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《僕の野球人生》 Vol.15 近藤 悟 外野手

4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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《僕の野球人生》 Vol.15 近藤 悟 外野手 (4年/県立浦和)

近藤X

 

この文章を書いているという事実が、野球人生の終わりを予感させます。僕の場合、競技野球を始めたのは中学校からなので約10年間の付き合いでしたが、振り返るとどのカテゴリーでも指導者・コーチの交代が転機になったと感じます。少し長くなるかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。

 

幼稚園の年中から小6までサッカー少年だった僕が中学校で野球部に入ったのは、元々野球好きだったのも理由の一つですが、一番の理由は「サッカー部に入りたくなかったから」です。ざっくり言うとサッカー部に入りそうな人たちが苦手だったので、比較的仲良しが多いと感じていた野球部に入ることにしました。

入部した同期20人弱の中で少年野球を経験していないのは自分1人でした。今思えばよくその環境に飛び込んだなと感心します。野球の動作やセオリーなどは全くわからない状態で練習していたため、しばしば監督に怒られた記憶がありますが、それでもただ「楽しいから」野球を続けました。中2の秋に監督が交代してからは特にバッティングと走塁の指導を熱心にしていただいたことでスタメンとして使ってもらい、打順は8番ながらも「裏クリーンアップ」としての役割を期待されました。チームの目標には到達できなかったですが、自分の野球の基礎部分を作ってくださり、今でも神宮まで見に来てはアドバイスをくださる新岡先生には感謝してもしきれません。

 

引退した後は頑張って勉強して浦高に入学しました。高校野球への憧れや幻想を胸に入部しましたが、当時の野球部は昭和の体質が残った上下関係の厳しい組織で、特に2個上の代は怖かった印象があります(今の浦高野球部が読んだら衝撃かもしれませんが、これは本当です)。あまり得意な環境ではありませんでしたが、新チームになってからは1個上の代の改革のおかげもあって伸び伸びとプレーできるようになりました。そして高2の春には中学に続いて監督交代がありましたが、これが僕の高校野球の転機になったことは間違いありません。

高2の夏は代打要員としてベンチ入りし、自分たちの代になってからは副将としてチームをまとめる役割も任されました。「スタメンとしてチームを引っ張る」ことを当然の使命と考えていましたが、新チーム最初の大会前にスタメンから外され、その後引退するまで一度も戻ることはありませんでした。高校生の拙い頭で考えて導き出したスタメン剥奪の理由は「守備が嫌いだという情報を吹き込まれたから」でした。これは1個上の先輩と監督の側近のようなおじさんが「近藤は守備が嫌いだ」という情報を監督に吹き込み、新チームの試合でミスを犯したが故に起こったのだと思うことにしました。外された当初は打撃も不調だったのでそれなりに納得していましたが、その後一回も返り咲くチャンスを与えられることなく引退を迎えたので、理不尽極まりないと感じてしまいました。他に要因があったかもしれないという可能性を自ら捨て、環境に原因を求めた時点で僕は弱者でした。挙げ句の果てには最後の夏の大会でベンチ入りした3年生野手唯一の出場なしに終わり、完全な不完全燃焼で高校野球を引退しました。

 

それでも懲りない僕は、大学で野球をする気満々でした。せっかくなら六大でやりたい、それなら東大を受けようとなり東大を目指し始めましたが、現役では合格できませんでした。大学受験に疲れてしまった僕は、一旦は早稲田大学に入学してクリケットのサークルに入りました。クリケットは野球に似た競技で、初めのうちは野球経験というアドバンテージを生かしてプレーできたため、非常に楽しかった記憶があります。ただ、参加しているうちに徐々に物足りなさを感じ始めてしまい、「やっぱり野球がしたい」と考えるようになりました。大学の同期ともあまり合わなかったため、もう一度東大を目指すことにしました。当時は事の重大さを理解せずに大学を休学して予備校に入り、大学受験をやり直しましたが、親や周囲の人にどれだけ心配をかけたか、負担を強いたか考えると、本当にとんでもないことをしたなと、今更ながら感じています。

 

努力の甲斐あって何とか合格し、コロナ禍による活動休止を挟んでようやく東大野球部に入部できました。正直入部できただけでもう感無量でしたが、そんな気持ちは練習に参加した瞬間に吹き飛びました。ニュースで甲子園経験者が2人入部すると聞いて覚悟していたものの、別府さん(4年/外野手/東筑)の送球を見たとき、「これは無理だな」と感じたことを覚えています。高校時代に肩を壊したこともあって守備に関して完全に自信を失っていた自分としては、「スタメンを取る」という、元々遥か彼方にあった幻想を完全にかき消されたような感覚でした。そこから少し野球への熱を失い、1年の秋には練習参加よりも授業欠席の方が多いという野球部らしからぬ生活を送っていました。そのバチが当たったのか、冬の練習中に足首の靭帯損傷をいう大怪我をしました。自分たちがメインで出られるフレッシュに間に合うかわからないくらいの大怪我でした。正直、「やめようかな」と思うくらい落ち込みましたが、「まだ何も成し遂げていない」という漠然とした感情だけで続ける選択をしました。

 

春フレッシュを終えた2年の夏、初めてAチームに昇格しましたが、「何か1つでもAチームで通用する要素がある」という周さん(R4卒)の基準のもとで昇格したに過ぎず、脚以外は何も通用しなかった記憶があります。この時期にAチームの練習に混ざれたことで自分自身のバッティングや守備を見直す機会が早く作れたという意味では非常に良い経験でしたが、通用しないことの歯痒さを強く感じた時期でもありました。

 

3年生になり、春の慶應戦で初のベンチ入り・初出場を果たしましたが、何もできませんでした。途中からはベンチを外れることも多く、苦しかった記憶があります。そんな春リーグの途中から、隆成さん(R5卒)が僕に目をかけてくださるようになりました。今まで感覚でしかやってこなかった動作の一つ一つを言語化・可視化して考えるような癖をつけていただき、動作の再現性も考え方も明らかに変わっていきました。その結果、宮﨑さん(R5卒)が抜けた穴とはいえ秋の明治戦で初めてスタメンで出場し、初ヒット・初盗塁も記録できました。「野球やっててよかった」と素直に思えた瞬間でした。

 

秋のリーグ戦が終わり、学年ミーティングで新体制についての話し合いが行われました。結論だけ言うと僕は走塁長に立候補して、椎名(4年/学生コーチ/日比谷)とともに承認されました。元々はあまりやる気はなかったのですが、他にやる人もいないだろうしみんな僕だと思ってるだろうなというやや後ろ向きな理由から決まったことでした。正直、隈部さん(R4卒)・翔吾さん(R5卒)という前任者があまりにも偉大だったし、今年のチームは昨年ほど足の速い選手が揃っているわけでもなかったので、2人と同じように盗塁に重点を置いた方針は採用できませんでした。この点は首脳陣の了承も得て決定しましたが、井手監督からは「やっぱり盗塁も選択肢に欲しいけどね」と言われた記憶があります。今回の秋リーグでは再び盗塁にフォーカスしたチームづくりを進めてきたので、結局は井手監督が作り上げてきたチームカラーに染まった集団なんだなと痛感することになりました。

 

走塁長として練習メニューを策定していよいよ再始動というときに、井手監督が倒れました。僕はその場におらず、連絡を見たときも何が起こったのかすぐには理解できませんでした。少し経って、監督不在という状況の不安定さを感じたとともに、自分のスタメンの立場にも危うさを覚えました。足を絡めた攻撃的なスタイルを作り上げてきた井手監督の野球とは対照的に、守りを中心に試合を作っていき、盗塁よりもバントを使った確実な野球を好む大久保助監督が指揮を執るということは、足が速いことよりも、守備ができて、大事なところで1本出せるようなタイプの選手が使われる可能性が高いと、直感的に思ったからです。今年の外野陣は不動のセンター別府さんに走攻守で欠点がほぼない矢追(4年/外野手/土浦一)、それに春リーグでも大活躍した捷(2年/外野手/仙台二)の3人がレギュラーとして活躍していますが、こうなる未来は井手監督が倒れた時点で少しだけ見えていました。僕は極端に脚が速いことに意識が向けられるケースが多く、いくらバッティングの状態が良くても、送球が安定してきても、結局は「脚の人」の印象を覆すことができない選手でした。それでも春のオープン戦期間は2番レフトでずっと使ってもらい、状態としてもまあまあいけるかもしれないと思えるくらいには維持できていました。ただ、いい時間はそう長く続かないということも事実でした。

 

開幕1週間前の東農大とのオープン戦の試合前ノックで肘から聞いたことのない音が鳴り、その後力が入らなくなりました。診断は肘の肉離れで、全治2〜3ヶ月の重傷でした。怪我をしたその日、僕は野球をやっていて初めて涙が出ました。中高の引退の時も、先輩方が卒部するときも一切泣かない野球人生でしたが、自分の運の悪さや間の悪さ、不甲斐なさが重なって、涙が止まらなくなってしまいました。「東大でスタメンを取ること」を目標に4年間続けてきて、やっと掴みかけたチャンスを自分の管理不足でふいにしてしまうなんて、もう自分自身にうんざりしました。「春リーグの間は脚で貢献してくれ」と、永田(4年/学生コーチ/開成)門池(3年/学生コーチ/都立富士)には言ってもらいましたが、正直代走で出ても自分の目標が達成されるわけじゃないし、嫌だなと思っていました。それでも不思議と野球をやめる気にはならず、結局は春リーグ11試合中7試合に代走で出場しました。チームの勝敗に深く関わることはありませんでしたが、ベンチやコーチャーズボックスからみんなの姿を眺めて、試合に参加できることの喜びや責任がいかに大きなものかを4年生になってようやく実感できたような気がしました。

 

春リーグが終わってようやく投げられるようになった僕は少しずつ試合にも長く関われるようになりました。久々に走攻守をこなして、またスタメンを目指して頑張れることに幸せを感じたのも束の間、今度は「選手起用の壁」にぶつかりました。春リーグを通して外野手3人はほぼフル出場で、その地位は確固たるものになりつつあったし、下からの突き上げも強かった中で、僕はいつまでも1枚目で使われることはなく、ずっとコーチャーズボックスにいました。自分としてはバッティングの状態もいいし、守備も普通にできるようになったのになんで出られないんだろうとずっと感じていました。結局、首脳陣は僕を「とっておきの代走」として使いたいんだなと考えるようになりましたが、こうなるといよいよ試合に対するモチベーション維持は難しくなりました。試合に出てヒットを打っても「でもスタメンは取れないんだよな」と考えるようになり、代走で盗塁を決めると「ますます代走としての価値の方が高くなったな」と感じるようになっていきました。辛いことこの上ありませんでした。せっかくスタメンを取るために大学入り直したのに、結局何も成し遂げずに引退していく…そんな未来がすぐ近くに迫っていました。

 

そんな精神状態で迎えた開幕ゲームの明治戦で、僕は牽制死という代走として最悪の失態を犯しました。当然のことです。数字だけ見たらスタメンでもおかしくない成績を夏に築いたのになんで出られないんだろうか…そんな気持ちで試合に出ても結果はついてきません。自分の未熟さが招いた結果でした。それでも、そう簡単に割り切れないのが僕の厄介なところで、最後までスタメン奪取を諦めきれませんでした。今までに何度もこの挑戦で嫌な思いをしてきたにもかかわらずそれでも諦めきれなかったのは、やはり野球を続けられるように支えてくれた人たち、特に大学浪人や就職浪人という非常に負担の大きい決断を受け入れてくれた両親に恩返しがまだできていないと思っていたからです。この恩返しができるかは分かりませんが、最後までやり抜くことが少しでも恩返しになればいいなと思っています。

 

ここまでダラダラと書いてしまいましたが、野球人生自体を悔いているわけではありません。野球をしていなければなかった大切な出会いもあったし、そもそも野球をしていなければ東大を目指すことすらしていなかったかもしれません。僕の人生を彩ってくれた野球というスポーツに感謝し、残り3週間、最高の仲間とともに最後まで走り抜きたいと思います。

 

最後に、今まで僕を支えてくださった全ての方々、特に親族・指導者の方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。

 

 

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次回は明日10/6(金)、平松光紀外野手を予定しております。
ぜひご覧ください。