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『僕の野球人生』vol.16 見坂 恒輝 外野手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」vol.16 見坂 恒輝 外野手(4年/水戸一)

僕の野球人生見坂 2-3

3-3

僕は野球が嫌いです。「来年、自分の『ぼくじん』は何を書こう」と考えてから惰性で中身の無い一年間を過ごしてしまいました。練習は土日しかいない上、自主練にも来ない、雨になると喜び、常にちょけている姿は後輩の視界からは消えていたと思います。でも同期には昔は真面目に取り組んでいた姿も残っているかと思います。

 

過去は美化されるものと言いますが、全くそんなことはなく、これまでの野球人生を振り返るとただただ辛い毎日の連続でした。練習はだるいし、試合ではミスが怖い、早く辞めたい。それでも今日まで野球を続けてきて、色々な経験が得られました。せっかく頂いた機会なので感謝もこめて真面目に一生懸命書いてみようと思います。語彙力皆無の長い文章で恐縮ですが、「たまには変化マシンを左のスラにしよう」くらいの味変になれば幸いです。

 

自分は小さい頃サッカーをやっていました。地元のチームで副キャプテンを務め、足も速くそこそこ活躍していました。ただ、練習がきつかったです。土日が来ると憂鬱な気分になりました。今でこそボールを蹴りたくなることがありますが、本気でサッカーに打ち込むのは好きではなかったのかもしれません。…

(僕のサッカー人生はここでは終わりません。そのため、僕の過去のサッカー人生を振り返ることはこれ以上しないでおこうと思います。)

…そして、小学5年の春サッカーを辞めることにしました。

 

サッカー時代から午後に時間があると祖父とプロ野球を見たり、プラスチックのバットと柔らかいボールで弟と野球をしていました。暇になった休日を埋めるように今度は野球をやってみようと思ったのがはじまりです。そして、小学5年の夏に僕の野球人生が始まりました。

 

はじめから外野手で、練習すると少しずつ上達し、最上級生になるとヒットを量産していました。ピッチャーもやったり大会のMVPをもらったり、そこそこ楽しかったです。

 

地元はかなりド田舎で、周りは田んぼと畑と山、最寄駅は車で15分。中学は7つの小学校から生徒が集まり、部活も各小学校の見慣れた部員が集まりました。中学の野球部は2つ上は県ベスト8、1つ上は後に石岡一高で甲子園に出場するエースを中心に県総体準優勝という強豪でした。部活は厳しく、早々と辞めてしまう同期もいました。また先輩には後輩に暴力を振るう人もいました。

 

練習試合はミスをしたら即交代で、下級生の頃はチャンスをもらっても役割が全う出来ず、毎回ミスしてはいけないというプレッシャーで精一杯でした。毎日だるくて辞めたいと思う日が続きましたが、サッカーを辞めた経験が常に最後は引っかかっていました。周りから辞めたと思われるのが嫌だったのも大きかったです。

 

ただ毎日のランメニューは常に一番で、部活で唯一苦でない時間でした。自分の当時の強みは足の速さで、サッカーで培った体力もあり、毎日の20分間走、PP、坂ダッシュで足がどんどん速くなりました。

 

中3の時には、陸上の総体に参加してみると100m12秒4で県大会にも出場できました。(ただ初速が速いわけではないので野球に活きていたかは別ですが、)個人競技の方がプレッシャーがなく向いていると感じた体験でした。

 

自分は体格に恵まれ(180cm65kgのヒョロヒョロ)、頭も運動神経も良い方で何かと思い通りに行くことが多かったです。

 

最上級生では外野手平均180cm越えの一角として期待もされ、リーダーシップもあり副主将を務めました。しかし、野球のプレーはうまくいきませんでした。プレーで引っ張ることは少なく、同期と共に上手い後輩に追い越されていき、出場機会も減衰振動でした。総体は県大会1回戦負けでしたが、その後の県選抜大会では、見事勝ち上がり優勝することができました。決勝戦で守り切ったセンターからの景色は鮮明に覚えており、力の無かった代でも結果を残せたこと、ここまでやってきてよかったと思い、勝って引退することができました。

 

受験期に入ると、当時は近くの進学校の土浦一高を目指していましたが、一応で見学に行った水戸一高での野球部体験で心が変わりました。先輩から優しく指導していただき、雰囲気も良く、監督にも温かい言葉をかけていただきました。

 

そしてド田舎から県最難関の水戸一高に入学しました。

 

これからまた毎日の野球は辛いのは承知でしたが、中学での経験もありそこそこやれるだろうと思っていました。文武両道で食トレや座学、進学校が私学に勝つにはどうすれば良いかという全く新しい環境で、また中学と比べると精神的にも少しは楽でした。ただ同期にはすぐ活躍し1年春からレギュラーになる上手い選手が複数いました。自分も初めの方から全体練習に参加させてもらいましたが、監督からサードで練習に入れと言われると、初の内野は散々で最初はノックで迷惑を多くかけていました。

 

少しして新チームになり外野手に戻ると積極的な盗塁と打撃を評価してもらえ、秋大で一桁の背番号を貰うことができました。しかし、大会直前の練習で死球を受けると、痛みで試合の出場を自ら断ってしまいました。一桁の背番号で満足で、安全択でした。

 

するとその後は干されて練習試合でも出場機会が減っていきました。甘い物禁止、ゲーム禁止の中、試合には出ていない同期とこっそりクレープを食べたり、プロスピをやったりする日々でした。一緒に辞めたいと言い合っていた同期が辞めました。試合に出ないのは楽ですが、新しく同期が起用され続けるのを見るは悔しかった。

 

1年冬になると現在RebaseでコーチをしているOBのもと、アメリカの打撃理論を取り入れる打撃強化期間に入りました。冬を越すと必死に打撃に取り組んだ先輩方の打撃は飛躍し、取り組む姿勢が中途半端だった自分は全くヒットが出ず大きく差がついてしまいました。代走で出場するも走塁死をしたり、試合で先輩と衝突し高校野球を終わらせてしまうほどの怪我を負わせてしまったりと散々でした。

 

最高学年として新チームが始まると、キャプテンからは「1番を打ってほしい」と言われるも、自己流に戻してもスランプに落ち、スタメンから機会も少なくなっていきました。チームは経験豊富な同期や1つ下の140kmを投げるサイドスロー投手を中心に秋にチームは10年ぶりの県大会へ出場しました。確か三塁コーチでした。

 

「田舎者」と監督に激怒された日々で、自分のヘラヘラとした性格は少しずつ直されていきました。日常ではちょけてるけどユニフォーム着たらとても真面目に練習し、朝、夜、そしてオフの日も毎日グラウンドに通い練習をしていました。その後、中学同期の助言で一度打撃指導に行ききっかけを掴むと、打撃結果は一変し再びレギュラーを取りその後は主に6番ライトで出場し続けました。毎日の練習が実り少しずつ1年の頃の活躍を取り戻しました。

 

2年冬コロナの影響で学校は休校になると、午前は各地で分かれて軽く練習、午後はひたすら勉強の日々が続きましたが、部活が無いこの期間は快適でした。勉強に関しては好きで、一度スイッチが入ると飛躍的に上昇しました。目標はとりあえず高くで東大にしていました。

 

部活動再開後も結果を出し続けることが出来ましたが、3年春に腰痛を患ってしまいました。痛みでプレーがままならない時もあり、毎晩針治療に通い、一部休みながらの部活でした。全力なプレーは出来ませんでしたが打撃は調子も良く、途中2番を打ったりと怪我が無ければ最後大きくまた伸びたのかなと思います。

 

最後の大会ではベスト8決めで負けてしまいました。高校での部活は終わってみるととても有意義なものでした。ただ個人では(疑惑の)サインミスをしたり、最後の試合ではバントを決められず、守備では球際のライナーが捕れず心残りがありました。

 

監督には大変お世話になりました。「一番紆余曲折がありながらも心も身体も成長した。」定期的な面談は引退後も続き、監督の夢である教え子から東大野球部の輩出、そして「神宮でフライを捕ってこい」を叶えたいと思い、気がつくと文武両道の最高峰である東大野球部を目指していました。

 

受験期は、休憩時間には東大野球部の動画を見たり、毎日チョコチップパンを食べたり、顔に肉もつき8kg増量しましたが、部活が無く勉強だけの日々は、野球と比べると苦痛が少なく毎日があっという間でした。

 

晴れて東京大学に現役合格しました。

 

監督に報告に向かうと、既に主務と連絡をとっており、気がつけば入部が決まっていました。一時のためらいがありながらも東大野球部という肩書きが欲しかったのでしょう。水戸一高野球部から10年ぶりに東大野球部員となり、期待も大きかったです。

 

球場の近くに住み、茨城出身の先輩からアドバイスもいただきました。部活開始前から府川(4年/捕手/西大和学園)たちと一緒に夜にダッシュや素振りをしたりと体力戻しに努めました。府川と夜遅くに野球の話をしながら素振りをしていると近隣住民から警察に通報された”ポリ公園”も懐かしい思い出です。

 

部活が開始すると、周りの外野手は思ったよりも守備が下手で、先輩のプレーもどこか一癖あるなという印象で、上手かった高校同期が来たらすぐにレギュラー取れそうという感じでした。

 

大学野球で通用するには打撃が大切と教わり、山口(4年/内野手/小山台)青山(4年/内野手/川和)を誘いRebaseへ行き、高校でかじったアメリカの打撃理論を思い出しながら打撃の改良に努めました。

 

周りの環境も変わるとはじめは楽しくなるものです。モノマネも上手になり、同期も優しく、Rebaseに通っていた先輩にも仲良くしてもらえました。

 

高校時代の習慣は続き、毎日の自主練習は欠かしませんでした。1年生の頃は熱心で、遅くまで授業の日でも夜10時からでも球場へ行き、打撃やトレーニングに励んで日付を超える時もありました。

 

1年春は橋元(4年/外野手/修猷館)芳野(4年/外野手/西大和学園)とともにフレッシュの外野シートに入ることが出来ましたが、紅白戦で結果は出せずベンチ入りは出来ませんでした。

 

夏〜冬はまだコロナが流行っており練習試合も数少なかったですが、肉離れニキ橋元の離脱もあり1年外野手の中では一番多くB戦の試合に連れて行ってもらえたと思います。パワー不足で外野フライの量産でしたが、速いピッチャーから長打を打ったり、少しは結果を出すことが出来ました。年功序列の風潮が当時のチームにはあったため、このまま行けば少しはリーグ戦に出られるかもという感触でした。同志社へ行った同期は新人戦のベストナインに選ばれていたり、水戸一の後輩は県大会3位と結果を出し、期待を背負われている自分も奮闘しました。

 

2年春フレッシュの練習中、腰に立ち崩れるほどの激痛が走りました。ガチガチな柔軟性で疲労も溜まり腰椎分離症でした。プレーがままならず、長期休養に入りました。当時岸野さん(R5卒)には大変お世話になりました。

 

コロナも和らぎ試合数が多くなると、同期も後輩も出番が一気に増え結果を出し始める姿を療養しながら見ていました。筋トレも出来ず、パワーでも技術でもコツコツ伸びた周りと差が出来ました。この時期に試合に出られなかったことは大きかったです。

 

2年の夏合宿あたりに復帰し秋フレッシュを迎えるも、後輩も既に多く台頭し、ある程度実力差も感じてきました。3試合目のフレッシュ(ほぼ2枚目)では先発で出られ、後のオータムフレッシュでもヒットが出たりと僅かな希望はありましたが、ただその後また腰痛になったりと成長ないまま差が開くと、自ら限界を作り熱量も落ちていきました。

 

薬学部の授業が始まると、全体練習はほとんど出られなくなり、自主練習も頻度も次第に落ちていきました。ただ忙しいことを言い訳にして、筋トレもいつの間にかしなくなっていました。ここからは成長ないままただ時間が過ぎ、気づけば自主練に来るだけで珍しい存在になっていました。

 

3年夏には当時の学生コーチの秀島さん(R6卒)の助言もあり一塁手も練習することになると、その分練習量は増え、打席数も多くなりました。B戦では打率3割を残すことが出来ましたが、少し上の相手になると結果が出ませんでした。パワー不足は欠点でした。

 

最高学年になる前に、追加で学生コーチの選出がありました。熱量の無い自分は候補に入るだろうと覚悟していましたが、いつの間にか話し合いが終わっていました。野球に熱量がないものの、学生コーチになってしまうと高校の監督や周りの期待に顔向け出来ない、ただそれだけを考えていました。練習試合もチームに迷惑をかけないようにすることが精一杯でしたが、守備で今までなかったようなミスが出たり、後輩も増え成長していく姿を感じ、バットを折った打席を最後に少し早く選手引退を決めました。最後まで頑張って練習していた同期、特によく弱音を吐いてしまった武(4年/外野手/戸山)には申し訳なかったです。

 

急に心が軽くなりました。

 

自分の野球人生はずっと、サッカーを辞めたから辞められない。ミスをしてはいけない。周りからの目を気にし、期待に応えられるかでいっぱいで、辞めたら悲しまれてしまう、ただそれだけで惰性で野球を続けていました。難しく上手くいかないのに対して逃げずに夢中に取り組めたのはほんの一瞬だけでした。

 

プレーを辞め練習のサポートに入ると、ノックを打つのには苦痛がなく、毎日バッピをしていると少しでもチームに貢献できているんじゃないか、という新しく悪くない感情でした。こうして関わる野球は嫌いではなく、早く気付けられれば良かったです。

 

四年間やり続けた同期、必死に頑張り続けた皆は比べられないほど苦しい思いをしていると思います。自分は逃げてしまったので最後まで応援したい。

 

早くに学生コーチとなりチームをまとめてくれた門池(4年/学生コーチ/都立富士)、引退したらまた徹夜でボウリング行こう。

 

また(かちゅぜちゅのよろしくない)谷保(4年/学生コーチ/屋代)も、三塁コーチの重圧は大きく大変だと思う。

 

野球も趣味の話もした芳野やD(長谷川投手/4年/駒場東邦)、ありがとう。

 

同じ薬学部の山口、忙しい中野球も勉強も真面目に取り組む姿を常に横で見てきました。1年はじめにRebaseに一緒に行ってからコツコツと野球に向き合い続け大成し、一番活躍して尊敬します。

「練習しろ」と軽く声をかけたこと、そして部活だけでなく、徹夜で遊んだ日もタコパした日も全てが思い出です。

 

後輩、チームへ

本気で勝利を目指し練習している中、自分の姿がチームの悪影響になってしまい申し訳ありませんでした。そしてこの上ない経験をさせていただきありがとうございました。

 

そして両親、

最後のソウル大との引退試合では神宮でのヒットを見せられてよかったです。

勉強は出来ても、野球はいつも一歩足りなかったけれど、ここまで野球をやらせてくれてありがとう。中高大と何度も野球を辞めたいと弱音を吐いては反対されてきたけれど、退部せずに最後まで続けられて良かった。

 

最後に、今の野球は少し好きです。

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次回は10月9日(水)、武将太郎外野手を予定しております。