『僕の野球人生』第9回 松島司樹投手
『僕の野球人生』第9回
練習後、夕暮れの一塁側ベンチからぼーっとスカイツリーを眺める時間も、あと1ヶ月しか味わえないのだなと思うと、下手なりに11年間続けてきた野球もいよいよ引退するんだなと感じます。
月並みな野球人生でした。
小学校低学年の頃はいわゆるガキ大将でした。学校が終わると家々を回ってちびっこ達を集め、日が暮れるまでザリガニを釣っては闘わせたり、畑の野菜を盗み食いしたりしていました。とにかく悪いことをするのが好きで、近所のお爺さま方によく怒られていました。
遊んでばかりの息子の将来を案じた両親が、少年団の体験に連れて行ってくれたことがきっかけで、10歳で野球を始めました。朝から晩までザリガニ釣りをしていた時間が、朝から晩まで走って守備練して走っての時間に変わったのは精神的にやられました。この頃の練習が人生で1番辛かったと思います。
中学受験を経て、当時鉄道オタクだった僕は、鉄道研究部に入ろうと思っていましたが、野球部に入りました。
自分達で練習場所を取り、メニューを考えるのがすごく楽しくて、休みの日もみんなで公園に集まって練習したのを覚えています。この頃初めて野球が楽しいと思えるようになり、素振り200回が日課になりました。夜の公園でバットを振る時間は、嫌なことを忘れられる時間でした。
左利きということで投手をやってくれという話にもなりましたが、コントロールが悪く「送球に難あり」という異名を持つ僕が投手をやることはありませんでした。中学最後の試合が三振で終わったことが不甲斐なく、高校でリベンジしようと思い、そのまま内部進学して硬式野球部に入りました。
春先の紅白戦でたまたまヒットを打ったことをきっかけに、1年から試合に出させていただくようになりました。しかし、送球に難があった僕は守備が安定せず、1年次は代打での起用が主でした。
来春こそレギュラーを取ると意気込んで、冬のトレーニングに励みました。そのせいもあってか、高2の春にはレギュラーまであと一歩のところまでいきましたが、春休みの練習試合で足首を骨折し、ベンチアウトしました。悔しかったです。
怪我から復帰して自分達の代になり、キャプテンを任せていただきましたが、練習試合は負け続きでした。監督から「主将のせいだ」と発破を掛けられ、初めて人前で泣いてしまいました。
強くなりたい、強いチームを作りたいと思い、冬のトレーニングに励みました。みんなの努力が実り、春先から少しずつ勝てるようになって、野球がすごく楽しくなりました。夏前には地元でそこそこの強豪を倒して、さあ夏大だという6月の初旬、最近英単語帳の文字がよく見えなくて勉強しづらいなぁ、ということに気付きました。
病院で検査した写真を見ると、左目の網膜が剥がれていました。
野球に夢中で、左目が半分見えなくなっていることに気づきませんでした。手術を受け、医者からなんとなく夏は諦めろ的なことを言われましたが、諦めの悪い僕はとにかくバットを振りました。バットを振っている時だけが、絶望感を忘れられるような気がしました。この時期が1番バットを振ったと思います。
最後の夏大はベンチスタートでした。ここで点が入らなければコールド負け、というところで自分が代打になりました。野球をしてから初めて、打席に立ちたくないと心から思いました。ボールが見えず、三振して試合は終わりました。
スタンドに挨拶をした時、応援しにきてくれた方々や、必死に練習したチームメイトに対して申し訳なくて、涙も出ませんでした。
その時はもう野球はやめようと思っていましたが、喉元過ぎれば熱さを忘れる性格だったようで、高校の卒業式では「神宮でホームラン打ちます」と意気込んで、すっかり野球をする気になっていました。
そうして入った東大野球部での4年間は、今まで何も考えて生きてこなかった自分にとって、とても大切な時間になりました。
医者にそのうち見えるようになると言われた左目の視野は戻りませんでした。いつまで経ってもドラ直にタイミングが合わず、大好きだったカーブマシンは嫌いになりました。ノックでは球筋が見えず、何度もトンネルして、新入生練習会で中西助監督に叱られたのを覚えています。
もうやめようと思っていた5月、左投手の練習をしたいので、試合前のバッピをやってほしいと言われました。小中高と「送球に難あり」の異名を持つ自分ができるわけないと思いましたが、やってからやめればいいか、くらいの軽い気持ちでやることにしました。そこでなぜかストライクが入りました。
そして、試合前の先輩方の真剣な表情を見て、惚れました。このチームに貢献したい、という感情の芽生えでした。
そのあと何回か試合前のバッピをやって、これなら自分でもチームに少し貢献できるのかもしれない、と思うようになりました。その1ヶ月後に、投手に転向しました。
投手に転向してからは、なんとかして選手としての自分のアイデンティティーを探そうともがく毎日でした。小中高と病気のことで、球速では勝負できなさそうだとなんとなく思っていたので、それ以外で強みを探そうとしました。自分なりに努力はしたと思います。しかし、貴重な出場機会をいただいても、コロナで流れてしまったり、バイクに轢かれてしまったり、怪我したり、炎上したりと、選手としてチームに貢献することはできませんでした。
最上級生になるまでは、分析やバッピをしている時が1番チームに貢献できているような気がしていました。寮のテレビから連敗脱出の瞬間を見た時は、少し足が震えたのを覚えています。それと同時に、やっぱり選手としてグラウンドで勝利の味を噛み締めたい、という思いが強くなりました。
最上級生になり、選手として結果を残さなければ未来はないと覚悟を決めて、練習しました。春は初めてAチームに上げていただき、レベルの高い試合も経験させていただきました。リーグ戦で戦うとはこういうことなのだな、と身をもって体感しました。
春は同期の初出場を寮のテレビで見る機会が増えました。母性が芽生えたのか、自分の家族がリーグ戦を戦っているみたいで、自分事のように嬉しかったです。と同時に、秋こそはグラウンドに立ちたいという強い思いを抱えて、春を終えました。
そのあと、夏のオープン戦で結果を残すことが出来ないまま、ラストシーズンになりました。
先日の慶應戦での勝利はボールボーイとして、グラウンドで迎えました。入部以来、神宮のベンチに入ったことは一度もありませんが、高校以来の、ベンチに入っているのと同じくらいの、勝利の興奮を覚えました。今更ですが、神宮を目指して入ってくる、東大で勝利を目指して入ってくることの意味を肌で感じました。
選手として続けるべきか、もっとチームに貢献する道を選ぶべきか、悩んだことはこの4年間で何度もあります。それでも結局、ここまで選手を続けてきました。非常に自分勝手だと思います。半分くらいはエゴだと思います。チームとして最下位脱出を目指す中で、それが果たしてベストな選択なのかどうかはわかりません。
ただ、応援してくださる方々、支えてくださる方々、お世話になった方々に対して、至誠を尽くしたかどうかは引退するまでわからない。それまでは一生懸命であろう。というのが自分なりに出した一つの解です。
そして、ここまで野球を続けてこられたのは他でもなく、愉快な同期のみんなのおかげです。オフの日には一緒に釣りに出かけてくれて、ありがとう。
他にも、小中高のチームメイト、トレーナー、恩師、監督、コーチ、応援してくださる方々、支えてくださる方々、たくさんの方々にお世話になりました。引退したら、個別に感謝をお伝えするとともに、予算をオーバーしない範囲で美味しい魚を振舞いたいと思います。
東大野球部は夢を見させてくれる場所です。こんなに充実した環境と、愉快な人たちと、三密な時間を過ごすことができます。舞浜以外にも夢を見られる場所が日本にあることをお伝えできれば、嬉しいです。
引退したあとの次の夢は、自分の船を所有して、みんなを乗せることになりそうです。
今はチームの最下位脱出のために、自分が出来ることを頑張りたいと思います。
乱筆拙文、失礼しました。
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次回は9/24(土)、山田投手を予定しております。
お楽しみに!