『僕の野球人生』第27回 伊沢真優学生コーチ
『僕の野球人生』第27回
伊沢 真優 学生コーチ(4年/常総学院)
[(左から)伊沢学生コーチ、中嶋マネージャー(4年/白百合学園)]
「私の私だけの野球人生」
1人だけ他大生で、 こいつは一体誰なんだ? と疑問を抱いた方もいるのではないでしょうか。
私は確かに普通ではない野球人生を歩んでいます。
この記事には、伊沢の正体を知るカギが隠されているかもしれません…
少しでも興味を持ってくださる方は、他の皆のように文才があるわけではなく読みづらいかもしれませんが暇つぶしにでも読んでいただければと思います。
――私の野球人生は“応援”です。
そんな私の野球人生がはじまるきっかけとなったのは、プロ野球ではなく高校野球だった。
物心着いた頃から、毎年母が近くの球場で行われる高校野球の地方予選に連れて行ってくれた。まさに夏の風物詩といったところだろうか。幼い頃は外野の芝生にレジャーシートを広げてお菓子を食べながら観戦していた。ルールが分からなくともその頃から高校野球の雰囲気が大好きだった。
小学校中学年以降は、地元の強豪常総学院が甲子園に出場すると父に連れられて甲子園球場までよく応援に行った。
甲子園は本当に凄い所である。
ゲートを抜けてアルプスのスタンドに入ると、高校野球の独特な雰囲気に合わせて強い熱気と迫力が広がっていた。胸の高鳴りがまだ小さな私の体いっぱいに響いたあの感覚は、今でも忘れられない。
そうして、いつしか自然と、私も甲子園を目指す野球部の一員となって、高校野球の熱さを身近に感じたいと思い始めた。
本当は中学校でも野球部のマネージャーをしたかったのだが、募集がなかったため高校でやることを心に誓い中学校では違う運動部に入部した。
中学時代も、常総が甲子園に出場すると何度か甲子園まで応援に行った。名将木内監督さんの隣で試合を観戦させてもらう貴重な機会もあった。
そして、高校の志望校を選択する頃には、私の心は常総一択だった。
普段は私のことにあまり口を出さないでいてくれる父に「一高に挑戦してみなくても良いの?」と珍しく言われたのを覚えているが、私は常総に入学してマネージャーとして選手をサポートし甲子園を目指すという道を選んだ。
公立を受けずに私立専願というなんとも親不孝な選択にも「真優のやりたいことなら、応援しているよ。」と両親は背中を押してくれた。本当にありがとう。
晴れて常総学院への入学が決まり、そして迷うことなく念願の野球部に入部した。
入部したらまずはひたすら草むしりや掃除をした記憶がある。
強豪校はその名に恥じぬよう球場も綺麗にしておくのが鉄則だ。
掃除で始まり掃除で終わる日もあった。
そして、とにかく何もしない時間を作らないことが暗黙の了解だった。
また、先輩は最低限の事は教えてくれるが、それ以上は自分の学ぶ姿勢が試された。
そんな厳格な雰囲気も強豪校らしいなと楽しんでいる自分もいたのだった。
今思うと常総のマネージャーは、よくイメージされる野球部のマネージャーとは異なるものだったかもしれない。上記のような雰囲気に加えて、ボール出しなど練習の補助は一切しない、そもそもグラウンドに出ることはほぼない、練習中に選手とたわいもない会話をすることもほとんどなかった。
選手は練習に集中する、マネージャーは練習の妨げになることは当然避けサポートに徹する、そういった感じであった。
そしてとにかくマネージャーも、選手と同じように「常総学院野球部」という看板を背負っている自覚を持ち、その名に恥じないような行動を常に心がけた。
校舎の中では、すれ違う先生にしっかり挨拶をする野球部員の姿が目立ち、練習の帰り道にゴミが落ちていれば拾いながら帰る選手もいた。公式戦ではしっかり固まって移動をし、試合が終わると手分けして球場のゴミ拾いをして帰っていた。自分で言うのもなんだが、とてもかっこいい集団だと感じていた。
そんな誇れる仲間たちと挑んだ自分たちの最後の大会は、甲子園に行けずに終わってしまった。
負けたことが本当に悔しくてつらくて、何日も立ち直れない日々が続いた。
けれど、切り替えるタイミングというのは訪れるもので、同期が次の進路へステップアップしようとしている様子を見て、そして後輩が「自分たちが甲子園に連れて行きます。」と、すごく頼もしいことを言ってくれて、私もこうしちゃいられないと少しずつ切り替え始めた。
また同じ頃、宇草さん(法政大学/R2卒/現広島東洋カープ)がアドバイスをくださった。
なかなか立ち直れない自分に対して、「その悔しさ一生残るもんだよ!次に活かさなきゃね!」「俺は、この悔しさ忘れない!この先プロ行って見返してやろう!って切り替えた。」「落ち込んだ時は落ちるところまで落ちた方が良いよ!そしたらあとは上がるだけだから!」というような言葉をかけてくださったのだ。どの言葉も本当に胸に刺さった。
切り替えられずにフワフワしていた私だったが、宇草さんからのアドバイスが決定打となり、この悔しさを活かすべく前を向き進路を考え直しはじめた。
――やっぱりこの先も野球に関わりたい。
これが私の出した答えだった。
それまで医療系の大学に進学を考えていたのだが、おそらくちゃんと活動する野球部はないと思ったため、医療系の大学を受験することは辞めた。
将来やりたい事2つ、医療関係+野球関係=心理学という学問にたどり着いた。今まで考えたこともない進路だったが、しっかり活動している野球部と心理学を学ぶことができる場所を探すため様々な人に話を聞きに行った。
その頃、高校現役時代大好きだった場内アナウンスを続けたくて、アカデミーに通っていた。そこで出会った、東都でマネージャーをしている先輩にも進路のお話をしたところ、そこから別のマネージャーへと繋がり中川マネージャー(H31卒)まで繋がり浜田前監督の耳に届くに至った。一度会ってみたいと言っていただき、お話をすることになった。そこで、大学でも選手のサポートをしたい夢を話したところ、他大生は取っていなかったようだが熱意と経験を買っていただき、条件として野球部のない大学つまり女子大に入学すれば入部を歓迎するとのお話をいただいた。
そういう経緯で私の今がある。
東大野球部には、大学入学前から早い段階で入部をした。
いきなり飛び込んできた私に当時の上級の先輩方は本当に優しくしてくださった。ありがとうございました。
しかし入部したは良いものの、現実やることは全く用意されておらず、ゼロから自分で考えて動かなければいけなかった。
高校時代の経験から自分で仕事を作ることは得意だと思い、1年生の頃の私は自分にできる事はとにかく何でもやった。分析に携わらせてもらったり、積極的に帯同に行って球速ノートを付けたり、バッティング動画を撮影したり、補食を作ったり、工作をしたり、合宿で車の運転をしまくったり、マネージャーが人手不足の時にはカメラ等手伝いをしたり…
そして何より当時の球場内はとても汚かったため、掃除を毎日行った。それは、強いチームは施設も綺麗であるべきだと信じていたからだ。
けれど、ある時ある先輩から「掃除しかやる事がないなら帰っていいよ。」と言われた。私は本当にびっくりした。掃除は強いチーム作りに必要だと考えていたし、とにかく悲しくなった。
またある時には、後輩のマネージャーと補食のおにぎりを握っていた際、私の目の前で「東大生はこれからこういう雑用なんかしなくなるんだから、今のうちにやっておいた方が良いぞ。」というような話が繰り広げられた。
私は、それまで掃除も補食作りもどんなに小さな事でも必ずチームのためになっていると感じられる環境にいて、それらを雑用だと思ったこともなければむしろ誇りに思ってやっていた。
しかし、どうしても、それらは雑用であるという空気が漂っていて、その空気に押しつぶされるかのように私も次第に自分がやっている事に自信がなくなっていった。
だからといってマネージャーの仕事ができるわけでもないし、、、他大生であることやポジション的にどうしても制限がかかってしまい私ができる事は結局いわゆる“雑用”と言われる事ばかりだった。
時は流れ、いよいよ自分の代になった。この代は、皆が意見を言える風通しの良い雰囲気を目指すということで目安箱を設置した。
ちょうど私は、再度自分がチームのためにできる事は何か、考えていた。
私の得意なことは人の話を聞くことだった。
以前から、たまに相談を聞かせてくれる選手やスタッフがいて、「誰にも話せないんだ。伊沢がいてくれてよかった。」と言ってもらったことが何度かあった。
その点を活かして何か貢献したいと思っていたところ、大音さん(内野手/4年)から目安箱を伊沢が担当したらどうかという提案をもらった。もちろん引き受けた。
見栄を張っても仕方がない、別に目立ちたいわけでもないし。
私は、このチームを完全に陰で支えることにした。
視野を広く持って、チームを見てみた。チームの運営に支障が出そうなことが見えたら指摘し提案をした。足りない部分を補えるように考えた。
出来る限り選手の顔色を見た。何日も浮かない顔をしている選手には積極的に声をかけた時期もあった。
それらは、人の目につかない事だし、私には秘密を守る義務もあった、自分でこういう事をやっていると公言することもなかったために、おまえは仕事しているのかと言われることもあった。まあ、仕方ない。
時には、おはようの返しで、「おまえ何で来たの、東大生じゃないんだから帰れ。」と言われることがあった。
でも、私は、とにかくポジティブな方で、常総の悪口は許せないが、自分のことを言われても受け流すという術をどんどん磨いていた。しかし、何度も何度も言われると、鋼のハートにも亀裂が入った。私は皆を応援したいだけなのに…と悩むことも増えた。
とどめとなったのが、女子大の他大生をマネージャーとして受け入れるかもしれないという案を耳にしたことだった。熱意と経験を買ってもらって入部してから、制限のある中試行錯誤してもがいてきた私の4年間、何度もマネージャーのする仕事をしたいと思ったことはあったができることはなく、とにかく他大生である自覚を持ち自分ができる事をしようと我慢した4年間を、台無しにされる気持ちになった。非常につらかった。考えるだけで涙が溢れる日々が続いてしまった。私の根本には、選手に余計な心配をかけないという教訓があったこともあり、誰にも話せなかった。実は、同時期に大人の事情でホームページから私の名前が消されていた。それも本当はすごくつらかった。そんな真っ暗な時期も経験した。
先述したように、できる事は限られていて我慢も多いし、ちょっと刺激の強いことを言われたり、良いことばかりではなかったけれど、
皆の野球に取り組む姿勢をリスペクトしているから。
こんな私を頼りにしてくれる人もいるから。
そして、やっぱり勝つために頑張る皆を近くで応援したいから。
結局ここまで続けてしまった。
皆の野球人生を読むと分かるように今年は特に、野球が相当大好きな人ばかりである。
私も野球が大好き。私もこのチームで勝ちたい。
大学は違うけど、同じ思いなんだ。
だから最後まで皆のことを応援させてください。
たくさんミーティングを重ねてきたでしょ。
たくさん野球と向き合ってきたでしょ。
たくさん練習してきたでしょ。
大丈夫。皆なら勝てるよ!!
冒頭に書いた「私の私だけの野球人生」これは嘘だ。
私の野球人生にはいつだって、人との繋がりがあった。私の野球人生に関わってくれた皆さん、お陰様で私は素敵な特別な野球人生を送れています、本当にありがとうございます。
特に陶山さん一家には感謝を伝えたいです。
陶山くん(明治大学/4年)を追いかけるように六大学の世界に入って、私の目の前が真っ暗な時も陶山くんの活躍を見て私も頑張らなきゃと思わせてもらいました。高校の時から、口数は少ないけどひたむきに練習を重ね結果を出して引っ張ってくれる、自慢の高校キャプテンです。陶山さん、リーグ戦の時お会いできるのが本当に楽しみでした。高校時代の食事当番が戻ってきたかのようでいつもいつも元気をもらっていました。ありがとうございました!
常総の先輩、貴重な経験をありがとうございました。
常総の後輩、まじでいつも応援してる。
常総同期、大好きです。大好きが溢れます。
常総の指導者の皆さん、常総は私の誇りです。これからもご指導のほどよろしくお願いします。
監督助監督、お世話になった学生コーチの皆さん、優しくしてくださった先輩方、特に掃除の時間を確立してくださった廣納さん(R2卒)、ありがとうございました。
同期、4年間ありがとう。この先もずっと応援しちゃうから!
後輩、早いうちからからどんどんぶつかってください。ぶつからないと見えないこともあるから。応援してるぞ!
OBの皆様、ファンの皆様、いつもご支援、応援をありがとうございます。これからもどうか東大野球部に熱い熱いご声援をよろしくお願いします。
そして最後に、お父さんお母さん、自由過ぎる挑戦ばかりな娘でごめんなさい。いつでも私のやりたいことを尊重してくれて、背中を押してくれて本当に本当にありがとう。2人の娘で良かった。弟、妹、2人は私の自慢。もう存在に感謝。おばあちゃんおじいちゃんもいつもありがとう。
私の野球人生は、これで終わりではありません。
先輩・後輩・同期、これまで私が応援してきた皆の中に野球を続けている人がいる限りずっと続きます。
それに私に子供ができたら野球をしてもらう予定があります。願わくば、皆みたいに野球は好きだからやるという子に育ってもらえるように、皆の親御さんを見習って頑張ります(笑)
私の野球人生は“応援”です。
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次回は10/19(火)、井上慶秀副将を予定しております。
お楽しみに!