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『僕の野球人生』vol.17 武 将太郎 外野手

先日より4年生特集、『僕の野球人生』が始まりました。
この企画では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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「僕の野球人生」 vol.17  武 将太郎 外野手(4年/戸山)

僕の野球人生武 2-4 3-4

次々と更新される同期たちの『ぼくじん』を読んで感動したり笑ったりしていたらあっという間に自分の番が近づいてきて今この文章を書いています。普段あまり自分の考えや思いを人に伝えることは多くないのでなるべく正直に書けたらと思っています。どうかお付き合いください。

 

野球に関する一番古い記憶は近所の公園で父とバッティングをしていたら、隣の建物に当ててしまったことです。絶対に怒られると思ったら怒られるどころか褒めてくれて嬉しかったことを覚えています。

 

小学校2年生の時に地元の少年野球チームに入りました。入った経緯はよく覚えていませんが、新しい友達もできて楽しく野球をしていました。また一個上にのちに野球強豪校に進むようなレベルの違う上手い先輩がたくさんおり、こういう人たちが野球で生きていくのだろうなと思った記憶があります。6年生ではキャプテンになってたくさん勝ちました。少し肩が痛かったこと以外は本当に楽しい記憶しかないです。小学校の卒業文集に「プロ野球選手になる」と夢を書いたもののほとんど冗談のようにその方が書きやすいからなんて考えていました。

 

中学校でも野球部に入りました。少年野球チームから一緒に入った仲間がいて、新しく野球を始めた小学校からの友達もいて、小学校のチームメート数人が別の中学校に進んで大会で当たったりして思い出せば楽しい記憶がたくさん出てきます。顧問の先生にも恵まれ、野球というスポーツのゲーム性をより楽しめるようになりました。転機は自分たちが一番上の代になって小学校でもやっていたため成り行きで自分がキャプテンになったことです。練習中はみんなで楽しく集中してできていたのですが、練習外のところで今まで楽しくやっていたチームメートに対してたまにもっとちゃんとしてくれと思うことが増え、折り合いが少し悪くなった気がします。もしかしたら態度にも出ていたかもしれません。思春期もあって変な方向に捻くれてしまいあまりいいキャプテンではなかったと思います。(もちろんこの記憶自体が思春期特有の自意識過剰で生まれた妄想だという可能性もありますが)最後の大会では区大会を勝ち進み都大会に進めました。とても良い思い出ですが、中学の経験を通して自分はキャプテンとか皆を引っ張る器ではないということも明確に思った記憶があります。

 

高校でも迷わず硬式野球部に入りました。それは野球が好きだからというより今更新しいことを始めるのもなんだし、高校野球まではやるかという感じだったと思います。進学校ということもあり練習はあまりキツくなくここでもチームメートと楽しく野球をしました。たまにあるランメだけが嫌いでしたが、他に野球の記憶はあまりなく練習後にチームメートと食べにいったラーメンとかの方がよく覚えています。そのまま最上学年になって、中学時代の反省から特にキャプテン的な役職に就くこともなく、なんとなくこのまま引退していくんだろうと思っていました。そんな中である日マネージャーの一人に最上学年が集められて「このままでいいのか?」と怒られました。確かに明確に目標も定めずなんとなく毎日ダラダラと練習していたので、今考えるともっともな意見で、ここから奮起したりしたら青春漫画っぽいなんて思いますが、当時の自分はその怒りさえあまり響かず特に変化は起きませんでした。そのマネージャーがこれを読んでいたら今は本当に申し訳ないと思っています。その後もなんとなく練習していたらコロナが始まって練習も無くなりました。就活の時は、すっぱり勉強に気持ちを入れ替えこの期間にたくさん勉強したなんて美談にしていましたが、実際はこの程度の熱量でやっていたので切り替えるも何もなく、なんとなく勉強していました。最後の試合もあまり記憶がありません。球場について気づいたらコールド負けしていました。涙も特に出ませんでした。元々担任の先生のアドバイスで東大を目指していたこともありそこからは勉強しましたが、東大なら入った後の選択肢の一つとして野球部もあるなと考えていただけで野球部に入るか明確には決めずに東大を受けました。

 

東大に受かってからもそのまま悩み続け、高校の先生に挨拶に行った時も「野球部に入るんだろう?」と聞かれあまり歯切れのいい返事ができなかった記憶があります。自分が明確に野球部に入ろうと決めたのは忘れもしない、ドイツ語のクラスの顔合わせの日です。迷っていた自分は「野球をやりたいとは思っていますが部活かサークルどれにするかはまだ悩んでいます。」なんて言ったと思います。するとクラスの中に2人明確に「硬式野球部に入ります!」と宣言する奴らがいました。新城と剛ちゃん(4年/外野手/仙台一)です。別にその後特別な会話をしたわけではありませんがその日の帰りには自分も野球部に入ろうと決意していました。今思い返してもなぜというのを言語化するのは難しいですが、はっきりと決めている2人がカッコ良いと思ったのか、はたまた単純に不安な大学生活でとりあえず硬式野球部に入れば友達が2人はできると思ったのか、そこはわかりません。でも2人がいなきゃ野球部には入っていなかったと思うので2人にはとても感謝をしています。とにかく自分はそんなたまたまの流れに任せて硬式野球部に入りました。

 

当時は4年生に高校の先輩の森末さん(R4卒)がいてチーム内一の人気者?だったこともあり、入ってすぐ色々な先輩に話しかけてもらいよくしてもらいました。また同期とも徐々に仲良くなってきた、そんな入ってすぐの時、当時3年生の松岡さん(R5卒)に「お前なんで野球部入ったの?」と結構真面目なトーンで聞かれました。それをなんで聞かれたのかはわかりませんが、自分は「自分の力を試すためです。」と答えました。松岡さんに「それなら軟式でも準硬でもよくね?」と言われ、「やるならいちばんレベルの高いところで!」と答えたところで会話は終わりましたがこの会話は高校と同じようなノリでなんとなく練習していた自分の記憶に深く刻み込まれました。しかしその甘さに気づいたのはもっと後の話です。

 

1年生の期間は特に起伏がないまま終わりました。入ってすぐ捻挫して最初のランメをほとんどサボったり、最初のBTでぶくろさん(島袋さん、R5卒)に「お前バッティングいいな!」と褒められ喜んだり、戸山高校とのOP戦でツーベースを打ってなんとか面目を保ったりと、大学の最初のノックで痛めた肩が一向に治らない以外は特に不安もなくオンライン授業のおかげもあってそこそこ授業に出てそこそこ全体練習に出てたまに自主練して、当然フレッシュには関われないけどそんなもんだろうと思って2年生になりました。

 

2年生になるとフレッシュの主役学年というメインイベントがありました。当然自分もフレッシュ出場を目指して練習しました。春のフレッシュ前はある程度バッティングの調子も良くブルペンCかつもしかしたら代打で出場できるかもという感じでベンチ入りする可能性ありと言われました。結構うれしかった記憶があります。その春フレッシュの2週間前、突然まともに歩けなくなる怪我をしました。でも当時の自分はまだ楽観的でとりあえず怪我を治して秋また頑張ればいいやなんて思っていました。しかし思ったよりその怪我は重くその後1ヶ月ほど部活を休みました。その期間はたまに実家の近所のジムで上半身を鍛える以外は特に何もせず1ヶ月後復帰しました。そんな中で選手の中から学生コーチを出すという話が出ました。当時の自分は学生コーチになるくらいだったらやめるかなんて思っていたら門池(4年/学生コーチ/都立富士)、そして谷保(4年/学生コーチ/屋代)が学生コーチになりました。その時はまだ選手を続けられるなんて自分勝手に思っていました。そして迎えた秋フレッシュの練習、自分は完全に構想外でした。怪我はもう言い訳になりません。自分が休んでいる間も同期や後輩たちは成長していて、自分はといえば肩の痛みでまともに守備はできないし、打撃も夏のOP戦などで全く打っていませんでした。あの大勝したフレッシュ当日自分は駒場にいました。スタンドで観戦はあまりしたくないと思っていたし、このまま秋も出られないということは将来リーグ戦に出る未来なんてないから正直フレッシュ後にやめようと思っていました。そんな中で3戦目普段出ていない人を出す試合が来ました。当時の自分はやめようと思っていたので最後に記念になるかなと思いながら試合を迎えました。出番は代打でしたが、あの試合は展開的に時間切れで自分の出番が無くなりそうでした。そんななかで疑惑のゲッツーもあり自分の番が回ってきました。スタンドからは先輩や同期の声援、そして仕事で忙しい中見に来てくれた父親、感動しました。結果は四球でしたがとても充実した時間でした。そしてフレッシュ後の門池との面談が今でも忘れられません。「やっぱり真面目に練習しているし、練習ではいい当たりも出てるから出した。」そう門池は言ってくれました。その一言で自分は辞めないことを決めました。

 

そして3年生になりました。このタイミングでたまたま家を探していた大巻(4年/学生コーチ/花巻東)とシェアハウスを始めました。球場から1時間のところに実家があるのに、実家を出ることを許してくれた両親にはとても感謝しています。球場も近くなり自主練の時間も増えました。でもその分自由時間も増えて、ある日の別府さん(R6卒)に「シェアハウスどう?」と聞かれ、「結構時間余りますね!」と会話したことを覚えています。この時の自分は何もわかっていませんでした。年が明け球場と家が近くなった自分は開智(4年/内野手/開成)と練習する機会が増えました。そしてびっくりしました。Aチームだった開智は午前中全体練習をして午後自主練でノックを受けたりしたのち、夜自分とバッティング練習をしていたのです。その練習量に驚くとともにここまでの二年間の自分の練習が自己満足にすらならないほどの量だと気が付き自分の野球に対する覚悟のなさが恥ずかしくなりました。開智だけでなく他の同期や先輩もこうして練習している中自分は二年間何をしてきたんだろうとも思いました。そこからは開智ほどとは言いませんが夜球場に行く回数が増えました。そうして練習量が増え、高木さん(トレーナー)にアドバイスをもらったバッティングも改善され、長らくリハビリしていた肩も良くなってきた夏頃、OP戦で2安打を打ち、始めてインスタの表紙に選ばれました。ここまでの努力が少し報われた気がして嬉しかったし、「もう何試合か打てばAに上がれるかも」と秀島さん(R6卒)に言われてさらにやる気になったことを覚えています。(ちなみにその2安打を打つまでの自分の大学通算安打は3で高校生からしか打ったことがありませんでした。)しかしそこからはまた右肩下がりでした。次の試合もその次の試合も打てず結局冬までヒットは出ませんでした。またその間に2年生から同じ少人数班でやってきた芳野(4年/外野手/西大和学園)がAに上がりました。2安打打った日「武が打つとなんか感動するんよな。」と言ってくれた芳野はその後着実に結果を積み重ねて上にいきました。肩もあまり強くなく打球速度で勝負するタイプではないという点で自分たちは似ていたので正直とても悔しかったです。その頃芳野とはあんまりうまく喋れませんでした。(もし気づいていたら申し訳ないです。)合宿でも打てず秋になって自分たちの代になる前、学生コーチをもう2人出すという話が出ました。何も結果を出せていない自分も当然候補に選ばれました。かなり迷いました。2年の時のようにやめるという選択肢はもうないし、かと言ってコーチになって一年間チームのために行動できる自信がありませんでした。そんな決断できない中で間島(4年/学生コーチ/花巻東)と大巻が学生コーチになりました。特に大巻が学生コーチになったことは自分にとって割とショックな出来事でした。もっと頑張ろうと思いました。

 

そして4年生になりました。まずは今まで行かず嫌いしていた外部指導に行って根本からバッティングを見直しました。そして迎えた鹿児島合宿メンバーを決めるシートBTの日。結果は散々でした。ノーチャンな三振をした自分は当然合宿に行けるわけもなく東京で過ごしました。この辺りで一回心が折れ就活を頑張ろうと思って春リーグの間はろくに自主練習もせず忙しいからと自分に言い訳ばかりしていました。そんなある日のOP戦の帰り道、あおし(青島内野手/4年/学芸大附)に「武が最近夜球場に来ないと寮で噂になっている」と言われました。とても恥ずかしく感じましたが、それでもだから頑張ろうとはなりませんでした。そして就活も終わり単位も取り終えた6月、夏の遠軽合宿まではとにかくできることは全部やってそれでも無理だったら学生コーチになろうと決めました。そこからの2ヶ月は楽しくもあり苦しくもありました。とにかく後悔がないようにやれているとは思うが結果はついてこない。たまにヒットは出てもAに上がれるほどのバッティングはできていない自覚がありました。そしてこの現状は今までの自分の怠慢や目標から目を背けた練習のせいだと気づけば気づくほどどうにもならない思いを感じました。そんな中でもBの数少ない同期との各自アップの雑談が唯一の癒しでした。みんなありがとう。そして遠軽メンバー発表の日、自分は選ばれておらずその日のBの練習中に学生コーチになると伝えました。それまではやっとすっきりできると思っていたのに、引退をBのみんなに伝える時は少し声が震えました。そこからの大きなイベントは引退試合だけでした。神宮で試合できると言ってももう一ヶ月も練習していないからなと思って迎えたその試合自分は思いもよらない活躍をしました。初めてやった突き抜けポーズ、初めて大学で両親が観戦しにきた時に打てたヒット、そして帰りのバスで西前(4年/内野手/彦根東)やたにむー(谷村内野手/4年/湘南)、あおしが褒めてくれた時少し泣きそうになりました。あの引退試合は自分の大学野球人生の中でのベストゲームであり、それを引退試合にできたことはとても幸せでラッキーなことだと思います。そして今、学生コーチとして分析長として(二つとも名ばかりですが)チームの勝利のために、そして今までろくに結果も出ていないまま選手を続けてきた自分を認めてくれた仲間のために、できることをやろうと思っています。

 

ここからは感謝を伝えたいと思います。

 

今まで一緒に野球をやってきた仲間たちへ

大学入ってからもたまに会った時に、「最近どう?」とか「出たら神宮応援行くよ!」とか言って貰ったのに、期待に添えず申し訳ないです。引退したらみんなとたくさん遊びたいと思います。

 

先輩方へ

色々な先輩にバッティングのアドバイスをもらったり、守備を1から10まで教えてもらったりよくしてもらいました。特に少人数班の先輩方にはたくさんご飯に連れてってもらって感謝しています。また連れて行ってください。

 

後輩へ

喋りづらい先輩だったとは思いますが、たくさんの後輩が良くしてくれました。ずっとBチームにいたので特にBチームの後輩たちには期待しています。自分はちゃんと考えられずに現状から目を背けてばかりいたら大学野球が終わってしまいましたが、特に1、2年生には自分がどうやってAチームに上がるか、神宮の舞台に立つか、そのために何が必要かというのから目を逸らさずちゃんと考えて後悔がないようにして欲しいなと思います。

 

同期へ

ほんとにみんないい奴ばかりで、毎日みんなと練習中も練習以外も楽しく過ごす時間がとても好きで、四年間楽しめました。本当にありがとう。

特にマネージャーや学生コーチ・アナリストは、最後まで学生コーチから逃げ続けていた自分が恥ずかしくなるくらいチームのためにいつも働いていて、尊敬しています。

また嫌がる自分をいつも連れ出してくれるあの会はとても楽しくて次も楽しみだなと思っています。

 

高木さんへ

ずっと悩んでいたバッティングからケガまで色々なことで相談にのっていただきました。高木さんのトレや指導おかげで打てたヒットや抜けた打球もあったと思います。ありがとうございました。

 

一息堂整骨院の斎藤先生へ

大きいものから小さいものまでケガが多かった中で大学野球やりきることができたのは斉藤さんのおかげです。またいろんな話を聞いてくださってあの時間はとても大事なリフレッシュタイムでした。

 

両親へ

まずは父さんへ 野球を教えてくれてありがとう。野球をしてなかったら自分はどんな人間になっていたか想像つかないくらい、ここまでの人生で関わった人はほとんど野球のおかげで会えた人達ばかりです。本当に感謝しています。

母さんへ いつも心配をかけてきました。大学入ってからもケガが多くてごめんなさい。そのほかにも色々な面で支えてもらいました。

2人ともあまり口には出さなくても期待はしてくれていたと思います。期待に応えられなかった分はこれから返していきたいです。

 

普段気持ちをあまり外に出さない分印象的な出来事を書こうと思ったら思った以上に多く長くなってしまいました。冗長な文章で読みにくかったと思います。ありがとうございました。

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次回は10月10日(木)、橋元崚人外野手を予定しております。