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『僕の野球人生』vol.21 谷保 梓樹 学生コーチ

4年生特集、『僕の野球人生』では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」vol.21 谷保 梓樹 学生コーチ(4年/屋代)

僕の野球人生谷保 2-2 3-2

去る10月2日、稀代の安打製造機が神宮球場にて引退試合に臨みました。先月末に今シーズン限りでの現役引退を発表したプロ野球東京ヤクルトスワローズの外野手・青木宣親選手です。最後の勇姿となったこの試合で、青木選手は外野の全ポジションに就いて守備機会をそつなくこなし、打撃でも2回の第二打席で外寄り高めの球を綺麗な流し打ちでレフト前ヒット、6回の第四打席で内寄りのボールを引っ張ってライト線ツーベースを放って代名詞とも言える広角へと打ち分ける打撃を惜しみなく発揮、まだまだ現役で戦えるのではないかという思いを我々ファンに抱かせてくれるなど最後までそのプレーで多くの人々を魅了しました。日米通算2730安打、打率.305を残したその成績は野球を知るものなら誰もが認める、信じられないほど偉大なものです。

 

僕の野球人生はこんな青木選手への憧れから始まりました。きっかけはなんだか覚えてはいませんが、小学3年生の時に野球に興味を持つようになり、プロ野球の結果を毎日追うようになります。当時最下位に沈んでいた東京ヤクルトスワローズが、最下位でかわいそうだからという理由だけで応援し始め、その時に1番、2番を打っていた青木選手、田中浩康選手を大好きになりました。青木選手は先述のように細かいバットコントロールでヒットを量産し、アベレージを残すタイプの選手、田中選手はバットを短く持って、バントなど小技を使ってチャンスを演出する、つなぎの2番打者でした。これまたどうしてなのかはわかりませんが、僕はド派手なホームランを次々と放つ強打者よりかは、この2選手のような、巧みなバトントロールで粘っこく出塁したりランナーを進めたりするプレースタイルの選手が好きで、そのようなことができる青木選手、田中選手に憧れていました。野球を、そしてヤクルトを好きになって以降は、小学校から帰ってくるや否や急いで宿題を終わらせ、ラジオの前にかじりついてラジオの野球中継を聞き続ける日々。実況の背景で僅かに聞こえてくる応援の音を頼りに各選手の応援歌もどんどん覚えていきました。そんな僕をある日父は神宮球場に連れて行ってくれました。スタンドへと続く青に塗られた通路とその先に広がる鮮やかな人工芝が輝くグラウンド、初めて神宮のスタンドに出た時の感動と、初めて神宮での観客の歓声を聞いた時の鳥肌、そして声が枯れるまで応援した初めての野球観戦は今でも忘れません。「僕も神宮でプレーしたいな」そんなことをなんとなく思った記憶があります。東大野球部の存在をいつから認知し、いつから自分の中で具体的な目標として定めたのかは全く覚えていませんが、ヤクルトを、そして神宮球場を大好きになった僕に対し、父親が「六大学野球でプレーすれば神宮で野球ができる」、「うちは経済的に私立大学には通わせられない」、「六大学野球で国公立なのは東大だけである」、「ゆえに東大野球部を目指せばいいのではないか」みたいな感じで唆してきたことがきっかけだったのではないかと思っています(違っていたらごめんなさい)。

 

 野球チームに入って本格的に野球をプレーするようになったのは小学5年生の時です。チームの人数が少なかったこともあり、5年生の時はキャッチャー、6年生の時はピッチャーと、非常に重要なポジションをやらせてもらいました。この時のこともあまり覚えてはいませんが、地域の試合で当時の大親友のこうへいくんとバッテリーを組んだ試合(僕がキャッチャー)、あとアウト一つでこうへいくんがノーヒットノーランを達成というところでヒットを打たれてしまったものの、そのランナーの盗塁を僕が刺したこと、その試合を勝ち進んだ次の試合で僕が先発し試合をぶち壊してしまったこと、同じ東京を本拠地とするヤクルトのライバルである巨人の応援歌を大声で歌うチームという理由で勝手にライバル視していたとあるチームのエースと投手戦を演じ勝ち切ったことは印象に残ったシーンとして断片的に記憶に残っています。

 

中学は受験をして公立中高一貫校に進学しました。ここは、元は公立高校であったところに半分無理やりに中学校の校舎を新設した学校だったので、場所的な制約等もあり中学生の部活動は非常に限られていました。野球部はなく、また自宅からの通学時間が長くシニア等クラブチームに入るのも厳しかったためこの学校に入学することは中学時代に野球をするのを諦めることを意味していました。ただ、小学6年生の僕はすでになんとなく東大に行きたいなと考えており、そのためには早めの進度で学習を進められる中高一貫校に進学するメリットは大きいという理由で受験を決断、結果的には合格することができ、この中学校に進学することとなりました。ここではハンドボール部に入りました。中学においては僕の野球人生は一旦休憩となるのですが、僕の野球への想いは消えていませんでした。高校では再び野球部に入ることになります。そのままハンドボールを続けるという選択肢も当然あったのですが、野球をやりたいという思いが勝ちました。

 

高校に入って以降は本気で東大野球部を目指すことになります。この頃から自分を追い込むためにも顧問の笠井先生はじめ周りの人に具体的な目標として東大野球部に入部するという目標を公言するようになりました。東大に入るためには勉強を頑張らなくてはいけないのはもちろんですが、六大学リーグというハイレベルな環境で野球を続けるためには野球も上手くならなくてはいけませんでした。そんな文武両道の究極の目標としての「東大野球部」に強い憧れがあった僕はどちらも全力で取り組みました。遠距離通学ということもあり、朝の出発の時間は早く、夜帰る時間も21:30くらいでした。夜帰った時は部活でとても疲れて勉強などできないので帰ったら30分ほどで夕食と風呂を済ませすぐに寝ます。翌朝は3:00から4:00の間には起きて朝ごはんまで勉強、出発前に素振りをしてから通学する日々を繰り返しました。僕の手は素振りでできたマメと勉強でできた大きなペンだこが目につく、とても醜いものでした。今では信じられないほど過酷な生活ですが、東大野球部に対する強い憧れと絶対に目標を達成するという思いだけが自分を突き動かしていました。当時は自分のことで精一杯だったので全く気づかなかったのですが、大学生になってから振り返ると高校生の時にこんなにも目標に向かって熱中できたのは多くの人々の支えがあったからでした。中学からの六年間お弁当を作り続けてくれたり、毎晩の送迎をしてくれたり、僕が食事を終わらせた後にその片付けをして僕より遅く寝て、家事のために僕とそれほど変わらない時間に起きていた母親、莫大な定期代がかかる遠距離通学を嫌な顔一つせず許してくれ、生活を経済面で支えてくれた父親、毎週の練習試合にどんなに遠方でも観に来てくれた両親、電車の時間の関係で平日練の後の整備を途中で抜けることを快く許可してくれた顧問の笠井先生・遠山先生と野球部の仲間たち、「谷保に触発されて」と言いながら一緒にテスト勉強を頑張ってくれた同期、東大野球部を目指す僕を常に気にかけてくださった赤地同窓会長、「そんなんじゃ駿茶(駿台予備校お茶の水の東大専門校舎のこと)行きだぞ」と冗談を言い合いながら、必死に情報をかき集めながら一緒に東大を目指した大親友の陽三(彼は現役で早稲田大学に進学し四年間応援部のリーダーとして活躍しました。一緒に六大学で戦った日々もまたかけがえのない宝物です)をはじめとする高校の友達たち、そのうちの誰か1人でも欠けていたら、今の僕はなかったと思います。自分は本当に幸せ者でした。

 

さて、頑張りはしたものの高校野球では思うような結果は残せませんでした。2年生まではレギュラー争いには加われず、迎えた3年の春大、背番号を決める前最後の練習試合で3安打の固め打ちと好走塁で猛アピールし一桁背番号を勝ち取るも、夏大では背番号は二桁で出場は代打での1打席とその後の守備のみに終わりました。春大前3安打固め打ちした試合での僕の打席のビデオに入っていた、父親の「お、めずらし」というぼやきが、高校時代いかに僕が打てていなかったかを物語っています。それでも大学で野球を続けることに迷いが一切なかったあたり、本当に野球が好きだったのだなと思います。打てなくて、守れなくて、嫌になることはたくさんありましたが、野球をやめようと思ったことは一度もありません。

 

勉強面はというと、結局現役での合格は叶いませんでした。やりすぎなくらい勉強しても東大は遠く及ばなかった僕の効率の悪さには本当に辟易しました。高校時代あんなにもお世話になった両親に浪人という形でさらに迷惑をかけることになります。効率が悪く地頭がいいわけでもない僕は浪人期も持ち前の根性だけは健在で、馬鹿みたいな時間勉強し、文字通りゴリ押しでなんとか東大に合格できました。浪人をして夢を追うという選択を応援してくれた両親には本当に頭が上がりません。

 

合格した僕は迷わず東大野球部に入部しました。ずっと目標にしていた東大野球部入りが叶った瞬間は言葉で言い表せないくらい嬉しかったです。入部してすぐのリーグ戦で観戦のために向かった神宮球場は多くの観客が入り華やかな応援で盛り上がる、とてもキラキラと輝いた場所でした。心からここでプレーしたいと思いました。東大野球部に入るという目標を叶えたこの瞬間、今度はリーグ戦に出て活躍することが目標になりました。

 

それ以降、自分が下手くそなことは自分が一番よくわかっていたので、全体練習はもちろん自主練やトレーニング、食事など頑張りました。授業もしっかり受けて、それが終わったら同じく神宮でのプレーを夢見て同期・先輩方と懸命に練習に取り組む日々はとても充実していました。東大野球部のみんなはとても研究熱心で、高校三年間野球を続けてきた自分がこれまで全く意識していなかったところや全く知らなかった知識をもって練習しているのがとても印象的でした。野球はなんて奥が深いのだろうと改めて思いました。その奥深さが新鮮で、練習もとても楽しかったです。

 

しかし、相変わらず自分は選手として結果を残せませんでした。リーグ戦どころか、下級生のみのフレッシュに向けたポジション争いにすら加わることはできませんでした。もちろん悔しかったですし、同期に遅れをとる自分がめちゃめちゃ嫌になったのですが、練習自体は先述のようにとても楽しかったですし、何より死ぬほど努力して達成した東大野球部入りだったので、ここでも野球をやめるという選択肢は一切ありませんでした。

 

さて、我々の代は当初組織の運営上各学年に絶対必要な学生コーチと男性マネージャーが一人もいませんでした。新たにマネージャーや学生コーチを務めてくれる人が現れない限り、定められた期間までに選手からこれらのポジションにつく人を出す必要があり、かねてから学年でその決め方や時期などについて話し合いをしていました。野球が下手くそな自分はマネージャー、学生コーチを出すタイミングになったら筆頭候補の1人になってしまうだろうなということは容易に想像できましたが、たとえ神宮でプレーできなくともずっと目指してきた東大野球部、選手として四年間を全うしたい思いが強く、できるところまで選手として頑張ろうという思いでいました。そんな中自ら手をあげてマネージャーになってくれた岩瀬(4年/主務/開成)、学生コーチとなってくれた門池(4年/学生コーチ/都立富士)には今もめちゃくちゃ感謝しています。

 

「ずっと選手でいたい」そんな思いが少し揺らいだのは2年の夏でした。相変わらず結果を残せずBチームにいた自分は、B戦の中でも位置付けが低い高校生とのオープン戦でもろくに結果を残せずにいました。きっかけはわかりませんが、そんな中ふと自分がいない東大野球部を想像してみました。東大野球部はとても大きな組織です。選手だけでも100人を超える部員がいます。B戦ですらまともに活躍できていない自分がいなくなったところでチームとしては1mmも影響がないという事実に気づきました。この現実は本当にこたえました。そんなことはこれまでの人生で一度もありませんでした。もはや見返してやろうという反骨心すら生まれず、ただただ涙のみが出てきました。これまで頑張ってきた緊張の糸のようなものがぷっつりときれ、本当に全く頑張れなくなりました。ちょうど秋のリーグ戦期間、我々の代としては最後のフレッシュ直前で同期も気合が入っている頃でした。もう選手を続けるのは無理だと思い、チームとしても学生コーチが欲しいというのもあって、半分逃げるようにして学生コーチになりました。憧れた青木選手は宇宙単位で遠い存在のまま、僕がその背中を追いかける旅路は終わりを迎えました。選手として神宮で活躍している姿を期待していたであろう両親、祖父母ほか親戚のみんな、赤地同窓会長、高校の時の野球部顧問、友達には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 

学生コーチとしての野球人生は意外とあっという間でした。学生コーチとして日々ノックを打ち、試合ではベンチ入りして選手と共に戦う日々は、とても充実していました。そして僕は新チーム以降、三塁コーチャーというポジションを任せてもらっています。判断ミスが得点やチャンスの成否に直結するとても重要なポジションということもあり、とてもやりがいを感じると同時にしっかりやらないといけないという責任感で身が引き締まる思いで取り組んでいます。学生コーチになって、三塁コーチャーもやるようになって、走塁のことをたくさん考えるようになると、またまた「野球って奥深いスポーツだな」と思う日々の連続です。そんな野球の奥深さこそが僕が野球をここまで続けてきた所以なのかなと最近は思っています。ここまで熱中できるものに出会うことができて幸せです。

 

現在は僕とはじめに学生コーチになってくれた門池、さらに間島(4年/学生コーチ/八王子東)大巻(4年/学生コーチ/花巻東)を合わせた四人が我々の代の学生コーチ陣です。めちゃくちゃに仲がいいです。本当に大好きな仲間です。いつもふざけ合ってばかりだけど、ここでは少しばかり感謝を述べさせてください。

 

大巻と間島は僕が学生コーチになったおよそ一年後、先輩スタッフが抜けさらに追加で学生コーチが必要というチーム事情のもと手を挙げて学生コーチになってくれました。2人ともそれぞれ選手としてこの四年間にかける想いもあっただろうし周りの期待や想いもたくさん背負っていたと思います。それでも「チームのために」と学生コーチになってくれたこと、本当に感謝しています。下級生の学生コーチが少ない時期は、午前のAチームもBチームも両方見てくれるなど本当に支えてもらいました。本当にありがとう。あと少し、一緒に頑張ろう。

 

門池は既に書いた通りこの学年で初めて学生コーチになってくれました。同期でも先輩でも、言う時は言う姿勢はチームを引き締め、強いチームづくりをキャプテンの藤田(4年/内野手/岡山大安寺)と共に先頭に立って進めてくれました。3年生のうちから学生コーチとしてリーグ戦ベンチ入り、豊富な経験でリーグ戦時は頼もしいのみならず、普段の練習でも他の学生コーチが忘れてしまっているようなことにもしっかり気を配っており、本当頼りになる男です。ノックもうまく尊敬することばかりです。そんな出来過ぎ門池に甘えすぎなところもあったけど、本当にありがとう。

 

今シーズンの野球部のパンフレット、4年生の一言のコーナーで僕は「笑一笑」と書きました。これは、ももいろクローバーZの僕が大好きな曲の曲名です。「シャオイーシャオ」と読み、中国語で「笑おう」という意味です。36人からスタートした我々の代は、これまでのぼくじんで語られている通りメンバー一人一人がさまざまな思いをもって四年間を過ごし、そしてあと少しで終わりを迎えようとしています。マネージャー、アナリスト、学生コーチはホームランを打って、あるいは三振をとってチームを勝たせることはできませんが、誰よりも勝利を、勝ち点獲得を信じて、それぞれの立場でそれぞれが全力でチームを支えています。選手として神宮を目指す道に区切りをつけ、チームを支える立場に回った同期も、チームのために細かい分析と、メンバーが少しでも練習時間を確保するための補助に全力で取り組んでくれています。最後までリーグ戦を目指して必死に頑張っている中でもなかなかメンバーになれず、めちゃくちゃ悔しい思いをしながら、それでもそんな様子は一切見せず自らも必死に練習する傍らチームのために相手チームを分析し、練習を考え、引っ張ってくれる同期がいます。そしてそういった同期の思いを背負って神宮のグラウンドでプレーする同期がいます。そんな同期を1人も残すことなく、全員が最後に四年間このチームで、このメンバーで頑張ってよかったと、笑って終われるようなラストカードにしたいです。みんなでラスト、駆け抜けよう!!そして絶対に勝とう!

 

最後に、応援部の皆さんにお礼をさせてください。

応援部の皆さん、神宮での試合の時は欠かさず、力強い応援をありがとうございました。どんなに点差が開いていても、諦めるどころかむしろボルテージが上がる応援、得点が入った時に抱き合って、肩を組んで大声で響かせてくれるただ一つ、勝った時には涙を流して喜んでくれ、負けた時は一緒にめちゃめちゃ悔しがってくれる、人生のどの段階を見てもこれだけの応援をしてもらうことは今この瞬間しかないのではないかと思うと、本当に感謝してもしきれません。三塁側の時、コーチャーボックスにいると背後から文字通り心臓に響く音と声援、一塁側の時、コーチャーボックスから見える淡青に染まった応援席の光景は一生忘れることはありません。本当にありがとうございました。そしてラスト1カードよろしくお願いします。

 

長くなってしまったので、お世話になったその他の人々にはラストカードが終わってから直接お礼を述べさせていただきます。

 

拙い文章ですが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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次回は10月16日(水)、門池龍之介学生コーチを予定しております。