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《僕の野球人生》 Vol.6 和田 泰晟 捕手

4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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《僕の野球人生》 Vol.6 和田 泰晟 捕手  (4年/海城)

和田X

 

父と近くの野球場でキャッチボールをしたのが野球をしている最初の記憶です。高く投げてもらったボールを必死に追いかけて捕る。この記憶だけは鮮明に残っていて、最初に野球を好きになったときです。小学2年生の時に、小学校の同級生が多かった近所のレッドサンズという少年野球チームに入り本格的に野球を始めました。入ってみると、土日は毎週遠征、終日練習と本気で全国大会を目指していました。肩が強かった僕はちょっと球が速いおかげでピッチャーをやらせてもらっていましたが、フォアボールを乱発する劇場型ピッチャーでした。それでも、チームメイトに恵まれたこともあり、試合をすれば勝つのが当たり前で勝つことの楽しさを味わわせてもらって、野球にのめり込んでいきました。

 

中学受験を経て中高一貫の海城中学に入学すると、当然のように軟式野球部に入部しました。小学生の頃にたくさん練習した野球貯金があったため、2年生の頃から投手として試合に出してもらい、地区大会でも何度か勝たせてもらっていました。この時は目標もなく、何も考えずにバッターとの勝負を楽しんで、試合に勝てればいいやと野球を無邪気に楽しんでいました。しかし、最後の大会では直前に遊びで肘を痛めたことで、ほぼ登板できず、チームに迷惑をかけた申し訳なさや悔しい思いを持っていたのを覚えています。この時、不完全燃焼に終わったことが高校野球で借りを返すことを決意させました。

 

高校で野球部に入ると、何も目標を持たずに活動していた中学時代とは変わって、限られた場所と時間でいかにして強豪校を倒し、ベスト16に行くことを目標に活動していました。勝つために自分たちで工夫することなど、野球に対して真摯に取り組む姿勢はここで培われました。

 

高校2年生の夏の大会で、帝京高校と戦いました。神宮球場で初めて試合をする経験でしたが、内野手だった僕は相手の打球に全く反応できずボールが足に直撃したり、外野手が見失ってしまうほど高く上がったホームランを打たれたり、試合終了目前までノーヒットに抑えられたり、前日から練習したホームスチールという作戦は披露する機会もなかったり、あっさりコールド負けしました。そんな先輩たちは清々しい顔をして引退していきました。「なんで悔しそうな顔じゃないのか」、「リベンジしたいと思わないのか」と違和感を覚えたのが東大野球部に入ることにつながった気がします。

 

高校3年生になると頑張り次第で東大に届くかもしれない成績を取り続けていたため、とりあえず東大を目指していました。最後の夏大会は2回勝って、ベスト16をかけた試合まで行き、9回2アウトから同点に追いつかれ、延長の末に負けました。高校生活最後の打席は相手のエースからあっさり三球三振していました。そこそこの相手にいい試合ができても満足感みたいなのは感じませんでした。

 

 

なんとか現役で東大合格した後、コロナ禍で新歓は行われず、とりあえず野球がしたいなと野球ロスになっていた僕は家の前で素振りだけは毎日続けていました。やることもなく悶々とした日々の中で高3夏の大会の映像を見ていると、負けた時の悔しさ、不完全燃焼な気持ちがふつふつと思い出されました。甲子園に出てきた選手たちと勝負ができる環境に身を置いてリベンジしてやりたい気持ちが次第に強くなり、入部を決意しました。

 

決意とは裏腹に入部すると、それまでやってきた野球のレベルの差を痛感しました。自主練をする4年生の置きティーの打球音、頭の高さから永遠に落ちずに自分のグローブに届く別府(4年/外野手/東筑)とのキャッチボール。僕の実力では到底およばない光景に、あっさり自信を喪失しました。

 

そして、追い打ちをかけるかのように下級生の間は怪我の連続でした。

 

大学1年生の間はほとんど野球を満足にできた記憶がありません。入部当初は受験のブランクを経たことで、ボールを投げたら最後、次の日からは肩が痛くて一切腕が振れないという日々でした。それでも、電車で1時間かけリハビリに通い、何とか投げれるようになっていきました。いよいよ実践復帰と思ったのも束の間、肉離れを起こし、癖となって再発を繰り返しました。同期がみんな試合に出場していく中、1人だけ球場の裏の通路で体幹や柔軟を行う毎日でした。何のために野球部に入ったのかわからない、そんな日々でした。

 

怪我のせいでメンタルが削られると、「こんなに怪我をして選手として貢献できないなら、学生コーチになったほうがいいんじゃないか」そんなことばかりを考えるようになっていました。

 

そんな中、たまたま春先の実戦形式の練習で結果を残したことで、春のフレッシュでは4番として起用されました。自分が結果を残せない一方で、同期が活躍してアピールに成功すると、同期に嫉妬して、一緒に頑張ってる同期の活躍を喜べませんでした。そんな性格の悪い考えでプレーがうまくいわけがなく、Aチームに呼ばれても、自分や同期の結果を気にして思い切ったプレーもできない悪循環にはまっていたのです。

 

そうこうしているうちに野球人生最大の転機が近づいてきました。

 

大学2年生の夏のことでした。どういう流れか覚えていませんが、練習後の整備をしていると僕たちの学年には捕手がいなかったことを問題視した秀島(4年/学生コーチ/東筑)が「俺とお前のどっちかが捕手になった方がいいと思う。」という話をしてきました。今更やったことないポジションに挑戦するなんてって思いながら、適当に相槌をうって話を合わせていました。

 

そして、秋のリーグ戦が差し迫ったある日、結果が残せなかったため、Bチームに落とされました。

 

リーグ戦に挑む上でまだ必要な人材ではないという烙印を押されたようでした。自分なりに何かを変えなきゃいけない。チームが必要とする人材にならないといけない。そんな時に、チームの未来を見据えて話をしてきた秀島を思い出しました。2年後、必要なのは、足が遅くてすぐ肉離れする外野手より、未経験から始めたキャッチャーの方が必要な人材なのかもしれないと感じるようになったのです。

 

結局、楽観的な僕は頻発していた肉離れの原因という走る動作が減ることや、肩には多少の自信があったことを根拠に、ポジション転向を決意しました。

 

次の日から僕の捕手人生が始まりました。ボールは一切前に止まらないし、股関節が硬すぎて滑らかに動けない。ほんとにポジション転向して上手くいくんだろうか。果たしてポジション転向したことでチームの戦力になることができるのだろうか。そう自問自答する日々でした。

 

転向して2カ月がたったころ、なんとかオータムフレッシュで初めて対外試合に出してもらっても、何もうまくいかず、簡単にパスボールし、投手をリードできず自分が出てからコールド負け。自分じゃなくてやっぱり内田(3年/内野手/開成)がキャッチャーをやった方がいいんじゃないかと弱気になっていました。

 

最初からうまくいくはずないのは分かっていたのに、どこかで勝手に期待する自分が自分を苦しめていました。ほかの選手はみんなずっとキャッチャーをやってきた人ばっかり、うまくいっていいわけがないだけなのに。

 

秋のリーグ戦が終わり、全員で練習するようになると、松岡さん(R5卒)とも練習をさせてもらうようになりました。東大野球部史上最高のキャッチャーに直接指導してもらうなかで、自分が少しずつ上手になっている感覚も出てきました。そこで、僕は松岡さんの事を超えられない壁だと思い、ちょっとずつ成長することに満足していました。その壁と向き合うことができませんでした。

 

3年生になると、春のリーグ戦でベンチ入りを経験し、何度か代打で試合に出してもらって満足している自分がいました。松岡さんが打てなくても、来年から試合に出られればいいや。そんな気持ちに甘んじていたのです。

 

変わらないまま夏を超え、秋のリーグ戦を迎えていました。

 

慶應に勝った時もベンチには入っていました。ベンチに入っていてもチームの勝利に貢献できていないことで喜び以上に悔しさを感じていました。帰りのバスで勝利の余韻にチームが浸っている中、東大野球部が勝ったときに自分がマスクをかぶっている光景が目に浮かびませんでした。自分で東大野球部の勝利に貢献することから、試合にでることに目標を下げていたのです。

 

この日から意識は大きく変わりました。試合に出るための努力じゃない、試合で勝つための努力を行う必要があったのです。松岡さんへの憧れを捨て本気で超えようと、チームを勝たせられる捕手になろうと練習に励むようになりました。

 

そんな覚悟を決めた4年生は全力で駆け抜けているうちに、あっという間でした。

 

春のリーグ戦は1試合も勝てませんでした。善戦することはあっても勝つことには届きませんでした。引退まで3カードを残して未だ勝つことができでいません。残り時間は少ないですが、チームを勝たせる捕手として「勝利」という結果だけを求め、足掻き続けます。

 

ここまでの野球人生を振り返ると、たくさんの方々に出会い、支えていただきました。まず、本格的に野球を始めることになったレッドサンズの指導者の方々やチームメイト。橋爪代表には卒部して10年近く経つのに、六大学野球で続けてるはっしーや僕を気にかけていただきました。

 

次に海城高校野球部の指導者やチームメイト。捕手に転向してからは梶監督の「探る」という言葉で視野を広く持つことを常に意識してきました。中村先生には僕がベンチに入っただけで何度も神宮球場まで足を運んでもらいました。同期のみんなには神宮で応援してもらったり、直接会ったときはいろんな言葉をかけてもらったり、励みになっていました。本当にありがとう。同期の母親大応援団はいつも中継の映る位置を陣取っていて、少し恥ずかしい気がしなくもないですが、来ていただきありがとうございます。

 

応援部のみなさん。いつも応援していただきありがとうございました。応援部の作り出す応援はどんな時でも諦めずに戦う活力になるし、自分の実力を何倍にも引き出してくれました。一緒に奪出を達成しましょう。

 

そして間違いなく一番支えてくれた両親。

ここまで野球を続けさせてくれてありがとうございました。天邪鬼な僕は野球のことなど胸の内を自分から話すことはあまりなかった気がします。それでも怪我した自分を励ましてもらったり、リーグ戦に加えてオープン戦にもたくさん足を運んでくれたり、寮に入りたいというわがままを聞いてもらったり、ずっと支えてもらいました。最後は結果で恩返ししたと思います。そして、改めてすべてが終わったら感謝の言葉を伝えたいと思います。

 

最後に、東大野球部の選手としてたくさんの東大野球部員に支えられてきました。まず初めに、井手監督、大久保助監督、鈴木部長には下手くそな僕を辛抱強く起用して見守っていただき本当にありがとうございます。試合に出ることは叶わない学生コーチ・マネージャー・アナリストにはノックを打つなど下手くそな自分の練習に付き合ってもらったり、他大学の分析でほしいデータを事細かに求めたり、分析しやすいようにデータを整えてもらったり、リーグ戦の運営など何から何までお世話になりました。本当にありがとうございます。勝って一緒に喜びを分かち合うことで恩返しをします。あと、キャッチャーズの後輩たちには経験の浅い先輩で頼りなくていろいろ迷惑をかけたと思います。それでも一緒にここまで歩んできてくれてありがとう。そして同期にもたくさん支えられてきました。みんなは僕の自慢だし、いなかったら、今の自分はいなかったと思います。本当にありがとう。あと1カ月後には引退、最後まで走り抜けてこのチームで勝って、奪出しよう。

 

ここでは挙げきれないほど多くの方々に支えられてここまで野球を続けることができました。改めて、感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

長くなってしまいましたが、最後まで拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。

 

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次回は明日9/25(月)、向原拓弥内野手を予定しております。
ぜひご覧ください。