《僕の野球人生》 Vol.21 名畑 諒介 学生コーチ
4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。
——————————————–
《僕の野球人生》 Vol.21 名畑 諒介 学生コーチ (4年/並木中等教育)
舞台は明治神宮野球場。大勢の観客の歓声と視線が注がれるグラウンド。
3点ビハインドの9回裏2アウト満塁、僕の打順がやってくる。
「3番、ショート、名畑君。背番号1」
相手のエースの初球を振り抜く。感じたことのない、会心の感触。
打球は伸びて、レフトスタンドに飛び込んだ。逆転サヨナラ勝ち。僕はこの試合のヒーロー。1塁を回ったあたりで、右手で拳を高々と突き上げる。
―――痛い。鈍い衝突音と右手の激痛で僕は目を覚ました。突き上げた右手は、まるでもう二度と輝かしい方向へ伸びることのない「僕の野球人生」を象徴するかのように、最後まで伸びきることなく狭いアパートの部屋の壁によって食い止められてしまった。
何だこれ、という雲行きの怪しい始まり方ではありますが、これは少し前までの僕が何度も夜中に経験していた実話です。
こんなにも身の程知らずで、現実から程遠い夢を、何度も見ていたのです。
それでも、過去の僕にとってこのような光景は、決して夢の中の世界ではなく、努力すればいずれ必ず届くと思っていた“目標”でした。
そんな僕の小学校から続いた10年以上の野球人生を振り返りたいと思います。
最終シーズン真っ只中、野球人生の終わり際で感傷に浸っているので、大変長くなるかと思います。お時間のある際に、少しずつでもご覧いただけたら幸いです。
小学生。野球人生のきっかけと、恩師との出会い。
小学3年生の時、僕は祖父と近所の公園でキャッチボールをするのが日課でした。
祖父は嫌な顔一つせず、毎日キャッチボールをしてくれました。
最初は祖父が投げるボールが強くて怖く、駄々をこねたり拗ねたりする幼少期の僕でしたが、祖父の特訓の甲斐あってか、だんだん僕の投げる球の方が強くなり、祖父が「諒介の球、速くて怖いんだよなあ」とか言うようになりました。
これが僕の野球人生の原点でした。
そんな祖父と僕がキャッチボールをする、“親子”のような姿を見て、地元の公園を中心に活動するスポーツ少年団に僕を勧誘してくれたのが、利根フェニックスの遠藤監督でした。しばらく入団を渋っていた優柔不断な僕を、遠藤監督は何度も何度も誘ってくれました。最後は押しに負けるような形で、ただ確かに自分の意志で、利根フェニックスに入団しました。
当時野球が楽しくてたまらなかった僕は、毎日学校から帰ると家の前で壁あてをしたり、素振りをしたりと盲目的に練習を頑張りました。
その結果、4年生の新人戦は1番ショートのスタメンで出してもらい、そこから6年生メインのAチームに帯同させてもらえることが増えました。Aチームでレギュラーになったあたりから、野球が自分のアイデンティティの一つであると錯覚するようになった気がします。
6年生の中に1人混ざって試合に出る4年生の僕のことを、先輩たちもコーチたちも本当に可愛がってくれました。コーチ陣は田舎の父ちゃんたちなので口は悪いのですが、「諒介は守備が上手いなあ」「諒介、ナイス!」といった褒め言葉もたくさんいただきました。褒められるとすぐ調子に乗るタイプの僕は、より一層練習を頑張り、Aチームに食らいつきました。
思えばこの時期が一番野球を楽しみながら全力を注いでいたように思います。
そんな僕も、中学受験のため、6年生になるタイミングで利根フェニックスを退団します。
要領がよく勉強ができた僕は、並木中等の入試を突破し、他の部活の見学など一度たりとも行かず、迷いなく並木中等軟式野球部の門を叩くことになります。
中学生。現実との直面と、野球人生終了の危機。
中学では野球を練習した記憶があまりありません。
練習時間自体は長かったはずなのですが、先生に集められて長時間叱られていた記憶と、事ある毎に課せられる罰当番の掃除をしていた記憶だけは鮮明に残っています。
中学受験に向けて勉強していたときに、レギュラーをとってやるぞとあれほど意気込んで入った並木中等野球部は想像とはかけ離れたものでした。
並木中等野球部で過ごした中学3年間は、僕が今まで野球を続けてきた中で、最も無意味な3年間で、野球というスポーツ自体が嫌いになりました。
先輩たちや同期も想像していたより上手く、自分は特別野球が上手いわけでもないということに気づいてしまったこともあり、野球に自分のアイデンティティを見出すことができなくなりました。
そんな中で僕が野球を辞めたいと言い出すのは当然の流れで、僕は最後の総体を区切りに野球をやめる決断をしました。
市大会で僕がラストバッターとなり負けてしまったとき、小学生の時あんなに好きだった野球ももう終わりかと思い、自然と涙が溢れたことだけは覚えています。
高校生。野球部への復帰と、新たな目標。
並木中等の高等部には硬式野球部がなく、軟式野球部のみであるため、中学野球を引退した生徒はほぼエスカレーター式に高校の軟式野球部の練習に参加し、当然のように軟式野球部に所属する流れになります。僕も同期たちと一緒に高等部の顧問の中島先生に呼び出されました。
その場で中島先生は僕たち同期6人に対して、「そりゃ全員続けるよな、うんうん」みたいなことを言い放ち、グラウンドに出ていってしまいました。
僕の野球部脱出計画は、ものの数分で幕を閉じ、僕は高校でも軟式野球を続けることになりました。
茨城県の高校軟式野球はチーム数こそ少なかったものの、僕の代や先輩たちの代は強豪校がひしめく激戦区でした。先生も、先輩たちも、激戦区茨城を勝ち抜くために練習に熱が入っていました。ただ、前の年まで一緒に例の中等部の野球部で活動していた先輩たちは高等部ではのびのびと野球をしていました。
「この環境なら、もしかしたら僕ももう一度野球を楽しめるかもしれない…」。そう思いながら高等部の練習に合流しました。
僕たちの3年の夏大会は、力のある後輩のおかげもあり、並木中等は順調に準決勝まで駒を進めました。準決勝の相手は、これまた強豪私学で、ベンチに13人しかいない並木中等は明らかに場違いに見えるほどでした。接戦を繰り広げ、僕が足を負傷するというアクシデントに見舞われながらも、なんと4-3で勝利。個人的には猛打賞を記録し、最後の3アウト目の打球はショートを守る僕の元へ飛んできて、この時ばかりは本当に自分が主人公なのではないかとさえ感じました。
結局、決勝戦で並木中等は敗れ、その日に引退が決まりました。大雨の中、同級生がたくさん応援に来てくれました。
それがとても嬉しくて、たくさんの人の応援を背に野球をすることに対する憧れが強まりました。
元々学内で勉強ができる方だった僕は志望校を東大、そして東大野球部に絞り、神宮で大歓声を浴びる自分の姿を想像しながら、妥協せず勉強に取り組みました。
その甲斐あってか、運良く現役で東大に合格した僕は、またまた他のサークルを一切調べずに運動会硬式野球部の門を叩きます。
大学生。「僕の野球人生」。
僕たちの代はコロナ禍の影響で8月に全体練習に合流しましたが、そこで見た先輩方のレベルの高いプレー技術、先輩のみならず同期も含めた周りの選手たちの体の大きさに圧倒されてしまいました。
僕が想像していた、東京六大学野球でいつも負けている東大野球部は、決して甘い世界ではなかったのです。
入部の際、169cm53kgと貧弱なフィジカルの持ち主だった僕は、身長は1cmもサバを読まなかったのに対し、体重は2kg盛って55kgと記入して入部しましたが、それでも同期内で群を抜いたガリガリでした。
技術もフィジカルもレベルが低く、さすがに危機感を覚えたので、毎日自主練とトレーニングに取り組みました。
最初の頃は、スタート地点が低すぎたこともあり、毎日が成長の日々でした。できるようになったことが、自分でも目に見えてわかるほどでした。
当時1年生を見てくださっていた学生コーチの周さん(R4卒)や横井さん(R4卒)に守備を期待していると言っていただいたことで、僕は調子に乗ってノックをたくさん受け、日が暮れるまで基礎練習を行い、守備を少しでも武器にしようと頑張りました。
夜ご飯の前後はトレーニングを週6で行いました。真面目に筋トレをするのは初めてだったので、最初はやり方がわからず苦戦しましたが、周りの同期たちが優しく教えてくれて、少しずつ扱える重量も増え、筋肉がついている実感がありました。
筋トレに付随して、食トレとして高校時代までの僕には想像もできないような量の食事を摂り、1年秋のシーズンが終わる頃には体重は60kgを超えました。毎日食事管理を手伝ってくれた阿久津(R5卒)には本当に感謝しています。
こうして努力していく中で、衝撃を受けた出来事がありました。
夜遅めの時間に筋トレをしていると、横でAチームの先輩たちがトレーニングをしていました。その時に、自分はこのままじゃダメだと強く思いました。
「あんなに上手いAチームの選手が夜遅くまで練習しているのに、下手な自分がそれ以上練習しなかったら、一生上に上がれない。」
レベルの高い周囲の環境による刺激を1年生のうちに与えていただき、奮起させていただけたのは自分の大学野球人生にとって非常に大きなことであったと感じます。
熱心な取り組みの甲斐あってか、1年のシーズンが終わる頃には、先輩や同期から、守備の成長や体重の増加などを褒めてもらえることが増えてきました。
褒められると調子に乗るタイプの僕はもっと練習を頑張ろうと思いました。
「このまま練習を頑張れば、神宮でレギュラーを取れる可能性もいつかは見えてくるかも…」
冒頭部分の夢の光景が、現実の目標として目指せる気がしてきた時期でした。
おそらくここまでが僕の快進撃だったと思います。
快進撃とは長くは続かないもので、終わりは突然訪れました。
冬の練習中のある日、僕はグラウンドで具合が悪くなりました。
その日以降、グラウンドで具合が悪くなる日が数日続きました。
日々の練習による蓄積疲労が影響したのかもしれません。
ただ、当時の僕は次第に、またグラウンドに行って具合が悪くなるのが怖い、という思考に支配されるようになっていきました。
少し前までとは打って変わって、グラウンドに行きたくなくなりました。
そうは言っても、部活をサボるほどの根性はなかった僕は毎日グラウンドへ行き、毎日具合が悪くなって、また行きたくなくなって、の繰り返しでした。
途中からはもう精神的なものだったと思います。上手くならなければと気を張りすぎていたことと、一度グラウンドで具合が悪くなったことを引きずりすぎてしまったこと等が原因だと考えています。
当時からもっとうまく思考を切り替えて、不安や恐怖心のようなものを取り除けていれば、と今でもとても後悔しています。
上手くメンタルの切り替えができなかった当時の僕は、それまでのように練習に身が入らず、周囲に実力差をつけられてしまうという焦燥感にも襲われ、ますます不安が増幅される、という悪循環に陥ってしまいました。
2年生のシーズンが始まった頃には、もはや入部当時の目的や、冒頭部分に出てきた夢の光景などは見失っていました。
とりあえず具合が悪くならずに練習を乗り切ることが唯一絶対の目的になりつつありました。
本当に、自分の目標も、やるべきこともわからなくなりました。
チームの勝利も、自分の活躍も、何もイメージできないような感じがしました。
神宮で3番ショートのレギュラーとしてチームを勝たせる、とか何とか言っていた自分の野球生活から、色が完全に失われてしまったようにも感じました。
ただ、「チームに要らないと思われたくない」という思いだけは強く、当時やたら自信のあった打撃投手を買って出たり、中学時代に鍛えた掃除に人一倍取り組んだり、後輩と積極的にコミュニケーションを取ったり、と自分なりに頑張っていたつもりです。
2年生秋のフレッシュ後に行われるオータムフレッシュの企画チーム選手に立候補したのも、何かチーム内でアイデンティティが欲しくて、要らないと思われたくなくて、という思いが根底にあったような気がします。
とは言いつつも、シンプルに面白そうだと思ったというのもあり、結果的にとても楽しめたので、やって良かったと思います。
そうこうしているうちに2年生のシーズンも終わりが近づいてしまいました。
シーズンがまさに終わりそうな頃、僕たちの代から、1人学生コーチを出そうという話が出てきました。
最初は僕は絶対に選手を続けようと思っていました。
やっと怪我や体調も少しずつ回復してきて、選手として思いっきりプレーできる状態が戻ってきた時期でした。
それでもチーム全体のことを考えたら、選手としての実力が1番低く、リーグ戦の可能性がない自分が選手を続けて、他の実力のある選手の選手生命を奪ってしまうのはマイナスだと思い、学生コーチとして有望な選手たちを支える側になろうと覚悟を決めました。
もちろん学生コーチも責任の伴うポジションなので、下手くそな自分が生半可な覚悟でなっていいものではないとわかっていましたが、自分が覚悟を決めて学生コーチとして一から成長していく方がチーム全体としてはプラスに働くと信じて、頑張ろうと思いました。
オータムフレッシュの企画チームでの経験が、裏方としてチームを支えることに対して、僕を後押ししてくれました。
学年でのミーティングの際に、みんなの前で学生コーチになろうと考えている旨を発表するのはとても緊張しました。心の中では覚悟していたつもりでも、やっぱり選手を辞めることを口に出すのは、辛いものがありました。
僕の思いとは裏腹に、こういった話は一筋縄では行かないもので、同期の一部が、僕が学生コーチになることに対して猛反対し、ミーティングは日を改めて3、4回ほど行われました。
「ああ、選手としてだけでなく、スタッフとしても僕はチームに要らないのか…」
1番恐れていた事態でした。
「チームに要らない」
絶対にこう思われないように、と思ってやってきたものが全て否定された気がしました。
もちろん学生コーチになることを肯定してくれて、意見を表明してくれる同期もたくさんおり、一度転身すると表明した手前引き返すこともできず、結果的には自分僕の選手生命に終止符が打たれ、学生コーチとしての活動が始まりました。
3年生のときは週6で一日中練習に参加し、体力的、時間的に1番辛い時期でした。
先述の通り、学生コーチになる時に一悶着あったこともあり、どこか疎外感を感じていた中で、学生コーチとして自分の存在意義がわからなくなってしまっていた時期でもありました。
僕は当時、これといって自分の学生コーチとしての特色を見出すこともできず、とにかく頼まれたサポートだけは絶対に断らずにやることだけを理念として、下手くそなノックを手の皮が破けるまで打ち、打撃投手もたくさんやりました。
自分の学生コーチとしての強みが見つけられない悔しさ、劣等感から目を逸らすためだったのかもしれません。朝7時にノックを打ちに行ったり、夜にティーバッティングの補助をしに行ったりと、もうとにかくがむしゃらでした。
そんな中で先輩方や同期から「ありがとう」の一言がもらえた時は、少しだけチームのためになれたかも、と嬉しい気持ちになりました。
特に、ある時守屋さん(R5卒)が、「お前はいつも偉いよ、お前にあと足りないのは自信だけだよ」と言ってくださったのが印象に残っています。
この言葉は今でも時々思い出すことがあり、自信がなくなってしまいそうな時など、本当に救っていただいています。当時ももちろん、すごく救われた気がしました。
また、僕が本当に苦しい時に、自分たちも選手として考えること、やるべき練習があるにも関わらず親身に話を聞いてくれて、悩みが軽減するように尽力してくれた健(4年/投手/仙台一)や松岡(4年/投手/駒場東邦)、秀島(4年/学生コーチ/東筑)、マネージャーの石井(4年/主務/灘)には本当に感謝しています。
僕みたいなのをこのチームに残してくれて、本当にありがとう。
3年生の秋。先輩たちが引退して、遂に僕たちが最高学年になりました。
話し合いの結果、僕はAチームのリーグ戦ベンチに入らず、Bチームのチーフ学生コーチとして活動するという方針が決まりました。
Bチームの学生コーチとして、下級生と積極的にコミュニケーションを取り、下手くそなりに可能な範囲で技術的なアドバイスもするよう努めてきたつもりです。
下級生も含め、チーム全体の風通しをよくすることも常々意識して1年間やってきたつもりです。
リーグ戦のベンチに対する憧れがなかったと言えば嘘になりますが、大歓声の神宮に立ちたいというエゴは学生コーチに転身したその日にどこかに捨ててきたので、今の自分のポジションに僕は満足しています。チーム的にも最適解だったと思いたいです。
あの日から、早いもので約1年が経とうとしています。
僕は一人一人の野球人生に寄り添い、相談に乗ったり、アドバイスをしたりできていたのでしょうか。
不用意な言動や誤ったチーム運営で、誰かの野球人生を蔑ろにしてしまったりしていないでしょうか。
微力ながらも、このチームに貢献できていたのでしょうか。
ここまで僕の野球人生について長々と書いてきましたが、同期の「僕の野球人生」を読んでいると、みんなそれぞれ野球を続けてくる中で、悩み、苦しみ、奮闘してきたことが伝わってきて、その一つ一つが、本人と、そして応援する人など多くの人にとって大切な“人生”の一部なのだと感じます。
それらが尊重され、チーム全員が、「“自分のチーム”はこんなにいいチームだ」と周りの人に胸を張って言えるようなチームでなくてはならないし、それが本当の「勝つべきチーム」だと思います。
“上手い選手を集めただけの集団”を作ることは簡単です。
実力のある選手だけを優遇し、実力のない者は切り捨ててしまえばいいだけです。
もちろん勝つことは大事ですが、そんなことはこの部で活動している人間全員が当たり前に解っていることで、本当に大事なのはその上で全員がチームの勝ちを願い、“自分ごと”として関わり、喜べるかどうかだと思います。ポジション、学年、立場に関わらずみんなが同じ方向に向かって走れるチームかどうかだと思います。
1年間チームの運営に中心として関わらせてもらって、一人一人の意見、立場を尊重してチームの方向性を決めるようにしてきたつもりです。
実際、そのようなチーム運営ができていたのでしょうか。その点は僕自身にはわかりません。全員にとって完璧な運営というのは無理なので、さまざまな立場の人たちから見て「まあ名畑にしては合格点だな」という感じだったらいいなと思います。
少しだけ、今一緒に午後練習している同期へメッセージを残させてください。
本来であれば同期全員との思い出エピソードや感謝の言葉など、余すことなく全部書きたいくらい思い入れが強いのですが、尺の都合上、特に長い時間を共にしたBチームの4年生へ。
特に今年は4年生は厳しい立場だったと思います。Bの4年生にはチャンスを十分にあげられていたかわからず、心苦しく、申し訳なく思う部分も多いです。
今は、練習機会も制限される中で、今秋のリーグ戦での勝利のために、そして来年再来年以降の東大野球部の勝利のために、分析や練習サポートをしてくれているみんなには頭が上がりません。本当にありがとう。
残り1カード、チーム一丸となって戦いましょう。
みんなで絶対に勝ち点を取りましょう。
そして、最後チームの全員で、泣くほど笑って引退しましょう。
ここまでの僕の14年間の野球人生において、たくさんの人たちの支えがありました。
野球を始めるきっかけを作ってくれて、小学校の時からずっと送り迎えやお弁当など、本当に様々な形で僕の野球人生に寄り添って支えてくれた家族。
僕を野球大好きにしてくれた利根フェニックスの遠藤監督、コーチの皆様、同級生。
僕を野球部に引き戻し、東大野球部に入る望みを繋いでくれた高校の顧問の中島先生。
楽しいことも辛いことも共有し、大学生になってからも応援してくれている高校野球部の先輩や後輩、そして同級生。
大学野球部でお世話になった、井手監督、大久保助監督。多くの先輩方、同級生、後輩。
応援部をはじめ、いつも東大野球部に温かい応援をしてくださる方々。
挙げ始めたらキリがないほど多くの人たちの支えがあってここまで野球を続けてくることができました。
ここで個別に感謝の言葉を述べたりはしませんが、本当に心から感謝しています。
僕の野球人生の1ページ1ページを共に紡いでくださった皆様、あと1週間、一緒に走ってください。絶対に勝ち点を奪取しましょう。
野球人生の終わり。
大学4年間の野球漬け生活は、「僕の野球人生」そのものであり、14年間の野球人生は僕の青春の全てでした。
ここまでずっと生活の中心にあったものがなくなってしまうというのは、想像もできません。ただ、どことなく寂しい感じがします。
冒頭に出てきた夢は叶わないまま、僕は野球を引退します。
大学に入るまで、夢は絶対に叶うと思い続けて生きてきた僕にとって、この結末は意外だったかもしれません。
4年前の僕に今の僕を見られたら、もしかすると怒られてしまうかもしれません。
それでも、今の僕はこの東大野球部に入って、レギュラーを取る夢は叶わずとも最後まで活動し切れたことを心の底から誇りに思います。
本気で野球に打ち込めて、勝ちを目指して常に努力し続ける人が周りにいる環境に恵まれました。
レベルの高い環境が、自惚れ屋で夢想家の僕に、世の中甘くないぞと教えてくれました。
苦楽を共にし、勝ちという同じ目標に向かって進む、かけがえのない仲間に出会うことができました。
これらは野球部に入らず、普通の東大生として漫然と4年間を過ごしていたら絶対に得られなかったものだと思います。迷わず野球部に飛び込んでみて大正解でした。
入部当初は想像もつかなかった形での引退にはなりますが、僕は野球部での今のポジション、立場に満足しており、誇りを持っています。
最近はもう、冒頭に出てきた「3番ショートで背番号1の名畑君」は夢に登場しません。
そういえばこの「僕の野球人生」リリース直前に、諸事情により僕が法政戦のカードだけリーグ戦のベンチに入りました。普段Bチーム学コである僕にとって、Aチームの投手起用やリーグ戦の雰囲気に慣れない部分は多少ありましたが、大歓声の神宮でサードコーチャーをさせてもらって、チーム2023の初勝利もベンチ内で経験できました。
神宮で名前や出身校が呼ばれることはなかったけれど、勝利の瞬間を一番近い距離で見ることができたのは最高でした。4年間大学野球をやってきて、間違いなく、一番嬉しかった瞬間です。
長々と駄文を書き連ねてしまいました。
ここまでお付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。
文章力のなさゆえに話題があっちやそっちに飛んだり、冗長な表現があったりとお見苦しい点も多々あるかとは存じますが、結局はこれに尽きます。
野球をやっていて、東大野球部に入って、本当に良かった。
——————————————-
次回は明日10/14(土)、秀島龍治学生コーチを予定しております。
ぜひご覧ください。