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『僕の野球人生』vol.5 平田 康二郎 投手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」 vol.5 平田 康二郎 投手(4年/都立西)

僕の野球人生平田 2 3

人は自ら望んで手に入れた責任から、時として逃れたくなってしまうものです。僕自身も例に漏れず、そんな弱い人間の一人です。

 

野球に出会ったのは幼稚園の頃でした。最初は兄やその友人に混ぜてもらって遊んでいましたが、小学校に入ってからは野球仲間が増え、放課後は毎日のように野球をして遊んでいました。地元の少年野球チームには入らず、近くに新しくできたスクールでのびのび野球を楽しむような、そんな少年時代だったと思います。

 

中学の野球部では、キャッチャーとしてレギュラーになったと思えば後輩にポジションを譲り、そこからファースト、セカンド、ライトとコンバートを繰り返していました。最終的には8番ライト、通称ライパチに収まり、自分の野球能力に限界を感じ始めたのもこの頃です。

 

順風満帆とはいえない中学野球。実力が伴わない中でも期待をかけられ厳しい指導を受ける日々でしたが、野球を嫌いになったことは一度もなく、中学野球を引退するとすぐに硬式の外野手用グラブを買いに行きました。高校選びの基準は野球部の人数の少なさ。確実にレギュラーになり試合に出られそうなところを受験するという、なんとも弱気な状態で高校野球に飛び込んでいきました。

 

高校は理想通りの弱小校でした。外野手としてスタートし、新チームになるとサード転向。打撃も好調で、中学時代の「ライパチ」から一転「5番サード」という強キャラになっていました。
そんな高校野球生活ですが、一番の転機は1年の夏休みのこと。新チーム始動直後、ピッチャーをやっていた同期が病気で離脱することになりました。人数の少ない弱小校ゆえ代わりのピッチャーを作り出す必要があり、少し肩の強かった僕がピッチャーも本格的にやるようになりました。

 

そこからはあっという間で、2年春の大会で初めて背番号「1」を貰って以来、チームの「エース」と呼ばれる立場になってしまいました。夏の大会では明大明治高校を相手に先発し、3回もたずノックアウト。あの時流れていた「ハイパーユニオン」や「紫紺の歌」は、今でもずっとトラウマのままです。

 

ピッチャーに転向してから努力して掴んだエースナンバー。自分で手に入れたものなのに、先輩方の夏を終わらせてしまった責任は重くのしかかり、エースとして投げること自体をプレッシャーに感じるようになっていきました。

 

そんな中、当時の監督に言われた印象的な言葉があります。
3年春の大会、敗退後のミーティングで味方の守備に苦言を呈した僕に対して、「たとえエラーが出ても抑えるのがエースだ。周りのせいにしているようではエースとは呼べない。」
ハッとしました。そこからは、チームの命運を背負うエースとしての覚悟が少しずつ固まったような気がしています。結局最後の夏は太陽(鈴木太陽投手/4年/国立)のいる国立高校に敗れて終わりましたが、自分なりに力を出し切れたと思います。

 

卒業後の進路は東大野球部一択でした。

 

実は小さい頃から何度か試合を見に行っていて、14年前に斎藤佑樹さん擁する早稲田大学に勝利したあの試合も現地で観戦しています。
それ以来、高校の先輩にあたる桐生さん(H29卒)のベストナイン獲得、宮台さん(H30卒)の大活躍、15年ぶりの勝ち点獲得など、東大野球部ファンの一人としてその姿を追ってきました。
浪人を経てラーメンで大きくなった身体も東大野球部入部への自信となり、合格を手にすると迷わず入部を決断しました。

 

憧れの場所に入ってからは、再び「エース」を掴むための挑戦が始まります。つまり、責任ある立場に自ら望んでなるということです。それなりに濃密な日々だったはずですが、本当にあっという間に全てが過ぎ去っていきました。
今でも引きずっている下半身の故障から始まり、1年秋のフレッシュで神宮デビュー、入寮、2年春からのAチーム入り、春フレッシュでの大炎上、2年秋のリーグ戦デビュー、秋フレッシュでの勝利。順調なペースで成長を遂げ、それなりに成果も出せて、この時はただただ楽しいばかりでした。

 

3年生になると、数少ないリーグ戦経験者として投手陣の中心になる必要があり、当然それ相応の自覚も芽生えてきました。背番号「11」を希望したのもそんな決意からです。試合を決める場面での登板も増え、ついに秋のリーグ戦では先発も任されることになります。
自分のピッチングがチームの勝敗に直結する。その責任を身に染みて感じながらも、途中まで最優秀防御率を争うほどの良い結果を残すことができました。ただ、後半戦で勝ち点のかかった試合、最下位奪出に向けて絶対に負けられない試合では結果を残すことができず、またもや先輩方の夢を終わらせてしまいました。

 

そして迎えたラストイヤー。
「エース」の称号を手に入れたと思っていました。自分のピッチングでチームを勝たせられると思っていました。

 

しかし、結果的には受難の年となっています。
打ち取ったはずの打球が野手の間を抜けていき、無駄な四死球でランナーを貯め、味方のエラーも絡んでしまい、止まらない連打・・・。

 

確率論ではとても説明のつかないくらい、ありえない数のヒットが続き、為す術もないままみるみる失点が重なる。
そんな試合が今年だけで何回あったことか。

 

正直、何度も逃げたくなりました。あれだけ立ちたかった神宮のマウンドが怖くなりました。味方に責任転嫁したくなることもありました。でも、何とかここまでマウンドに立ち続けています。
もしかしたら、また平田で負けかと思われているかもしれません。先のある後輩にマウンドを譲れと思われているかもしれません。

 

それでも、僕はチャンスをいただける限りマウンドに立ち続けたいと思っています。それが自分の果たすべき責任であり、生き様なのです。
自ら掴み取ったその責任から逃げることなく、どんなにみっともなくても役割を全うする。残されたわずかな期間、がむしゃらにもがいてみようと思います。

 

今の状態を見ればもはや「エース」ではないです。でも、最後まで「エースっぽく」振る舞ってやります。責任から逃げない強さが、少しでもチームのためにプラスになると信じて。

 

僕の競技野球人生は大学で終わりになります。

 

今までお世話になったチームメイト、指導者の方々。どんな時も応援してくれた応援部、ファンの方々。ここまで近くで支えてくれた家族、友人たち。その他関わってくださった全ての方々に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。落ち着いたらまた直接伝えさせてください。

 

どれだけ苦しいことがあっても、野球を嫌いになることは一度もありませんでした。そのことは自分でも誇りに思うし、これからも野球が身近にある人生になることでしょう。

 

僕の野球人生は、まだまだ続きます。

 

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次回は9/26(木)、森岡舜之介投手を予定しております。