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JINGU ROKKEI

神宮六景

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第9週 2024年11月6日掲載

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この寄稿のお話をいただきましたのは、2024年10月末のことでした。まさにロサンゼルスドジャースがワールドシリーズの優勝を決めた直後のタイミングで、大谷翔平選手の活躍とともに、私自身の野球人生を振り返る貴重な機会をいただきました。

この2024年の野球界を振り返りますと、大谷選手の活躍に始まり、そして彼の所属するドジャースがワールドシリーズを制するという、まさに大谷選手を軸とした一年でした。
このドジャースという球団には、私も若き日に貴重な縁がありました。3年生の春に、ベロビーチのスプリングキャンプに参加させていただく機会をいただきました。当時はメジャーリーグが今ほど注目されていませんでしたが、今になって思い返しますと、世界最高峰の選手たちと同じ環境で過ごした2週間は、かけがえのない経験だったと深く感じています。

私は早稲田大学本庄高等学院の出身で、高校時代は厳しい野球部生活を送っていたわけではありません。しかし、大学に入学した際、野球部の寮である安部寮が西早稲田から東伏見に移転するタイミングと重なり、実力以上の期待値をいただいて、通常であればレギュラー選手にしか許されない寮生活を、1年次から経験させていただく機会をいただきました。
寮生活は、私にとって想像を超える厳しさでした。朝6時過ぎの起床から始まり、清掃作業、そして8時からの下級生練習、午後にはレギュラー組の練習でバッティングピッチャーを務め、夜はグラウンド整備と、休む間もない毎日を過ごしました。
神宮球場では1年次からベンチ入りという貴重な機会をいただきましたが、私の役割は、非常時に備え、常にブルペンで投球練習を続けることでした。おそらく神宮のブルペンで最も多くの球を投げた選手の一人ではないかと自負しています。

振り返りますと、あの4年間は人生の縮図のように感じられます。努力、友情、挫折、すべてが私の許容量を超えるものでしたが、その経験が後の人生を支える大きな糧となっています。
厳しい道のりでしたが、今では感謝の気持ちでいっぱいです。現代では許容されないような厳しい環境でしたが、あの時期に培った忍耐力と、共に戦った仲間との絆は、私の人生の宝物となっています。

現役の選手の皆様にお伝えしたいことがあります。当時の私は、毎日の厳しい練習をこなすことに精一杯で、自分が恵まれた環境で野球ができているということすら、十分に実感できないまま4年間が過ぎてしまいました。今になって思えば、もう少し余裕を持って、与えられた環境のありがたさを噛みしめながら野球に打ち込めていれば、という思いが残っています。
今、皆様に与えられている環境は、私たちの時代とは大きく異なり、より充実したものとなっています。この恵まれた環境に感謝の気持ちを持ち、野球に専念してください。後になって「あの時もっと頑張れば良かった」「あの時ももっと野球を楽しめていれば良かった」という後悔を残すことがないよう、今この瞬間を大切に、精一杯野球に打ち込んでいただきたいと心より願っています。

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第8週 2024年10月30日掲載

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「エスコンフィールド」でオールスター戦の開催

久慈次郎氏野球殿堂入り65周年と銘打った北海道ベースボールウィークにおいてエスコンフィールドで、東京六大学選抜対北海道日本ハムファイターズの一戦と東京六大学オールスター戦が開催されました。
初日に行われた東京六大学選抜と北海道日本ハムファイターズの試合は東京六大学選抜が13安打5得点で日本ハムを1点に抑えて快勝しました。二日目は恒例の東京六大学オールスター戦で、早大、法大、立大のTeam Clarkと明大、慶大、東大のTeam Penhallowが対戦しTeam Clarkが七回に2点を勝ち越して逃げ切りました。開場2年目のエスコンフィールドで、二日間合わせて約15,000人の観客の皆様が来場し、応援団も参加して大いに盛り上がりました。
オールスター戦の午前中には同球場で日本ハムと合同で少年少女野球教室を開催しました。
オールスター戦前の8月25日には神宮球場で恒例の少年少女野球教室を東京都軟式野球連盟に所属する19チーム、約250名の小学生を対象に開催しました。当日は六大学各校の主将をはじめ主力選手が講師となって、ウオーミングアップから、各ポジション別の練習など3時間に渡って行われ、野球教室終了後には記念撮影をして終了しました。天候にも恵まれ楽しい一日でした。
来年の夏も神宮球場で少年少女野球教室を開催し、オールスター戦はノーブルホームスタジアム水戸(水戸市民球場)で開催を予定しております。

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第7週 2024年10月23日掲載

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私の出身である兵庫(関西)の野球少年から見た東京六大学野球(神宮球場)はまさに憧れと表するにふさわしい存在(場所)でした。
私にとって特に早慶は文武両道の象徴でありその中で昔からスタイルを変えない早稲田のユニフォームはアマチュア野球の歴史の出発点のように感じられ、それをどうしても着てみたいという思いに駆られるようになりました。
私は浪人の末 なんとか早稲田大学の野球部に入部する事が出来ました。
入部させていただいた当時の監督は故石井連藏監督。私が思い描いた、憧れの [東京六大学 早稲田の野球部] そこには憧れられるに値する厳しさがありました。

今でも鮮明に覚えている練習の一幕があります。
私が2年の時、早慶戦直前の練習でノックを打たれていた石井監督が突然練習を中断し全員をベンチ前に集めました。
その時のノックの内容が納得のいくものではなかったのだと思います。
石井監督は「これが早慶戦前の練習なのか」と静かに選手たちに問いかけ涙ぐんでおられました。
「悔し涙や感動の涙のないような練習など練習ではない」「うまくなりたい、勝ちたいという強い思いがなければ、練習する意味などない」と、常々口にされていた監督の姿を今でも思い出す事があります。
石井連藏監督には早稲田を誇りに思う強いエリート意識がありました。
しかしそれは他者と比較するような類いのようなものでは決してなく、「誇れる自分であれ!」という強いメッセージそのものだったように思います。

なんとか入部した私ですが幸運にも1年時から試合に出る機会を与えて頂きました。
4年を迎える前の春のキャンプでは生前ドジャースのフロントでご活躍された故アイク生原さんからのご縁で早大野球部と親交のあったピーターオマリー氏(当時のドジャースオーナー)の計らいにより アメリカ・フロリダ ベロビーチに招待していただきました。
そこで、名門ドジャースのメジャーリーガーたちと夢のような2週間を過ごすことが出来ました。
また春季リーグ戦では早慶戦が44年ぶりの天覧試合となりその試合にも出場することが出来ました。
振り返ると早稲田の野球部での4年間は私にとって野球(人生)の厳しさと誇りを持つという本当の意味を教えてくれた貴重でかけがえのない時間だったと思います。

来春(令和7年)、私と同じ兵庫の滝川高校で共に甲子園を目指した友人(中村君)のご子息がプロ野球への志望届けを提出せず、早稲田の野球部に入部することが決まりました。
大学野球を経て彼がプロ野球に進むのか、また違う道に進むのかは誰にも分かりません。
しかしながら、石井連藏監督の教えを色濃く継承されている小宮山監督の下
私が感じた「誇り」を彼も練習を通じて感じ取り、今後の人生においての一助となることを祈りながら早稲田大学野球部と彼を見守り、応援したいと思っています。

末筆ながらこのような機会を与えてくれた主務の日永君に心より御礼申し上げます。

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第6週 2024年10月16日掲載

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『感謝』

東京六大学野球連盟創立99年目のシーズンラストを迎え、これまでの野球人生を振り返り感謝の気持ちを綴りたい。まずは、ご指名いただいた現役マネージャー達に感謝申し上げる。
筆者は、野球人生のほぼ全てをマネージャー業務に費やしてきた。現在は、縁あって先輩理事を拝命している。

リーグ戦におけるマネージャーの主戦場は、神宮球場正面右手に位置する事務所である。
この主戦場で、現役当時事務局長であった長船騏郎さんから、東京六大学野球リーグ戦の運営者としての実務はもちろん、姿勢、所作等多くのことを学ばせていただいた。卒業後、社会人野球からオリンピック日本代表に至るまでマネージャー人生が続くことになるが、長船門下生であったことが、筆者にとって大きな後ろ盾となっていたことは間違いない。今でも長船さんには感謝の気持ちで一杯である。

時を現在に移すと事務所に行き交うマネージャーの様相は、当時とは全く違う光景を目の当りにする。女子マネージャーの台頭である。我が明治大学野球部も114年目にして初の女性主務が誕生した。この女子マネージャー達の活躍ぶりを故島岡吉郎監督の目にはどう映るのだろうか? 泉下の監督に尋ねてみたい。その時は、怒鳴られないよう注意する。

今は、六校全てに女子マネージャーが在籍しており、男子と協力してリーグ戦の運営に取り組んでいる。特筆すべきは、球場アナウンスを一手に担っていることで、各校大変よく訓練されており円滑なゲーム運営に貢献している。今年もマネージャー達が神宮から巣立っていくが、毎年『人間力』豊かな素晴らしい人材を輩出していると確信している。神宮球場で生まれる同士の絆は、生涯の財産となるであろう。

先輩理事として、事務所ではマネージャーの邪魔にならないよう心掛けているつもりであるが、ご迷惑をおかけしていたらご容赦願いたい。執務中の余計な私語は慎むよう努力するつもりである。
各校のマネージャー達には、感謝の気持ちしかない。

いよいよ来年は創立100周年の慶賀を迎え、その翌年から新たな歴史が始まる。これまでの99年間は、連盟創立、戦争による中断、戦後の復興、昨今ではパンデミック等、苦難の歴史を辿ってきた。今があるのは、多くの先人・先達の心血を注いだ努力の賜物であることを決して忘れることなく、200年に向けた礎を築くために尽力していく所存である。

東京六大学野球に栄光あれ!

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第5週 2024年10月9日掲載

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2つの感謝

我が母校を卒業して32年が経ちます(実は今春「娘」も母校を卒業しました)が、私はいま「我が同期」と「支え人(ささえびと)」に対する感謝の念を、今さらのように深く抱いています。

36年前、北九州から上京した私は「コトバの違い」を含めた東京仕様の生活に悪戦苦闘の毎日でした。しかも、上級生との相部屋による野球部寮での集団生活。全国から集まった同期の面々は、現役・一浪・二浪と年齢の幅もあり「野球を愛する者」という共通項を除けば、その来歴や芸風は全くもってバラバラでした。どことなくピリピリとした空気の中で寮生活を送るなか、とある夜のボール磨き(業務用の消しゴムでボールの汚れを落とす1年生専業の夜のお仕事)の際に、同期二人が取っ組み合いのケンカを始めたこともありました(止めに入った私は軽い脳震とうでダウン)。また、ある同期は散髪屋でタバコを吸っているところを上級生に見つかり、上品なカットのつもりがゴリゴリの丸坊主で帰寮するという惨劇にも見舞われました。女子マネージャーを含め、同期会で集まった際は、今もってこうしたバカ(昔)話しに花が咲きます。このように腹を抱えて共に笑い合える時間は、私にとって大事な・大事な宝物であり、恐らくそれは永遠に不易だと思います。改めて「我が同期」に心から感謝・感謝です。

加えて、もう1つ。
私はいま、会社で総務セクションに就いています。総務業は、現場や営業セクションと違って「裏方」のお仕事が多く、必ずしも「陽の当たる部署」とは言えないセクションです。ですが、そのお仕事を誰かが担わなければ会社、あるいはグループ全体が回らないのも事実です。ですので、チーム(配下)のみんなには「裏方なれど誇り高き仕事人であり続けよう!」そう私は繰り返し伝えています。いま振り返ると現役時代、これは裏方さんに限りませんが「居てくれて当たり前」だと思っていた方々、例えば、監督さんや助監督、マネージャーに加えてOBの諸先輩方や六大学野球連盟の方々、あるいは母校に限らず六大学野球を愛するファンの皆様、そして両親をはじめとする親族。そうした多くの方々に、私たちはどれほど支え続けてもらっていたか、今さらのように深く想いを馳せる次第です。改めて「ささえびと」に心から感謝・感謝です。

現役選手の皆さん、お説教じみたことを申し上げるつもりは1ミリもありませんが、心のどこかで「同期」そして「ささえびと」に感謝しながら毎日を過ごしてもらえると、OBの一人としてこんなに嬉しいことはありません。
(そして来年、100周年を迎える東京六大学野球連盟にも感謝・感謝・感謝!)

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第4週 2024年10月2日掲載

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私が初めて球場で生の野球観戦をしたのは五十年弱前の慶應幼稚舎一年生の時の春の早慶戦でした。観客席に入るや否や、体が持ち上がる様な感覚の物凄い歓声と球場を包み込む独特の雰囲気に興奮し、圧倒され、鳥肌が立ち、「将来、ここで野球をするんだ!」とその場で誓った程でした。
大学在学中は選手としてはリーグ戦出場の機会はありませんでしたが、四年生の時に新人監督に就任し、チームの運営に携わらせて戴きました。新人監督と言っても、一・二年生には私より野球が上手い選手は何人もいて、どの様にしたらチームから信頼され、チームに貢献出来るかを同期の新人コーチ・西丸君と一緒に常に考えていました。そして、技術的な指導よりも「一・二年生達のメンター役」として彼等に寄り添う姿勢で接する事に徹しました。毎日、野球日誌を提出して貰いましたが、個性の強い選手も多く、中には「せこいヒットより常にホームランを狙う打者でありたい!」と書いていた選手もいました。
恩師である故・前田祐吉元監督には「Enjoy Baseball」の理念を通じて「自ら責任を持ち、考え、工夫をする」「既成概念に捉われない幅広い視野を持つ」「個性と多様性を大切にする」等を教えて戴きました。見聞を広める為に海外遠征も頻繁に実施されましたが、監督室の本棚は英文の書物で一杯で、米国UCLAとの合同練習会ではご自身で通訳をされ、「かっこいいな」と憧れの眼差しで見ていた自分がおりました。「卒業したらどんどん海外に出て行った方が良い」とアドバイスを戴き、後に私自身が米国の大学院に留学をした際には自分の事の様にとても喜んでくださいました。昨今、多様な文化を理解し、橋渡し役となる国際人材が求められていますが、前田監督は当時から今の時代を先取りする様な感覚を持っておられました。
東京六大学野球は私の野球の原点であり、夢であり、良き指導者とチームメイトに恵まれ、四年生の最後の年に19年振りの春秋連覇を達成して学生野球を終える事が出来たのは本当に幸せでした。選手としてはチームに貢献できませんでしたが、最後の一年間は野球人生で一番充実した一年となり、大学時代に得た様々な貴重な経験は、会社を経営する立場になった今でもその土台となっています。
東京六大学野球には深く感謝を申し上げると共に、来年、百周年を迎えられる東京六大学野球が今後も未来の選手達の憧れの的として更に発展されていく事を心より祈念しております。

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第3週 2024年9月25日掲載

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「東京六大学野球のOBとして」

2025年に現行の六大学となって100周年を迎えます。1903年に始まった早稲田大学と慶應義塾大学の対抗戦(早慶戦)が始まりで、その後に明治大学、法政大学、立教大学、そして東京大学が加わり現在の東京六大学野球となり、その歴史が100年を刻もうとしています。その伝統ある長い歴史の中の4年間に法政大学野球部として関われた事を感慨深く、改めて凄いところに居たんだなと感じています。100周年事業も盛大に企画されているとの事、東京六大学野球OBと東京六大学ファンの皆様は心待ちにしている事だと思います。

現役の選手の皆さんもやがて社会に出て活躍されると思いますが、現役とは違った「六大学野球の繋がり」を実感すると思います。それぞれの企業や職業に就く中で、自分の母校の先輩後輩、同級生だけでは無く、沢山の他校の“OB・OG”と出会います。大先輩から、歳の離れた後輩たちとのビジネスの繋がり、人の繋がりを実感して行く事でしょう。勿論スポーツの枠を越えた繋がりも存在しますが、「東京六大学野球の繋がり」は特別なものがあると実感しています。私は専門商社に勤務していますが、社内にも多くの東京六大学野球のOB・OGが在籍しており、その繋がりでビジネスの幅、人脈が拡大していく事も多々御座います。そしてたまには皆で集まって「東京六大学OB飲み会」や「オレンジ会(法政OB)」などを開催し、ガス抜きも含めたお互いを激励し合ったり悩み相談をしたり、リーグ戦を展望する会を行い、社内で何でも話の出来る貴重な“仲間”となっています。もちろんそれがビジネスの業界を超えた社外とも存在し無限の繋がりとなっていますし、面識がそれまで無くとも、仕事で他校の後輩から挨拶や相談を頂くと、「よし、彼の為に何とか応えてやろう!」と格好をつけたくなるものです。

最後になりますが、野球部OB・OGとしてやや疎遠になってしまっている方も、100周年を機にもう一度母校や他校との繋がりを意識し、東京六大学を盛り上げて行きませんか?現役学生は勿論、OBとしての東京六大学野球があると思いますし、それが先人達のこれまでの100年の積上げになっていると感じています。次の100年に向けて皆さんで東京六大学を盛り上げて行きましょう!

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TOKYOROCKS2024 秋季号外 第2週 2024年9月18日掲載

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「野球に魅せられて」

1974年に東大野球部に入部しましたが、その年から社会人野球三菱自動車京都の監督を務めた岡田彬監督が東大の監督に就任され、厳しい練習が始まっていました。
『高校時代の野球の技術・体力で劣る東大が、他大学と同じような練習をしていて、リーグ戦で勝てるわけがない。』ということから、とにかく厳しい練習で、当初40名ほどいた新入部員はいつしか12名になっていました。しかしそのおかげで、六大学野球が50周年を迎えた1975年の秋に、東大は12シーズンぶりに最下位を脱出することができました。

このシーズンは春の優勝校明大との開幕戦で、自分と同じ2年生の西山明彦(現・先輩理事)、中澤文哉両投手で連勝し勝ち点をあげ、この後は敗戦が続きましたが、最後の立大戦で1勝をあげ5位となりました。当時はブルペン捕手でしたが、リーグ戦での勝利の感動によって改めて幼い時からいそしんできた野球の楽しさ・魅力を強く認識しました。
ちなみに明大は東大に敗れた後は、他の4大学から勝ち点4をあげ、怪物江川卓投手を擁する法大を抑え春秋連覇、一方で法大は翌年春から4連覇を遂げることになります。
この時の明大のエースだった丸山清光さんと、東大の外野手だった富田裕さんが卒業後に同じ朝日新聞社に勤務していたことから、当時の両チームのOBが毎年春・秋のリーグ戦の東明1回戦を観戦した後、神宮球場の近くで懇親会を開く会が年2回あり、自分も頻繁に参加させていただき昔話に花を咲かせています。

さて3年になると、監督が新日鉄釜石で社会人野球経験のある小笠原文也監督に代わりましたが、やはり練習の厳しさは相変わらず、その結果1976年春は最下位だったものの秋は5位に上がり、最上級生となった1977年春は慶大に連勝し、最終の立大戦にも連勝して1947年以来30年ぶりの4位となりました。立大戦は西山投手の2試合連続完封で勝ちましたが、2回戦の9回表1:0で迎えた1死2塁のピンチに、立大4番の吉井郁雄選手が1塁ベンチ前に高々と打ち上げたファールフライが、真っ青な空からだんだん自分の方に近づき、キャッチャーミットに収まったかと思ったら、少し弾んでしまい慌てて右手で押さえた感触は何年たっても忘れられません。

卒業後も社会人野球から草野球、近年は大学野球部と高校野球部のOB会活動など野球に関連することを続けているのも、学生時代のこうした経験によって“野球の魅力のとりこ“になってしまったせいかもしれません。挙句の果てにここ数年は還暦野球でプレーを続けており、そのチームには東大や慶大の後輩が所属しています。
野球を通じて教えてもらったことも多く、もちろん岡田、小笠原両監督をはじめ当時のチームメイトからは多くを学び感謝してもしきれませんが、自分にとっては野球それ自体も、師であり友であります。おそらく最後まで何らかの形で野球に携わっていくでしょう。東京六大学野球に関係する皆さん、選手、審判、指導者、連盟等、プロ・アマを問わずさまざまなところに“野球のとりこ”となって人生を送っていらっしゃる方も多いかと思います。前述の東大・明大の交流会に参加される方や、還暦野球でプレーしている皆さんの多くも同じかと思います。現役の部員たちからも、そうした“野球のとりこ”がたくさん出て、皆さんの力で、東京六大学野球が、日本の野球がさらに盛り上がることを期待しています。

2010年から続く、TOKYOROCKS号外 名物コーナーのひとつ。
野球部OBや関係者からのメッセージをお届けしています。