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『僕の野球人生』第22回 笠原健吾主将

『僕の野球人生』第22回

笠原 健吾 主将(4年/内野手/湘南)

済別

人間誰しも努力し続けたにも関わらず報われないのは怖い。だから、乗り越えられないかもしれない困難に直面した時、人間は逃げようとする。その状況に直面し続けることは辛く、苦しい。

僕にとって野球とは、辛く、苦しいものでした。

 

野球を始めたのは小学校3年生の時でした。当時テニス少年だった僕は、テニスと似たようにボールを打ち返す野球に心惹かれました。小学生の時はチームの中心選手として試合に出していただき、自分は野球が上手いと信じ込んでいたので、楽しく野球をしていたと思います。

 

中学生になり、横浜泉シニアに入部しました。この時、僕は初めて自分は野球が下手くそだということに気付きます。パワーも身のこなしも優れている同期を前に、やってきた野球のレベルが違うと思いました。小学生の時に自信を持っていた内野守備は一瞬で内野手失格の烙印を押され、最初の練習試合では40人ほどいる同期の中で最後まで出番がありませんでした。果たして試合に出られる日は来るのか。段々と野球は苦しいものになっていきました。

それでも練習を重ね、外野守備と走塁で居場所を見つけると、自分たちの代になったときにはベンチに入れてもらえるようになりました。このまま努力していればレギュラーも不可能ではない。その一縷の望みにかけて努力を重ねました。しかし、結局レギュラーを獲得することはできませんでした。同期のおかげで春夏と全国大会に出場でき、試合にも出られたのは貴重な経験でしたが、何一つチームに貢献できなかった悔しさが残りました。引退試合となった夏の全国大会、神宮球場で負けた経験が、上のステージで野球を続ける動機になりました。

 

高校生になった僕は、自分の手で強豪私学を倒したいという思いで湘南高校に入学しました。Ⅰ年生の秋から1番打者を任されるようになり、強豪私学を倒して甲子園に行くことを本気で目指して練習しました。目標の高さ故に、高校での練習はそれまでと比べ物にならないほど厳しく、ひたすら苦しい思いをしました。両打ちに挑戦したり、内野手に再挑戦したり、強豪私学との実力差を埋めるべく試行錯誤を重ね、厳しい練習を乗り越えましたが、2年続けてベスト16の壁に阻まれ、努力が報われることはありませんでした。

 

高校野球に残った悔い、中学生の時に神宮球場で負けて以来持ち続けてきた神宮球場への憧れから、僕は東大野球部を目指すことにしました。猛勉強の末、運良く東大に合格した僕は、迷うことなく東京六大学の舞台に、東大野球部に挑戦することを決めました。

1年生は充実した1年間でした。中学校、高校と外野手一筋でやってきたにも関わらず、入部早々、内野手にコンバートされるという誤算はありましたが、秋のリーグ戦では試合に出していただき、慶應戦の勝利の瞬間、法政戦の勝ち点の瞬間をベンチで経験することができました。法政2回戦の最終回のヒリつくような緊張感は今でも覚えています。試合に出ていない僕ですら、声を出し続けていないと立っていられないのではないかと思うほどの緊張感でした。勝ち点奪取を決めた時、喜び合う先輩方の姿に、沸き立つ応援席に、どよめくスタンドに、感動しました。目に焼き付けたこの光景を次は自分の手で。その思いでさらなる努力を誓いました。

1年生ながらリーグ戦を経験した僕は、2年生になればレギュラーになれるだろうと思っていました。しかし、この甘い考えは一瞬で崩れ去ります。2年生の春、練習試合でまったく結果が出なくなりました。怪我で出遅れたのもあり、結果を出さなければいけないという焦りから、徐々に調子が狂っていきました。守備についてもエラーするイメージしか湧かない。打席に立っても打てるイメージが湧かない。それまで当たり前にできていた、捕る、投げるという動作すら、おぼつかなくなっていきました。思えば野球人生で一番苦しかったのはこの頃かもしれません。内野手をやめることも考えましたし、このまま調子が戻らなければ学生コーチにされるかもしれないとも思いました。暗い考えばかりが頭の中を占め、練習に身の入らない時期が続きました。

転機となったのはリーグ戦後のフレッシュリーグです。キャプテンに選ばれた僕は、下を向いてばかりはいられないと、半ば強制的に気持ちを切り替えました。キャプテンらしいことを何かしたわけではありませんが、慶應戦での勝利や個人的に結果を残せた経験が僕を変えました。夏の練習試合では試合に出していただく機会が増え、秋のリーグ戦をスタメンとして迎えました。ただ、秋のリーグ戦もチームとして勝つことはできず、個人的にも力不足を痛感しました。本気で抑えにくる他大学の投手陣の前に手も足も出ず、先輩方を差し置いて試合に出ているのに結果を出せない自分を申し訳なく思いました。来年こそはと気持ちを新たにして3年生になりました。

2年生の時に力不足を痛感した僕は、他大学の選手に劣らない力をつけようと思い、冬を過ごしました。國學院大学や亜細亜大学の練習に参加させていただいたり、ジャイアンツ主催の練習会に参加させていただいたりして、高いレベルのプレーを肌で感じる機会をいただきました。その結果、春のリーグ戦では2年生の秋を越える成績を残し、自信がつきました。ただ、2シーズン続けてそこそこの成績を残した僕の中で、自信は徐々に慢心へと変わっていきました。怪我の影響もあって夏の練習試合では出番が減り、試合に出ても結果が出ない日々が続きました。それでもリーグ戦が近づけばなんとかなるだろうという思いが心のどこかにありました。しかし、いくら経っても状態は上がらず、自分もチームも結果を出すことができないまま、秋のリーグ戦は過ぎていきました。下級生の頃から使ってもらっていながらチームに貢献できないのが申し訳なく、試合に出るのが怖くなりました。試合に出てチャンスを潰すたびに、自分が先輩方のラストシーズンを台無しにしているのではないか、こんな僕が試合に出ていることに不満を持っているのではないか、そんな思いばかりが頭の中を巡りました。足を引っ張りたくないという思いからプレーの積極性は失われ、更に結果が出ないという悪循環にはまっていきました。そんな中、最終カードを前に転機となる出来事がありました。確か法政戦の週の練習の時だったと思います。内野手の守備練習が終わった時、どこか締まらない雰囲気だったことに対し、朋大さん(山下朋大/R2卒)が涙ながらに思いをぶつけていたことを覚えています。「自分は試合に出られなくてもいいから勝ちたい、だから試合に出る人は本気で1つのアウトをとってほしい」そんなような内容だったと思います。僕は、それまでの自分の甘い考えを恥じました。それまでの僕は、結局自分が活躍したいという思いばかりでした。野球をはじめて以来、自分が活躍した上でチームが勝てばいいと思っていました。だからこそ、中学で全国大会に出ても、大学で勝ち点を取っても、心から喜びきれない自分がいました。ただ、この時の朋大さんの言葉を聞いて、初めてチームのために戦いたいと思いました。このシーズンで野球人生を終える4年生が、自分は試合に出られなくてもいいから勝ちたいと言っているのに、試合に出る自分がチームのことを考えないでどうする。自分のヒット1本なんてどうでもいい、とにかく試合に勝つために目の前のプレーに最善を尽くそう、そう心に決めました。迎えた最終戦、終盤までリードしていたものの逆転負けを喫しました。試合後のロッカーで泣き崩れる4年生を見て、申し訳ない思いでいっぱいでした。僕にできるのは、涙を堪えることだけでした。懸けてきた思いが違う、僕なんかが泣いてはいけない。この光景を目に焼き付け、悔しい思いを心に刻みこみ、自分の代で借りを返す。そう自分に言い聞かせ続けていました。

自分たちの代となり、キャプテンに選んでもらった僕は、ひとつの決意をしました。「チームのために戦う」。自分の結果がどうあろうと、チームのことを最優先に戦い抜こうと決めました。

チーム2020は船出から前途多難でした。監督助監督の交代、大学からろくに相談もなく半ば強制的に始まった球場工事、練習に集中できる環境を整えるので精一杯でした。それでも、主体的に動いてくれる同期の協力があり、頼りない最上級生についてきてくれる頼もしい後輩たちがいるおかげで段々とチームは形になっていきました。春の練習試合では守り勝ちあり、逆転勝利あり、例年にない勝率を残しました。個人としても、チームのために戦うという意識が思考をシンプルにしたのか、今までにない好調を維持していました。チームも個人も、この春はいける。そう確信していました。

そんな中、僕たちを襲ったのが新型コロナウイルスでした。

未曾有の事態に感情がごちゃ混ぜになり、自分を見失いました。春のリーグ戦の延期が決定し、世の中では緊急事態宣言が発令され、このまま引退かもしれないなと思いました。事態が少し落ち着き、春のリーグ戦の夏開催が決定して、他大学が徐々に練習を再開する中、東大は無期限の活動停止状態になり、大学側と活動再開交渉をしようにもまともに話し合おうともしてくれない。挙げ句、ちゃんとした理由の説明もなく活動停止期間がずるずると延びていく。そんな状況に、自分たちの力が及ばないやるせなさ、活動再開に至らない憤り、こんな状況で試合をしても勝てるはずがないというやさぐれた気持ちが大きくなっていきました。チーム内でも、今後の練習をどうするか、感染対策をどうするかといった様々なことを自分たちで判断しなければなりませんでした。ですが、100人いれば様々な考え方があるのは当然で、いくら幹部で話し合って決めても、部員全員が納得する結論は得られませんでした。様々なところで不満が出ているという噂を耳にしては心を痛め、チームがばらばらになっていきました。人の上に立つ立場の僕が情けないからチームがばらばらになってしまったのではないかという自責の念、自分は実はチーム全体のことを考えられていないのではないかという疑念から、自分で考え、決定し、指示を出すということが怖くなりました。なんで自分の代だけ、自分がキャプテンの時だけ、こんなことになるんだと、ぶつけどころのない負の感情がどんどん大きくなりました。本当に、野球を続けるのが辛く、苦しかったです。

ただ、そんな中で最大のチャンスが訪れました。春のリーグ戦の開幕戦、慶應戦です。終盤に逆転し、1点リードで最終回の攻防を迎えました。しかし、この時に僕は悔やんでも悔やみきれないミスをしました。最終回の攻撃前、「ここからの1イニングはここまでの8イニングと同じくらいしんどい戦いになる」というようなことを言いました。チームを引き締めるつもりで言ったこの言葉ですが、結果としてみんなを固くさせてしまいました。勝ちを意識しすぎた結果、普段通りのプレーができず、逆転を許しました。共に頑張ってきた同期たちの努力が報われるチャンスを、こんな僕たちに力を貸してくれる後輩たちに財産を残すチャンスを、ばらばらになったチームを一つにするチャンスを、僕は自ら手放してしまいました。

思えば昔も似たようなことがありました。高校2年生の夏、ベスト8まであとアウト4つという状況で、2アウト2・3塁。センターを守っていた僕は、打席にパンチ力のある打者を迎えているにも関わらず、勝ちを焦って外野を前に出しました。打球はレフトの頭の上を超えていきました。定位置に守っていれば捕れる打球でした。

あの時と同じように勝ちを焦ってしまったことを後悔しました。5年前から何一つ成長していない自分が情けなくなりました。僕があんなことを言わなければ、そもそもキャプテンが僕じゃなければ、勝てたんじゃないかという後悔の念は今でも消えていませんし、おそらく一生消えないのでしょう。

勝つチャンスというのはそう何度も巡ってくるものではなく、勝つことができないまま秋のリーグ戦も残り2試合となりました。

 

こうして野球人生を振り返ってみると苦しいことばかりですが、野球をやめたいと思ったことはなく、野球を続けてきたのは良かったなと思っています。自分の力が到底及ばないような相手と対峙することも、はるか遠い目標のため、暗中模索で努力し続ける経験も、勝負の瞬間のヒリつくような緊張感も、足が震え、立っているのがやっとなほどの重圧も、すべてここまで野球を続けなければ得られなかっただろうと思います。そして、今後の人生でも得難いものだろうと思います。

そしてここまで野球を続けてこられたのは、僕の野球人生に関わってくれたたくさんの方のおかげだと思います。

小学校のチームメイト。一人、通う小学校が違う僕にも分け隔てなく接してくれたおかげで楽しく野球ができました。この時の僅かな楽しい野球の記憶がなければ、とっくに野球をやめていたと思います。ありがとう。

シニアの同期。みんなに追いつきたいという思いが頑張る力になりました。卒部後も各地で活躍するみんなの存在が刺激になりました。もっと上のステージで野球をしたいと思えたのは間違いなくみんなのおかげです。ありがとう。

高校の同期。野球にも勉強にも一切手を抜かないみんなのことを、本当は尊敬しています。自分より遥かに頑張っている仲間がいる環境は、本当に貴重なものでした。全員が本気で高い目標を持ってやる野球は、やりがいのあるものでした。ありがとう。

大学の同期。勝ち点を取った時に活躍したメンバーが多く残る1個上の代と比較され、力のない代だとよく言われてきました。それでも努力を重ね、未曾有の事態も乗り越えて、戦ってきたみんなを、一人の同期として誇りに思います。特に、最上級生になってからのみんなはとても頼もしかったです。ありがとう。

そして、家族。僕の無謀とも思える挑戦を応援してくれました。特に両親には頭が上がりません。小中学校の時の送り迎えと当番に始まり、高校、大学ではほとんど全ての試合を観に来てくれました。2人の期待に応えられたとは思いません。特に最後の1年間は、キャプテンの親として色々な気苦労もあったと思います。それでも変わらず応援してくれる2人には救われました。ありがとう。

他にも沢山の方々が僕の野球人生には関わっています。僕の野球選手としての成長、そして人間としての成長を支えてくれた指導者の皆様方、いつも応援してくれる応援部の皆様やファンの皆様、数えたらきりがありません。そのうちの誰か一人でも欠けていたら、今見えている景色は見えなかったでしょう。本当にありがとうございました。

 

野球人生の最期を前に、なぜここまで野球を続けてきたのかと考えることが増えました。僕が野球を続けてきたのは、「報われていないから」だと思います。苦しいながらも続けてきた野球で、報われたい。中学生の時にレギュラーとして全国大会で活躍していたら、高校生の時に甲子園に出ていたら、きっとここまで野球を続けていないでしょう。冒頭書いたように、困難な状況に直面し続けることはとても難しいことです。だからこそ、僕の野球人生を褒めてくれる人は少なからずいます。ただ、僕だって報われたいという思いは持っています。どころか、苦しんだ時間が長い分、人より余計に報われたいと思っています。大学野球で勝てなければ、野球選手としての僕の魂は成仏できないでしょう。

野球人生の最期を、このチームで勝って、笑って迎えたい。その一心で最後の戦いの舞台に臨みます。

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秋季リーグ戦をもって引退する4年生特集「僕の野球人生」は今回が最終回となりました。
お読みいただき、誠にありがとうございました。

明日からの明治大学戦では、チーム一丸となり、全身全霊で戦い抜きます。
最後まで温かいご声援のほどよろしくお願いいたします。