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《僕の野球人生》 Vol.25 松岡 由機 副将

4年生特集、《僕の野球人生》では、ラストシーズンを迎えた4年生に1人ずつ、今までの野球人生を振り返ってもらいます。

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《僕の野球人生》 Vol.25 松岡 由機 副将 (4年/投手/駒場東邦)

松岡X

 

「当たり前」
よく耳にする言葉です。辞書には「わかり切った、言うまでもないこと」と記されています。意味としてはなんら間違いでもないのですが、僕にはあまりにもあっさりとした紹介に思えてなりません。

初めての野球は家族とのお遊びでした。祖母とのプラスチック野球、父と毎週末公園でやった朝練は僕がリードした時が試合終了という僕の負けず嫌いが存分に出たなんとも都合の良い野球でしたが、野球にハマるには十分すぎるほど楽しかったです。その後当時住んでいた名古屋の地元チーム、名東ウィングスに入りました。投手を始めたのもこの頃です。初回練習の外周30周を泣きながら走ったり、試合でこっそり変化球を投げてみたりとなかなかなガキンチョでしたが、空振りを取る、相手を抑えるという投手の面白さに気づけたのもこの時期でした。仲間、指導者にも恵まれ毎週末のキツい1日練がいつも楽しみでした。しかし小5で東京へと引っ越し、地域のチームに入るとそこには僕より遥かに速い球をコントロールよく投げるピッチャーがおり、球速もそこそこでコントロールははちゃめちゃだった僕は入団するや否やサードになりました。当時、野球の競技性への魅力というよりも、マウンドでの場の支配感や自分がエースだと言う言葉の響きが好きだった僕からしたらこの現実は全く面白くなく、小6になるタイミングで中学受験への専念という名目で一度野球をやめました。

その後進学した駒場東邦中学で再び野球を始めます。1つ上の代から登板機会をいただき、この頃は純粋に野球が楽しかったです。長先生の「満塁になったら松岡」というなかなかにスリリングな起用のおかげで今でもピンチの場面であまり動じなくなりました。
その後自分たちの代になり副将に就任しました。ですが当時は若気の至りなのか、厳しさこそ正義、締めてなんぼだと思っていたので、チーム内の少し砕けた雰囲気やちょっとした盛り上げの声の足りなさ、挙句にはプレー中のミスに対してまで怒声を飛ばしていました。そんなやつが組織の上にいたら反発する勢力が出るのももっともな話で、現にチーム内はピリつく組とゆるゆる組に二極化し、まとまりを欠いた状況になってしまいました。結果も全くついてこず、僕らの代は公式戦通算1勝、最後の試合は僕がランナー2塁から敬遠を2連続で暴投したのが決勝点となり敗戦しました。

悔しさを抱えたまま、高校で軟式野球部に入部しました。この高校野球部での経験が今の僕の野球に対する姿勢、考え方を形成してくれています。内藤先生、野口先生のもと、限られた練習時間の中、とにかく頭を使って野球をする姿勢を学び、高1の秋には先輩たちと一緒に関東大会優勝を経験することができました。進学校ならではの2年の秋で部活は引退という風習に則り、この大会が最後の大会となっていた高2の先輩たちの有終の美を飾れたことが心から嬉しく、経験したことのない晴れやかさを感じました。
勢いそのままに代が変わって初めての大会となる春の都大会、周りは3年生中心のチームの中、2年生以下のチームで優勝しました。このままいけば久々の全国にも行ける。そう確信して夏の大会に臨みました。
順調に勝ち上がり迎えた都大会決勝。延長12回の末、4-3でサヨナラ負け。それまでで一番悔しかったし、何より何十年ぶりかの全国出場がかかっていると聞いて駆けつけてくださったOBの方々、熱中症になりながらも声援を送ってくれた同級生への申し訳なさを感じました。この悔しさ、申し訳なさを晴らすために、大学では全国レベルの相手を抑えて勝ちたい。そう考えた僕は目標を東大野球部に定め、受験勉強を開始し、現役で東大に合格することができました。

晴れて東大に入学し、野球部に入部する気満々だったのも束の間、予期せぬ事態に見舞われます。
新型コロナウイルスの蔓延。
外出自粛が叫ばれ、部活動は愚か外に出ることさえ憚られる状況でした。外に出られないと気分も鬱々としてくるもので、次第に思考が深く、悲観的に偏っていきました。そしてこのような考えに至ります。
「大学で野球なんかやって何になるのだろう」
「せっかく東大に入ったんだし頭を使った何かをしたほうがいいんじゃないか」
大学生になってまで野球にしがみついたってたって誰かのためになるものでもない。それよりは今まで恵まれた環境で勉強や野球を何不自由なくやらせてもらってきた身として今度は勉強や部活になんらかの制限が課されてしまっている子供達をサポートできる活動をしたほうがいいのではないか。もう子供じゃないのだから少しは人のためになることをするのがいいのではないか。
そう思って一度は野球部への入部を辞めようと考えました。しかし辞めると決断してもなお心に引っかかるものがあったこと、神宮球場でプロになるような選手たちを抑えて勝つことへの憧れが捨てきれなかったこと、神宮での野球はこの大学での4年間しかできないこと、同じクラスだった地曵(4年/内野手/開成)向原(4年/内野手/長崎西)がすでに入部を決めていたことなど様々な要因が相まって結局は野球部に入部することにしました。

こうして入部した野球部で、下級生の頃は全てが新鮮でした。1年秋のフレッシュで初めて中から見た神宮の姿、選手を飲み込むかのような凄まじい応援、誰かの1球に、誰かの1スイングに熱狂する球場、受験期に目を瞑ることでしか描けなかった光景が目の前にありました。プレーの面では慣れない硬式ボールと格闘しながら、速い球や強い変化球を投げるかっこいいピッチャーと言う理想像を追い求めて練習し、試合に行けば打たれて打たれてたまに抑えて、打たれたら悔しくて、抑えたら楽しくて、今考えたら神宮という夢の舞台でする野球を純粋に楽しんでいたように思います。

転機となったのは2年秋のことです。負ければ最下位が確定する法政戦、ビハインドの展開、もう点はやれない中で2番手として登板しましたがあっけなく失点、その後さらに点差は開き、先輩たちの代の最下位脱出の夢は潰えました。試合後のバス、ミーティングで涙ながらに話す大音さん(R4卒)の声を忘れることはありません。先輩たちの4年間の悲願を潰してしまった。その責任を感じずにはいられませんでした。来年こそは最下位脱出を実現し、自分がその原動力になる。そう意気込んで冬の練習に精を出し3年生になりました。

その意気込みとは裏腹に3年生は苦しい1年でした。春の開幕戦、1点リードの展開から登板してあっさり逆転されチームも敗戦。秋も早稲田戦、立教戦と同点から僕が決勝打を浴びて敗戦。重要な局面を任せられている、ということに最初は充実感を感じつつも、それは次第に抑えなければいけないという重圧へと変わり、その重みに負けている自分がいました。極め付けは秋の最終カード法政戦第1試合、勝ち点を獲得すれば最下位脱出となる試合、同点の8回から登板しました。8回をなんとか抑え、9回のマウンド。先頭を外野フライに打ち取り緊張の糸が緩みかけた直後でした。
「おりゃっっっ!!」
サヨナラホームラン。
相手打者の唸り声とともに僕の投じた気の抜けた1球はあっさりとライトスタンドへ消えていきました。打たれた瞬間、自分のしてしまった失態の大きさを受け入れることができず、打球を目で追うこともできませんでした。
1年間重要な場面を任せてもらっているのに全くその期待に応えられない、チームは善戦しているのに毎回自分がその試合を壊している、僕が投げたらチームが負ける、また最下位になってしまう。こうした考えが回転扉のように順繰りに頭の中を占めていき、夢にまで見た神宮球場は見たくもない施設へと様変わりしました。
試合後、学生コーチの島袋さん(R5卒)から翌日の先発を打診されました。みんなが目指す先発に指名されるなんて身に余る光栄だし、首脳陣も僕を信頼して先発にしようとしていたのだと今でこそ思います。なんなら先輩方が託してくださった最下位脱出のかかった大事な一戦を死ぬ気でとりにいく責務があるとさえ感じます。ですがその当時は任された責任の重さとやってしまった今までの罪の重さに押しつぶされそうになっていました。楽になりたい、もう勝負のかかった場面で投げられる自信がない、という責任逃れな気持ちを抑えきれず、僕は打診への回答を保留、翌日の先発は西山さん(R5卒)が務めてくださりました。
翌日の試合でも敗戦し、4年生は最下位という結果で引退していきました。また4年生を最下位で引退させてしまった、任せてもらった責任を全くと言っていいほど果たすことができなかった、今年こそ最下位脱出を、と意気込んでいたのに責任の重さに耐えきれず逃げ出してしまった。自分の弱さが痛いほど身に染みて情けないことこの上なかったです。引退を迎え、悲喜こもごもの表情を浮かべる4年生を見ながら強い自責の念を感じました。

そこから1年間、2年分の悔しさ、申し訳なさを力に変え、自分たちの代で最下位脱出を実現することが先輩方に報いることになると信じて活動してきました。
井澤さん(R5卒)をはじめ多くの偉大な先輩が抜けた穴を埋め、去年よりも高いレベルの投手陣を作るべく健を中心に何度も話し合い、新しい取り組みを実行してきました。個人としても先発完投を目標に今まで以上に投球フォーム、投球術について考え、かっこいいピッチャーよりも勝てるピッチャーを目指してきました。
秋の法政2回戦。TEAM2023で掴んだ初勝利でした。勝利の瞬間駆け寄ってくるチームメイト、歓喜の輪が広がるスタンド、応援席、試合後充実感に満ちた表情を見せてくれたみんな、そのどれもがどんな夜景よりも美しかったです。特に同期の多くは同じ不安を抱えていたかもしれませんが、次の世代に勝利を経験させることのないまま引退してしまうかもしれないと言う不安から解放され、喜びよりも安堵感の方が強かったと後から振り返って思います。

話は変わり、新チームでは副将に立候補しました。毎日なんの変哲もなく練習が進んでいく中で、1つ上の副将だった西山さんが常に各方面に気を回して運営が滞らないよう尽力しているのを1年間近くで見てきて、自分も組織のために動かなければならないという使命感が芽生えたのがきっかけです。幹部の梅林(4年/内野手/静岡)亮太(4年/外野手/灘)は言葉で、姿勢でみんなを引っ張っていけるタイプであるのに対し、僕は先頭に立つのがあまり得意ではなかったのもあり、自分は選手が不自由なく活動できる基盤を選手目線で作ろうと考え、「当たり前を円滑に」をテーマに1年間活動してきました。
ですがこんな一見高尚なことを書いていながら、実際には自分が何かしたというよりも気付かされたことの方が多かった気がします。
毎日練習予定が出てその通りに練習が進められる。オフシーズンが明ければ定期的にオープン戦が組まれ、選手に実戦機会が設けられる。買いたい部道具が買える。合宿先で何も考えずに野球に打ち込める。リーグ戦前には相手投手の球筋、相手打者の打球傾向がわかる。手軽に相手チームの動画が見れる。リーグ戦に行けば応援席の盛り上がりに後押ししてもらえる。金銭的、精神的なサポートがある。
どれも僕たち選手にとってはあるのが「当たり前」になってしまっているものですが、その裏にはたくさんの人の血の滲むような努力があります。チームの練習、試合、合宿が滞りなく行えるように外部と交渉したり予算を管理してくれたりしているマネージャー、チームが強くなるために練習予定を組み、ノックを打ち、采配を考えてくれる学生コーチ、他大学のデータを無知な選手にも理解できるようにわかりやすくまとめ、勝つために有益な情報をたくさん提供してくれるアナリスト、東大野球部の勝利のために、と厳しい練習を超えて素晴らしい応援を作り上げてくれる応援部、嫌な顔一つせずに子供のやりたいことを尊重してくれる家族。
彼ら彼女らが作り上げた「当たり前」は決して「わかりきった、言うまでもないこと」と言うような淡白な解説で語り尽くせるものではありません。むしろ計り知れない努力の先に生まれた「有り難い」ものです。ですがその「当たり前」が常態化すると、彼ら彼女らの支えのもとで活動する者の中で、「当たり前」が「有り難いもの」から「ないと不便なもの」へと変わってしまうことが往々にしてあります。そしてこの慢心は時に配慮に欠けた言動として支えてくれた方達の元へ返っていきます。「恩を仇で返す」とはまさにこのことです。
今思えば僕自身配慮に欠けた発言をしてしまったことは何度かあります。今更だとは思いますが本当に反省しています。与えられた環境のアラを探す前にまずはその環境で自身の最善を尽くすこと、そしてその環境を作るために日々活動してくれている方たちの見えない努力を想像し敬意を払うこと、僕も含め東大野球部にまだまだ足りていない部分だと思います。新チームが始まる時に梅林が「勝てるチーム」より「勝つべきチーム」を目指そう、といっていました。こうした想像力、思いやりも「勝つべきチーム」に必要な一つの重要な要素なのではないかと思います。
頭ではそのありがたみをわかっていても、実際に運営に足を入れることでその偉大さが身をもって感じられました。全員、選手が試合に勝つことを信じて日々努力してくれています。我々選手は自分が活躍するために練習に励めばいいですが、こういった「当たり前」を作ってくれる方たちは最後を選手に託すしかありません。そんな最後は自分の手が届かなくなるものに対して選手を信じて努力してくださる皆さんを心から尊敬しています。そして皆さんの期待を今度は重さではなく力に変えて必ず最下位脱出を実現しようと思います。

余談にはなりますがこの1年の経験を通じて「世の中の当たり前を支えることがしたい」と思うようになりました。ひとえに野球部の活動を支えてくださった皆さんへの憧れから生まれた思いです。大学生になってまで野球にしがみついたことで自分の学んできたことを世のため人のために生かしたいと心から思えるようになりました。憧れとは無い物ねだりなところもあるかもしれませんが、皆さんみたいになれるよう社会に出て活動していきたいと思います。

 

最後にお世話になった方々への感謝を述べてこの文の結びとしたいと思います。
中高野球部へ
中高時代はたくさん迷惑をかけてしまいました。細かいミスに対してキレたり1人で勝手にピリピリしたりしてチームの雰囲気を悪くしてしまっていたと思います。本当にごめんなさい。そんな中でも僕の東大野球部での活動を気にかけてくれて、時に応援しにきてくれて本当にありがとう。1週間後には暇になります。久々にご飯でもいきましょう。
また長先生、石原先生、内藤先生、野口先生には大変お世話になりました。僕をピッチャーとして使い続けてくださったおかげで、ここまで野球を続けることができました。本当にありがとうございました。

応援部の皆さんへ
なかなか勝てない中でも僕らを信じていつも最高の応援を届けてくれてありがとうございました。負けが続いていても応援部の皆さんが常に前を向いて応援してくださったおかげで僕らもここまで戦ってくることができました。目には見えませんが応援の力は偉大です。ピンチの場面での「由機がんばれ」に何度心を支えてもらったかわかりません。みなさんの作り上げる応援の中で野球ができて本当に幸せでした。今季も残すところあと1カード、最高の応援をよろしくお願いします。

先輩方へ
ニヤニヤしながら近付いてきて舐めたことを言う後輩でしたが、たくさんの方々によくしていただきました。本当にありがとうございます。野球の技術的なことから打たれると凹みやすい僕のメンタルケアまでおんぶに抱っこだったと思います。たくさんお世話になった分、最下位脱出と言う形で必ず恩返しさせていただきます。

後輩のみんなへ
1年間僕らについてきてくれてありがとう。みんななら僕らよりももっと勝てると確信しています。それだけのポテンシャルは確実にあります。代が変わって難局にあたることもあるかもしれませんが、みんなで手と手を取り合って、他人への気配りを忘れずに頑張ってください。来週からは1人のファンとして応援します。

井手監督、大久保助監督へ
球が速いだけの荒れ球ピッチャーを使い続けてくださってありがとうございました。引退までになんとか1勝を捧げることができてよかったです。最終カード、必ず勝って井手イズムの真髄を発揮し、井手監督のラストイヤーに最下位脱出と言う形で花を添えさせていただきます。

同期へ
気分が出やすくて時に奇行をする威厳のない副将でしたがみんなに支えられました。本当にありがとう。みんなとした学年部屋でのしょうもない話も数多く生まれてきた謎のノリも、最下位脱出を目指して毎日積み重ねてきた練習も後1週間と思うと本当に名残惜しいですが、それほど楽しく居心地の良い空間だったんだと感じます。みんなと野球ができて本当によかった。最後全員で最下位脱出しよう。

両親へ
紛れもなく一番お世話になりました。本当にありがとうございました。感謝を伝えなければならないことは山ほどあるのですが、せっかくなら引退後会って伝えたいので実家に帰ったら伝えます。とにかく今は1年間言い続けてきた最下位脱出を実現するために全力で頑張ります。最後まで応援していただけたら嬉しいです。

その他にも高木さんや個人的にお世話になった島田さんをはじめとするトレーナーの方々、高井戸接骨院の森先生やメディカルベース新小岩の小林さんをはじめとする医療関係者の皆様にもとてもお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

白か黒しかつかない勝負の記憶が今僕の中で鮮やかに彩られているのは紛れもなく関わってくださった全ての方のおかげです。

このチームで戦うリーグ戦も残すところ立教戦のみとなりました。世間では当然のように東大は万年最下位で負け続けている、というイメージが根付いています。僕はこれが悔しくてなりません。最後立教戦で勝ち点を取り、「東大=最下位」という世の中の「当たり前」を壊して引退したいと思います。今週末楽しみにしていてください。

 

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次回は明日10/18(水)、長谷川亮太副将を予定しております。
ぜひご覧ください。