《僕の野球人生》 Vol.26 長谷川 亮太 副将
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
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《僕の野球人生》 Vol.26 長谷川 亮太 副将 (4年/外野手/灘)
【幼少期~小学校】
幼い頃からリーダー気質なところがあったと思います。幼稚園や小学校の中では体も大きい方で、声も態度もデカかったのでいわゆるガキ大将のような感じでした。小学2年生の家庭訪問で担任の先生から「ハッセ(当時のぼくのあだ名)はジャイアンみたいな子です。」と言われ、それがショックで(というよりはそれを聞いた祖母の顔やリアクションがショックで)それ以降自分の能力をひけらかしたり、威張ったりすることが減ってきました。とはいえ、勉強はできる方でドッジボールも強かったので自分で言うのもなんですがクラスの人気者でした。そんな小学校時代を過ごしました。体が大きかったので、近所の少年野球チームに誘われましたが、両親が共働きということもあり入団はしませんでした。そのため、野球は好きでしたが、土日に父と家の前や公園でキャッチボールや簡易的なバッティングをしたり、たまにバッティングセンターに連れて行ってもらえたりするくらいで、いわゆる「野球」は全くやっていませんでした。その代わり、両親はたくさんの習い事をさせてくれました。ピアノ、水泳、ドラム、公文、お絵かき、塾...そのどれもが自分に影響を与えてくれていますが、その中でもかめはめ波が撃てるようになりたいという理由で始めた空手は、幼稚園の頃から7、8年やってもかめはめ波こそ習得できなかったものの、突きや蹴りの強さの習得だけでなく、礼儀作法や「自分の力は人を傷つけるために使ってはならない」という考え方を学び、人格の芯の部分を形成してくれ、非常に貴重な経験になりました。話が少しそれましたが、野球をやりたいという気持ちは強く、小学5年生の時に初めて京セラドームに行き生で観戦したプロ野球の試合で、2安打完封負けしたオリックスを見て、オリックスファンになり、ますます自分もプレーしたいという思いが大きくなっていきました。とにかく早く中学校に入って野球をやりたいと思っていました。
【中学校】
中学校に入学し、ようやく野球ができると思っていたぼくを待っていたのは想像以上に過酷な練習でした。といっても初めのうちは近くの川の周りをひたすら走るばっかで、それが終わっても上級生の練習の補助。ボールを触れるのは隙間時間を見つけてやるキャッチボールや壁当てだけでした。受験勉強を経て、文字通り肉団子の如く太っていたぼくは当時の監督の指名でキャッチャーを任されましたが、野球未経験で野球の動きも野球脳も備わっていないぼくにとってキャッチャーというポジションは難しすぎました。たまに上級生の練習に混ぜてもらっても、めちゃくちゃな動きを繰り返し、先輩に呆れられたり、怒られたりしまくりの日々でした。そんなキャッチャーが試合で使われるはずもなく、結局上の代が引退し、自分たちの代が始まるまで公式戦はおろか、練習試合にすら出ることができませんでした。試合には出られませんでしたが、控えのキャッチャー枠で同期の中では珍しくベンチメンバーには入っていたので、代替わりのタイミングの学年ミーティングで多数決の末ぼくはキャプテンになりました。キャプテンといっても、野球歴せいぜい1年ちょいで自分のことでいっぱいいっぱいのぼくにはチームをうまくまとめられた気はしません。1学年上のキャプテンだった植村さん(R4卒)の見よう見まねで練習を仕切ったり、試合で声を出したりするだけでした。それどころか試合に出るようになってぼくのキャッチャーとしての無能さが露呈しました。ランナーを出すと2盗は当たり前、ひどいときには3盗もされるような有様。本来キャッチャーはグラウンド全体を見渡して、相手をどう抑えるかを考えながら守るポジションであるはずなのに、当時の試合中のぼくはセカンドとショートが辛うじて見えるくらいの視野しかなかったと思います。そんなぼくを見た新監督は奮起を促すために「長谷川はチームのウィークポイントだ」と言いました。(言われたときはウィークポイントの意味が分からず、適当に話を合わせていましたが、帰り道で意味を調べて心臓がきゅっとなりました。)それに加えて治るまでにまあまあ時間がかかる骨折をしてしまい、練習をしなければならないのにできない、歯がゆい期間を過ごしていました。この頃のポジ要素としては川の周りを走りまくって長距離走が速くなったくらいです。そんな状態で中学野球最後の春を迎えました。この春の合宿で見るに見かねた元監督(顧問)がぼくに外野へのコンバートの提案をしてくれました。当時のぼくはキャッチャーとして頑張ってきたことが無駄になる気がしてショックを受けましたが、父の「心機一転頑張れるんちゃう?」という言葉や、次のキャッチャーとしてあまりにも頼もしすぎる古川を見てコンバートを決意しました。このコンバート以来今に至るまで基本ずっと外野手をやってきたのでぼくの野球人生において大きな転機となったと思います。コンバートしてからは今までみんなが受けているのを見るだけだったノックを受けたり、試合では守備で割と自由に動けたりかなり伸び伸びやらせてもらいました。バッティングも調子が上向き、最後の夏の大会ではチームのピンチを凌ぐライトゴロを処理したり、勝利に導くヒットやシード校のピッチャからのヒットを打てたりして個人的に満足な結果を残すことができたので、達成感に浸っていました。大会で勝利をつかみ、強豪相手に善戦した経験を活かし、みんなで高校野球も頑張ろうと考えていました。こんな感じで中学野球部を引退しました。
【高校野球】
中高一貫校ということもあり、中学3年生の夏休みから高校の練習に入れてもらいました。中学野球を引退するときに抱いていた期待とは裏腹に中学から高校野球部に入部するのはぼくだけでした。さみしいなと思うこともありましたが、高校では中学とは違い監督や顧問の先生方の指導があり、先輩も中学の時より厳しかったので日々の練習についていくのに必死でした。とはいえ、練習以外の部分では先輩もぼくが1人にならないように配慮してくれ、顔とかが似ていたのもありオコエというあだ名をつけて、親しみやすく、優しく接してくださったので、居心地も良く、高校野球部に馴染むのに時間はかかりませんでした。監督が考える練習は技術の向上はもちろん、野球をするうえで必要なフィジカルの要素についても兼ね備えており、今まで漠然とノックを受けたり、バットを振ったりしていたぼくにとってはとても新鮮なものでした。しかしそれと同時に身体への負担も大きく、冬前にオスグッド病という、治るのに結構時間がかかる病気になり、しばらく走ることができなくなりました。先輩方が体力づくりのためにきついインターバル走などをしている中、ほとんど1日中ウェイトルームで過ごした日々は身体よりも気持ちの疲労の方が大きかったです。春先にようやく治り、オープン戦では代打で1打席もらったりするようになりました。なかなかヒットは打てませんでしたが、春の遠征の試合で初ヒットを打てたときに、ベンチから自分のことのように喜んでくれた先輩方の顔や声は今でも忘れられません。(そのあとすぐに牽制死してベンチに戻るときは気まずかったです。)また、4月には新高(高校入学のタイミングで編入してくる生徒)の石原が入部してくれました。石原は野球未経験でしたが、高校野球部で唯一の同期が入部してくれたというのもあり、かなりほっとしました。そこから2学年上の先輩の引退まではあっという間でした。夏の大会は人数が少なかったのもありベンチには入りましたが、何もすることができませんでした。2学年上の先輩の引退のタイミングで1学年上の先輩が続々と退部し、気づけば1年と2年合わせて5人になりました。中3の後輩がたくさん入部してくれたため、練習はなんとかできましたが、試合はそうはいきません。秋の大会や春の大会にはラグビー部やソフトボール同好会の方々に助っ人に来てもらいなんとか出場しました。結果はチームも個人も散々でした。慣れない内野の守備では足を引っ張り、ヒットも打てませんでした。4月になり、後輩が試合に出られるようになってからもあまり活躍した印象はありません。ただ、先輩がほとんどいなくなった関係で、この年から外野手長的な立場になり、外野の守備では成長を感じられる1年になりました。打撃の好不調の波が激しく、打てないときは全く打てませんでした。夏の大会前も不調で、結局復調のきっかけも掴めず、迎えた夏の大会では3打席ノーチャンの凡退。迎えた4打席目で長打を打つことができて、少しほっとしたのを覚えています。しかし、試合には負け、1学年上の3人が引退。ついに最高学年となる1年が始まりました。石原がやらないと言い、ほぼ即決でキャプテンになりました。人数の心配はましになりました。経験豊富な頼もしい後輩たちが支えてくれました。個人としては、秋の終わりに初めてのホームランを打ちました。厳しい冬の練習でさらに飛躍し、最終学年で打ちまくろうと思いました。冬が終わり、さあ春の大会で頑張ろうというときに石原が退部しました。また同期がいなくなり落ち込みましたがやるしかない、と迎えた春の大会、夏までの練習試合に臨みました。打撃の好不調は相変わらず激しく、絶不調の時に監督からいただいた助言をきっかけに調子が人生で一番よくなり、その状態で最後の夏の大会を迎えました。その試合でも打つことができ、試合に負けたものの有終の美と新聞に書かれました。しかし、学年で部員が1人もしくは2人で駆け抜けた高校野球生活に不完全燃焼感を抱いていたので、大学でも野球をやりたいと思うようになりました。こうして東大野球部を目指すようになりました。引退後は勉強をしながら、父の所属する草野球チームにたまに試合に出してもらっていました。結果に縛られず、のびのびとする野球に触れたことで受験勉強中でも野球に対する熱意を失うことはありませんでした。
【大学野球】
現役での合格は叶わなかったものの、1浪で何とか合格することができました。野球部にも入部届を出し、迎えた新入生の顔合わせzoomでは、友達ができるのか、という不安感から自己紹介で一発ギャグを無限に持っているという嘘をついてしまいました。コロナの関係でチームへの合流は遅れ、初めての対面での顔合わせは7月の頭でした。共通の知人がいた健(4年/投手/仙台一)や三田村(4年/投手/奈良学園登美ヶ丘)はその日から話しかけてくれ、矢追(4年/外野手/土浦一)は知り合った初日になぜか家に連れて行ってくれました。それもこれも全部ギャグ無限所持ジョークのおかげだと思っています。(新天地で知り合いができるか不安な人はぜひ使ってみてください。)練習への参加は8月からでした。今までの野球部とは比べ物にならないくらいレベルが高い練習や試合を観て不安にもなりましたが、同期がいると楽しいというか心強いというかどんなことも乗り越えられる気がしました。しかし現実はそんなに甘くなく、1年の冬まで何もできませんでした。さらに木製バットになったのが影響したのか左手の手首を痛め、病院に行くと有鈎骨にひびが入っていました。折れていれば除去手術をするのですが、9割ひびという状態だったので時間を置いて骨がくっつくのを待たなければなりませんでした。その間はバッティング、守備はもちろん、トレーニングも骨の治りをよくするために控えるよう言われ、何もできない冬が始まりました。この冬は入部してから実践練習の機会が少なかった同期にもチャンスが与えられ、みんなが結果を出している横で焦りだけを感じていました。その焦りからか、復帰しても実践の守備でミスを連発しました。バッティングもまた折れるかもしれないという恐怖感から強く振れませんでした。当面の目標だった2年春のフレッシュに向けて結果を残さなければならない時期に、たいした結果も残せず 結局春はメンバーに入ることはできませんでした。同期や後輩がたくさん出ているのに自分はスタンドから観ることしかできないのが悔しくて、家では涙が止まりませんでした。秋こそは自分が活躍して勝利をつかむことを誓いました。そこから夏のオープン戦期間少しずつ出場機会も増え、バッティングでアピールできることも増えました。また、夏の終わりごろに入寮のメンバーに選ばれました。そこまで目立った結果を残していなかったので驚きましたが、自信につながりました。秋のフレッシュ2戦目、3戦目ではメンバーに選ばれ、代打として途中出場し、計4打席チャンスをいただきました。自分にとって神宮の打席はご褒美のようなものだったので、緊張はあまりせず楽しかった記憶があります。結果は悪くない当たりもあったもののすべて凡退でした。強豪高校出身の投手を相手に戦った経験は後に活きるだろうと前向きに捉えました。打席の内容が良かったのかその後のオータムフレッシュのメンバーにも選ばれ、結果を残したため初めてAチームに上がることができました。初めてのA戦では見たことない速いストレートやキレッキレのスライダーを投げられ、リーグ戦ではこのレベルのピッチャーと対戦することになるのか、と ワクワクと不安が入り混じったような感情になりました。今思い返せば、この頃が一番色々なことを考えながらのびのび野球をやっていたと思います。リーグ戦のベンチ入りが近づいている気がしていました。その後の冬期間ではなかなか実践でアピールできない中、体調不良の矢追に代わりもらった最後のチャンスで松岡(4年/投手/駒場東邦)からスリーベースを打ち、滑り込みでAチームに入りました。春前にはオープン戦でたくさんチャンスをいただき、自分の中でもかなり良い打率、出塁率を残しました。しかし、守備でミスを連発し、そこから実践のチャンスはめちゃくちゃに減りました。結局、春リーグ中の5月半ばにBチームに落ちました。Bチームでは最高学年でした。練習を仕切らなければならない立場でした。高校時代に似たような環境を経験していたこともあり、Bチームのキャプテンのような役割を担うことが多くなりました。B戦では1日1本ずつヒットを打っていました。しかし、Aチームに上がるようなアピールはできませんでした。夏の合宿が終わったタイミングで一度A戦のメンバーに選ばれました。ここでのアピールがかなり大事だと思えば思うほど体が硬くなり、代打でいただいたチャンスで3球3振してしまいました。余計にAチームへの道が遠のきました。1年前のこの時期のびのびやっていたのとは真逆で、結果を意識するあまりどんどん固まり、結果が出ない、という悪循環に入りました。結局、秋もずっとBチームでした。あっという間に1学年上の先輩方が引退し、自分たちが最終学年になりました。引退前の和人さん(R5卒)から「りょうたと芳野(3年/外野手/西大和学園)はBチームの中でも周りを見て、みんなが上手くなることを考えながら練習してる」と言って頂き、新チームでもそれができたらいいなと漠然と考えていました。秋リーグが終わり、役職決めの学年ミーティングがありました。自分は役職を任せてもらえるのかと心配しながら臨みましたがミーティングも後半に差し掛かり副将決めのときに菊地(4年/内野手/サレジオ学院)がぼくを推薦してくれました。あまりに突然のことに気持ちの整理がつかず、みんなの前で何を話したかあまり覚えていません。副将候補を抜きにした4年生の長い話し合いの末、松岡とぼくが副将に選ばれました。梅林(4年/内野手/静岡)を中心とした今年のチームでは上級生だけでチームを運営するのではなく、下級生にも積極的に参加してもらうことを目指しました。これまで最上級生だけでしていた幹部ミーティングに下級生からも数人参加してもらい、下級生目線の意見を聞いたり、匿名性の目安箱を設置し、様々なチームを良くするための意見を集めたり...Bチームで長く過ごしてきたぼくはその下級生たちとの橋渡しの役割を任されました。元々、新チームになったら下級生ともしっかりコミュニケーションを取ろうと思っていたので、そのようなぼくにこのような重要なポストを与えられたことは、光栄でありながら、畏れ多いような気もしましたが、とにかく今まで通り、下級生とコミュニケーションを取り、個人としては最後の1年で結果を残せるように練習に励みました。蓋を開けてみると、チームへの意見のほとんどはコミュニケーション不足で起こる問題でした。そのため、改めて連絡の徹底をしたり、昨年からチームで使い始めたDiscordをさらに活用したりするなど大小様々なことがこの1年で変わりました。それは選手起用に関しても同じでした。井手監督が指揮を執ってきたここ数年と違い、この1年は下級生も積極的に起用することが多くなりました。下級生もチームの中心になりやすい環境を目指し、副将としての仕事をすればするほど、選手としての自分のリーグ戦出場が遠のく気がして、そのジレンマに悩み、幹部ミーティングに参加するのがつらいことも何度かありました。それを凌駕するほどの結果を出し、実践でアピールする必要がありました。しかし、下級生の勢いはすごく、またそれを意識すればするほど打席の中で緊張してしまい、3振しかしない時期もありました。結局、この1年間Aチームに上がることはできませんでした。ぼくはこの4年間リーグ戦でチームのために直接何も貢献することなく終わります。この1年のリーグ戦では声出し応援が解禁となったスタンドから野球部の応援団長として間接的にでもチームの勝利に貢献できるように声を枯らしてしています。秋の法政戦では勝利を掴んだものの、まだ勝ち点は取れていません。最後のカード、立教戦で勝ち点を取り、最下位“奪出”を目指して喉限界突破、声量MAXで頑張ろうと思います。
これまでの人生を振り返ると、一つひとつの出会いが大きな影響を与えてくれたと思います。ジャイアンのままでは、また 空手で学んだ礼儀や考え方がなければ、キャプテンや副将になるような人間ではなかったと思うし、中学の時に外野手へのコンバートを提案してくれる監督や顧問の先生方がいなければ、今まで野球を続けられていたか分かりません。部員が5人の時や同期がいない時にしか経験できないことや、得られない考え方もあったと思います。大学での井手監督をはじめとする首脳陣の方々、先輩、同期、後輩、チームのトレーニング指導をしてくれた豊田さんや高木さんとの出会いは、自分の野球人生の最後4年間を本当に豊かなものにしてくれました。家族はもちろん、人生で出会ったすべての方に感謝しています。全員への感謝を書くときりがないのでここでは直接伝えるのが恥ずかしい人だけにさせていただきます。
応援部のみんなへ
いつも素晴らしい応援を部員に届けてくれてありがとう!声出し応援解禁当初は不甲斐なかった野球部員のスタンド応援をどうにかするべく、迅速に動いてくれて 応援練習を企画してくれ、スタンドの野球部員も応援に加われるようにしてくれたので、我々も思う存分声を出せています。スタンドから間近で体感する応援は迫力がすごく、本当に尊敬するし、感謝しかありません。ラスト1カード、今まで応援してくれたみんなのためにも絶対に勝てるように頑張ります!一緒に応援しましょう!
後輩へ
実力が伴っていないぼくが副将になったときに、頼りないと思った人は何人もいると思います。そんな中、本気で喜んでくれた芳野や、相談してくれる後輩がいたから頑張れました。ありがとう!また後輩が頼もしかったからこそ、下級生との橋渡し役としてぼくが副将になったんだと思います。みんなと野球できるのはあと数日ですが、すこしでもみんなが上手くなれるようにサポートします!
同期へ
同期がいない時期を過ごしたことがあるぼくにとって、大学4年間の同期のみんなは本当にかけがえのない存在です。つらい時も楽しい時も一緒に過ごした時間は一生忘れないと思います。特に、新チームが始まるときに「はせりょーがベンチ入りする影響は大きいと思うから頑張れ!」と奮起を促してくれた矢追、Aチームの練習が終わった後Bチームの練習に来てはしょぼくれた顔をしてるぼくに冗談も交えて絡んでくれた和田(4年/捕手/海城)、いつでも悩みを聞いてくれ、関西弁マシンガントークで笑わせてくれる菊地の3人は落ち込んでいるときに元気を出してくれる存在で 本当に感謝しています。来年の総長杯に同期全員でもう一度野球することを夢見ています。これからも仲良くしてください!最後のリーグ戦では集大成をすべて出して絶対に勝ち点とるぞ!
両親、妹へ
決して経済的にも体力的にも余裕がないはずなのに 幼い頃からやりたいと言ったことはすべてやらせてくれて、いろんな経験をさせてくれて本当にありがとう!私立の進学校に入っておきながら浪人したり、大学でも野球を続けるためにお金を出してくれたり、頭が上がりません。それだけにリーグ戦で活躍する姿を見せて少しでも恩返しがしたかった。申し訳ない気持ちでいっぱいです。浪人が終わるまで毎日お弁当や補食のおにぎりを作り、早朝や夜に駅までの送迎をしてくれ、大学に行ってからは練習試合で結果が出せるように中山寺にお祈りに行ってくれていた母。野球の楽しさを教えてくれ、中学以降はほぼすべての試合に観に来ては、打てないぼくに情熱のこもった指導をしてくれた父。大学で結果が出なくても、最後まであきらめるなと兵庫からいつも熱い言葉を送ってくれました。妹は応援してくれたり、お守りを作ってくれたり、また、ピアノや部活を頑張っている姿を見て元気をもらっていました。これからの人生で少しずつ恩返ししていきたいと思います!
いつも応援してくださるファンの皆さんもここまで読んでくださり、ありがとうございました!最後の最後まで全力を尽くして頑張ります!
P.S.
中学高校で経験してきた野球部では、部員のほとんどは似たような経歴で入部してきました。そのため、多少の諍いはあっても、大きな意見のぶつかり合いはあまりありませんでした。大学の野球部となるとそうはいかず、いろいろな経歴の部員が入ってきます。そうした部員はそれぞれ色々な方向を向いています。いろいろな方向を向いた部員がいると意見のぶつかり合いが起きます。主将、学生コーチを中心とした幹部は、その意見がぶつかり合う集団をまとめ、できる限り皆が同じ方向を向いた一つのチームにしなければなりません。それが本当に難しかった。ぼくの力不足、経験不足で 不満を抱きながら野球をしてきた部員や我慢してくれた部員には本当に申し訳なく思います。
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次回は明日10/19(木)、石井悠人主務を予定しております。
ぜひご覧ください。