って何度も声をかけてくれたが、申し訳なさが募るだけで何の役にも立たなかった。

結局、2イニングを投げる予定がアウトひとつも取れずに終わった。そして変わったピッチャーが難なく抑えていくのを見ていた。

僕の東京行きは必至だった。

 

しかし本当の原因はもっと深く、遠くにあるような気がした。なぜなら、当時は投げるたびに炎上していて、その日がたまたま調子悪いというレベルではなかったからだ。

もう長い間ピッチャーとしての勤めは果たせず、その能力もなかった。球速は高校時代から20キロも落ちていた。指先の感覚もなく狙ったところに投げられなくなっていた。

どうしてこうなるまでピッチャーを続けていたのだろう。僕は過去を振り返った。

 

小学3年生で入った少年野球チームは年間1勝できるかどうかの弱小だった。外野に打球が飛んだらホームラン、投げたボールがバックネット裏に消えていく先発投手、その日の気分で勝手にベンチスタートにする一塁手。そんな環境の中、肩が強かった僕は4年生からエースになった。

球威はあるけどノーコン。それが僕の投球スタイルだった。

最初はなかなか上手くいかなかったが、学年が上がるにつれて上達していき、6年生の時には県大会に出場できるレベルになった。

 

中学の野球部でもピッチャーを続けた。毎日の練習はスタメンが一生打ち続ける実戦形式で、僕は連日登板させられた。その結果大きく成長し、コントロールも抜群によくなった。試合でも結果が出るようになり、1年生から多くの試合に登板することができた。どんな球でも思い通りに投げられるような感覚だった。

この頃が僕の投手としてのピークだった。しかし長くは続かなかった。

2年生の夏に腰を怪我したことをきっかけにピッチングが狂い始めた。試行錯誤したがどんどん沼にはまっていき、最終的には完全なイップスとなりボールが手から離れなくなった。最後の大会もベンチで見送った。

 

思い返すとピッチングが狂って以降、僕が野球を続ける理由はピーク時のあの感覚を取り戻したいという一点になっていた。

 

高校でも同じ気持ちのまま硬式野球部に入った。思いの外レベルは高く、1年生の頃は全体練習に混ぜてもらえず、グラウンドの隅で素振りやキャッチボールをしていた。ピッチャー志望だったはずなのにそのことは忘れられ、ずっと外野手として活動していた。しかし中学の時のあの感覚が忘れられず、監督に直訴してピッチャーに戻った。

思い切ってサイドスローにするといい球がいき、リリーフとして多くの試合で投げさせてもらった。夏の大会は準決勝まで勝ち進み、のちにプロに行く選手とも対決できて上々の出来だった。しかし求めていた感覚はまだ戻らなかった。

 

東大を目指すようになったのはコロナ休みの3年の5月だった。監督から電話で勧められて、なんとなくOKした。当時は東大野球部のことはほとんど知らず、特に入りたいとも思っていなかった。しかし成績が足りていない僕にとっては、東大の志望理由として一番使いやすいものだった。

 

運よく現役で合格した僕は、その日のうちに健さんから連絡をもらって入部を決心した。

東大野球部は練習するには良い環境だった。ピッチャーはほぼ自主練で好きなことができるし、トレーニング設備もまあまあある。そして知識が豊富な先輩方に話も聞くことができた。神宮には簡単に出られるものだと思っていた。高校時代もある程度結果が出ていたし、練習すればそれなりに成長するものだと思っていた。

そう甘くはなかった。早いうちから外部指導に通ったり、本格的に体づくりに取り組んだりしたが、調子が上向くことはなかった。ほとんど実戦では投げず、同期が試合で活躍するのを横目にブルペンでの調整ばかりで1年が終わった。

2年生はなんとか春フレッシュにベンチ入りしたが、神宮のブルペンから大智(長谷川投手/4年/駒場東邦)がコールド負けを決めるセンターオーバーを打たれるのを見ただけだった。そしてそれ以降は試合で投げる度に炎上していた。秋フレッシュはボールボーイで試合を眺めていた。

 

下手になっていることはちゃんと実感していた。これ以上続けても活躍できる望みはないことは自分が一番よくわかっていた。それでもピッチャーを続けていた。あの感覚を追い続けていた。もう一度気持ちよく投げたいだけだった。

 

そして冬が過ぎ、春が来て、僕は東京行きのフライトに乗っていた。

 

飛行機で思い出したことはこんな感じだった。

ずっと昔に消えた感覚を取り戻そうとするだけの野球人生だった。

僕は消えたチーズを待ち続けるヘムだった。

 

そしてずっと野球を楽しめていないことにも気がついた。

僕は野球が好きだったことがほとんどなかった。

 

小学校の時は試合が大嫌いだった。僕は緊張しやすく、試合前は毎回トイレにこもっていて、先発不在で試合が始まることもしばしばだった。

中学の野球部は理不尽だった。朝練に遅刻して1時間グラウンドに正座させられたり、大会で僕がもらった賞状をコーチが勝手に名前を書き換えて後輩に渡したりと不愉快なことが多かった。

高校の野球部は体力的にキツかった。4時半に起きて朝練に行き、夜は9時に帰ってから遅くまで勉強していた。日々をこなすのに精一杯だった。

 

思い出すのは嫌な記憶ばかりで、つまらない野球人生だと思った。時間を無駄にしていたことにようやく気がついた。楽しくないのに学生野球をやっているのは何て愚かなのだろうと思った。最後の2年くらい楽しみたいと思った。

 

同期に、「お前は敗戦直前の日本軍みたいだな」とよく分からないことを言われたのを思い出した。筋肉が震えていた。まだやれると泣いている気がした。

 

僕は野手に転向することを門池(4年/学生コーチ/都立富士)に伝えた。

 

 

野手になってからの時間はあっという間に過ぎた。初めての練習では、フリーバッティングで和人さん(R5卒)から左中間スタンドに何度か放り込み、久々に野球が楽しいと思った。芳野(4年/外野手/西大和学園)見坂(4年/外野手/水戸一)などの同期の外野手は僕をすぐに受け入れてくれた。そして練習を重ねるうちに試合でヒットも出るようになった。

 

もちろん全てが順風満帆とはいかず、3年生の時は結局最後までBチームだった。野手としての苦労も多く味わった。けれどもそれ以上に野球が楽しかった。そしてその気持ちは4年になってさらに強まった。

新年一発目の練習で大きめの怪我をした僕は春もBスタートだった。もう最後は何も考えずに思い切りやろうと考えた。ノンプレッシャーで迎えた春のオープン戦はかつてないほど打つことができた。

そしてリーグ戦期間中に初めてAチームに上がり、次の週の法政戦のベンチに入ることができた。展開が向かず打席こそなかったが、初めてのシートノックやベンチ裏で代打待機していた記憶は今でも鮮明に思い出せる。初めて本気で勝ちたいと思う試合だった。

 

夢中で野球しているうちに夏は去ってしまい、僕の野球人生も残すところあと一ヶ月となってしまった。

今になって振り返ると、この野球部での思い出は楽しいことばかりだった。

大智や山崎(3年/投手/渋谷幕張)とアメフトしたこと。真之介(山口内野手/4年/小山台)と外部指導に何度も行ったこと。武(4年/外野手/戸山)網岡(4年/内野手/六甲学院)と夜にバッティング練習したこと。松原(4年/外野手/土佐)と乱暴なキャッチボールをしたこと。全てが楽しかった。

ここに来てようやく、僕は野球が大好きだから野球をやっていると言えるようになった。

 

残り一ヶ月、チームとして最高の結果が出せるように貢献したい。

 

 

最後に、僕の野球人生に関わってくださったすべての人への感謝の意をここに表する。

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次回は10/4(金)、大巻将人学生コーチを予定しております。