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JINGU ROKKEI

神宮六景

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TOKYOROCKS2025 秋季号外 第7週 2025年10月22日掲載

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水戸でオールスター戦の開催

早稲田大学初代監督の飛田穂州氏の出身地である水戸で東京六大学オールスター戦が開催されました。
ノーブルホームスタジアム水戸で早大、法大、慶大のローズドリームスと明大、立大、東大のプラムウイングスが対戦し、ローズドリームスがプラムウイングスを投打で圧倒、17安打で14得点をあげ、14対4で快勝しました。翌日には中学生を対象とした野球教室を硬式、軟式にわかれて行いました。
オールスター戦前の8月19日には神宮球場で恒例の少年少女野球教室を東京都軟式野球連盟に所属する26チーム、約350名の小学生を対象に開催しました。当日は六大学各校の主将をはじめ主力選手が講師となって、ウオーミングアップから、各ポジション別の練習など3時間に渡って行われ、野球教室終了後には記念撮影をして終了しました。天候にも恵まれ楽しい一日でした。
リーグ戦終了後の11月29日には連盟結成100周年記念試合として六大学の選手は東西にわけてのオールスター戦を行うことになっています。初めての試みですので、是非神宮球場にお越しいただければと思います。

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TOKYOROCKS2025 秋季号外 第6週 2025年10月15日掲載

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私が東京六大学野球に憧れを抱いたのは高校2年の冬。母校・岐阜県立長良高校のOBで現役の立教大学の選手が、胸に「RIKKIO」と刺繍されたTシャツを着て練習を見に来てくださった時です。がっしりした体格で、自分のような丸坊主ではなく、髪がさらさらでとても格好よく、「RIKKIO」の文字が輝いて見えました。厳しく指導を受けたのですが、不思議と怖さよりも憧れの気持ちが強く残りました。

しかし私の学力では東京六大学への進学は叶いませんでした。そして関西六大学リーグ所属の大学に進学するも、野球部はすでに推薦入部者で埋まっており、大きな実績もない私は入部を認めてもらえませんでした。
入学早々、目標を失った私は「好きなお笑いでもやろう」と思い、落語研究会へ。「漫才をやりたい」と申し出たところ、先輩に「まずは古典落語を覚えてから」と言われ、落語のCDを聴いてみました。
しかし、落語はまったく頭に入ってこず、やはり自分は野球が諦めきれないと痛感。高校の恩師と親に電話し、浪人して東京六大学野球を目指す決意をしました。

浪人生活はとても孤独でしたが、勉強に疲れた時は、早稲田大学の入学案内に載っていた早慶戦の写真を眺めたり、早稲田大学のテレフォンサービスに電話して校歌を聴いて、モチベーションを保ちました。

慶應を目指そうと決めたのは、同学年で甲子園の大スター(桐蔭学園の高木大成選手や、市川高校の樋渡卓哉選手ら)の存在が大きかったです。雑誌の特集で彼らが野球と学業を両立している姿を見て、「一緒にプレーしたい」「こんなキャンパスライフを送りたい」という思いを強くしました。

また、1992年秋のシーズンで慶應がリーグ優勝・明治神宮大会を制覇した時の中心選手数人が浪人経験者だと知り、慶應なら自分にも門を開いてもらえると信じ、慶應志望を固め必死に勉強しました。

翌春、1浪で慶應に滑り込み、1年前の反省を踏まえ、合格発表後すぐに野球部へ連絡し入部の意思を伝えると、3月下旬の「招集日」までに入寮するよう案内を受けました。布団を先に送り、野球道具と最低限の荷物を持って上京。招集日にキャンプ帰りのレギュラーメンバーが揃い、憧れていた選手たちを目の前にして鳥肌が立ったことを覚えています。

入部後は、野球中心の生活ながらも授業にも出席、雑誌で想像した以上の充実した日々がスタートしました。しかし同時に、野球の実力・知識、基礎体力の全てにおいてレベルの差も痛感し、毎日練習についていくのがやっとの苦しい状況もありました。

それでも続けられたのは、やはり憧れの力でした。慶應は、選手自らが考え、足りないと思えば自分で練習する、主体性が尊重される大人の野球部だと感じました。それは福澤諭吉先生の「独立自尊」の考えにも通じるのかもしれません。また、1年生の自分にも感じ取れた前田祐吉監督の「エンジョイ・ベースボール」によるチームの雰囲気への憧れと誇りに支えられました。

4年時には学生コーチとして後藤監督の補佐や試合でランナーコーチを務めました。オープン戦から監督のサインを全て記録し、イニング・点差・カウント・塁状況ごとに戦術を分析。監督の野球を理解しようと努めました。
春季リーグ初戦の朝は、大舞台に慣れていない緊張と重圧で、選手でもないのに何度も嘔吐しながら試合に臨んだほどでした。

学生コーチとしてやり遂げられたのは、私が推薦された際、同級生全員でほぼ2日徹夜で話し合い、「松井を全員でサポートする」と約束してくれたからです。その言葉通り、仲間は1年間共に戦い、支えてくれました。

私たちの学年は4年間で一度も優勝できませんでしたが、同級生で主将だった加藤くんが後に野球部出身初の部長となり、2023年秋、ついに悲願のリーグ優勝、私が浪人時代に憧れた神宮大会優勝も果たしてくれました。このことは同級生にとって本当にうれしいことでした。

六大学野球を目指す高校生の皆さんに伝えたいのは、六大学野球は憧れるに値する素晴らしい場所だということです。
2023年のWBC決勝戦前に大谷翔平選手が「今日だけは憧れるのをやめましょう」という言葉を残しましたが、憧れは大きな力になります。ぜひこの素晴らしい舞台に憧れ、挑んでください。そして憧れを越えて、神宮球場で思い切りプレーしてほしいと思います。

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TOKYOROCKS2025 秋季号外 第5週 2025年10月8日掲載

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昭和38年大阪府立島上高校より入部、昭和42年卒業後社会人野球(日本コロムビア)入社、昭和46年に休部になり軟式野球(ライト工業)に移り、引退後社業に専念していたが、御大から「土・日でいいから練習を手伝え」と命を受け、昭和56年から参加、59年に御大から「今度郷司(高校野球松山商業高校〜三沢高校など数多くの名勝負を裁かれ、のちに野球殿堂入りされた名審判員)が辞めるから、お前が代わりにやれ」と命じられ、正式に六大学野球連盟の審判員に。現役引退後も技術顧問として41年目を迎え、東京六大学誕生100周年に立ち会えたのは何よりの歓びです。

学生時代は一年後輩に高田繁、二年後輩に故星野仙一。彼らとプレーできたことは何よりの誇りです。また、後に48勝を挙げた法大・山中正竹投手から初安打を奪ったことも数少ない思い出の一つです。
御大にはそれぞれの時代に逸話がありますが、共通していることは、野球を教えられたことはありません。教えられたのは、「なんとかせい」「ゴロを打て」「男になれ」「グランドの神様に申し訳ない」「腹を切れ」くらいです。しかし私生活では掃除(トイレ、風呂、部屋など)の仕方、布団の上げ下げ、履き物の揃え方など、多岐に亘り厳しく指導されました。
後に社会人野球を経験しますが、「午後から練習で席を空けるため朝は30分早く出社し、他の社員が気持ちよく業務ができるように職場の清掃をしろ」そのあたりまで考えて教えていたようです。
私流に考えると、「御大の人間力」とは「陰日向なく、腐らず一生懸命“誠”を以て事に向かえ」この教えはその後の人生に大いに役立ちました。

六大学野球は品位がなければならないと厳しく先輩方から教わりました。品位とは自然に備わった気高い感じや様子。このことは相手を尊敬すれば生まれてくると考えます。尊敬とは相手の人格を認め、頭を下げたいような気持ちになること、尊ぶこととあります。
具体的には汚い野次、ラフプレー、過度なガッツポーズ、プレーの判定に対する不服そうな態度、防具を装着しているが故に投球に対し当たりに行く行為はなくなると考えます。また、ユニフォームのズボンは「キチッと」膝まで上げて試合に臨んでもらいたい。品位のある試合を展開し、六大学野球ファンに応えられるよう願う一人です。最後になりましたが、あのコロナ危機を見事に乗り切った内藤事務局長はじめ連盟職員の皆様、並びに各校先輩理事の皆様に改めてお礼を申しあげ、200年後もファンに愛される六大学野球であり続けるよう、未だ見知らぬ後輩に願いと夢を託し終わります。

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TOKYOROCKS2025 秋季号外 第4週 2025年10月1日掲載

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東大で野球をしたいと思ったのは、高校3年夏の新潟県大会で敗退した翌日のことでした。敗れた準々決勝は呆然自失となるほど打ち込まれ、あまりのふがいなさに「もう野球はしない」と落ち込みました。ところが一夜明けると、身体がもうシャドー・ピッチングを始めている。頭の中では、自分が今後、最大限活躍できる舞台があるとすればどこだろうと考えを巡らせていました。
当時、私にとって東京六大学野球は「高嶺の花」。東大を除く5大学は、高校での実績などが重視されるはずで、自分には入部の道すら開かれていないと思い込んでいました。残るは東大ですが、自分の学力では合格ラインに遠く及びません。
しかし若さの特権か、私に突然、根拠なき楽観論が舞い降ります。それまで野球に費やした時間で一気に挽回すれば、砂地に水が染み込むように学力が伸びると信じたのです。過去の入試問題の難解さに驚きながらも一筋の希望にすがりました。とはいえ、学力は思うほど伸びていきません。
一浪し、東大球場に近い文京区内に下宿しながら予備校に通ったのですが、模擬試験はD(志望校変更が望ましい)判定の連続。青春期特有の孤独感にも襲われました。こうして迎えた2度目の試験は、開き直ったように答案用紙を埋めまくり、合格発表の掲示板に奇跡的に自分の名前を見つけると、勢いのままに野球部入部を申し込みました。
それからの4年間は一瞬でした。充実し、多くのことを学んだ野球部生活でした。そして、神宮でプレーできる幸運に恵まれた自分たちは、社会に対してその恩返しをしなければならないと覚悟を決めた日々でもありました。
東京六大学野球について書いてほしいという現役マネジャーの要請からは少し外れてしまったかもしれませんが、まず思い出すのはあの受験勉強の日々です。私にとって、伝統の舞台で野球をしたいと東大受験を決心したあの時の蛮勇が、その後の人生を左右したとも言えるのです。

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TOKYOROCKS2025 秋季号外 第3週 2025年9月24日掲載

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審判員の松本知一と申します。
この度、神宮六景への寄稿の依頼をいただきました。歴代、東京六大学の大先輩をはじめ多くの方が執筆された名著への寄稿を大変有難いことと受け止めております。

私は小学校から大学卒業までの16年間を立教で過ごしましたが、野球そのものは中学校の半ばまで、怪我の影響もありましたが大きく挫折してしまい、その後、野球から離れ、高校時代は化学部に在籍していました。大学ではごく普通にキャンパスライフを過ごしましたが、4年次に1か月ほど母校・立教中学校にて教育実習を行い、部活指導で野球部に携われたことが学生時代の良き思い出です。
私と東京六大学野球との出会いは幼少期まで遡ります。両親が立教大学卒で同級生(昭和36年卒)、在学中に4連覇を含め優勝5回、立教の黄金時代だったこともあり野球が大好きで、私は子どもの頃から母に手を引かれ神宮球場へ足を運んでいました。小学生の時に神宮で活躍されていた方々のうち、立教OBで審判員を務められた桑原和彦さん(昭和62年卒)、元雄潤さん(平成3年卒)は後に私の人生を変えてくださった先輩です。
私は立教大学を卒業後、父が経営する会社を継ぐため仕事に専念する日々でしたが、30歳を過ぎた頃、好きな野球に何か携わることができないかと審判員に興味を持つようになりました。ある時、一般に募集されていたアマチュア野球の審判講習会に参加したのですが、その講習会で小学生の時に可愛がってもらっていた桑原さんと元雄さんに再会し、この運命的とも言える先輩との出会いを通じて自分が本気で審判員を志すきっかけになりました。2008年から高校野球、その後に社会人野球、そして2012年の春季リーグ戦にて夢見ていた東京六大学野球の審判員として神宮球場のグラウンドに立つことができました。六大学の審判員は各校の野球部OBが務める慣例にありますが、野球部OBではない私を推薦してくださった立教大学野球部OBOG会の皆さま、私が在籍していた教育学科の教授で当時の野球部長でした前田一男先生には感謝しかございません。

さて、私が審判員になってからずっとご指導いただいていた大切な先輩を紹介したいのですが、先にも触れました元雄潤さんについてです。元雄さんは立教OBで1998年から24年間一筋に六大学の審判員を務められましたが、2022年3月、癌を患い53歳の若さで永眠されました。私は元雄さんから審判員を務めるにあたっての心構え、審判技術だけでなく生活態度への叱責を含め事細かく教えてくださいました。元雄さんが突然にして病に襲われ、わずか半年に満たない余命を宣告されても審判を諦めず、2021年秋季リーグ戦の明慶1回戦で復帰を果たし、その勇姿を見届け試合後に涙を流しながら元雄さんと抱擁したあの日の出来事は一生忘れることはありません。
現在、立教OBの審判員は深沢俊一さん(平成19年卒)、田澤央義さん(平成22年卒)、竹内健太朗さん(平成30年卒)と私の4名で構成しています。桑原さんは審判技術顧問として日頃からご指導をいただいております。毎日の仕事とは別にこれほどまで夢中にさせてくれた審判活動、リーグ戦だけでなくオープン戦では各校のグラウンドにも足を運び、学生とのコミュニケーションを通じて多くの刺激を得ていることは実に貴重な機会です。
私は六大学の審判員になって今年で14年目を迎えているところです。野球競技の経験は中学校半ばまで、硬式のボールを手にしたことすらない自分が、今こうして東京六大学という最も歴史がある学生野球の舞台でジャッジできることに感謝し、これからも日々の研鑽を続け、精進する所存です。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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TOKYOROCKS2025 秋季号外 第2週 2025年9月17日掲載

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マネジャーで得た「学び」

小生が大学4年間在籍した平成初期と、現在の令和時代では、マネジャー事情も大きく変わった。聞くところによると、大学入試が終わると、合宿所には多くの問い合わせがあり、エントリーシートを経て、監督と面接を行い、厳正に選考し、入部が認められる。男子部員は定員2人対して5人ほど、女子部員は定員3人に対して15人ほどの応募があるという。信じられないほどの人気ぶりだ。

当時は人材不足だった。現実問題、だれもマネジャーはやりたがらなかった。入学後、選手としての技量が厳しい部員に対し、マネジャーを打診するケースはあったが、受け入れるのは稀である。スポーツ推薦組、選手上がりのマネジャーへの転身は難しい。高校時代はスター選手として騒がれてきたわけで、裏方業務への拒否反応は、より大きくなる。

付属高校出身の小生は野球部マネジャーだった3年夏を前に、監督を通じ、大学野球部マネジャーの打診を受けた。付属校から前もって、人員を確保する意図があったようだ。

付属中学時代から東京六大学、神宮球場の雰囲気が好きであり、応援団への入団も考えていた。だが、より身近で「真剣勝負」に関われると、法大野球部への入部を決めた。

入学当時のマネジャーは4年生1人と3年生1人。つまり下級生は1人だ。入学式よりもだいぶ前の1993年2月10日に合宿所に入寮した。スポーツ推薦組、付属校と同じタイミングだった(3月に若干名の一般入試組が入部する)。私物もほとんど持たずに入寮すると、想像以上の雑用の山が待っていた。理不尽なことも、すべてがプラスになると受け入れた。

2年生になっても、新たなマネジャーは入部してこなかった。山積みの雑用は継続。一方、サブマネジャーとして、一部ではあるが、仕事を任されるようになった。この1年間は2人体制。今の野球部では、あり得ない人員である。この年、山中正竹監督が就任した。バルセロナ五輪で銅メダルへ導いた指導者は、企業人としての経験も豊富であり、チームビルディングの基礎を勉強する機会に恵まれた。目配り、気配り、心配り。山中監督との出会いが、人としての生き方、人生観を大きく変えるターニングポイントとなった。マネジャーで得た「学び」が、今も支えとなっている。

3年生になると、1年生マネジャーが入部。チーフマネジャー(主務)の役割と、下級生の教育という2つのテーマが与えられた。他の5校は4年生主務である。同年は東京六大学野球連盟結成70周年と、各種記念行事が重なった。5大学の先輩マネジャーの優しいご指導により、何とか1年間を全うすることができた。野球部でも、4年生の気遣い、協力があり、何とかチームを動かすことができた。

4年時は2年目の主務。前年の反省を生かそうと、マネジャー業務にまい進した。新たな1年生が入部し、下級生2人を指導。卒業後の次年度は6年に1度の当番校が控えており、より緊張感を持って接したつもりだ。

一人では何もできない。指導者、OB会、先輩、同級生、後輩への「感謝」を形に残そうと、マネジャーマニュアルを作成した。下級生時代に行き当たりばったりの業務が続き、バタバタした苦い経験から「トリセツ」が必要と考えた。もちろん完成形ではない。後輩にはさらなる「ブラッシュアップ」を託して卒業した。

今年1月。「平成8年卒 東京六大学野球部・応援団 合同同窓会」が行われた。卒業から30年。小生は1学年下の3年生主務ではあったが、諸先輩の配慮により、幹事の一人として運営に携わった。各校の野球部、応援団(部)から卒業生80人が出席。2つの組織は、リーグ戦運営における「一心同体」である。約30年ぶりの再会で、旧交を温めた。

来年1月には「平成9年卒 東京六大学野球部・応援団 合同同窓会」が開催予定で、準備を進めている。大学の野球部の枠を超えた「仲間意識」が、東京六大学の良さ。卒業後もこれらの「絆」により、何度も助けられる場面があった。OB会の役割は、親睦と現役学生への支援である。微力ではあるが、人として育ててもらった東京六大学のために、さまざまな形で尽くしていきたいと考えている。

2010年から続く、TOKYOROCKS号外 名物コーナーのひとつ。
野球部OBや関係者からのメッセージをお届けしています。