明治大学
「ラストシーズン、必ず天皇杯を獲って終わる。」全員がこの思いを強く持っている。春シーズンは優勝決定戦で敗れ2位。入学から3連覇を経験させてもらったが、その後は4季連続2位。そこで秋に向けて主将木本を中心に4年生でもう一度チームの目標を再確認した。結果を追い求める姿勢も強くなった一方で後輩たちに何かを残そうという姿勢も見られるようになった。新チームになってから掲げたスローガン、「奪冠」。私たちが下級生の時に見た景色を後輩たちに受け継ぐ。喜怒哀楽をともにしてきた日本一最高な仲間と、日本一の応援団と、日本一熱いファンの皆様と、頂点へ。9月20日の初戦へ最高のイメージで迎える。 (本岡里空)

法政大学
法大のこの秋にかける思いは並大抵ではない。総優勝回数は早大に続く2位と偉大な先輩方が輝かしい成績を残されている我々法大。ただ、2020年春以来、優勝から弊部の記録は遠のいている。この夏は春の屈辱を晴らすべく、チームスローガン「執念」の元、目の前の一球、目の前の試合、目の前の私生活にまで注力し活動をしてきた。連盟結成100周年、弊部創立110周年の記念すべきこの年に、変革の法政で新たな歴史を創る。残りのリーグ戦、一戦一戦一つ一つ目の前のアウトを積み重ね、悲願の天皇杯奪還に向け邁進する。 (藤森創立)

東京大学
この秋の目標は「勝ち点獲得」。これのみである。1年生の頃からミーティングを重ね、Aチーム、Bチーム関係なく、勝利に向かう組織としての目指すべき形を模索してきた。ベストナインは3人で4回、プロ野球選手を父に持ち、フレッシュトーナメント、リーグ戦双方で勝利したエース、神宮球場で既に3本のホームランを放っている主将、他にも下級生の頃から経験豊富な選手が多く、期待していただくことの多い代だった。そんな中で春季リーグ戦は1勝も出来ず、5試合が3点差以内での敗戦という非常に悔しい結果となった。我々の目標は神宮球場で強い相手に良い試合をすることではない。勝利することである。 日々ご指導いただく大久保監督、石井助監督、鈴木部長と、ご支援いただくOBの方々、保護者の方々と、後押ししてくださる応援部のみんなと、日々熱い声援をくださるファンの皆様と、そして何より苦楽を共にしてきた137人の部員達と勝ち点の喜びを分かち合う。そのためには、東大野球部主務として過ごす残り40日自分にできる全てを捧げたいと思う。(奥畑ひかり)

立教大学
チームスローガンに「飛躍」を掲げてもうすぐ1年が経過しようとしている。昨年までに味わった、勝ちきれない悔しさを晴らし、弊部が大きな“飛躍”を遂げるべく、チーム全員で一球に拘ってきた。春のキャンプでは1ヶ月半もの長期遠征にてみっちりと練習と実戦経験を積み重ねた結果、春季リーグ戦では勝ち切れる試合が増え3位と昨年よりも成績を上げることができた。しかし、弊部の目標はリーグ戦優勝以外にない。あと一勝、あと一球の重みを春に痛感したからこそ、この夏とことん必死に、そしてひたすら“熱く”野球と向き合ってきた。4年生は入部以降まだリーグ戦優勝を経験したことが無い。だからこそこの秋のリーグ戦はどのチームよりも一球への執念を持って8年振りのリーグ戦優勝を勝ち取りにいく。(大場航誠)

早稲田大学
ラストシーズンにかける思いを問われたら、早大の4年生は、全員が「4連覇」を達成することについて答えるだろう。そこに至るまでの過程や役割など、個人で違いはあれど、最終的には4連覇の達成、すなわち秋季リーグ戦の優勝へと結びつく。今年の代は、1・2年次、リーグ戦で勝つことの厳しさを多く味わってきた。3年次には春秋連覇を達成。全日本大学野球選手権大会や明治神宮野球大会にも出場し、全国の舞台を経験することもできた。酸いも甘いも経験した状態で迎えた最終学年。春季リーグ戦で優勝し、3連覇を達成することができた。「自分たちの代で優勝する」ことの嬉しさは格別であった。この3年半を通して、日頃応援してくださっている方や、支えてくださっている方に喜んでいただく・恩返しをするためには、リーグ戦での優勝しかないことを知った。この秋季リーグ戦で優勝をすれば、早大としては2度目の4連覇達成、さらに東京六大学野球連盟創設100年目の年に通算50回目の優勝達成という、歴史的にも非常に重要なシーズンとなる。この代に懸かる期待とプレッシャーは大きい。自分たちのラストシーズンを、このような最高の状態で迎えられるということは大変光栄なことである。様々な立場から、様々な思いを持って臨む最後のリーグ戦。4年生全員が見据えるのは同じ「4連覇」のみである。(成瀬かおり)

慶應義塾大学
入部してから今春までの7シーズン、日本一の栄光もBクラス入りの挫折もどちらとも味わってきた。特に今春は、シーズン終盤まで優勝の可能性を残しながら早稲田に二連敗を喫し、二期連続の5位という悔しい結果に終わった。4年生の代は、2年秋のフレッシュリーグで優勝を果たし、先輩方から期待されていた学年である。しかし、現在リーグ戦のスターティングメンバーは下級生が多く並んでいる。若い力の台頭を嬉しく思う一方、ラストシーズンに神宮の舞台で躍動する4年生が見られないことに虚しさを感じる。しかし、たとえ野球の実力でチームの勝利に貢献することができなくても、日頃の立ち振る舞いや練習への姿勢、後輩とのコミュニケーションなど4年生がラストシーズンに与える力は絶大なものがある。二年前、日本一に輝いた慶應を後輩にも見せたい。チームを救うのはラストシーズンを迎えた4年生である。『優勝』しよう。(勝野淳)

応援席から
神宮六景 
マネジャーで得た「学び」
小生が大学4年間在籍した平成初期と、現在の令和時代では、マネジャー事情も大きく変わった。聞くところによると、大学入試が終わると、合宿所には多くの問い合わせがあり、エントリーシートを経て、監督と面接を行い、厳正に選考し、入部が認められる。男子部員は定員2人対して5人ほど、女子部員は定員3人に対して15人ほどの応募があるという。信じられないほどの人気ぶりだ。
当時は人材不足だった。現実問題、だれもマネジャーはやりたがらなかった。入学後、選手としての技量が厳しい部員に対し、マネジャーを打診するケースはあったが、受け入れるのは稀である。スポーツ推薦組、選手上がりのマネジャーへの転身は難しい。高校時代はスター選手として騒がれてきたわけで、裏方業務への拒否反応は、より大きくなる。
付属高校出身の小生は野球部マネジャーだった3年夏を前に、監督を通じ、大学野球部マネジャーの打診を受けた。付属校から前もって、人員を確保する意図があったようだ。
付属中学時代から東京六大学、神宮球場の雰囲気が好きであり、応援団への入団も考えていた。だが、より身近で「真剣勝負」に関われると、法大野球部への入部を決めた。
入学当時のマネジャーは4年生1人と3年生1人。つまり下級生は1人だ。入学式よりもだいぶ前の1993年2月10日に合宿所に入寮した。スポーツ推薦組、付属校と同じタイミングだった(3月に若干名の一般入試組が入部する)。私物もほとんど持たずに入寮すると、想像以上の雑用の山が待っていた。理不尽なことも、すべてがプラスになると受け入れた。
2年生になっても、新たなマネジャーは入部してこなかった。山積みの雑用は継続。一方、サブマネジャーとして、一部ではあるが、仕事を任されるようになった。この1年間は2人体制。今の野球部では、あり得ない人員である。この年、山中正竹監督が就任した。バルセロナ五輪で銅メダルへ導いた指導者は、企業人としての経験も豊富であり、チームビルディングの基礎を勉強する機会に恵まれた。目配り、気配り、心配り。山中監督との出会いが、人としての生き方、人生観を大きく変えるターニングポイントとなった。マネジャーで得た「学び」が、今も支えとなっている。
3年生になると、1年生マネジャーが入部。チーフマネジャー(主務)の役割と、下級生の教育という2つのテーマが与えられた。他の5校は4年生主務である。同年は東京六大学野球連盟結成70周年と、各種記念行事が重なった。5大学の先輩マネジャーの優しいご指導により、何とか1年間を全うすることができた。野球部でも、4年生の気遣い、協力があり、何とかチームを動かすことができた。
4年時は2年目の主務。前年の反省を生かそうと、マネジャー業務にまい進した。新たな1年生が入部し、下級生2人を指導。卒業後の次年度は6年に1度の当番校が控えており、より緊張感を持って接したつもりだ。
一人では何もできない。指導者、OB会、先輩、同級生、後輩への「感謝」を形に残そうと、マネジャーマニュアルを作成した。下級生時代に行き当たりばったりの業務が続き、バタバタした苦い経験から「トリセツ」が必要と考えた。もちろん完成形ではない。後輩にはさらなる「ブラッシュアップ」を託して卒業した。
今年1月。「平成8年卒 東京六大学野球部・応援団 合同同窓会」が行われた。卒業から30年。小生は1学年下の3年生主務ではあったが、諸先輩の配慮により、幹事の一人として運営に携わった。各校の野球部、応援団(部)から卒業生80人が出席。2つの組織は、リーグ戦運営における「一心同体」である。約30年ぶりの再会で、旧交を温めた。
来年1月には「平成9年卒 東京六大学野球部・応援団 合同同窓会」が開催予定で、準備を進めている。大学の野球部の枠を超えた「仲間意識」が、東京六大学の良さ。卒業後もこれらの「絆」により、何度も助けられる場面があった。OB会の役割は、親睦と現役学生への支援である。微力ではあるが、人として育ててもらった東京六大学のために、さまざまな形で尽くしていきたいと考えている。
(法政大学平成9年(1997年)卒業 岡本朋祐)