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《僕の野球人生》 Vol.19 椎名 航 学生コーチ

4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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《僕の野球人生》 Vol.19 椎名 航 学生コーチ (4年/日比谷)

椎名X

大井温登(4年/外野手/小松)に負けない大作になってしまいました。数日かけて読んでください。

「あなたは野球が好きですか?」
という問いに、私は即答することができません。もちろん嫌いなものを15年も続けられるはずもなく、大学生活のほとんどを捧げるほど野球に熱中しているのも事実ですので、嫌いではないと思います。しかし、「好きの反対は無関心である」という言葉を小学生で初めて聞いて以来、「じゃあ俺は別に野球が好きじゃないのかもしれない」と思うようになりました。

私は他人の野球に興味がありません。野球の試合自体は見ますがあくまで学習や評論の側面が強く、プロ野球や大リーグの勝敗やトレードなどにも関心がなく、ましてや高校野球や社会人野球には今どんな選手がいるのかさえもよくわかりません。野球部の仲間がプロ野球の順位変動に一喜一憂し、今年のドラフト候補についての話に花を咲かせているとき、私は全く話についていけません。せいぜい大谷選手のホームランを喜び、中日ドラゴンズの米騒動に大笑いする程度という、にわかファン以下の楽しみ方をしています。

それでも幼少の頃は、母の影響で日本ハムを応援していたりセギノール選手の豪快さに憧れていたりもしました。父も母も野球が大好きという椎名家の次男として生まれた私は、当然のごとく幼少期から野球に触れ、小2の夏に3つ上の兄を追いかけるようにして地元の福島リトルに入団しました。私は当時から下手くそで、頭の高さのボール球を何度も空振りしたり、満塁で上がったセカンドフライを走者一掃のタイムリーエラーにしてしまったりと、チームには多大なるご迷惑をおかけしました。それでもヒットを打つ喜び、ダイビングキャッチの爽快感、試合に勝つ達成感などを何度も味わうことができ、野球というスポーツにどんどんのめり込んでいきました。

中学生になってからは、成長痛の影響でほとんどの期間をまともに練習できずに過ごしました。なんのために毎週末の練習に顔を出しているのかもわからず、ひたすら体幹トレーニングを続ける日々に嫌気がさしたりもしましたが、仲間や指導者の方々にも恵まれ、チームを離れようとは一度も思いませんでした。下級生の間は3塁ランナーコーチャーとして野球の知識力や判断力を鍛え上げ、3年の時には外野手としてたくさん試合にも出させていただきました。最後まで野球は下手くそでしたが、ここで獲得した走塁の知識や野球観は今も私の根底にあり、それをたくさんの選手に伝えていけることに喜びを覚えています。

野球の才能と引き換えに勉強だけはできた私は都立日比谷高校に進学し、「俺が日比谷を甲子園に連れてくぜ!」などと息巻いて根拠のない自信とともに硬式野球部の門を叩きました。しかし進学校の運動部の一部員にできることなどたかが知れており、おそらくどこの学校のどの部員でもやっているような「工夫を凝らした効率的な練習」に取り組む日々でした。先輩方が公式戦で勝利を挙げられずに引退し、主将となった私は誰よりも自分に厳しくあることを心がけて練習に励みましたが、東大野球部の取り組みを知った今となってはどれもこれも一般的な高校生の練習の域を超えるものではなかったように思います。ただ、最後の夏には運も味方して東東京の4回戦まで進み、神宮球場で高校野球を終えることができました。

1浪ののちに東大に入学した私は、これまた他の選択肢など無いかのように硬式野球部へ入部しました。冒頭で述べたように私は六大学野球にも詳しくなかったため、一般論としての「東大野球部は勝てない」という程度の情報だけを持ち合わせていた私は、高校野球の最後で主将として多少いい思いをしたこともあって「俺が東大野球部を勝たせてやるぜ!」と鼻高々でした。

コロナの影響で1年生の練習参加が解禁となったのは8月でしたが、私はそこで別府(4年/外野手/東筑)とキャッチボールをしました。感想を一言でいうと、「なんじゃこいつ」です。私が山なりでツーバウンドとかになる距離から、奴はレーザービームをこれでもかというほどに浴びせてきました。そこで私の天狗鼻は再起不能なまでに折られ、初めて自分が井の中の蛙どころかミジンコレベルであることを思い知ったのでした(さらに言えば東大野球部も大海などでは決してなかったのですが)。

当時は2部練という制度もなかったため、私はフリー打撃に参加させてもらえずに上級生の打撃投手をやらされながら、隙間時間に端でティーバッティングやウエイトトレーニングをする日々を送っていました。同期が次々とOP戦に連れていかれる中、同ポジションの先輩方との実力差に軽い絶望感のようなものを覚えながら練習していたのを覚えています。

2年生になってからは怪我の連続でした。代走としての立場を確立しつつあった春フレッシュ3日前の右足首捻挫、3年春の左手親指の亜脱臼、夏の右ハム肉離れ、そして極め付けは3年冬、年明けの左肩亜脱臼でした。今でこそ痛みはほとんどなく関節がはまり切っていない程度ですが、当時は肩が全く上がらず、チームメイトが冬場の厳しいトレーニングに打ち込む中、私はそれを眺めながらリハビリと称して肩をほぐし続けていました。

この時の私の心の内には、言い表せないほどの後悔の念がありました。慚愧の念といってもいいかも知れません。入部して以来常に周りから言われ続けてきた関節の可動域の狭さや筋力のなさなどの課題に対して、時間がない、金がない、授業が、試験が、と言い訳を繰り返して後回しにし続けた代償がこの怪我でした。過去の自分をぶん殴って気付かせてやりたいとも思いましたが、全ては後の祭りです。腕を振れないため全力で走ることもできず、唯一と言っていい武器だった走力も日に日に衰えていくのを感じました。

そんな状況下での永田(4年/学生コーチ/開成)名畑(4年/学生コーチ/並木中等教育)からの学生コーチ転身の打診。チーム状況的に打診は来るだろうと覚悟してはいたものの、いざ来てみると「もう選手としてはいらない」と言われているような気がして(当然、誰もそんなことは言っていないし思ってもいません)、言い知れぬ虚無感を覚えると同時に、何か肩の荷が降りたような感覚でした。その時には私はもう、選手としての自分に期待ができなくなっていたのかもしれません。

そういうわけで学生コーチになること自体にはさほど抵抗がありませんでしたが、1つだけ懸念事項がありました。自分の野球にしか興味が持てない私にとって、プレイヤーとしての一線を退くということで勝利への執念が薄れてしまうのではないかということです。それまでリーグ戦に直接絡むことはなかったものの、自分が活躍したいという思いが奥底にあったからこそ分析やAチームの練習協力なども全力でできていたのではないか、と考えたのです。

しかしながらその不安は、思いのほか簡単に解消されました。それどころか、それまでの私が本気で仲間を応援できていなかったという新たな事実に気づいてしまったのです。それまでは同期が試合で活躍したという話を聞くたびに悔しさや焦りの感情が先に来て、「おめでとう」の一言すら簡単には出てきませんでした。しかし学生コーチになってからは「お前なら打てるはずだ」「頼むから打ってくれ」と本心で思うようになり、「こいつらが活躍できるならなんでもしてやりたい」と考えるようになりました。

特に秋季リーグ戦が近づくに連れ、同期の中には実戦でのアピール機会が限られる選手が出てきました。先の長くない望みの薄い4年生よりも、来年以降を見据えて下級生にチャンスを与える。理屈としては分かっているもののやはりなかなか割り切れず、4年生が打席に立つたびに「打ってほしい」「結果で全員を黙らせてやりたい」という思いはいっそう強くなりました。おそらく、4年学生コーチ陣は全員同じ気持ちだったことでしょう。

それでも期限は来てしまい、また1人、2人とAチームから離脱していくのを心苦しく、申し訳なく思っています。他人の野球人生の責任が自分にあると考えるなど烏滸がましいのは重々承知ですが、自分がもっとアドバイスをしていたら、練習に付き合えたら、悩みを聞いてあげられたらと思わずにはいられませんでした。それでも彼らは嫌な顔一つせずにサポートに周り、後輩の指導や分析などを全力で行ってくれています。だからこそ、彼らの分まで私たちは勝たなければならないと強く思うのです。

それからの毎日は、朝は早くから内田(3年/内野手/開成)工藤(2年/外野手/市川)に守備の基礎を叩き込み、リーグ戦期間中はメンバーの負担を減らすために永田や三宅(4年/学生コーチ/広島大福山)とともに打撃投手を買って出て、ノックを打ってほしいと言われれば日が暮れるまで打ち、帰って次の日の走塁練習の内容を考える。気がつけばグラウンドにいる時間は選手の頃の倍以上になっていました。私は引退間際の今になって、このチームが大好きで、東大野球部こそが「自分の野球」なのだと気付き、だからこそ「いい思い出」で終わらせたくなくて、なんとしても勝ち点を掴み取りたい、最下位を脱出したいと切に願っています。

先日、ついに法政戦でチーム初勝利を収めました。私はベンチ裏にいましたが、試合が進むにつれて吐く息は次第に熱くなり、それと同時に体の芯は冷えきっていくのを感じました。最終回には平静を装って後輩たちに指示を出していたものの、手はかじかんで足はかつてないほど震えていました。最後のアウトを取った瞬間は涙で視界がぼやけてあまり見えていませんでしたが、客席に礼をして戻ってくるみんなの姿は今まで見たどんなプロ野球選手よりもかっこ良かったです。学生コーチになって良かった、みんなと一緒に戦えて良かったと心から思います。

今後私がプレイヤーとして野球をすることはありませんが、おそらく野球との縁は切れないだろうと思います。小学生の頃から続けてきた野球の素晴らしさを新しく自分以外の誰かに伝えることができたなら、それこそが私の野球人生の意味だと思うのです。
以下、かなり長い謝辞(小・中・高・浪・大・両親)になります。1人称や口調の乱れがありますがご容赦ください。

福島リトルリーグ関係者の皆様
下手くそで泣き虫なくせに賢しらぶってプライドは高いというタチの悪い小学生だったと思いますが、本当に温かくご指導いただきました。2年ほど前に佐藤監督とお会いした際に私が野球を続けていることを喜んでくださり、私もより一層頑張らなければならないと感じていました。選手としての大成はできませんでしたが、私がここまで野球を続けられたのは福島での経験があったからだと胸を張って言うことができます。本当にありがとうございました。

杉並リトルリーグ関係者の皆様
父の転勤で途中加入した私に「一緒に世界を目指そう」と仰っていた田中コーチの熱い目は未だに忘れられません。少ない人数で、上手い選手もいなくて、それでも本気で勝利を目指すという経験は高校や大学で野球を続ける中で、私の根幹を支える重要なものとなりました。金子監督から頂いた木製バットは長く私の素振り用バットとして使われ、現在は高校球児である弟の手に渡っています。私の打ってきたヒットはあのバットのおかげと言っても過言ではありませんし、これからも椎名家の野球を盛り上げる立役者となってくれることでしょう。ありがとうございました。

立川ボーイズの関係者の皆様
成長痛で長期間ろくに動けなかった自分を見捨てずに、たくさんのことを教えていただきました。私の一発芸「自由」を大層気に入り、「お前は幹部になる!」と茨城訛りで言ってくれた篠原コーチ。なんの幹部かは不明ですが、これからも幹部を目指して精進いたします。
私の怪我をずっと気にかけ、3塁コーチャーとしての技術、野球の見方を教えてくれた遠山コーチ。「東大野球部に毎年教え子を送り込む」という野望の一翼を担えたことをとても嬉しく思います(私以降の続報はありませんが)。私のコーチとしての理想像はこれまでも、そしてきっとこれからも遠山コーチです。
そして私を「しいちゃん」と呼び野球のなんたるかを教えてくれた竹枡監督。当時の私は橋戸賞投手の偉大さがよく分からず、甘いものが好きなおじいちゃんだと思っていました。とんでもない野球お化けです。凄すぎます。
御三方とも社会人野球まで経験され、トップの世界を見据えた指導をしていただいたのだと今になってしみじみと感じます。本当にありがとうございました。また直接お礼に伺います。

日比谷高校硬式野球部関係者の皆様
毎年の激励会ではMr. Worldwideこと武内彰校長をはじめ、星球会の皆様や保護者の皆様など、多くの方々に支えられて野球ができていることを実感しました。これからは私も星球会の一員として、日比谷高校野球部を応援する側に回ります。よろしくお願いします。
顧問として3年間ご指導頂いた杉山先生。声の小さい顧問と耳の遠い主将のコンビで数々のミラクルな聞き間違いを起こしてきました。それでも先生は私に大きな期待を寄せてくださり、さまざまな経験をさせていただきました。私にとって「先生」は杉山先生のことで、恩師と呼ばせていただきたい存在です。引退後に東大野球部を志したのも先生のお言葉がきっかけで、今の私があるのは先生のおかげだと思っています。本当にありがとうございました。

河合塾本郷校の皆様
「絶対受かるし」と言って滑り止めなしの東大一本を頑なに譲らない私を心配しながらも、最後まで温かく支えてくださりありがとうございました。

東大応援部の皆様
いつも応援ありがとうございます。私は仕事の関係上スタンドで一緒に応援はできませんが、毎試合応援の力強さを感じ、チャンスで鳴り響く不死鳥には心を踊らせています。勝ち点を取って最下位脱出を果たすためにあともう数試合、一緒にがんばりましょう。

東大野球部スタッフの皆様
井手監督や大久保助監督、鈴木部長、豊田さんや高木さん、熊谷さんなどのスタッフの皆様には入部して以来ずっと様々な面でお世話になってきました。勝つことでしか恩返しはできないと思いますので、最高の結果をお返しできるように全力で頑張ります。

東大野球部の先輩方
先輩方には様々なことを教わりました。特に1個上の内野手の方々には目をかけていただき、技術的なアドバイスも精神的なアドバイスも数え切れないほどいただきました。選手として応えることは叶いませんでしたが、日々先輩方に教わったことを自分なりに後輩へ伝えています。本当にありがとうございました。

マネージャーのみんな
部の内外のやりとりや連盟の運営など、僕たちの知らないところで想像もつかないほどの激務を行なってくれているのだと思います。スタッフの一員になってからはより一層マネージャーのありがたみが身にしみています。お忙しい中マネ部屋に居座ってダラダラと長話をして申し訳ありませんでした。チーム一丸となって最後まで突っ走りましょう!

アナリストのみんな
データ処理が苦手な学生コーチ陣に代わってたくさんの案件を請け負ってくれてありがとう。いつも無茶なお願いをしてごめん。今の東大野球部がここまで戦えているのは間違いなくアナリストのおかげです。これからも東大野球部をお願いします。僕たちはいつでもOne-Heartです。

後輩のみんな
俺は学生コーチになってから、君たちの練習に付き合うのが大好きでした。ノックをお願いされると心が躍り、朽ちかけているノックバットを振るたびに後輩の成長を実感できるのが嬉しくて、君たちの未来が楽しみで仕方ありません。俺を「G.O.D」と慕ってくれやがった奴ら、毎朝一緒に練習した内田、ベストナインを獲ると約束した工藤、オフの俺を呼び出す谷村(3年/内野手/湘南)、意味不明な牽制死をする内田、ベンチ裏でHRのイメージを語る中山(2年/外野手/宇都宮)、うどんの汁を無言で俺の器に入れる捷(2年/外野手/仙台二)、握れなかったとか言って大暴投する内田、インターンに行く武(3年/外野手/戸山)、金持ちを夢見る門池(3年/学生コーチ/都立富士)、「G.O.Dに捧げます」と言って凡退する内田、横の打球をすぐ諦める大原(2年/内野手/県立浦和)、おそらく職場も後輩になる橋元(3年/外野手/修猷館)、全然discordを更新しない内田、discordの存在すら忘れかける見坂(3年/外野手/水戸一)、這ってでも俺の葬式に来る青貝(2年/内野手/攻玉社)、俺の最大の期待に最高の形で応えてくれる開智・・・思い出をあげればキリがありません。これからもずっと応援しています。自分を信じて、仲間を信じて頑張ってください。

同期へ
今更言うことはありません。最高のシーズンにしよう。

両親へ
長くなりました。きっと老眼の父さんは目が疲れてしんどいでしょうが、もう少し我慢してください。
キザな長男や事あるごとに感謝を伝える3男とは違って口下手で照れ屋な次男なので、この場を借りて長年の感謝の意を述べます。
俺に野球を教えてくれてありがとう。食事を作ってくれてありがとう。送り迎えをしてくれてありがとう。洗濯をしてくれてありがとう。試合に来てくれてありがとう。俺の意思を常に尊重してくれてありがとう。人生の選択肢をくれてありがとう。愛してくれてありがとう。産んでくれてありがとう。きっと俺は2人の自慢の息子ですが、2人は俺の自慢の両親です。世界中にだって誇れる俺の宝物です。言葉では表せないほどの感謝の気持ちを送ります。これからも健康に気をつけて、まだまだ続くであろう「椎名家の野球」を楽しんでください。

最後になりますが、私の野球人生で唯一誇れることは「1塁の駆け抜けで手を抜いたことがない」ことです。平凡なピッチャーゴロでも、目の前で進行するファーストゴロでも、一度たりとも全力で走らなかったことはないと言い切れます。ただ、これを読んだ一人でも多くの人が「何を当たり前のことを」と思ってくれることを願っています。

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次回は明日10/12(木)、永田悠学生コーチを予定しております。
ぜひご覧ください。

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