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JINGU ROKKEI

神宮六景

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第2週 2025年4月23日掲載

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春は必ず来るけれど、今年の春はちょっと違う。東京六大学野球連盟創設から100周年という節目の春だ。早大・小宮山悟監督が「ひと口に100年というけれど、すごいことだよね」の言葉通り、先人たちが1年、また1年と歴史を積み重ねた結果なのだ。
詳しい歴史は省くが、高校野球開催のため1924年(大正13)に甲子園球場が完成した。六大学OBが中心となり「東京にも学生野球の球場を」と1年遅れで神宮球場が作られた。明治神宮の多大な協力とOBたちが寄付を募り、自らもモッコを担いで土も運んだと記事で読んだことがある。学生野球のメッカを作りたいという情熱。これがなければ100年はない。戦後、神宮球場が米軍に接収されても46年(昭和21)には場所を後楽園球場に移して再開。東大が唯一2位になった年だ。最近ではコロナが全国に蔓延、最大のピンチを迎えたが連盟関係者が協議を重ね夏に春のリーグ戦を開催。無観客、応援団は外野席で選手を鼓舞した。

4月12日、前季優勝の早大と東大の試合で100年目の幕が開いた。節目の年に公式記録員として東京六大学野球に関われるのは感慨深いものがある。私が大学2年の75年(昭和50)は連盟50周年だった。外野席は土のまま、もちろん人工芝なんてない。スコアボードは点が入るたびに回転して数字が入った。選手名は手書きだったような気がする。当時のリーグ戦は法大の戦力が充実していた。74年に入学した昭和の怪物・江川卓投手、甲子園で優勝した広島商の主将・金光興二(現野球部長)らが入学。”花の49年組”と呼ばれた。彼らが1年秋にリーグ優を飾り「7連覇するのでは」とも言われた。ところが75年のリーグ戦は明大が春秋連覇するのだから野球は生き物だ。明大の名物監督・島岡吉郎に率いられた”人間力"野球。秋は開幕の東大に連敗しながらの優勝だった。東大に連敗して優勝したのはこの1回だけ。私は神宮球場の2階席で先輩たちの活躍を見るだけだったが、超満員のスタンドを見ながら興奮したのを覚えている。

島岡監督の勝利への執念はすさまじかった。江川投手を攻略するために寮の壁には「打倒江川」の張り紙があり、全員がバットを短く持たされた。打席に立てばホームベースに近づいてデッドボールを受ける覚悟で内角封じを敢行。もちろんベンチからは「なんとかせい!」とゲキが飛び、選手は「なんとかしなくちゃ!」と決死の表情で打席に向かった。まさに昭和の野球だった。
元々、学生時代は応援団長。野球部OB以外で監督を務めたのは東京六大学の歴史の中でも島岡監督しかいない。小柄で丸い体全身を使って打つノックもユーモラスでスタンドから笑いが起こったが、監督は必死。選手もその思いに応えようとボールに食らいついた。島岡監督に薫陶を受けた男たちは卒業しても"オヤジ"と呼び当時を語り合う。ある選手が知らずに「えび茶」のトレーナーを着ていたら、それを見つけた監督が「お前はワセダのまわし者か!」と激怒し寮から追い出したなんて話もあった。現在阪神の二軍監督を務める平田勝男主将時代、法大に敗れた後のミーティングに登場した島岡監督は机に短刀を突き刺して「切腹せい!」と怒鳴った。これには「次の法政戦は必ず勝ちますから切腹はお許しください」と平田主将。法大に勝ち点を挙げて"切腹事件"は笑い話に変わった。島岡監督特有の演技なのだが、その時は全員が必死だった。
江川投手がいたお陰で、早慶戦はもちろんだが法明戦、法早戦、早明戦は満員、いい時代を経験させてもらった。今は第二内野席が埋まるのは早慶戦くらいで寂しい限りだ。江川投手最後の登板となった77年秋の明大戦。得点圏に走者を置かないと全力で投げない男が、この時は初回から速球がうなった。明大だけ江川投手に完封されていなかったが、最後の登板で1点も奪えなかった。通算47勝目。監督の横でスコアブックを付けていた私の目にはマウンドで躍動する江川投手が焼き付いている。

3年生からマネジャーとなり島岡監督に接する機会は増えた。朝4時には起き、寮内にある「明治稲荷大明神」の準備を整え、5時には起きてくる監督を待つ。4年秋のリーグ戦が終わってもマネジャーは帳簿の整理などがあり寮に残っての作業。ある日監督に呼ばれてこんな言葉をかけられた。「いいか、社会に出たら人より早く出社して雑巾がけから始めろ。人が嫌がる仕事には真っ先に手を挙げろ」。 正座しながら聞いた言葉は社会人になってからも脳裏に焼き付いている。
卒業してから48年。早大の岡村猛、東大で8勝をマークした西山明彦両先輩理事は同期。金光野球部長も含めこの3人にはリーグ戦で何度も痛い目にあった。それでも「あの時はなあ」なんて昔話も楽しい。スタンドに顔を出せば先輩や後輩、他校の仲間にも会える。今思うと、神宮球場は「青春の故郷」だとつくづく思う。応援団、チアリーダー、吹奏楽部など試合に欠かせない人たち、さらに足を運んでくれるファンあっての東京六大学野球。今年もワクワクしながら神宮に通う私がいる。

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TOKYOROCKS2025 春季号外 第1週 2025年4月16日掲載

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法政大学創立100周年と東京六大学野球連盟結成100周年

私が法政大学に入学したのは昭和55年で、大学創立100周年の節目でした。野球部は第2期黄金期、五明監督がチームを率いて江川、袴田、金光(現野球部長)、植松、島本各先輩方の活躍で、すべて勝ち点5の4連覇を成し遂げたのが昭和52年秋。以降、リーグ優勝から遠ざかっている状況でした。

春のシーズンは同級生の小早川(元広島、ヤクルト)とともに、開幕からベンチに入れてもらいました。小早川は四番打者として全試合先発でフル出場し、好成績を残しました。私は3試合、先発のチャンスをもらい、早大戦で初勝利。六大学で1勝を挙げるのが目標だったのが、1年春に達成できたのは幸運でした。
なぜならば、当時の法政大学の投手層は厚かったからです。3年生には川端さん(広島ドラフト1位)、池田さん(阪神ドラフト2位)、2年生には田中さん(日本ハムドラフト1位)、その他にも甲子園で活躍した猛者たちが在籍していました。

初めて神宮でプレーした春のリーグ戦は3位。「100周年に優勝を」。その期待が重圧になったのかもしれません。夏の練習は当然ながら厳しいものでした。鴨田監督の方針で少数精鋭でメニューを組むことになったのです。200人近い部員の中から40人を厳選。1年生は10人以下であったと記憶しています。当時の1年生は、雑用が付きもの。練習以外に洗濯、掃除、用具の手入れなどが思い出されます。厳しい夏を乗り越え、秋季リーグ戦に臨みました。
慶應との開幕カード。鴨田監督から先発投手に指名されました。ところが、技術、精神的にも未熟でした。コントロールが定まらず、自滅する形で降板。幸い2回戦、3回戦に連勝して勝ち点を挙げることができましたが、私の登板はありませんでした。

「もう投げさせてもらえないのでは……」と「チャンスは必ずもう一度、来る!!」。2つの思いが交錯しながらも、1年生の私は活動拠点である川崎の法大グラウンドで汗を流すしかない。次なる起用に備えて、最善の準備をした記憶があります。
すぐに、その機会は訪れました。2カード目の立大2回戦で先発起用されたのです。決死の思いでマウンドに立ちました。「このチャンスを逃したら4年間投げさせてもらえない」。ただ、危機感よりも、神宮で投げられる喜びを感じて投げたことが良かったのか、完封勝利を挙げることができました。次のカードは、春大学日本一の明治戦。1回戦は勝利しましたが、2、3回戦に勝ち点を落としてしまいました。幸い明治が立教に勝ち点を落としましたので、早稲田、東大に勝ち点を取れば優勝という星勘定になりました。

早大戦では全試合に先発して勝ち点を奪い、東大戦も2試合に先発、連勝で6シーズンぶりに天皇杯を手にすることができました。私自身も6勝2敗でベストナインに選出。大学創立100周年という節目の年に入学し、卒業するまでにリーグ優勝4回、明治神宮大会、全日本大学選手権での日本一2回は、諸先輩方から育てていただいた一生の財産です。
明治神宮大会を制した昭和56年は、神宮球場における土のグラウンド最後のシーズンでした。翌57年の人工芝元年に春10戦全勝で大学日本一を遂げました。山中正竹監督(全日本野球協会会長)の下で助監督を務めさせていただいた際には、20世紀最後の春にリーグ優勝、21世紀最初の春のリーグ戦で優勝。法政大学は、節目の年に強いんです。

令和7年、東京六大学野球連盟は結成100周年を迎えました。現役学生は、この節目の年に神宮でプレーできることを、この上ない幸運と受け止め、法政大学野球部創部110周年に花を添えていただきたいと思います。

2010年から続く、TOKYOROCKS号外 名物コーナーのひとつ。
野球部OBや関係者からのメッセージをお届けしています。