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JINGU ROKKEI

神宮六景

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TOKYOROCKS2026 春季号外 第8週 2026年5月28日掲載

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私が慶應義塾を卒業してからもう42年が経とうとしている。いや経ったのか。

しかし、私の中ではあの4年間は長いようで、短いような不思議な時間であった。そこからの40年間というものはまるで学生時代の1週間のようだ。60歳を越えたが周りとは未だに学生時代の話をするくらい私にとってはつい最近の話である。

大学1年生の時、愛媛の八幡浜から花の都大東京に上京した私は「絶対に日本一を取ったるでぇ」という気持ちでいっぱいだった。しかし、現実はそう甘くはなかった。まず私に直面した災難がかの有名な「赤門旋風」である。この時の東京大学は本当に止めようがなかった。勝ち点は落とすものの開幕戦の法政大学に勝利を挙げ、早稲田大学から勝ち点をとりその勢いのまま慶應も勝ち点を取られてしまった。この時改めて東京六大学野球で勝ち抜くことの難しさを痛感した。そしてこの悔しさをバネに3年秋には開幕5連勝と上々のスタートを切った。しかし、雨で順延となった法政戦。こういった時の私の悪い予感はよく当たる。開幕5連勝をするも、法政に連敗、続く明治にも勝ち点を落とし優勝を逃す結果となってしまった。このように私は大学4年間で日本一どころかリーグ戦優勝でさえも果たすことができなかった。しかし、私の夢はまだ終わっていない。63歳となった今堀井監督のもと野手コーチとして日本一に向けて活動している。今の学生たちを見ていると現役の頃を思い出してしまう。そしてついつい熱が入ってしまう。私の経験は決して無駄ではないことを証明したい。そのためにはこのチームを日本一にすることしか方法はない。どれだけ体がボロボロになろうとも、このチームのためならなんだってする。そのくらいこのチームには優勝を経験してほしいと思う。これが私の今の目標だ。

東京六大学は唯一無二であり、そのことを理解したうえで誇りをもってユニフォームの袖を通してほしい。100年以上の歴史を持つ慶應だからこそ堂々と凛々しく試合には挑んでいただきたい。自分を信じて、みんなを信じて優勝に向けて突き進んでほしい。
「我が慶應義塾は永久に不滅だ。」

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TOKYOROCKS2026 春季号外 第6週 2026年5月13日掲載

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神宮球場百年
2026年東京六大学野球春季リーグ戦は、慶應大学とともに首位を走っていた法政大学が、東京大学に連敗し、勝ち点を落とした。

一方、50年前(1975年)秋季リーグ戦開幕カードの東明戦では、春季優勝の明治大学が連敗し、勝ち点を落とした。忘れられないプレーを紹介したい。明治大学・伊藤裕啓(日大一高)一塁手は、牽制球の一塁走者へのタッチプレーがオブストラクションの判定(走者二塁へ)となった。これに対し、明治大学・島岡吉郎監督は、一塁の西大立目審判に猛抗議し、一時中断となったものの判定は覆らなかった。
御大(島岡監督)は、我々選手に対しては意外なほど冷静であったことを覚えている。
そして最終的には、明治大学が8勝3敗で春秋連覇を果たしたが、リーグ戦は最後まで分からない。

今季のリーグ戦は、波乱含みではあるものの全体としては接戦が多く、単独トップの慶應大学を中心に盛り上がりを見せている。
ビデオ判定や拡大ベースの採用も含め、六大学ファンにとっては見逃せないシーズンになると言えるだろう。

私は今年1月、明治大学野球部OB会(駿台倶楽部)吉川芳登(昭和42年卒)会長からバトンを引き継いだ。
神宮球場のスタンドに広がるファンの声援は、温かさと伝統を感じる。個人的には、昔も今も試合中7回の校歌が堪らなく好きで特別な高揚感を覚える。
特に、グランドとスタンドの一体感は格別で、試合後の余韻も含めて大きな魅力である。
六大学の応援は、コロナ禍を経てもなお、多くの困難を乗り越えながら伝統を守り続けてきた。その努力には深い敬意を表したい。

神宮という特別な舞台において、野球と応援が一体となる光景は観るものに感動を与えている。その積み重ねが、次の200年へと続く伝統を支えていくのだろう。

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TOKYOROCKS2026 春季号外 第5週 2026年5月7日掲載

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私が東京六大学を知ったきっかけは2つ。1つ目は伯父が慶大野球部出身という縁で、母に連れられて小学校入学前から東京六大学リーグ戦を観戦していたこと。紙吹雪が舞う光景をなんとなく覚えている。2つ目は小学校3年生の時、父に連れられて後楽園球場の巨人-中日戦を観戦した時。父に「中日の井手選手は東大野球部出身」と教えられたことが印象に残っている。
中学生の時、法大「花の49年組」で東京六大学は大人気だった。姉とよく神宮球場に通った。当時の各チームの主力選手はほぼ覚えている。この時は六大学で野球をやりたいと思っていた。
高校生の時、先輩である大山さんが大久保さん、石井さんらと「赤門旋風」を起こした。ワクワクして応援していたが、私は高校野球では主将だが選手としては伸び悩み、大学野球はあきらめていた。六大学は遠い存在だった。
しかし、研究者になろうと目指した東大に運よく合格し、クラス合宿で土佐高出身の浜田と出会った。友人と神宮で東大の試合を観戦し、中学の頃の思いが再燃し、入部した。当時の監督は花の49年組と同期の伊藤仁さん。次の監督は同じく中沢さんだった。4年では全試合にベンチ入りし、3試合出場することができたが、ベンチ入りした試合は勝てなかった。
それから30余年、部長になった時の監督は浜田。次の監督は井手さん、そして今は大久保監督、石井助監督とベンチで試合に臨む。副部長時は94連敗で止めた試合、そして部長1年目に勝ち点に立ち会えた。この縁はご褒美のように感じる。
私は、ファンとして、選手として、部長としてかけがえのない時間を過ごした東京六大学野球が大好きである。何より応援が素晴らしい。これは世界に誇れる。そしてファンが温かい。さらに審判、マネージャーらのお陰で運営がスマートである。
最後に、100年を紡いだ六校歴代全部員に敬意を表し、すべての関係者に深く感謝し、理解ある家族や今は亡き両親と伯父にも感謝したい。

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TOKYOROCKS2026 春季号外 第4週 2026年4月29日掲載

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本年4月より名誉ある立教大学野球部 先輩理事並びに一般財団法人東京六大学野球連盟 常務理事を拝命いたしました。前任の堀内幸男先輩(昭和46年卒)は同理事を14年間務められ、本年4月より評議員に就任されました。同先輩からの教えを守り、立教大学野球部、そして次の100年に向けてスタートを切った東京六大学野球連盟の為に、与えられた役割を全うして参りたいと思います。皆様、どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて突然ですが、私の名前は「森田 徹」です。この名前は、野球好きの父親が、東京六大学野球で大活躍され、昭和33年に早稲田大学から中日ドラゴンズに入団、ホームラン王や打点王にも輝かれた「森 徹」さんから拝借したそうです。森と森田で実に安直ですが、結果として私を東京六大学野球に導いたのかも知れません。亡き父親に感謝です。

私の神宮球場での忘れられない思い出です。リーグ戦初のベンチ入りは大学4年の春でした。1学年上には当時戦後最多のシーズン96奪三振を記録した野口裕美先輩、大塚淳人先輩、荻原淳先輩をはじめ優秀な先輩方が多数いらっしゃったので先輩方が卒業してからやっとベンチ入りを果たしました。最初の早稲田戦ではレフトのレギュラーで使っていただき、ホームでランナーを刺すなど出足は上々でしたが、直ぐに落とし穴が待っていました。次の法政1回戦で当時の東京六大学野球のスターで広島東洋カープに入団された小早川毅彦選手(現 法友野球倶楽部会長)のレフトフライをタイムリーエラーしました、それも外野手としてあるまじき万歳です。今でも3塁側応援席からの大きなため息が耳に残っています。とても情けない出来事でしたが、プロでもあれだけ活躍された小早川選手の打球の高さは、まさに驚くべきもので、初めての体験でした。言い訳にはなりませんが。

次は、大学4年生秋の最後の東大戦。報道ステーションで有名な大越健介キャスターから打った決勝ヒットです。それも4年生最後の打席、野球の神様が打たしてくれたのでしょうか。大越キャスターのストレートは切れっ切れで全く手が出ずにあっという間に2ストライク。次は外角のスライダーでボール。次にストレートが来たらまず打てないとかなり弱気になっていましたが、何とスライダーで勝負をしてくれて奇跡的にセンター前に。ストレートでなくて本当に良かったと今でも安堵します。大越キャスターは本当に素晴らしい球を投げられていました。東京六大学野球の歴史に残る大投手です。

話しは変わりますが、ひょんなことから2015年に東京六大学野球連盟活性化委員会のメンバーになりました。大学を卒業してからはたまに神宮球場に応援に行くことはありましたが、それほど関心を持たずに過ごしていました。2015年以降、他の5大学の皆さんと東京六大学野球をいかに活性化させるか、学生に神宮に来てもらうか等々話し合いを続けてきました。大学時代は他の5大学はライバルとしか考えていませんでしたが、東京六大学野球は6校が揃い、呉越同舟ではないですが皆で一つの舟に乗り、それを守り、目標に向かって進んでいくことがいかに大切かを知りました。神宮球場で試合が出来るのも当たり前ではないですし、天皇杯を授与されるのも当たり前ではありません。東京六大学野球連盟は結成101年目を迎えましたが、これからも6校で切磋琢磨しながら東京六大学野球を守り、更なる発展に向けてお互いが絆を深め、努力して行くべきだと強く思っています。これからも現役選手のプレーに期待をして、東京六大学野球を盛り上げて行きましょう。ありがとうございました。

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TOKYOROCKS2026 春季号外 第3週 2026年4月22日掲載

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100年の伝統と未来に向けて

平成3年から東京六大学野球連盟の審判員となり、平成28年まで26年間、リーグ戦のグラウンドで審判を続け、現在は、審判技術顧問として後輩審判へのアドバイスを行う役割を拝命し、新たな視点で野球を見ています。
昨年・2025年には、東京六大学野球連盟は、結成100年を迎えまいた。先人たちが常に先駆的な取り組みを行い、100年の長きにわたって日本野球界をけん引してきた重みを感じます。
今年から次の100年に向けて、新たな取り組みも始まっています。
一つは、指名打者(DH)制度を採用することになったこと。長く野球のオリジナルなルールである投手も打席に立って打つという基本を貫いて、個々の選手の成長に繋げていったと思います。
野球は、選手の体格、個性に応じた役割が幅広くあり、打つことが得意な選手の活躍の場が広がり、選手育成につながっていくことが期待されています。

そして、昨年から始まったビデオ検証です。学生野球では初めての試みです。
昨年の採用時には、数多く意見もありましたが、選手のプレイに応えるため、審判員を誹謗中傷から守るためという大義のもとに実施されました。
そして、今年からは、バックスクリーン上にあるビジョンにビデオ検証の対象映像を映して、観衆の方々にもプレイを見てもらうことの取り組みを行うようにしました。
東京六大学野球の審判員は、各校の野球部OBで構成されています。先輩たちが後輩の試合のために毎週末にグラウンドに立ち続けています。選手たちには、まずそのことを忘れずに審判員の判定を尊重してほしいと願います。
その先に選手たちのプレイを科学の力を借りて応えられるように先輩方が覚悟を決め、ビデオ検証を受け入れているのです。

選手たちには、六大学の先輩方が築いてきた「戦う相手を常に尊重し、ルールと審判を尊重して戦う。」というスポーツマンシップを忘れないでいてほしいと願います。
「知識は学問から、人格は野球から学ぶ。」という六大学野球に受け継がれる、学生野球の精神は、常に日本の野球界をリードしています。
100年先の未来に子どもたちから大人までが野球を愉しむことができるように、六大学野球、学生野球の精神が引き継がれ、全国の野球ファンが集う場所となっていくことを願っております。

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TOKYOROCKS2026 春季号外 第2週 2026年4月15日掲載

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私に早大野球部に入るきっかけを与えてくれたのは、都立国分寺高校の1学年上の先輩、船山信吾さんだ。母校の野球部から早大野球部に進んだ大型外野手の船山さんは憧れの存在で、高校野球をやりきった達成感を得られなかった私は、神宮球場でのプレーを夢見た。1浪で合格し、思い切って相談すると「やる気さえあれば、誰でも入れる」。そんな言葉に背中を押され、野球部の門をたたいた。

入部して東伏見で練習に加わると、予想以上に周りのレベルは高く、体力差を痛感した。1年上の矢口健一さん、杉本武則さんは恵まれた体格から、打球を左翼後方の馬小屋(馬術部)へ届きそうなほど飛ばしていた。二塁手の2年先輩、峯岡格さんの捕球から送球までの一連の動きは、まねしがたいほど素早かった。
下級生のころはフリー打撃中の打撃投手・打撃捕手が主な持ち場だった。打者に気持ちよく打たせるのが打撃投手。この時間を送球の向上に生かそうと、一塁手が捕りやすい、きれいな縦回転で垂れない球を投げることに集中した。全体練習の昼休みのひととき、バットを握った当時の佐藤清監督に頼まれて打撃投手を務め、柵越えを連発されたのも懐かしい。
打撃練習中の守備は貴重な実戦的練習と考え、常に全力送球をしていた。ある日、三塁線のゴロを捕って振り向きざまに一塁へ投げると、送球が打撃投手をしていた2年上の関英明さんのこめかみ付近をかすめた。リーグ戦でも登板していた先輩に危うく大けがをさせるところで、背筋が凍りそうだった。謝罪に向かうと「熱心に練習している人間に怒ることは一つもない。気にせず頑張れよ」とニッコリ笑ってくれた。選手間の技量差はあったけれど、真摯に野球と向き合う個々の姿勢と努力を認める文化があったように思う。

早大は1925年秋に東京六大学野球連盟が結成されて初のリーグ戦を制し、最多優勝回数を持つ。だが、在学中に優勝を経験できず、4年時には大学ワーストの9連敗を喫するなど、私たちの学年は苦しんだ。神宮で戦う松瀬大主将や西牧幸成副将と、試合に出られない私たち同期との間に温度差があり、一体感に欠けていたのかもしれない。
福元亮・新人監督の呼びかけで寮に集合した4年生だけのミーティングでは「やる気がないなら部を去れ」と檄も飛び、思いの丈をぶつけ合った。長時間の議論を経て、自分がチームに貢献できる役割は何かを見つめ直し、最後の秋まで打撃投手として腕を振った。うまくいかず、苦悩のほうが多かった4年間。描いていたキャリアを歩めないときに腐らず、どう行動して組織に必要な人材になるか。今にもつながる考え方を学ばせてもらったと考えている。

2010年から続く、TOKYOROCKS号外 名物コーナーのひとつ。
野球部OBや関係者からのメッセージをお届けしています。